第13話 ナリタブライアンの生涯
目標はあくまでも宝塚記念であるが、ナリブーの気性の事を踏まえ、その前に1戦挟むことに決めた陣営。
選ばれたのはなんと短距離G1である高松宮記念G1だった。それまでは2000m程度のレースから3000m級のレースを中心にして走りぬいて来たナリブー。
マスコミも関係者も登録が明言されたことに困惑と疑問符を浮かべた。
ナリブー自体はこの高松宮記念G1において施行される距離を走っていないわけではない。実のところデビューしたばかりの頃から朝日杯までの間は、マイル以下の距離でのレースが多いのだ。
しかし戦績はというとあまり良いとは言えないものばかり。なので後に『混迷』と言われても仕方ないところだとは思う。
同年5月5日には、ナリブーの本登録が完了。当時は長距離馬と思われていた馬が、短距離戦に登録すること自体が稀であったため、世論を巻き込むニュースとなった。
このレースにおいて、それまで主戦騎手を務めていた南井氏から武豊氏に鞍上が代わっている。けがなどの影響による乗り替わり以外での交代は初。現状のナリブーをどうにかしたいという思いが関係者からも伺える。
高松宮記念と言えばであるが、現行春の短距離王決定戦としての位置づけが定着しているが、以前はG2だったため、ナリブーが現役当時はそこまで有力馬が出走することは無かった。この時G1経験馬はヒシアケボノのみで、特にマスコミなどによる報道に熱が入ることも少なかったのだが、三冠馬であるナリブーの、しかも前走を勝っている競走馬が出るという事が広まると、それまでとは一変し報道や取材などにも熱が入り、高松宮記念の存在自体が大きく取り上げられることにも繋がり、現行の位置づけの下地を作ったと言えるのではないだろうか。
とは言え、そのG1馬であるアケボノもナリブーもこのレースでは負けている。しかもナリブーに至っては、直線で追い出すといい脚を見せるが、仕掛けどころの影響かポジション取りの影響か、伸び脚が見せられないまま、脚を余す形での敗戦になった。(アケボノが3着。ナリブーは4着。勝馬はフラワーパーク)
この時の獲得賞金上乗せにより、それまで獲得賞金ランキング1位だったメジロマックイーンを抜き、史上初の1000万ドル突破を果たしている。
大久保厩舎での調整中の出来事。宝塚記念に向けてナリブーの調教をしていると報じていたマスコミと競馬関係者に激震が走る。
『ナリタブライアン屈腱炎発祥』のニュースが飛び込んできたからだ。
高松宮記念から約1か月後の6月19日、それまで沈黙を守ってきた大久保厩舎から発表されたものは「ナリタブライアンは右前肢に屈腱炎を発症した」というモノであった。
それと同時に厩舎関係者は動きだす。同年6月28日には函館競馬場へ、その1か月後には早田牧場新冠支場へとナリブーは輸送された。これはもちろん復活に向けて治療をするためで、大久保氏はナリブーの復活を信じ復帰に向けて強い意志を持って臨んだ。
そんな健闘もむなしく同年9月にスポーツ紙において『ナリタブライアン引退』と報道されると、更に読売新聞による取材において山路氏がソレを事実と認めてしまった。
実はこの当時の事を後に関係者が語っているのだが、大久保氏以外の関係者によって引退に向けての話し合いが水面下では早い時期から始まっていたという。引退した後の種付けに関する事(シンジケートにするかどうか等)が話し合われており、すでに引退することは事実上確定事項だったという。
10月に入り、調教師の大久保氏、山路氏、工藤氏による三者面談形式の話し合いが行われ、この時にようやく大久保氏が決断を受け入れる形で決着。同月10日に栗東トレーニングセンターでの記者会見により、正式にナリタブライアン引退及び種牡馬入りが発表された。
三冠馬とういう栄光を手にしたナリタブライアンは、有終の美を飾ることなく怪我から復帰して走る事は叶わないまま、二度とターフに戻る事は無かった。
同年11月9日、11月16日にはそれぞれ京都競馬場、東京競馬場にて、引退式セレモニーが行われた。京都競馬場では菊花賞時につけていたゼッケン4を付け、東京競馬場では日本ダービー時のゼッケン17を付けて、その雄姿を観客席へと披露したナリブー。実はこの2場による引退式は日本競馬史上4頭目の事。その前に行われたのは、あのオグリキャップとスーパークリークの時にまで遡る。
このようにして引退セレモニーまでしたナリブーであったが、これ以降も大久保氏は「復帰させたい」と語り、引退することに反対していた。しかしついぞその願いは叶うことなく、1997年に新冠町のCBスタッドにて種牡馬生活に入ることになった。このCBスタッドは、ナリブーの生まれ故郷である早田牧場傘下の種牡馬繁用牧場である。
ナリブーは種牡馬になるとシンジゲートが組まれ、当時内国産馬では最高額の1株約3500万円という値段が付いた。
※作者のうろ覚えとなってしまうが、当時ナリブーの株は50~60株程度の物だったように記憶している。
こうして種牡馬生活に入ったナリブーであったが、約1年後に悲劇が起こる。
1998年、6月17日の事。この日昼までは、偶然にもCBスタッドを訪れていた山路氏と早田氏と共に、穏やかに過ごしていた。しかし夜になると一変。突然疝痛(※1)の症状が出始める。
職員が急いで三石家畜医療センターにて診察を受けさせるが、なんとナリブーは腸閉塞を発症しており緊急の開腹手術が執り行われる事になった。この時の手術は無事に成功を修め、順調に回復する兆しを見せていた。
しかしその約3か月後。9月26日に再び疝痛の症状が出る。同じく職員により三石家畜医療センターに運ばれ診察を受けたが、疝痛の症状が見えた時から50分足らずしか経っていなかったという状態にもかかわらず、すでにナリブーの胃が破裂していた。急ぎ開腹手術をしたが間に合わず、次日9月27日に安楽死の処置がとられた。
三冠馬ナリタブライアン永眠。
同日、ナリブーはCBスタッド内部の敷地内に関係者の手により埋葬された。同年10月2日には追悼式も行なわれている。この式には、ナリブーの死を聞きつけたファンも参列し、関係者・ファン併せて約500人の人々が参列した。
こうして三冠馬ナリタブライアンの伝説は幕を閉じたのである。
死後の1999年に栗東トレセン敷地内において、三冠馬という偉業を称えナリタブライアンの馬像が建立された。またCBスタッド内においてはナリタブライアンの使用していた馬房を「永久欠馬房にする」と、場長である佐々木氏は語っている。
これほどの実績を残したナリタブライアンではあるが、現在はというと粗筋にも少し書いたが某ゲームとアニメのおかげか、ここにきてようやく陽の目を見ることが出来た感じがする。そしてなぜかその実績の割に人気が無いのが気になる。もしかしたら早世してしまったために、産駒数も活躍子孫もいないため、ファンからもすでに忘れられた存在になってしまっているのかと思うと、純粋なナリブーファンの一人としては少し……いやかなり寂しい。
シャドーロールの怪物は、その輝かしい成績と共に、今もなおファンの心の中に三冠馬として生き続けている。
ナリタブライアンに追悼の意を込めて。
ここにこの物語を綴る。
お読み頂いた皆様に感謝を!!
これにて物語は終了となります。
お付き合いいただき感謝ですm(__)m
この『競馬列伝』はシリーズ化したいと思っていますので、興味の湧かれた方は次回作にもご期待くださると嬉しいです!!
(※1)疝痛[せんつう]
腹痛の総称。症状とその原因はさまざま。多くは食べすぎや飲みすぎによる消化不良で起きることが多い。
競走馬列伝 シャドーロールの怪物 ~ナリタブライアンの生涯~ 武 頼庵(藤谷 K介) @bu-laian
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