第八章 山本徹の決断
一
一面に生い茂った草原の上を遥かな山の彼方から吹いてくる風が優しくそよいでいた。
もう、ここには来ることもないだろうと思っていた、縄文の里に山本徹はまた帰ってきた。その背中には耕平たちへの土産だろうか、中身のギッシリと詰まったリュックを背負い、亜紀子との約束を守るために再びこの地に立っていた。
そして何の混じりっ気も汚れも感じられない純粋な空気を胸いっぱい吸い込んだ。山本にしてみれば歩きなれた場所でもあった。耕平が行き先も告げないで別れた後で、半ば当てずっぽうで飛び込んできたのがここだった。いまとなって考えると昔はずいぶんと無茶なことしたものだと山本は改めて感心した。しばらく行くと木立の合い間から縄文の邑々が見え隠れするようになった。また少し歩くいて行くと、事故や病気で亡くなった人を埋葬する墓地が見えてきた。
ひとつの墓石の前に行くと山本は跪いて両手を合わせた。
「久しぶりだね.カイラ、また来てしまったよ。ライラも大きくなったろうな。みんなの幸せを祈っていてくれたかい…」
墓の周りに生い茂る草をむしり取ってから、山本は立ち上がり家々の立ち並ぶ方向へと歩いて行った。邑はひっそりと静まりかえっていた。一軒の家に近づくと子供たちの話声が聞こえてきた。
『ライラも元気そうだな…』
そんなことを考えながら入口の戸を開けた。
「あ、トオル、ひさしぶりだね。元気でいた。コウヘイなら狩りに行ってるよ」
ウイラがニッコリと微笑んで近寄ってきた。
「おお、ウイラも言葉がだいぶ上手くなったな。元気だったかい。こウスケもウイラも大きくなったなぁ。あまり大きくなり過ぎてもう抱き上げられないくらいだものな。よし、よし」
山本はライラに手を伸ばし、やさしく頭を撫でてやるとはにかむような笑みを浮かべた。
「ねえ、トオル。きょうは何かコウヘイに用事でもあってやってきたんでしょう。コウヘイに聞いたんだけど、トオルもコウヘイもあたしたちには分からないほど『遠い世界』から来たんだよって云ってたけど、ホントウはどれくらい遠いところなの」
「うーん……。どれくらい遠い世界って云われてもなぁ…。ウイラたちの理解できる言葉では言い表せないくらい、とにかく遠い世界なんだよ。だから、オレたちだって、そう頻繁にはやって来れないくらいなんだ。これくらいの説明では、ウイラには分かってもらえたかなどうか自信がないんだけど、これ以上のことは難しくてオレにはもう無理なんだ。これくらいで勘弁してくれないかい。ウイラ」
「うん、いいよ。また分からないことがあったら聞くから。あ、そろそろコウヘイが戻ってくる頃だよ。トオル」
「それじゃ、ふたりで迎えに行ってみないか。きょうはどっちに行ったんだい。耕平は…」
「こっちだよ。行ってみる。トオル」
「よし、それじゃ、いま石槍を持ってくるから待っててくれ。ついでに荷物も置いてくるから…」
こうして、山本とウイラは耕平が狩りに出かけたという方向に向けて歩き出した。太陽は中天よりやや西に傾いてはいたが、日暮れ時にはほど遠くまだたっぷりと時間が残されていた。しばらく行くと群れからはぐれたのか、野性の雌鹿が木の葉を食んでいるのが見えた。
「よし、ここはひとつアイツを仕留めてやるか…」
山本は雌鹿との間合いを計りなから近づくと、ここなら射程距離内だろうとおおよその目安を決めて石槍を雌鹿の首の辺りに投げつけた。石槍はみごとな放物線を描いて「ガスッ」という鈍い音を立てて、雌鹿の首元をかすめて地面に突き刺さった。雌鹿は甲高い鳴き声をあげると何処へともなく走り去って行った。
「ち、しくじったか。クソー」
石槍を拾い上げてみると槍の穂先の部分に血がついていた。雌鹿が走り去った跡には血液が点々と滴り落ちていた。
「この傷ではそう遠くまでは持たないはずだな……。ウイラ、邑にもどって誰かを呼んできてくれ。オレは鹿の後を追ってみるから…」
「わかった。あたし呼んでくる」
ウイラは邑を目指して走り去って行き、山本は雌鹿の血痕を辿って草原に分け入って行き、後から来る者のために足元の草を踏み固めて目印を残しながら進んだ。どのくらい進んだろうか、山本も諦めかけて戻ろうとした時だった。前方で草が大きく割れて倒れている場所が目についた。
「あ、あれだ。さては、あそこまで辿りついて息が絶えたな」
雌鹿の首のあたりを確かめて見ると、傷そのものはそれほど深くはないが、かなりの範囲で皮が削ぎ落とされていた。
「なるほど、これではまず助からなかったろうな。それにしても、よくここまで逃げて来れたものだ…」
山本は雌鹿の死骸を見て、どんな窮地に立たされても生きようとする、動物の生命力の凄まじさをまざまざと見せつけられたような気がした。
もとの場所に戻っていると、ウイラが邑人を連れてくるのが見えてきた。
「おーい、こっちだよ。あの草むらの中だ。あの中に倒れているんだ。一緒に来てくれ」
みんなで運び出す準備をしているところへ、また誰かがやって来た。
「山本が来てるんだって、おーい、山本はどこだー。おーい山本」
耕平だった。耕平が息急き切って走ってくる。
「おーい、耕平。こっちだ。こっちだ」
ふたりとも再開するのはしばらくぶりだった。
「さっき狩りから戻ったら、山本が来てるって聞いたんで急いで探しにきたんだ。どうだ、元気だったか。山本」
「ああ、みんな元気だよ。お前ンところの小母さんもな」
「おふくろ……」
山本からいきなりは母親の話を持ち出されて、耕平は一瞬ドキリとしたようだった。
「おふくろがどうかしたのか、どこか具合でも悪いのか。山本」
この時初めて、事情はどうであれ母親を思う気持ちには、誰にしたところで大した違いはないことを山本は知った。
「いや、毎日元気でやってるよ。この間なんて奈津実と三人で花見をやったんだ。途中から河野先輩も加わったから四人になったけどな。詳しくは後でゆっくり話すよ」
ふたりか話をしている間にも邑人たちは、山本が仕留めたという雌鹿を担いで運び出して来ていた。
「へえ、あれ、お前がひとりで殺ったのか……」
「ああ、最初は首の横を掠めて地面に突き刺さったから、ダメかと思ったら意外と傷が広範囲だったんで、鹿が逃げた後に血痕が点々と付いていたんで、ここまで追っかけてきたんだけど、ここまで来たら向こうの草が大きく倒れていたから、行ってみたら案の定雌鹿は絶命してたってわけさ。まあ、今回は半分以上はまぐれかな…」
「まぐれにしたってすごいさ。確かに確実に当たってたわけじゃないけど、ひとりで仕留めたんだからな。まだまだ腕は落ちてないな、山本も…。ところで、今回は何しに来たんたよ。お前…」
「ん、それなんだけどな。お前に相談したいことがあっだが、その話はあとでいいさ。そろそろ行ってみるか」
「よし、行こう。ウイラ帰るぞ」
邑人たちの後を追うようにして三人は歩き出した。はるか上空のほうで鳶がまん丸い輪を描きながら飛んでゆくのが見えた。
耕平と山本は世間話をしながら食事を済ませた後、山の住んでいた小屋に戻りどちらからともなく話をし始めた。
「ところで山本よ。さっきおふくろがどうしたとか云ってたけど、どうしたんだ。どこも具合が悪いなんてことないんだろう…」
「ああ、小母さんは元気さ。この前だって花見に行って料理なんかも造ってきてくれたしな。すこぶる元気だったよ」
「そうか、それならいいんだ…」
「ただ、花見の途中で小母さんがお前の姿を見かけたと云うんで、辺り一帯を探ししてみたんだが単なる見間違い・気の迷いってことになったんだ。オレも気になったんで、その後お前ン家に寄って話を聞いてみたんだ」
山本の話を耕平は無言で聞いていた。
「それで、話をしているうちに小母さんは普段の冷静さを失って、取り乱して泣き伏してしまったんだ。オレは見るに見かねてお前のことを話そうと決心したんだが、一週間だけ時間をください。そうしたら、何もかもすべて話しますからと云ってここに来たわけだが、一週間と云ったのは自分の気持ちに整理をつけたかったのと、お前の了解を取りたかったのと両方あったから、とりあえずここにやって来たというわけだ」
そこまで話すと、山本はポケットからタバコを取り出して火をつけた。
「どうだ。耕平…、お前…、小母さんに逢ってやってはくれないか。お前が連れてくるから…」
耕平は黙ったまま何かを考えている様子だった。
「なあ、耕平よ。ひとつ聞きたいことがあるんだけど、亜紀子小母さんかつての佐々木耕平が坂本耕助だったてことは、ぜんぜん知らないんだろう。どうだ…」
「知らないだろう。それは…」
「だったら、いいじゃないか。ぜひ、小母さんに遭ってやってくれ。オレがここに連れてくるから、そして、ウイラやコウスケに逢わせればいいじゃないか。なあ、そうしろよ。耕平」
それでも耕平は、まだ何も言わずに考え続けていた。
「オレがこんなに云っても、まだ拘っているのか。お前は…」
「いや、そうじゃないんだ…。ただ自分の気持ちの問題なんだ。オレはいまでも自分の気持ちが許せないんだ。お前には分からないだろうが、オレは動物以下の人間なんだぞ。お前なんかには分からないだろうがな……」
真剣に悩み苦しんでいる耕平をみて、山本は耕平の中にあるとてつもなく大きな重圧のようなものを感じ取っていた。それは山本にも計ることができないほどの範囲を占めているのかも知れないと思った。
「わかったよ。耕平。だけどな、一週間後には大かれ少なかれ話さなければならないんた。そういう約束だからな。しかし、残念だよ。小母さんはあんなにもお前に逢いたがっていたのに…。あーあ、オレは何しに来たんだろう……。じゃあな、オレは帰るぞ。またな…」
と、言って山本は立ち上がった。
「ちょっと待てよ、山本…。逢ってもいいよ。おふくろに……」
「え、ホントか。ホントに逢ってもいいんだな。耕平」
「ああ、いいよ。すまん、山本。オレはいままで片意地を張ってたんだな。きっと、自分であんなことを仕出かしておいて、それを認めないように適当に自分自身をはぐらかしていたのに過ぎないんだ。オレもコウスケが生まれてみて、やっぱり自分の子供は可愛いしおふくろだってそうだと思うんだ。だから、もういいよ。お前に任せるから好きなようにやってくれよ。頼むよ」
「そうか。わかってくれたか。よし」
山本は自分が立ったままだったのに気づいて急いで座り直した。
「よかったぁ。これで、小母さんにも顔向けができるよ。ありがとう、耕平」
それからふたりは耕平の造ったぶどうワインで祝杯を挙げ、ふたりとも久しぶりに飲んでしたたか酔って眠りについた。目覚めた時にはすっかり太陽が昇りきっていて、小鳥たちの鳴き声が気持ちよくさえずりを渡っていた。
「さあ、きょうも気持ちよく晴れたぞ。さて、オレはぼちぼち行ってみるよ。今度くる時は、おふくろさんを連れてくるから楽しみに待ってろよ。耕平」
「ああ、わかったよ。お前も奈津実さんを大切にしてやれよ。山本」
「じゃ、行ってみる。またな」
こうして、山本は耕平に別れを告げ縄文の里を後にした。太陽がさんさんと照りつけ初夏を思わせるような暖かな朝だった。
二
縄文の里より戻ってから山本はしばらく考え込んでいた。何も知らない亜紀子に対して、縄文時代やタイムマシンのことをどうやって説明しようかと、ひとり思い悩んていたのだった。しかし、いくら考えてもこれぞ極めつけと言えるような考えは思いつかず、ただいたずらに時間だけが無情に過ぎて行くだけだった。
「ああ、ダメだ、ダメだ。こんなんじゃ、ダメだぁ……。そうだ。アイツに聞いてみよう」
山本は、立ち上がると入り口のドアを開けた。
「おーい、奈津実ちょっと来てくれないか」
はーい、いう声がして台所から奈津実が出てきた。
「なーに、徹さん。何かご用…」
「いいから、ここに来てちょっと座ってくれ」
「はい、はい、何でございましょうか。だんなさま」
「ちょっと聞くけど、お前タイムマシンって知ってたよな」
「知ってるわよ。あら、前にもいちど聞かなかったかしら…。それが、どうかしたの」
「いや、それならいいんだけど、例えばだよ。亜紀子小母さんくらいの年代人にタイムマシンのことを話しても解るかな…」
「そりゃあ、わかるわよ。だって、テレビドラマでもいろいろやってたじゃない。『テセウスの船』とか『流星ワゴン』とか、少し前なら『幕末高校生』なんてのもあったわよ」
「へえー、お前かなり詳しい…」
「そうよ。徹さんみたいに部屋にばかり閉じこもってばかりいないもの。これが普通なのよ。だから、おばさんだってタイムマシンくらいわかるわよ」
「よし、わかった。まだ時間はあるな。これから小母さんとこに行って話してこよう。ちょうどいい、お前も一緒に来い」
と、いうよりも早く山本は、サンダルを引っかけると玄関に飛び出していた。
「一緒に来いって、ちょっと待ってよ。徹さん、徹さんってば…」
奈津実も慌てて玄関を飛び出していた。
「どうしたのよ。いったい、急に飛びしたりして、だいじょうぶなの。徹さん…」
「いいから、黙ってついてこいよ」
山本は、それからひと言も口を利かずに佐々木家までやってきた。
「小母さん。これはおそらくこの前に来た時にでも、話すべきだったかも知れません。ですが、あの時はオレもまだ確信が持てずにいましたので、ついきょうまで延び延びになっていました。これから話すことは嘘も隠しもない真実の話ですので、小母さんもそのつもりで真剣にら聞いてください」
「いったい何のことなの。徹さん」
山本のいつになく真剣な様相に亜紀子も怪訝そうな表情で聞いた。
「すみません。小母さん、あまりにも唐突な話しで驚かれるかもわかりませんが、小母さんさんは「タイムマシン」という機械をご存じですか」
「フフフ、いったい何を云いだすのかと思ったら、タイムマシンだなんていやぁねえ。そりゃあね。いくらあたしだって、タイムマシンのことぐらいは解るわよ。
確か、あの『過去』とか『未来』を自由に行き来できるという、空想上の機械のことだったわよね。徹さん」
「小母さんがそこまで解っているんでしたら、話はしやすいので助かります。それでは話を続けますよ。実は、この「タイムマシン」というのは、架空の乗り物ではなく現実にこの世に存在しているんです」
「ち、ちょっと待ってよ。徹さん、いくら何でもそんな漫画みたいなお話しをあたしたちに信じろっていうの、あまり馬鹿にしないでよ。ホントに、もう」
突然、奈津実があまりにも山本の荒唐無稽な話に、業を煮やしたかのようにいきなり喚き散らした。
「こら、奈津実。これからが本篇で重要な部分に入るんだから、もう少しおとなしく聞いてくれ。あれ、どこまで話しましたっけ、そうそう、タイムマシンは実存しているというところまででした。小母さんにも奈津実にも信じてもらえるかどうか、オレにもまったく自信があませんが、これが本物のタイムマシンなんです」
そう言って、山本は自分の腕から外した腕時計をふたりの前に置いた。
「これがタイムマシンですって、ウソでしょう」
「まあ……」
奈津実も亜紀子も眼の前に差し出されたタイムマシンをみて、それ以上は何も言えなかった。
「このタイムマシンは元々は耕平が、あの公園で拾ったものなんです」
「まあ、あの公園で…、それで耕平は、あの子はいま何処にいるんです」
「これから話しますから、よく聞いていてくださいよ。小母さん」
こうして、山本は耕平の身の上に起こった物語りの一部始終を語り始めた。
まず、とある四月の日曜日に公園のブランコのところで腕時計を拾い、偶発的な事故から一九九〇年の世界に飛ばされて行ってしまったこと、その時計がタイムマシンであることに気づいて慌てて現在にもどり山本に相談したこと、昔が自分の父親不在が気になっていた耕平は、その真相を探るべく再び一九九〇年に行ったこと、しかし着いた先は九〇年ではなく一年先の八九年だったこと、そこで自転車に乗った娘時代の母にぶつかり、怪我をして自宅まで連れて行かれ耕平が中学の時に死んだ祖父と出逢ったこと、本名は隠して坂本耕助という偽名で翌日から祖父の会社で働くことになったこと等々をすべて漏らさず語った。
山本がすべてを語り終えた頃には、佐々木家の周辺にもすっかり夕闇が迫り、間もなく夜の帳が静かに幕を下ろそうとしていた。
亜紀子には何も言えなかった。言葉にした途端にすべてがガラガラと音を立てて、崩れ去ってしまうような気がして怖かった。それにしても、自分の人生とはなんと恐ろしい運命に弄ばれたのだろう。耕平の父親がやはり耕平で考えるだけでも、永久的な迷宮にでも入り込んでしまったような気さえして、いささかの救いの道すらそこにはなかった。
スーッと意識が薄れて行って亜紀子は、その場に崩れ落ちるよう倒れ込んで行った。
「あ、おばさん、だいじょうぶ。しっかりして、おばさん。おばさん」
奈津実が急いで抱え起こしたが意識は戻らなかった。
「こりゃ、まずいぞ。おい奈津実、病院だ。すぐ救急車を呼べ、急げ…」
救急車が呼ばれて亜紀子はすぐさま病院に運び込まれた。山本と奈津実も同乗した。
診察が終わって、ふたりは担当医に呼び出された。
「ご親族の方ですか」
担当医はふたりを交互に見ながら訊ねた。
「いえ、近所のものです。親族はいるんですが、少し遠いところにいるもので、ちょっと連絡が取れなくて取りあえず私らがきた次第です」
「そうですか。それは困りましたな」
「と、いいますと何か…」
「実は、この患者さん。かなり心臓が弱っているようなのですが、前からこのような症状は見られたのでしょうか」
「いえ、そんな話は聞いたこともありませんし、ご本人も極めて健康的な方でしたので、私らも驚いていたところです」
「そうですか。現在のところでもあまり芳しくありませんので、もしこのまま悪化しますと生命の保証のほうもできない状態ではあります」
「ええ、そんなに悪いんですか。先生」
奈津実が驚いたように聞き返した。
「おそらく今晩辺りが山場かと思われますので、どなたか付き添いをお願いできればよろしいのですが、お願いできますでしょうか」
山本は奈津実とも相談して、とりあえず今晩はふたりで付き添うことにして、必要なものを取りに一旦山本は家に戻ることになった。
『これはえらいことになっちまったぞ。耕平に知らせたくても夜じゃマシンは使えないし、こんな時に誰か相談できる人がいればいいんたが……、うーむ…。いるぞ、吉備野博士だ。博士に相談すれば何とかしてもらえるかも知れんぞ。博士の研究所のマザー・マシーンなら、昼夜ともに関係なく稼働するはずだからな。こうしてはいられない急いで奈津実を連れ戻さないと…』
さっそく山本は病院に移動していた。
「奈津美、ここままではまずいぞ。これから家に戻って準備をしてくれ。そして、すぐに縄文時代に飛ぶんだ。耕平に知らせて呼んでこないとダメだ。すぐ行こう」
こうしてふたりは再び自宅に戻り、持って行くものをかき集めた。山本は自分の衣類、下着からシャツやズボン・真新しいスニーカーまで揃えた。
「あ、そうだ。奈津実、お前、髪の毛を切るカット鋏を持ってたよな。あれを持って行って、耕平の髪を切ってやれ。どうせ、耕平のヤツ伸び放題のボサボサ頭してんだろうから、ちょっとはカットでもしてやらないと様にならないからな」
「オーケー、カット鋏ね。はい、準備できたわよ。徹さん」
「よし、されじゃ、吉備野博士を呼ぶからな…」
山本はマシンの吉備野博士呼び出し用ボタンを押した。すると、空間の一角が歪んだように見え、たちまち吉備野の姿が実像化した。
「これは、お久しゅうに…。おふたりお揃いで何ごとですかな。山本さん」
「吉備野博士、わざわざお呼び出したりして申しわけありません。実は……」
山本はこれまでのあらましを吉備野にかたりはしめた。
「………と、いうわけで、耕平のおふくろさんにこれまで耕平の身に起こった、偶然も含めて洗いざらいすべて話したんです…。そしたら、急に小母さんの泣き出してしまい、そのまま倒れて意識不明になってしまったんです。ぼくが小母さん話した内容はもちろんぼくの独断ではありません。ちゃんと耕平の了解も取ってありましたから、ドクターの診立てによりますと心臓が弱まってきているとのことで、親族の方がおれば呼んだほうがいいと云われましたので博士にお越し願ったわけです」
「そうですか。それは難儀なことでしたな。ご心情お察しいたしますぞ。山本さん」
「そういうことですので、ぼくを耕平ところに連れて行ってください。小母さんに万一のことでもあれば耕平に顔向けができません。お願いします。先生」
「あたしからもお願いします。博士」
「わかりました。これは一刻を争いますな…。それでは用意はよろしいですかな。皆さん」
吉備野はマシンの調整に取りかかり、すぐさま始動ボタンを押した。景色は一変して目の前には夜景の草原が広がっていて、空を見上げると中天よりやや西に傾いた満月が大地を照らし出していた。
耕平の居住しているログハウスの前まで来ると、山本は小さな声で耕平を呼んだ。ウイラやコウスケを起こさないようにという配慮でもあった。
「おお、何だ。山本か、それに吉備野博士に奈津実さんまで、どうしたんだ…。いま時分に、何かあったのか……」
「シー、こんなところで喋ってたら、ウイラたちが眼を醒ますだろうが、オレの住んでた小屋に行こう。耕平、一緒に来い」
すぐさま山本は、以前住んでいたログハウス行くと、カンテラに火を入れて部屋を明るくした。
「一体どうしたんですか。博士、何があったんですか。みなさんお揃いで……」
「それが、一大事なのですよ。佐々木さん。おなたの母上が倒れたそうで、それで大至急お迎えに上がった次第なのです」
「え、おふくろが倒れたって、本当なのか。山本」
「ああ、すまん、耕平。前にお前のところにきた後、お前と相談しとおりすべてを話したんだ…。初めは懐かしそうに聞いてたんたが、オレがお話し終わったとたんにいきなり泣き出して、奈津実がなだめていたら急に意識不明になってしまって、慌てて救急車を呼んで病院に担ぎ込んだってわけなんだよ。ホントにすまん。だから、もしかすると小母さん、危ないかも知れないんだ。着替えやなんかも全部用意してきたから、すぐに着替えてオレと一緒に来てくれ、耕平。それから、奈津実、早く耕平の髪をカットしてやれ。それと、耕平のおふくろさんは、いま集中治療室に入ってますからオレたちがいる間は、誰も出入りできないようにしてもらえませんか、博士」
「なるほど、それは承知しましたぞ。山本さん」
こうして、慌ただしく準備を整えると、四人は亜紀子の入院してる病院へと移動していった。静まり返ったのICU中で亜紀子はひとり静かな寝息を立てて眠っいた。設置された機器類には異常な数値は見てとられなかった。
三
吉備野は腕組みをしたまま、何ごとかを考えていたが耕平たちのほうをみて静かな口調で言った。
「見たところでは、これと云った異常はみられませんが、万が一に備えまして私がもう一度詳しく診てみましょう」
内ポケットから小さなペンシル上の機器を取り出すと、亜紀子の胸部に当てると別の測定器のようなもので何かを計っていたが、その手を止めて三人のほうに向き返った。
「どうですか。耕平のおふくろさんの容態のほうは……」
山本がすかさず吉備野の顔色を伺いなから訊いた。
「もうご心配には及ばんでしょうな。佐々木さんの母上は非常に強固な心臓をお持ちのようで、私どもの時代の人間などでは到底足元にも及びもつかない、とても健康的で丈夫な心臓をお持ちになっておられます。現在のところ外部から大きな衝撃を受けられ、一時的に機能の低下がみられますが、ここに私が即効かつ持続性の高い薬品を持っておりますので、これを置いて行きましょう。それで症状はほぼ改善されると思われます。どなたか後ほど飲ませて差しあげてください。さて、私はこの辺でお暇いたしますが、佐々木さんは如何なさいますかな。必要とあれば、また後ほどお迎えに参上しますが、どうなさいますかな」
「ぼくも一緒にお願いします。おふくろの顔も見ましたし、それに何よりも吉備野博士に診てもらえたんだし、それだけで安心して帰れます」
「おい、耕助。ちょっと待てよ。お前、おふくろさんに声もかけずに帰る気なのか。わざわざ縄文時代からやってきて、それで声もかけずに帰る気なのかよ。なんてヤツなんだ。お前ってヤツは…」
その時、山本は耕平に対してわけの分からない憤りのようなものを感じていた。物心がついた頃から共に遊びともに学んだ間柄にも関わらず、無性に腹立たしく感じられただただ怒鳴り散らしていた。
「いいか、耕平。いまお前のおふくろさんは少なくとも、生と死の瀬戸際に立たされているかも知りないんだぞ。それを何だい。例え分からなくたって声ぐらいかけられないのか。それでも人の子か。人の親なのかよ。お前は……」
すると、耕平は寂しそうな表情で言った。
「すまん、山本。お前には分からないだろうが、オレだって苦しいんだ。苦しんで苦しみ抜いてきたんだよ。だから、オレたちはもうこれ以上逢わないほうがいいんじゃないかと思うんだ。いつかはお互いにもっと苦しまなくちゃならなくなる時だって来るんじゃないか…。それにお前には、おふくろのことを面倒見てもらってホントにすまないと思ってるんだ。しかし、もういいんだ。オレたちの付き合いは、もうこれくらいで止めにしてくれないか。頼む。山本」
「何だぁ。耕平、何を云いだすかと思ったら、このオレに絶交しろっていうのか。ふざけるんじゃねぇ」
「ああ、お前がそう取るんだったら、そう取ってもらったって構わないさ。好きなようにしてくれ」
「へ、何だい、何だい。人が黙って聞いてりゃあ、いい気になりやがって、上等じゃねえか。絶交でも何でもしてやるよ。その代わり、お前とはもう友だちでも親友でもないからな。そのつもりでいろよな。おい、奈津実。帰るぞ。お前も一緒に来い」
もの凄い見幕でICUから出て行こうとしている山本に、奈津実は慌てて駆け寄った。
「ちょっと待ってよ、徹さん。帰るって云われても、おばさんはどうするのよ。あたしが付いていなかったら困るじゃないのよ…」
「どうせ、耕平のことだ、縄文時代の嫁さんでも連れて来て、看させるんだろう。ほっとけよ」
そう言い残すと山本はさっさと病室から出て行ってしまった。
「すみませんね、耕平さん。あのひと云い出したらきかないんで、すみません、ホントに」「いいよ、奈津実ちゃん。後はこっちで何とかするから、もう帰っていいよ」
「どうもすみません。耕平さん」
奈津実はすまなそうに頭を下げると、山本の後を追いかけるように病室を出て行った。
山本は家に戻っても奈津実とはひと言も口を利かず、まっすぐ自分の部屋に入ると勢いよくドアを閉めてしまった。
奈津実はしばらくの間、このまま山本のことをそっとして置いてやろうと思っていた。こんな時に何かを言えば、かえって逆効果になることは奈津実が一番よく知っていたからだ。それでも亜紀子の容態が気になったので、しばらく時間が経ってから山本には内緒で家を抜け出して病院に様子を見に行ってみた。病室に入ると中には誰も居なかったので、通りかかった看護師に尋ねると、
「佐々木さんなら、先ほど息子さんが退院手続きを済ませて、同行された年配の方と一緒に連れて帰えられましたよ」
とのことであった。奈津実は不審に思いながらも、耕平が連れて行ったのなら仕方がないなと自分なりに納得して帰ってきたのだった。
その頃、山本はひとり寂寥感に苛まれていた。自分自身が腹立たしくもあった。思い返せば物心がついた頃から、三十数年もの長い間付き合ってきた言わば無二の親友ともいうべ耕平に、売り言葉に買い言葉とはいえど絶交という言葉を口にしてしまったのだから、いくら悔やんでも悔やみきれないものが沸き上がってきた。思い込んだら命がけというのが山本の心情でもあったが、今回ほど自分の馬鹿さ加減を身にしみて感じたことはいままで一度もなかったことだった。何を思ったか山本は部屋を出ると奈津実を探した。
「おーい、奈津実。ちょっと来てくれ」
「なーに、徹さん」
「ちょっと、出かけてくる…」
「あら、どこへ行くの…。徹さん」
「病院に行ってくる。病院に行って耕平に謝ってくる。少し言い過ぎたからな…」
「あら、耕平さんならもういないわよ。さっき、おばさんのことが心配だったから顔を出してみたの。そしたら、耕平さんが退院の手続きをして連れて帰ったって、看護師さんが云ってたわ」
「連れて帰ったって小母さん意識不明なんだぞ。縄文時代にか…」
「そうね…。そういえば変ね。どこに連れてったのかしら……」
「おい、おい、しっかりしろよ。奈津実。それでお前は何んとも思わなかったのか。まったく…」
「ごめんなさい。あたし、ついうっかりしてたわ。どうしましょう…」
「いまさら騒いでみたってしょうがない。よし、吉備博士に連絡をとってみよう…」
山本はマシンの連絡用のボタンを押した。すると、空間の一部がゆらぐように揺れると吉備野の姿が現われた。
「博士、急に呼び出したりして申しわけありません。耕平の母親の具合はどうなったんでしょうか。心配だったので様子が知りたくて来ていただいたのですが…」
「それでしたら、ご心配には及びません。山本さん、佐々木亜紀子さんは順調に回復しております。私が慎重に治療を施しおりますので、後そうですな。一週間ほど経てばこちらのほうに戻られると存じますがので、いましばらくのご信望をお願いできますかな」
山本も奈津実も、亜紀子が順調に回復していると聞いて、安堵に胸を撫で下ろした。
「まあ、よかったわ。亜紀子おばさん元気になられたのね。あたし嬉しいわ。吉備野博士、ありがとうございます」
亜紀子は吉備野のに対して、手を取らんばかりの手振りで感謝を表した。
「そうですか。小母さん回復しましたか。あ、そうだ。ひとつお願いがあるのですか、聞いていただけますか。博士」
「ほう、それはどんなことですかな…。山本さん」
「はあ、それは、前に一度お借りしました、スーパーアンドロイドの「志乃」を今回もお借りしたいと思いまして…」
「なるほど、よく気づかれましたな、山本さん。志乃なら万全ですな。彼女なら介護はもちろんのこと、身の回りの世話も完璧に熟しますから、よろしい、それでは志乃もお供させましょう。それでよろしいですかな。山本さん」
「ありがとうございます。博士、ぼくと奈津実だけでは、なかな細かいところまでは手が届きませんので、ホントに助かります」
吉備野は快く山本の願いを受け入れ帰って行った。
「吉備野博士って、とても素晴らしい人ね。徹さん、あたしなんだか感動してしまったわ」
吉備野が帰った後、奈津実はうっとりした表情で彼の消えて行った空間を見つめていた。
「そりゃあ、このタイムマシンや、志乃やパトリシアを造った人だもの素晴らしい科学者なのさ。おそらく未来の世界でも一・二を争う大科学者なんだろうな」
その時、玄関の戸が開いて誰かがきた様子だった。
「こんにちは、山本くんはいますか。河野です」
河野は案内も乞わず上がり込んできた。
「お、いた、いた。おい山本くん、大変だぞ」
「あ、先輩、どうしたんですか。一体…」
「大変なんだよ。ぼくが前に大学の先輩で、雑誌の編集をやってる人がいるって云ったことがあったよね。そして、その雑誌の新人賞にきみの小説を独断で応募したこと、これも話したよね。確か…」
「ええ、聞いたような気もしますが、それが何か……」
「それが何か……、ないんだよ。きみ」
「え、何のことですか……」
「その応募した、みきの小説『翳りゆく季節の中で』が、一次審査を通過したってメールがあったんだよ。たったいま」
「え、ぼくの小説……、あんな三文小説にもならないものがですか……」
「いや、そう謙遜するもんでもないよ、大したものなんだよ。一次審査を通過するってことは、応募された作品の中から一次審査を通過するものなんて、全体の何パーセントにも満たないんだからね。そこを行くと、きみのあの作品は見事通過したんだからね、きみはもっと自信を持つべきなんだよ。山本くん」
「でも、オレ全然なんてないし、ただの暇つぶしで書いただけなんですから、単なる偶然というか、そんなところですよ。多分」
「まあ、そう云わずに、これからも頑張って書いてくれたまえ。じゃあ、ぼくはこれで失敬するよ。これからまだ行かなくちゃいけないところがあるんでね」
河野は相変わらず自分の言いたいことだけいうと、さっさと帰って行ってしまった。
「ホント、大変な人ね。河野さんって…」
「ああいう人なんだよ。昔からさ、あの人は……」
山本はため息を吐きながらポツンと言った。
四
それから一週間経ったある日の午後、山本が本屋の帰りに、たまたま逢った近所の奥さんに声をかけられた。
「あら、山本さん聞きましたわよ。あなた創談舎の雑誌の新人賞に入選されたんですってね。たいしたものですわねぇ」
「え、誰から聞いたんですか。違いますよ。ただの一次審査を通っただけですから、大したことないんです。だけど、誰から聞いたんですか」
「そうなんですか。あたしは河野さんの奥さんから伺ったんですけど、そうなんですか。だけど、皆さん噂してましたよ。へんですねぇ」
山本が家に辿りつくまでに出逢った二・三人の人から、同じようなことを次々と聞かれてウンザリしながら疲れ切って帰ってきた。
『また、あの人かよ。いやになっちまうなぁ。ホントに、あー、イヤだ、イヤだ…』
「お帰りなさい、徹さん。あら、どうしたの。そんなにゲッソリした顔して…」
山本の疲れたような顔をみて奈津実が聞いた。
「参ったよ。ホントに、どうなってんだ、あのカミさんは……」
「え、だから、なんの話なのよ」
「いや、河野先輩のカミさんだよ。ほら、先週河野先輩がきて応募したオレの小説が、新人賞の一次審査を通過したって話をしてっただろう」
「ええ、それがどうかしたの…」
「それが、いきなり新人賞に入選なんて話、どこをどうひっくり返せば出てくるんだよ。ホントに、もう…」
「だから、なんの話なの…。徹さん」
「いや、さっき本を買いに行った帰りに近所の奥さんに声をかけられて、オレが新人賞に入選したって話になったから、それは間違いで一次審査を通過しただけだって訂正してきたんだけど、河野先輩のカミさんから出た話らしいんだ。それもひとりやふたりから聞かれたんじゃないんだぞ。このままにして放って置いたら、オレは恥ずかしくて町も歩けなくなっちまうじゃないか。どうすればいいんだよ。オレは……」
「旦那さんといい奥さんといい、ホントにたいへんなご夫婦ね。あそこも…」
奈津実もつられてため息を吐いた。
それからというもの、山本は会社の通勤以外はあまり外を出歩かなくなっていた。一時は、どうせ売れもしない小説なんか書いたって仕方がない。と、ばかりに書くことを断念していたが人の噂も七十五日というだけあって、時間が経つにつれて噂もいつの間にか立ち消えになって、知らず知らずのうちに山本はまた書き始めていた。
土曜日や日曜日はいうまでもなく、日常生活においても自分の時間が許す限り、机に向かい原稿を打ち込むという行為に明け暮れていた。
その甲斐もあってか日増しに書く分量も増え、それなりに自分でもいくらか自信作と言えるようなものが書けるようになっていた。
『よし、これならどこに出して恥ずかしくないな』
と、思えるような作品を書き上げていた。出来上がった原稿は人任せではなく、あくまでも自分の意思でどこかの雑誌に投稿しようと思った。
山本は書店にいくと、そこに並べられている雑誌類を片っ端から調べ始めた。しかし、作品を募集する時期がずれているのか、それらしい記事を見つけることができなかった。半分諦めかけていた時、こんな記事が目についた。
【小説バッシング☆作品大募集☆締め切り迫る◇初心者大歓迎◇応募乞う】
『何、小説パッシング。あんまり聞かない名前だなぁ…。ふむ、ふむ。まあ、なんでもいいか、どうせ腕試しのつもりだし…』
かくして山本徹は一大決心を以って、この「小説パッシング」誌に、自分の書いた作品の中で一番自信のある作品を選んで応募したのだった。
しばらく経つと、山本自身も会社勤めや日々の雑用に感けて、そんなこと自体すっかり忘れかけていたが、自分の時間が許す範囲内で小説だけは書き進んでいた。この前みたいに根も葉もない噂を立てられると困るので、妻の奈津実にもしっかりと口止めをして置いた。
また、耕平の母の亜紀子がすっかり元気になったと聞いたので、山本もさっそく顔を出してみることにした。佐々木家を訪れると、亜紀子はもとの元気な姿で山本を向かい入れてくれた。
「いやぁ、小母さん、もうすっかり元気になりましたね。オレもこれで安心しましたよ」
「あたしも、あちらでは吉備野先生には良くして頂いてね、もうすっかり回復したのよ。以前よりも却って健康的になったくらいだわ。あら、きょうは奈津実ちゃんは一緒じゃなかったの…」
「あ、アイツは手が空いたら行ってみますって云ってたから、間もなく来るんじゃないかと思います」
「そう、そう、それから吉備野先生が付けてくれた志乃さんって娘、あの娘もテキパキと看病してくれて助かったわ。痒いところに手の届くていうのは、きっとああいうことを云うのね。とても優しくていい娘だわ。彼女も」
「そう云えば、志乃はまだいるんでしょう。小母さん、彼女はいまはどこかに行ってるんですか。姿が見えないようですが…」
「ええ、いま買い物に行ってもらっているのよ。うちは耕平だけだったじゃない。だからね、なんか娘が出来たみたいで、とても嬉しいの。それにアンドロイドなんていうロボットの一種だなんて、どうしても思えないし…」
「いやぁ、小母さん、それを志乃が聞いたら悦びますよ。きっと。それに彼女の骨格や電子頭脳・動力部分を除けば、表面の皮膚はスーパーシリコンで出来てまして、食べる物だって普通に食べますから、見た目にはまったく普通の人間と見分けがつかないんです。ご覧のように容姿的にも、計算し尽くされたスーパーボディですからね」
「ホントね。あたしが見てもとても素敵だと思うし、ロボットって金属で出来ているのだとばかり思っていたから、よけいね」
「よかったですよ。小母さんに気に入ってもらえて、吉備野博士も喜ぶでしょう。小母さんさえよかったら、もう少しの間だけ貸しておいてもらえるように、博士にオレのほうから頼んでみましょうか」
「そうね、そうしてもらえると、あたしも助かるわ」
「こんにちは。奈津実ですけど、遅くなってすみません」
玄関の戸が開いて、奈津実がやってきた。
「あら、来たわね。上がってきてちょうだい」
「うわぁ、おばさん、すっかりよくなったんですね。よかったぁ」
奈津実は入ってくるなり、亜紀子の前に座り込むと両手を握りしめた。
「ええ、これも徹さんや奈津実ちゃんたちのお陰よ。ふたりのためにあたし命拾いしたんですもの。本当にふたりにはすっかり迷惑をかけたわね。本当にありがとう」
「何云ってるんですか、小母さん。あの時はオレたちはビックリしてしまって、ドしたらいいかわからずに救急車を呼んだだけですよ」
「そうですよ。あたしなんて、気が動転してしまってて、救急車を呼ぶのに199番が思い出せなくて、あとで徹さんに笑われたくらいなんです」
「ホントにお前はドジなんだから、もう困ったヤツだよ。まったく」
「まあ、そうだったの。ホホホ…」
「でも、よかった。おばさんが元気になって…」
そんな話をしていると、玄関の戸が開く音がして、志乃が帰ってきたようだった。
「ただいま帰りました」
志乃は部屋に入ってくると、山本と奈津実に目を移した。
「山本さんいらっしてたのですね。それに、こちにらは山本さんの奥さまの奈津実さんですね。よろしくお願いいたしますすわ。わたくしMRTⅧ 志乃と申します」
「あら、志乃さんとは初対面なのによくわかるわね」
「はい、わたくしの検索センサーにより調べましたから、その中に【山本奈津実】【山本徹】妻とありましたので、すぐわかりました」
「へえ、すごいわね。驚いちゃったわ。あたし」
「おい、志乃。いま思ったんだけどさ。その型番だか何か知らないけどMRTⅧって云うの止めなよ。名前の志乃だけていいよ。名前だけで変なら、小母さんの名字を借りて佐々木志乃って名乗ったほうがいいぞ。それさえ云わなければ、誰もお前のことをアンドロイドだなんて思いやしないんだから、そうしろよ」
「そうでしょうか。いかがいたしますか」
山本に言われて、志乃は亜紀子のほうを見た。
「そうねぇ。それなら、あたしの親戚とでもしとくといいわ。そうなさい」
「よし、決まりだな。いまからお前は佐々木志乃だ。よかったな。志乃」
「はい、そういたします。わたくし佐々木志乃と申します。よろしくお願いしますわ。奈津実さん」
「そう、そう、それでいい。でも、なんかまだ硬いような気もするけどなぁ。まあ、いいか。そのうち慣れるさ」
「ねえ、徹さん。おばさん、まだ元気になったばかりだし、あまりお邪魔しちゃ悪いわ。そろそろお暇しましょうよ」
奈津実に言われて山本はハッとした。
「そうだな。そうしようか。オレもやることがあったんだっけ、それじゃ小母さんオレたちそろそろ行ってみます」
「あら、あたしならいいのよ。ゆっくりしていってちょうだい」
「いや、小母さん、オレやることが残ってたんです。また来ますから、きょうはこれで失礼します」
「そうぉ、それは残念ね。また出てきてちょうだいね」
ふたりは佐々木を辞して外に出て、歩きながら奈津実がいった。
「まったく、徹さんったらダメじゃない。おばさんは病み上がりなんだから、もっと気を使ってあげなくちゃダメでしょう」
「はい、はい、すみまんねぇ。ついうっかりしちゃって、だけどよ。奈津実、小母さん耕平のことをひと言も云わなかったんだけど、アイツあの後どうしたんだろう…」
「さあ、あたしも知らないわ。吉備野博士と一緒に未来の世界に行って、それからどうしたんでしょうね…」
「小母さんが何も云わないということは、耕平と逢ってないということになるな。うーむ、これはひとつ調べてみる必要があるな。うーむ…」
「調べてみるって、今度はなにをやるつもりなの。徹さん」
「ん、何をって、もう一度耕平のところに行って確かめてくるのさ」
「ええ、耕平さんのところって、縄文時代じゃないの。あなたまた縄文時代にいくつもりなの…。だったら、あたしも連れてってよ。あなたひとりで行くなんて狡いわよ。連れてって…」
「なんでお前が縄文時代なんかに行くんだよ。だいたいな縄文時代ってのは危険なところなんだぞ。熊も出るし、イノシシとか八岐大蛇とかウジャウジャいるんだぞ。それでも平気なのか。お前は…」
「平気だもん。徹さんがついてるじゃない。だから、連れてってお願い。ねえ、徹さん。連れてってよ……」
こうして奈津実にしつこく頼まれて、山本は渋々縄文時代に連れて行くことを約束させられたのだった。
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