第七章 超空間の崩壊

       一


 ホテルに着くとすぐに、山本はエレベーターも待たずに階段を駆け上った。

 部屋に入ると志乃は立ち上がって山本に近づいてきた。

「お待ちしておりましたわ。山本さん」

「どんな状況なんだ。超空間は……、志乃」

息を切らせながら山本は聞いた。

「マザーからの通信だけですので、何んとも申せません。ですが、崩壊までどれくらいの時間がかかるかはまったく分かりませんが、いずれは超空間そのものが、完全に消滅してしまうのは間違いありません」

「うーん…、超空間の完全消滅かぁ……、想像もできないなあ…。どんなものなのか、この眼で確かめておきたい。志乃、これから行ってみよう。オレを連れてってくれ」

「それは危険ですので、お止めになったほうがよろしいですわ。山本さん。もしも、あなたに万一のことでもあれば取り返しもつきません。それはお止めください」

「いいよ。そんなことはどうでも、とにかくの、オレは見たいんだ。どんなことになっても責任はオレが持つから、行こう。志乃」

「山本さんが、そこまでおっしゃるのでしたら、致しかたありませんわ。ですが、わたくしが危険と判断した場合には即座にもどりますので、そのおつもりでいてください。それでは、まいりましょう」

 一瞬にして山本と志乃は超空間の中に立っていた。

「何だ。これは…、ますますおかしくなってるぞ。この空間は……」

 山本のいうとおり、空間のいたるところで気泡のようなものが、ぶくぶくと泡立って膨れあがりある程度まで大きくなると、次々と弾けて消滅しているのがあちらこちらで見てとることが出来た。

「確かにおかしいですわ。これは…、すぐにマザーと交信してみますので、少々お待ちください」

 志乃がそう言った時だった。ふたりの足元から大きな気泡が湧き上がってきた。しかもその気泡は弾けもせず、山本と志乃の身体を包み込むように覆い、ふたりはその中に閉じ込められてしまっていた。

「何だ、なんだ。どうなってんだぁ。これは…」

 山本が叩いても蹴っても、気泡の壁はビクともしなかった。

 すると、脳細胞を揺るがすような低い音を立てて、ふわっと中空に浮かびあがった。

「うわぁ、こんどは何だよ…」

 気泡の玉は滑るように動きだすとゆっくりと上昇し始めた。上昇が止まると横方向に動き始め徐々にスピードが増してゆき、周りの空間にそれまで見えていたものも、何ひとつ見えなくなっていた。そして、ある一定の速度まで達したと思われた時、大きなショックとともに何かを突き抜けたような感覚に襲われた。

「うわあ……」

 あまりの大きな衝撃に、山本はもんどりを打って倒れ込んだ

「だいじょうぶですか。山本さん」

 志乃がやさしく山本を抱え起こした。

「ありがとう、志乃。オレなら大丈夫だ」

いつの間にか周りの透明な壁は消え去っていた。山本は立ち上がると周辺を見回した。「こんどは、どこに出たんだぁ……。こんなの見たこともないぞ。オレは…」

「わたくしにも解りません。まったく未知の空間です」

「何、未知の空間…。きみにも解らないのかい」

「はい、それに先ほどからマザーと交信をしているのですが、マザーからの返答を得ることができせん」

「うーむ。マザーと連絡が取れないとなると、オレたちはここに閉じ込められたってことか……」

 空間の床面にはドライアイスを水に入れた時のような、白色の靄状のものが充満していて山本の足首の辺りまで覆いつくしていた。

「この空間の構成成分を解析してみましたが、まったく未知のものでわたくしにプログラムされたデータ内にも、存在しないものばかりでした」

「すると、ますますお手上げ状態ってわけか。まいったな……」

 そういうと、山本は腕組みをして考え込んでしまった。何とかして、この窮地の状態から脱出しようと必死で考えていた。しかし、アンドロイドの志乃でさえ構成物質を探り極めることは不可能だという。そんな不可解な新たなる空間に迷い込んでしまったのが不運だったのか。こんな時に吉備野博士がいてくれたら、どんなに心強いことかと山本は思った。

「ああ、いやだ、いやだ。こんな時、吉備野博士に連絡が取れればなぁ……。クソ…」

 こんなことでぼやいている暇はないと悟った山本は、あちらこちら見渡して周りの様子を探ってみたが、目に見えるのは底辺を覆っている白い靄状のものが、ゆっくりと漂っているだけだった。しかも、この空間は高さも広がりも感じられないような、遠近法をまるっきり無視した構造になっているのかも知れなかった。

「まいったな…。このままじゃ、どうしたらいいのかさえ分からないや。そうだ、志乃。きみにはここがどんな風に見えてるんだい」

「どんな風にと云われましても、わたくしにも山本さんと同じように見えていると思いますわ。わたくしの視覚機能は、基本的に人間と同等か幾分強いセンサーが組み込まれておりますが、視覚的にはさほど変わりないと思います」

「そうか、変わりないのか……」

 山本は、何やら志向を巡らしているようだった。

『この空間が前の空間と同じものなら可能性がないとは限らないぞ……。やって見る価値はあるな。よし…』

「志乃、ちょっとオレの前に来て両手で、手をつないでみてくれないか」

「はい、わかりました」

 志乃は山本の前に行くと、両方の手を差し伸べるようして山本と手をつないだ。

「これでよろしいですか」

「いいか、オレの手を絶対に離すんじゃないぞ」

 山本は、そう言うと精神を統一するように静かに目を閉じた。そして、思念を集中してこの場からの脱出を念じた。すると、山本は自分の体から力がスーッと抜けていくのを感じた。ゆっくりと眼を開いて見ると、まばゆい光りが山本を覆っていた。

「何だ。この空間は……、一体どうなってるんだぁ。ここは……」

 山本が驚くのも無理はなかった。眼前に広がっていたのは見たこともない花が辺り一面に咲き乱れていて、無数の蝶が舞い飛ぶんでいて空には虹もかかっていた。それは山本が子供の頃に見た、童話の絵本の中から抜け出してきたような世界だった。

「こんなところに、いつまでもグズグズしちゃいられないぞ。次に飛んでみよう」

山本は次々と超空間を飛んで行った。それは飛ぶというより潜り抜けると言ったほうがあっているかも知れなかった。山本は飛んだ。志乃と手を取り合ってひたすら飛んだ。しかし、いくら飛び越しても空間は果てしなく続いて行った。大宇宙に無数の銀河が点在しているように、この空間にもそれなりに無数の超空間が存在している可能性があった。宇宙はおよそ138億年前、原始的原子の爆発によって発生したと言われている。この超空間も同じような過程を以って発生したのなら、やはり無数に存在していたとしても矛盾しているとは思えないのだ。

「こりゃあ、いくら飛んでもきりがないぞ……」

山本は、また飛ぶのをやめて思考を繰り返すが、どうしてもこの空間から脱出する手段を見つけられなかった。

『まずいぞ。このままじゃ…、とにかく何とかしなくちゃダメだ…。どうすればいいんだ。クソ…』

 再び山本は目を閉じて念じ始めた。すると、ふたりの足元から大きな気泡が沸き上がり、山本と志乃の体を包み込んだ。山本はさらに念じ続けると、

気泡は徐々に浮き上がるとゆっくり動き始めた。そして、来た時と同じようにスピードが次第に速度を増し、もう気泡の周りでは空間が白い線と化して山本と志乃の後方へと流れて行った。

「よし、もう大丈夫だろう。ふう…。しかし、えらい目に遭ったもんだ。こんなんだったら来るんじゃなかったよ。まったく…」

 そう言いながら山本は安堵に胸をなで下ろした。

「でも、どうしてこんなことが出来るのですか。山本さんは…」

 それまで、ひとことも口を利かないで山本の行動を見守っていた志乃が訊いた。

「どうしてって云われても、返答に困るけどなぁ…。つまり、この空間では自分の考えていることが、何でも現実化させることができるんだよ。耕助が発見したんだけどな。だから、それを思い出してやって見ただけさ」

 そんなことを話していると、また強い衝撃を受けて何かを突き抜けるような感覚に襲われた。山本は二度と同じ手を食うまいと、両足を踏ん張って衝撃を堪えていたために転倒は免れた。

「どうやら、元のところの戻ったようだ。一刻の猶予もないはずだから早くここを抜けだそう。行こう。志乃」

 超空間は、いよいよ断末魔の様相を見せて、のた打ち回っているかのように見えた。それを尻目に、山本は志乃の手を掴んだまま一気に通常空間にもどってきた。

「ふう…、やっと帰って来れた…。それにしても、何だかんだ云ったってオレたち命拾いしたんだよなぁ、危ねえ、危ねえ…」

 山本自身もホッとした様子で胸をなで下ろした。

「あ、もうこんな時間か。遅いから、そろそろ帰るけど明日また来てみるよ。何かあったら、さっきみたいにメッセージをオレんところに入れてくれないか。じゃ、おやすみ。志乃」

「はい、わかりました。おやすみなさい。山本さん」

 志乃に別れを告げて山本は外に出た。くる時にもまして、底冷えのするような北風が山本の傍らを吹き抜けて行った。

『うう…、やけに冷え込むなぁ。今夜は……、雪でも降り出すんじゃねえのか。こりゃあ……』

山本が自宅に帰りついた頃には、もう奈津実は就寝したのか居間にも台所にも姿が見えなかった。飲みかけのウイスキーボトルとグラスを持つと山本は書斎に戻った。眼が冴え過ぎていて、このまま寝てもすぐには寝付けそうもなかった。

パソコンを立ち上げて、グラスを傍らに置くとキーボードを叩き始めた。こうして延び延びになっていたエピローグの最後の部分を書き込んで、どうにか山本の書いていた一連の小説は完成に近づいていた。

『よし、出きたぁ…。完成だ。あとは細かいところを手直しすれば完璧だ。やったぞ』

 時計に目をやるとすでに午前二時を回っていた。残っていたグラスのウイスキーを一気に飲み乾すと山本は書斎を出た。廊下にはひんやりとした空気に覆われていて、ブルっと身震いをひとつして奈津実の寝ている寝室へと向かった。

『うう…、やけに冷え込むなぁ、こりゃ、マジで雪でも降ってんじゃねえか……』

 山本は廊下のカーテンを細目に開けて外を覗いた。すると、いつの間に降り出したのか地面のところどころに、白いものが薄っすらと積もっているのが見えた。

『やっぱりな…。うう、寝よう、寝よう。こんな夜はさっさと寝るのに越したことはねえからな…』

 山本は急いで寝室に駆け込むと、奈津実の寝ている横の自分の布団に潜り込んだ。横を見ると奈津実が静かに寝息を立てて眠っていた。外では雪がしんしんと降り続いているようだった。この分では明日の朝は、そうとう雪が降り積もっているかも知れないと思いながら、やがて山本は深い眠りの底へと落ちて行った。


       二


「徹さん、大変よ。起きて、起きて。ねえ、大変なんだから起きてったら、起きて」

翌朝、山本は奈津実のけたたましい声で起こされた。

「ん、どうしたんだ。こんな朝っぱらから大きな声出して……」

「そんな吞気なこと云ってないで、とにかく起きて外を見てよ。雪が大変なんだから…」

「雪がどうかしたのか…。どれどれ」

 奈津実に急かされて、山本は布団から抜け出すとカーテンを両手で開いた。次の瞬間、山本は自分の目を疑った。そこに積もっていたのは昨夜みた白い雪ではなく、濃いコバルトブルーの色彩を放つ、何とも言えない不気味な雪が辺り一面を覆っていた。

「な、何だ。これは……」

 山本は思わず絶句してしまった。

「なによ。これ…、なんなのよ。こんな雪なんて見たことも聞いたこともないわよ。あたしたちどうなるの。ねえ、徹さん」

奈津実は山本に縋りついてきた。

「とにかく、この雪をどうにかしないとダメだな。よし、片づけるか……」

 山本は着替えを済ませると庭に出た。足で踏みしめても普通の雪となんら変わりはなかった。

『やっぱり、あの超空間の崩壊と関係があんのかなぁ、それとも何か別の原因があるのかも知れないけど、まあ、いいか。あとで調べれば……』

その時、山本の腕につけたマシンがプルプルと振動を起こした。次の瞬間、山本の身体は志乃のいるホテルの一室に飛んでいた。

「どうしたんだい。何かあったのかい。志乃」

「はい、雪をわたくしの体内に取り込んで分析してみたところ、やはり超空間に含まれている成分と一致することが判明いたしました」

「やっぱりそうか。もしかしたら、そうじゃないかとオレも考えてたんだ。それで志乃はどうするんだい。これから…」

「はい、超空間が崩壊した以上は、わたくしの役割も終了しましたので戻ろうかと考えておりましたら、博士からもう少しそちらにいて 山本さんのお手伝いをするようにと仰せつかりましたので、こちらにしばらく残ることになりました」

「へえ、そうなのかい。お手伝いといわれても志乃にしてもらうことなんて、何もないけどなぁ…。まあいいや、じゃあ、しばらくのんびりしてるといいよ。そのうち手伝ってもらうことが出てくるかも知れないから、その時はよろしく頼むよ。あ、そうだ。オレは雪搔きの途中だったんだよ。急いで戻してくれないか、早く片付けてしまわないと会社に遅れちまうんだ」

 山本は手に持ったままになっている、雪搔き用のスコップを志乃に見せた。

「かしこまりました。突然お呼び出したりして、申しわけありませんでした。では、お送りいたします」

 志乃がそう言うと、山本は瞬時にして自宅の庭に立っていた。

 見るからに妖しい光を放っている雪は、朝の光を浴びてコバルトブルーの光が一層毒々しさを増していた。昔から、雪は白いものという固定概念を持っていた山本は、またひとつ身震いをしながらも雪を一カ所に集めて行った。

雪搔きを終えて家に入ると、奈津実も朝食の支度を整えてテレビニュースを見ていたところだった。

「ねえ、徹さん。いったい何なのよ。これ…、気持ち悪いわ」

「オレに聞いたって解かるわけねえだろう。こんなもの…」

「でも、さっき専門家の先生が喋ってたんだけど、この雪の中に含まれている成分は、地球上にあるどの元素にも属さないまったく未知のものなんですってよ。あたし、なんだか怖いわ。これから、どうなるのかしら……」

「どうもなりゃしねえだろう。そのうち溶けてなくなるさ。ホントに心配性だな。お前は…。それより早く飯にしてくれよ。雪を片づけて来たから腹が減ってしょうがねえよ」

「はい、はい。いまよそうから待ってて」

 朝食を済ませて山本は外に出た。見ると道路のあちこちにコバルトブルーの雪がうず高く寄せ集められていた。家々の屋根には軒並み朝の陽光を浴びて、不気味な光彩を放っていた。

会社に行っても、もっぱらその話で持ち切りだったが、山本はあえてその話には加わらなかった。どうせ、ここの連中のことだからひとつの話に何本もの枝葉がついて、憶測やら何やらで話が大袈裟になっていると思ったからだ。仕事も済んで退社時間がくると、山本はすぐさま志乃のいるホテルに向かっていた。

部屋に入る、出かけているのか志乃の姿は見えなかった。

『なんだ。いないのか、アンドロイドでもヤボ用なんてあるのかな……』

 そんなことを考えながら、山本は椅子に腰を下ろした。しばらく待ったが、一向に志乃がもどる様子がないのでひとまず帰ろうと、山本が腰を上げようとした時だった。足元の床がグラっと揺れたかと思うと、次の瞬間激しい揺れが山本を襲った。

 中途半端に腰を浮かしていた山本は、ものの見事にもんどりを打って倒れ込んでいた。

『じ、地震だ…。でかいぞ。これは……』

 山本は立ち上がろうとして、必死にもがいたが揺れが激しくて、なかなか立つことができないでいると志乃が部屋に飛び込んできた。

「だいじょうぶですか、山本さん」

 志乃は抱えるように山本を起こして立ち上がられると、

「どこもお怪我はありませんでしたか。山本さん」

「ああ、大丈夫だ。それにしても、でかかったよなぁ。いまの地震は…、ふう…、まったくビックリしたぜ」

 山本は志乃に支えられながら、立ち上がってようやく椅子に腰を下ろした。

「何だったんだぁ。いまの地震は。あまりにいきなりだったから、とっさに体を支えきれなかった。クソ…、それより志乃はどこへ行ってたんだい。さっきオレが来た時いなかったみたいだけど……」

「博士の研究所のほうに行っておりました。超空間崩壊の報告とわたくしのメンテナンスもしてもらってきました」

「メンテナンスって、どこか調子でも悪いのか。志乃は…」

「いえ、そのようなことはありません」

「そうか。それならいいんだけどな。でも、さっきの地震は大きかったなぁ。どれくらいの震度だったんだろう…」

「最大震度は7強で、マグニチュード9.87でした。山本さん」

「そ、そんなにあったのか…。それじゃあ、東日本大震災の時よりも大きいじゃないか。それで被害のほうはどうなってんだろう。何か情報は集められるのかい」

「はい、各地の情報を調べてみましたが、それほど際立った被害はないようです」

「そうか…。しかし、何だったんだ。あの地震は…、揺れ方だって半端じゃなかったぞ」

「わたくしの解析データによりますと、やはり超空間の崩壊と何らかの因果関係があるというデータが出ておりますので、ほぼ間違いなく超空間の崩壊が起因しているものと考えていいと思われます」

「やっぱりそうか…。超空間の崩壊が引き金になっているのか……。ということは、さっきの地震は日本だけじゃなく、全世界的に起きたってことなのかい」

「それがおかしいことに、そうではないようなのです。あの地震は、この街のこの地区限定で局地的に起こったようです」

「え、この地区だけ…、どういうことなんだ……」

「わかりません。わたくしにも解析不能です」

 解析不能と聞かされて山本は不気味な威圧感を感じていた。超空間の消滅によって生み出されたダークエネルギーが、通常空間にまで影響を与えているのだとしたら、自分たちの過ごしているこの空間や、全宇宙までもが消滅の危機に晒されているかも知れないのだ。もしも、そんなことが現実に起こったとしたら、われわれのいる銀河系はおろか宇宙全体が消滅して、ビッグ・バン以前のまったく無に等しい空ろな状態に戻るようなことにでもなったら、取り返しのつかないことになってしまうだろうと山本は思った。

「そうかぁ…、マザーシステムでも解析が困難じゃ仕方ないな…。だけど、これからどうなるんだろう……。もうこんなことばかり続かないといいけどな……」

 度重なって起こる異常現象に山本はうんざりしたように言った。それから志乃に詳しい地震の状況を聞いてメモに書き移し山本は帰宅した。

きっと奈津実が心配しているだろうと急いで家に戻った山本だったが、奈津実は意外と落ち着いた様子で山本を出迎えた。

「だいじょうぶだったの、徹さん。さっきの地震、帰る途中だったんでしょう。どこも怪我しなかった…。あたし心配してたのよ」

「ああ、オレなら大丈夫だ。それよりお前はどうしてた、さっきの地震の時、何か物でも落ちて来て被害はなかったのか」

「うん、平気、平気。ちょうど買い物から帰ってきたばっかりで、ちょっと驚いたけど被害らしい被害もなかったみたいなの」

「そうか。それならいいけどな。どれ、テレビで何か地震情報でもやってないか……」

山本はテレビのスイッチを入れた。

[…………ん回の地震は、この街のごく限られた地域でのみ起きたものと見做されており、震源の深さなども今のところ断定は不能とのことで、歴史的に見ても地震の観測史上まれに見る珍事でありまして、専門家の間でもなぜこのような奇妙な地震が起きたのかと、首を傾げている専門家もいるということであります。なお、この地震による被害は…………] テレビの画面を見ながら山本はタバコに火をつけた。

「徹さん。あたし何だか怖いわ…。今朝の変な雪にしろさっきの地震にしろ、なにか悪いことが起こる前触れのような気がして怖いのよ。だいじょうぶかしら……。それに今朝の雪だって知らないうちにすっかり消えちゃってるし、ホントに気味が悪いわ…」

「何だって…、あんなに降った雪が消えたって…、ホントか…」

 奈津実の言葉に驚いた山本が、廊下のカーテンを開けて外を眺めたが、あれほど大量に降り積もった雪は影も形もなく消え失せていた。そして、そこには雪が融けたという痕跡すら残されてはいなかった。

「ホントだ。まったく雪が融けて地面に沁み込んだような跡も見えないし……、どうなってるんだ。これは……」

「ねえ、徹さん。どうしてこんなに変なことばかり起こるのかしら、これからもっと悪いことが起きなきゃいいけど…、あたしホントに怖いわ……」

「何云ってるんだい。お前らしくもないぞ。大丈夫だよ。そうそう変なことばかり起きてたまるものかってんだ。安心しろよ。オレがついてるじゃねえか」

「そうよね。だいじょうぶよね。徹さんがいるんだもの。よーし、頑張って夕ご飯の用意でもするかぁ」

 奈津実は立ち上がって台所のほうに行ってしまった。

『ガサツなやつだけど、あれでも結構ビビってたんだな。きっと…』

 山本も一旦自分の部屋に引き上げて椅子に腰を下ろした。

『それにしても奈津実じゃないけど、立て続けに変なことばかり起こるってのも堪ったもんじゃねえな…。どうすればいいんだかさっぱり解らないし、まいったな……』

 コバルト色の雪に始まり原因不明の地震と、相次いで起こる異常現象に山本も半ばうんざりした様子だったが、それもこれもすべては超空間の崩壊に起因しているのだから、超空間そのものも完全消滅したいまとなって、もうこれ以上の異常な出来事は起きないだろうという、確信に近いものを感じながら山本はパソコンの電源を入れた。

 山本の周りをひさしぶりにのんびりとした時間が流れて行った。インターネットを立ち上げて、それらしい書き込みがないかと調べてみたが、どこにも雪や地震に関する書き込みを見つけることはできなかった。

『誰も気にしてないのかなぁ…。別段、これといった被害もなかっんだからしょうがねえか。まあ、いいか…』

「徹さん。食事の用意ができたわよ」

 台所のほうから奈津実の声が聞こえてきた。

「おう、いま行く」

 山本はゆっくりと部屋を出ると奈津実の待つ居間へと向かった。


       三


それから何ごともなく平穏な日々が過ぎ去り、また春がきてこの街にも桜の咲く季節が近づいていた。暖冬が続いていて雪こそ昔ほど降らなくなったが、人間という生き物は春が来たというだけで心が浮きうきするものらしかった。山本徹もやはりそのひとりらしく、この季節になると家の中でじっとしていられないようだった。

「うわぁ、もう三分咲き、いや四分咲きくらいか…、今年はまた一段と早いな。来週には満開だな。こりゃあ…」

 咲き始めた桜を見上げながら春先の暖かな日差しを浴びて、山本はベンチに腰を下ろすとタバコに火をつけた。超空間の崩壊後、しばらく山本を守るために残っていた志乃にも、もうこれ以上は何も起きないからという理由で未来に帰ってもらっていた。

「あら、もう咲いたのね。桜…」

「何だ。お前も出てきたのか…」

 そこにはまぶしそうに桜を見つめながら奈津実が立っていた。

「うん、掃除と洗濯も終わったし、せっかくの天気だからあたしも出てきちゃった」

「そうだな。去年はいろんなことがあったからな……。今年は穏やかな年であってほしいよ。オレはもう疲れちゃったよ」

「それにしても、今年はずいぶん早いのね。桜が咲くのが…」

「そうだな。これも暖冬のせいだろうな。きっと…」

「そうね。暖冬ね。寒くないから、あたしはいいけど…」

「ああ、これでやっと普通にもどったんだからな…」

「え、なにが普通に戻ったの。徹さん。

「いや、何でもないよ。こっちの話さ。しかし、きょうはいい天気だよな。ホント」

「ホントね。ねえ、徹さん。来週の日曜にでも耕平さんちの小母さんを誘って花見に来ましょうよ。小母さん、ひとり暮らしだから花見なんて行く気にならないだろうし、誘ってあげたら喜ぶと思うのよ。どうかしらね」

「ん、オレは構わないけど、でも来るかなぁ。小母さん…」

「来るわよ。よろこぶと思うわよ。あたしだって、ひとりだったら花見に行こうなんて気にならないもの…、そうだ。これから小母さんちに誘いに行きましょうよ。善は急げっていうから、そうしましょう。ねえ、徹さん」

「うん。だけど、小母さん。来るっていうかな…」

「だいじょうぶよ。きっと来てくれるわよ。行きましょう」

「よし、それじゃ、行ってみるか…」

 その足で山本と奈津実は佐々木家を訪ねた。ひさしぶりに訪れたふたりを耕平の母亜紀子は快く迎え入れてくれた。

「まあ、まあ、徹さん、おふたりお揃いでどうしたの…」

「いや、ちょっと散歩に出たもんで、小母さんどうしてるかなと思って寄ってみたんですけど、元気そうで何よりです」

「あら、まあ、あたしはお蔭さまで元気なのよ。ここでは何だから上がってちょうだい。お茶でも入れるから、さあ上がってちょうだい」

 白髪は少し目立ち始めたものの亜紀子は見るからに血色よく、極めて健康そうな様子をみて山本は安心したが、耕平の失踪した頃は飯も喉を通らないほど落ち込み、悩み苦しんでいた亜紀子のことを思い出していた。

「さあ、何もないけど、これあたしが漬けたの。食べてみてちょうだい」

 亜紀子はそう言って山本と奈津実の前に、飴色に透き通った白菜の漬物を置いた。そこには、ビニール袋に詰められてスーパーなどで市販されている白菜の一夜漬けなど、足元にも及ばない見事な漬物が山のように盛られていた。

「これ、小母さんが漬けたんですか…」

「そうよ。さあ、徹さんも奈津実さんも食べてちょうだい。遠慮しないで…」

「うまそうだなぁ、これ、それじゃ小母さん。遠慮なくいただきます」

 山本は箸を取ると目の前に出されている漬物を口に運んだ。すこし酸味も出始めてお茶請けにはちょうどいい漬かり具合だった。

「うん、うまい。小母さん、うまいです。これ…、奈津実もごちそうになってみろ。ホントうまいから」

 山本に勧められ奈津実も箸をつけた。

「あ、ホント、美味しいです。おばさんはどうしてこんなに上手に漬けられるんですか。こんどあたしにも教えてください」

「あらあら、そんなに褒めてもらうと恥ずかしいわ。云ってもらえれば、いつでも教えて上げるわ。ところで今日はどうしたの。おふたりお揃いで…」

「あ、そのことなんですけど、あんまり天気がよかったんで公園に行ってみたんですよ。そうしたら、もう桜が四分咲きくらいになってたんで、そのうち奈津実も出てきて来週あたりは満開だろうというんで、小母さんを誘って花見でもやろうってことになり、誘いにきたんですけど一緒にやりませんか。お花見」

「まあ、いいわね。お花見」

「どうですか、小母さん。花見」

「うれしいわ。お花見なんて何年ぶりになるかしら」

「わあ、よかった。おばさんによろこんでもらえてあたしも嬉しいわ。ねえ、徹さん」

ふたりが花見に誘ったことを素直に喜んでいる亜紀子を見て、奈実実もうれしそうに眼を輝かせた。

「それじゃ、わたしが腕によりをかけて花見のご馳走を作るわ。楽しみにしていてちょうだい」

 それからしばらく世間話をしたあと、山本と奈津実は佐々木家を辞した

「あんなに小母さんが喜んでくれるとは思わなかったなぁ」

「ホントね。でも、お花見なんて本当にしばらくだったんじゃないかしら、誰も誘わなかったのかしらね……」

「そうだな。みんな忙しさにかまけていて花見どころじゃないんだろうな。オレたちだって花見なんてしばらくやってないんだから、仕方がないだろう」

「そうかぁ。そういえば、あたしも花見なんてあんまりやってないか…。よーし、あたしもおばさんに負けないで美味しいもん作って行こっと…」

「そんなことはどうでもいいから、早く帰るぞ」

 山本は奈津美を促すようにして、ゆっくりと歩きだした。空には中天からやや西に傾きかけた太陽がやさしい光を投げかけていた。

 そして、次の週の日曜日がやって来た。昼近くになって、山本は奈津美と佐々木亜紀子を伴って公園にやって来ていた。

「このならあまり人もいないし、この辺にしましょうか。どうですか。小母さん」

「いいわね。ここにしましょう」

「それじゃ、あたしゴザを引くから待ってて」

 こうして、奈津実がゴザを引き終わって、持ってきた料理を山本が並べたところで花見の宴の準備が出来上がった。

「いやぁ、やっぱり思った通りでした。見事に満開じゃないですか。天気もいいし、最高じゃないですか。さあ、始めましょうか。小母さん、何を飲みますか」

「ホントにきれいに咲いたわね。わたしはそんなに飲めないから、そちらの缶チューハイでも頂こうかしら。でもね、わたし徹さんたちにお花見誘われた時、何だかとても嬉しかったのよ。ふふふ」

「あら、おばさんにそんなに喜んでもらえたら、あたしたちだって嬉しいですよ。ねえ、徹さん」

「そうですよ。それにたまにはこうやって花見でもしてノンビリしないと身が持ちませんし、毎日あくせくしてたんじゃ、何のために生きてるんだか判ったもんじゃありませんからね。まずは乾杯から行きますか。用意はできてるか。奈津実」

「できてるわよ。はい、これおばさんの分。はい、これは徹さん」

「それではひさしぶりの花見にカンパーイ」

「乾杯」

「かんぱい」

 空には雲ひとつなく吹き渡る風もさわやかな、初夏を思わせるような陽射しを投げかけていた。それぞれの持ち寄った料理を囲みながら、あちらこちらの会場で花見の宴もたけなわに差し掛かっていた。

「やあ、みなさん。お花見ですか。これは、これは」

 と、声をかける者がいた。声のした方を見ると、吸いかけのタバコを灰皿でもみ消しながら河野が近づいてきた。

「きょうは天気もいいから、花見には絶好の日和ですね」

「まあ、河野さん、おひさしぶりですね。さあ、こちらに上がってご一緒にどうぞ」

「あ、すみません。何だかお邪魔しに来たみたいで悪いですね。あ、すみません。小母さん。ああ、いいですかね。どっこいしょっと」

「先輩は散歩ですか。いつもの…。先輩とはよくこの辺で逢うけど、あとどの辺が先輩の散歩コースになってるんですか…」

「いや、そんなのは決まってないよ。ただの気の向くまま歩いているだけさ。でもね、ここは家から近いこともあるからよく立ち寄るんだよ。それにしても今日はジッとしていたら汗ばむほどの天気だねぇ」

「ホントねぇ。河野さん、おビールでいいかしら、これどうぞ」

「あ、すみません。小母さん。頂きます」

「あ、河野先輩、ちょっといいですか。こっちに来たもらっても……。

「ん、何だい、山本くん」

 山本は少し離れたところまで河野を連れ出した。

「いいですか。先輩、耕平のことは小母さんの前で口に出さないでくださいよ。オレたちだって、こう見えても結構気を使ってるんですから、絶対ですよ。先輩」

「ああ、そのことか。分かってるよ。そんなことは、例え口が裂けたって云いやしないから、安心したまえ」

「そんならいいんですけど…、そんじゃ、まあ戻ますか。だけど、気をつけて下さいよ。ホントに…」

「わかった、わかった。しかし、きみも大変だねぇ。そんなところまで気を配らなくちゃいけないなんて、ぼくは感心したよ.さあ、行こうか。小母さんたちが心配するといけないから」

 山本と河野が戻ってきて、花見の宴が本格的に盛り上がったことは言うまでもなかった

「いやぁ、今日はここで花見ができるとは思いもしなかったですよ。酒はうまいし、天気もいいし、それに何よりも小母さん造った料理もうまいし、うちの女房にも見習わせたいですよ」

「あら、あたしも造ったんですよ。河野さん」

「あ、いや、これは失礼しました。奈津実さんのもうまいですよ。特にこの沢庵なんて最高じゃないですか。ねえ、小母さん、うまいですよねぇ。これ…」

「あら、それはスーパーで買ってきたんですけど」

「おほほほほ」

 河野と奈津実のやり取りに、思わず亜紀子が笑みを溢した。

「あははははは」

 山本もつられて笑い出していた。

「はははは、すみません。どうも…」

「まあ、仕方ないか。亜紀子おばさん、お漬物も上手ですものね。今度あたしにも教えてくださいよ」

「いいわよ。いつでもいらっしゃい。あたしでよかったら、なんでも教えてあげるわ。それにしても熱いわねぇ。あたしちょっと失礼して、お手洗いに行ってくるわ。どっこいしょ、あら、あれ……、耕平…、じゃないかしら……」

「え、どこですか。小母さん…」

 山本も河野も慌てて立ち上がった。亜紀子の見ている方角を見回したが、それらしい人影はどこを探しても見当たらなかった。

「あたしの見間違いだったかも知れないわね。きっとそうだわね。ほほほほ、いやね。あたしったら、ごめんなさいね。さあ、お手洗いに行ってこなくっちゃ…」

 亜紀子は照れ笑いを浮かべながら、その場からいなくなった。

「オレ、捜してきますから、先輩はここにいてください。小母さんが心配ですから……」

 山本はスニーカーを引っかけると、亜紀子が耕平を見たという方向を目指して走って行った。


      四


 山本は走りながら考えていた。

『耕平がこんなことろにいるはずがない…。何しろアイツは、河野先輩のいうとおり縄文時代にいるんだからな。と、いうことは、亜紀子小母さんが耕助と耕平を見間違えたのか…。しかし、また何で耕助がいま頃ここにいるんだろう…。向こうの世界でなんかまたややこしいことでも起きたかぁ……』

 公園内を隈なく探し回った山本だったが、結局のところ骨折り損に終わってしまったのだが、裏を返せば今まで異常な出来事があまりにも多かったために、山本自身も若干拍子抜けした感が否めなかったのだろう。

「やはり、どこにもいませんでした。たぶん小母さんの気のせいか見間違いだったんじゃないんですか。すみません。お役に立てなくて…」

「徹さん。ごめんなさい。あたしの早とちりですっかり迷惑かけてしまって、ほんとうにごめんなさいね」

 亜紀子は自分の非を認めてすなおに詫びを入れたが、心のどこかで絶対に見間違いや気の迷いなんかではないことは自分でもわかっていた。せっかく花見に誘ってくれた山本や奈津実のためにも、何事もなかったかのように明るく振る舞った。

「あら、あら、作ってきた料理もまだこんなにたくさん残っているわよ。河野さんも徹さんも遠慮しないで、どんどん食べてちょうだいね」

「そうよ。あたしだってこんなに造ってきたんですからね。はい、河野さん。これも食べてくだいね。徹さんも、はい」

 それからしばらくの間、ひさしぶりの花見を満喫した四人だったが、河野が自分の腕時計を覗き込んで、

「あ、もうこんな時間か。ぼくはそろそろ帰ってみます。きょうは突然お邪魔してごちそうになりました。実はきょう大学時代の友人が訪ねてくることになってるんで、これで失礼します。どうもごちそうさまでした」

「まあ、それは大変ね。それじゃ、お引止めしちゃっていけなかったかしら、ごめんなさいね」

「いや、それは構わないんです。いやぁ、きょうは天気よくてホントに良かったですね。それじゃ、山本くんも奈津美さんもごちそうさま。これで失礼します」

 河野はほろ酔い加減になり上機嫌で帰って行った。

「それでは、あたしたちもここいら辺でお開きにして帰りましょうかね」

「そうですね。じゃ、そろそろ片づける準備をして帰りますか。ヨッコラショっと…」

「いやだわ。徹さんたら、ヨッコラショだって、いやぁねえ。年寄りみたい…」

「何を云ってんだい。バカ、立ち上がる時の掛け声じゃないか。何が年寄りだ」

「はい、はい、わかりましたよ。掛け声ね。それじゃ、元気を出して片づけを手伝ってちょうだい。おじいちゃん」

「こら、まだ云ってんのか。奈津実」

「あら、あら、徹さんも奈津実さんも、まだまだ若いのね。羨ましいわ。ほほほほ」

 ふたりの痴話喧嘩を見て亜紀子は楽しそうに笑った。

「ほら、見ろ。小母さんに笑われたじゃないか」

「だって、徹さんったら、いつもつまらないことで怒ってばかりいるんだもの、フンだ」

「だから、それが若い証拠なのよ。あたしくらいの歳になったら、もうお終いよ。とてもそんなことできないわ。それが若いってことなのよ」

「何を云ってるんですか。小母さん。小母さんだってまだ若いですよ。それに綺麗だし…。うちの奈津実と比べたら雲泥の差ですよ」

「わるかったわね。雲泥の差で、どうせそうでしょうよ。フンだ」

「ほら、ほら、おふたりとも、もう、およしなさい。皆さんに見られてるわよ」

 亜紀子に言われて周りを見ると、行き交うひとが山本たちを一瞥していくのに気づいた。

「まあ、いやだわ。徹さんったら、いやぁね」

 奈津実も他人の視線に気がついたのか、真っ赤になり両手で顔を覆ってしまった。

「ほら、見ろ。だから云わんこっちゃない。さあ、帰るぞ。小母さんも帰りましょう」

 こうして三人は、公園を後にして家路についた。

「あーあ、恥ずかしいったらありゃしない。お前のお陰で冷や汗が出ちゃったじゃないか。ほら、見てみろよ」

「そうやって、徹さんはいつもあたしのせいにばっかりするんだから、もう知らない」

「いつオレがお前のせいにした。あまり人聞きの悪いこと云うなよ。知らない人が聞いたら本気にするじゃないか」

「もう、ふたりともいい加減になさい。ひとがジロジロ見てるわ」

 山本が辺りに眼をやると、通りを往来する人たちが遠慮がちに、チラチラと視線を投げかけ行くのが見てとれた。

「あ、ホントだ、ヤバイぞ。これは、こんな所にいつまでもいないで、早く帰りましょう。小母さん。奈津実も急いで帰るぞ」

 急にバツが悪くなったのか、山本は亜紀子たちを急かせるように速足で歩きだした。

「きっと恥ずかしくなったのね。きっと、徹さん」

「そうね。ほほほ…」

 そんな話をしながら、奈津実と亜紀子はゆっくりとした足どりで山本の後をついて行った。ほどなく三人は佐々木家に着いた。

「すこし寄って行きなさい。お茶でも入れるわ」

「それじゃ、ごちそうになりますか」

「すみません。おばさん。あたしも何かお手伝いしましょうか」

「いいわよ。奈津実ちゃんも向こうで休んでてちょうだい。すぐ行くわ」

 茶の間で待っていると間もなく、亜紀子がお茶を乗せたトレイを手にもどってきた。

「お待ちどうさま。さあ、いただきましょう。はい、徹さん。はい、奈津実ちゃん」

「あ、すみません。いただきます」

「きょうはとても楽しかったわ。どうもありがとう」

「いやぁ、小母さんに喜んでもらえてよかったです」

「でも、お騒がせしてごめんなさいね。さっきは…」

「え、何のことですか。小母さん」

「耕平のこと…、きっと、他人の空似だったんだわ。ごめんなさいね。昔から世間には似ている人が三人はいるっていうけど、きっと、あれだったのね。あたしの気の迷いだったんだわ。本当にごめんなさいね」

「ああ、あれですか。オレ、そんなこと全然気にしてませんから」

「でもね。あれは間違いなく耕平じゃなかったわ」

「でも、おばさん、どうしてわかるの。そんなことが…」

 それまで黙ってふたりの話を聞いていた奈津実が急に尋ねてきた。

「そりゃあ、わかるわよ。あたしが自分のお腹を痛めて産んだ子ですもの。それが母親ってものなのよ。奈津実ちゃんも一日も早く赤ちゃんをお作りなさい。そうすればわから」

「ありがとう、おばさん。でも、うちは中々できないし、もういいんです。それにあたしには徹さんがいますし、徹さんとあたしとふたりで年老いるまで健康で元気に生活していけたら、それだけで充分に幸福だと思ってるんです」

「そう、奈津実ちゃん。あなた偉いわ。こんな奥さんを持った徹さんは日本一の幸せ者だわよ。徹さんも奈津実ちゃんをもっと大事にしてあげなくちゃだめよ

「はい、はい。十二分に大事にしていますよ」

「なによ、その云い方は、いやらしいわね。ホントに」

「どこがいやらしいんだよ。それにオレは女の人同士の会話を聞かされるのは苦手なんだよ。何かこう、聾桟敷に置かれているみたいで自分だけ、その話に馴染めないし話の中に入り込めないみたいなことがあるだろう。だから、その分どっと疲れちまうんだから」

「あら、ごめんなさいね。徹さん。つい奈津実ちゃんとお話してて夢中になっちゃって」

「いや、いいですよ。小母さん。女の人が子供を産むってことは一大事業だってことオレも解りますから、それに小母さんの話を聞いていて、オレもだいぶ勉強になるところもありましたから、別に気にしないでいいですよ。小母さん」

「それならいいけど、話を始めるとつい熱中してしまうのが、女の一番わるいところなのね。ほほほ」

「でも、小母さん。本当は小母さんも耕平に逢いたいと思ってるんじゃないですか。だから、他人の空似かなんか知らないけど、見ず知らずの人を耕平と見間違うんじゃないかと思うんですよ。どうですか、小母さん。ホントのことを聞かせてもらえませんか」

 なぜ自分が急にそんなことを言い出したのか、山本自身もその時はわからなかった。

「それは、耕平は自分の息子ですもの、あたしだって逢いたいと思わない訳がないじゃないの。だけど、あの子がどこにいるのかその居場所さえ判らないんですもの、いくら逢いたくったってどうすることもできないじゃないの。こんな酷い話しってあるものですか…」

 そういうと亜紀子は両手で顔を覆って、その場に泣き伏せてしまった。

「おばさん。だいじょうぶですか……」

 奈津実は傍によると、やさしく亜紀子の両肩を支え上げていた。

 山本もまた、この時初めて亜紀子の本心を垣間見たような気がして、熱いものが込み上げてくるのを押さえられなかった。こうして、山本は自分でも気づかないうちに、あるひとつの決心を固めていた。

「大丈夫ですか…。小母さん」

 山本が立ち上がって亜紀子の傍まで寄っていくと、亜紀子は力なくニッコリと微笑みをたたえながら、

「ごめんなさい。あたしすっかり取り乱してしまったみたいで、本当にごめんなさい。でも、徹さん。あなただって耕平の居場所なんて知らないんでしょう」

「はあ、それは……、知ってますよ。小母さん」

「ええ……」

 思わず亜紀子は絶句してしまっていた。

「徹さん。あなたホントに耕平さんの居場所を知ってるの…。だったら、どうしていままで誰にも教えてくれなかったのよ」

「ごめんなさい。小母さん。別にオレは小母さんや奈津実のことを騙すつもりはなかったで。何度も人に知らせようとしたか知れません。他人に話したり誰かに教えたりするのには独断では決めかねないところもあったし、だから、いままで誰にも告げないで自分の中で仕舞って置いたのに過ぎません」

「徹さん、それは耕平のことなのね。それならもういいわ。あの子は耕平はどこにいるの。教えてちょうだい。あたしに教えてちょうだい」

 亜紀子は全身の力を振り絞るようにして山本に訊いてきた

「わかりました。教えましょう。ただし、一週間だけオレに時間をください。そうしたら何も彼もすべて話します。それまで待ってください。お願いします。小母さん」

「………徹さんが、それほど考えているのなら、よほどの深い理由 があるのね。わかったわ。あたしが待っていた七年にくらべたら、一週間なんてあっという間ですものね」

 山本と奈津実は、それから間もなく佐々木家を辞して家路についた。帰りの道々ふたりともひと言も語らず黙々と歩いて行った。

 山本は自分の中で、これまで何年にもわたって蟠りのようなものが、きれいさっぱり薄らいでいるのに気がついた。空を見上ると清々しく晴れわたり、太陽は西に傾いてすっかり夕暮れ時に変わりつつあった。


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