第六章 超空間の狭間で……
一
耕助がホテルにやって来たのは、もう間もなく昼になろうという頃だった。
山本も奈津実にうまく説明できたかどうか、一抹の不安を抱いていたが思い切って耕助に聞いた。
「どうだった…。奈津実をうまく納得させることが出来たか……。耕助」
「ああ、何んとかな…。だけど、えらく苦労したんだぞ。パラレルワールドなんか全然知らない人に解ってもらうのって、こんなにエネルギーを消耗するとは思ってもみなかったから、ホントに大変だったんだぞ」
「で、何とか納得したんだろう。それでどうするって云った……」
「逢ってみるから家に連れて来てくれってさ。これからすぐ行こう。山本」
「よし、行こう」
山本はふたつ返事で立ち上がると、そのままホテルを後して異次元の山本徹宅を目指した。家に着くと、いくら自分の家と云っても、どことなく落ち着かない様子で中に入った。
「奈津美さん。連れてきましたよ。山本を」
ふたりで居間に入ると、奈津美もまた落ち着かない素振りで座っていた。そして、山本の顔を見るなり、
「ほんとうに、あなたまったく違う徹さんなの……。嘘でしょう……」
と、言ったきり、そのまま後に続く言葉が見つからない様子だった。
「奈津美さんが驚くのも無理はありませんが、この山本も正真正銘の山本徹に間違いないんです。さっきも話したように性格から記憶まで、まったく変わったところもない純真無垢の山本徹なんです。おい、山本も何とか云ってやれよ。奈津美さんに…」
「ああ、ええと…、まいったな…。オレこういうの弱いんだよなぁ…。奈津実、とにかくオレは山本徹には違いないだけど、お前の夫の山本徹ではないことも確かなんだけど……、ああ、ややっこしい、もう嫌だ。こんなの……」
「そう云われて見ると、やっぱりあなたは徹さんよねぇ……」
そう言って奈津美は山本の顔をまじまじと見つめた。
「おい、山本。ここで、そんなことをごちゃごちゃ云ってたって、何も解決しないぞ。こっちの山本がいなくなった時の状況を、もっと詳しく聞いてみろよ」
「そうだった。それじゃ、聞くけどもこっちの山本がいつどんな風にして、いなくなったのかできるだけ細かく話してくれないか。奈津実」
「そうねえ、細かくって云われても別段変わったこともなかったし、あたしの知らないうちにいつの間にかいなくなっいたんです。いままで一度だってあたしに断りもなしに出かけたこともなかったんですが、あの日に限って気がついたらいなくなってたんです」
「どう云うことなんだろう。まさか超空間にでも迷い込んでしまったんじゃないだろうし、お前はどう思う。耕助」
「いや、それはないと思うよ。あそこは並の人間には、そう簡単には入り込めないところだし、こっちの山本がマシンを持ってるわけでもないしなぁ……」
耕助も山本も、複雑に入り組んだ迷路のパズルを解き明かそうとでもするように、眉間に皺を寄せながら考え込んでしまった。
「ねえ。お願い、あたしの徹さんをあなたたちの手で捜して出してちょうだい。お願い」
「いや、オレも耕助からその話を聞いた時、まんざら他人事とも思えなくて取りあえず、こっちの世界に来てしまったんだが、どうなるかは分からないとしても、全力を尽くして捜してみるから安心しろよ」
山本の話を聞いた奈津美は、いくぶん安心したのか寂しそうにニッコリと微笑んだ。
「よし、そうと決まれば、いまのうちにパティを呼んでおこう」
耕助は腕をめくって、タイムマシンのコントロールボタンのひとつを押した。
「え、まだ誰かいるの。耕助さん…」
「ええ、パティといって、人間の女性型のアンドロイドです」
「まあ、アンドロイドって、確か人間そっくりに造られたロボットのことだわよね。徹さん」
「へえ、奈津実もさすがにアンドロイドは知ってたか…」
「バカにしないで、あたしだってアンドロイドくらい知ってるわ」
SF音痴の奈津美でも、アンドロイドのことは知っているらしかった。
「ねえ。でも、そのアンドロイドって、あたしたちの言葉が解かるの……」
「何云ってるんだよ。言葉はおろか思考力や立ち居振る舞いまで、生身の人間とまったく見分けがつかないくらいなんだぞ。そりゃ、もうよく出来てるんだから驚くなよ」
そんな話をしているうちに、玄関の戸が開いてパティの声が聞こえてきた。
「耕助さん。スーパーアンドロイド・MRTⅦ『パトリシア』ただいま到着いたしました」
「ほら、来たぞ。見て驚くなよ。奈津実」
「こっちに入っといで、パティ」
耕助が声をかけると、パティはそのまま山本家の居間へとまっすぐ入ってきた。それを見た奈津美が急に黄色い声を上げた。
「うそ……、これがアンドロイドなのなの……。うそよね。徹さん。どう見ても普通の人じゃない。あなたたちふたりで、あたしのことを騙そうとしているんでしょう。きっとそうだわ。正直におっしゃいよ。それに胸だって、あたしより遥かに大きいわ。こんなアンドロイドなんて聞いたことないわよ」
奈津実はしどろもどろになりながら、自分が抱いている疑問を山本と耕平にぶつけてきた。
「うそじゃないよ。奈津実さん。ここにいるパティは吉備野博士という、偉大な科学者が造り上げた正真正銘のスーパー・アンドロイドなんです」
耕助が説明しても奈津実はまだ信じられないという表情で、ふたりの顔とパティの顔を交互に見つめていた。
「そりゃあ、まあ、そうだろうな…。まして、もともと奈津美はSFなんかには疎かったから無理もないか。しかしだな、『事実は小説も奇なり』っていう、ことわざもあるくらいなんだから、自分では理解できないことであっても、事実は事実として認めなくちゃいけない時だってあるんだよ」
自分の許容範囲外の出来事ことで、すっかり肝を冷やしている奈津実を見て、山本はいまさらながら奈津実のことを愛おしいと思った。もとの世界に戻ったらもっと奈津実のことを大事にしてやろうと思った。
「さてと、そろそろ山本B捜しに出かけるか。きょうはどっち方面に行く気だ。耕助」
「いや、別にオレも当てなんかないよ。ホントに山本のヤツ、どこに行っちまったんだろうな…」
「それじゃ、奈津実。オレたちは行くからな。お前も気をつけろよ。お前までいなくなられた日にゃあ、目も当てられたもんじゃないからなぁ。行こう。耕助」
「ああ…」
奈津実は三人を玄関まで見送りに出た。
「ありがとう、徹さん……」
「心配しないで持ってろ。オレたちが捜し出して連れてくるから、それまで辛抱するんだな。よし、行こう」
「奈津美さん。さようなら」
山本と耕助は奈津美に別れを告げて街に出た。山本は、いま奈津実から言われた『ありがとう。徹さん』という言葉をかみしめていた。
「しかし、なんだなぁ、奈津実のヤツ、ホントに山本Bのこと心配してたよなぁ。オレも妙な気がして、そこいら中を擽られてるような変な気分だった」
「へえ、そうかな…。オレは経験ないから解からないけど、夫婦ってみんなそんなもんなんだろう。誰かが云ってたんだけど、夫婦なんてそれぞれの存在は空気みたいなものなんだってさ。側にいても気にならないけど、いなくなったら困るんだって云うんだけど、でも、それはそれで分かるような気もするんだ。オレ」
「それにしても、アイツどこへ行っちまったんだろう。何かひとつでもいいから手掛かりがあれば楽なんだけどな。このままじゃ、むやみにそこいら中を駆けずり回ってるだけだ。何とかしなくちゃ、奈津実にも鼻向けもできないなぁ……」
「それじゃさ、もう一度あの超空間を調べてみないか」
「なに、超空間あんなところ捜したっている訳ないだろう…。それに吉備野博士だって、あんなに危険だから近づくなって云ってたじゃないか。大体あそこはタイムマシンでも使わない限り、普通の人間が立ち入ることなんてできないんだろう。行ったって無駄だと思うなぁ、オレは…」
「そんなのは行ってみなきゃ判らないだろうが、とにかく行ってみて、山本がいなかったらその時はまた考えればいいさ。公園についたら即行動開始だ。行こう」
耕助に押し切られる形で公園に来てしまったが、山本も内心では『もしかしたら』という期待があったのかも知れなかった。
「よし、ここならいいぞ。もう一刻の猶予もできない。このままじゃ、奈津実さんがあまりにも可哀そうだ。行くぞ。とごでもいいからオレに摑まっててくれ。あそこは眼の前にいても見えないことがあるから、しっかり摑まっていてくれ。いいか」
「ん、わかった…」
耕助がマシンを操作すると、一瞬にしてふたりは不思議な空間に立っていた。空間そのもに奥行きがあるのかないのかさえ定かではなく、ただどんよりとして淀んだような空間だった。
「ふう、またこれだ。こんなにも来る度に違うってのもおかしいな。今回のは何だか死んだような空間と来やがったか、この空間は何なんだよ。一体……」
「まあ、そう云うなよ。それよりも早く山本を捜しだそう」
「しかし、ホントにいるのかぁ…、ここに……」
「さあ…、いるかも知れないし、いないかも知れない。とにかく、捜そう…」
「そうだ。耕助、パティに山本Bを感知させることはできないのか」
「さあ、どうだろう…、パティ、そんなことって、できるのかい…」
「はい、わたしには生体を感知する機能は備わっておりませんので、残念ですが、それはできません」
「やっぱり無理か…。じゃあ、どうする。耕助」
「それにしても、ここはあまり長居はしないほうがいいと思うんで、とにかく、できるだけ身近に捜してみて、それでも見つからなかったら吉備野博士に相談してはどうかな…」
「うん、わかった。それで探すったって、どうすればいいんだろう…」
「仕方がないから、山本のことを念じてみよう。もしかしたら、姿を現わすかもしれないしな……」
「よし、やって見よう」
ふたりはその場に立って、山本Bのことを念じ始めた。すると、ふたりの前方数メートルのところに山本Bが姿を現わした。しかし、その姿は完全に実体化しているわけでもないらしく、空間の狭間で見えたり隠れたりしていた。
「こりゃあ、ちょっとヤバいかも知れないぞ。どうすりゃいいんだよ。耕助…」
「これは、もしかすると吉備野博士が云っていたように、この空間そのものが崩壊しかけているのかも知れない。このままにして置いたら、ホントに山本Bが危ないかも知れないぞ。どうしたらいいんだろう。こんな時……」
「危ないって……、冗談じゃないぞ。耕助、山本Bは云わばオレの分身みたいなもんなんだ。それが超空間の崩壊だか何だか知らないが、黙って見殺しになんかできるわけないだろうが、オレが何とかしてやらなかったら誰が助けるんだよ。いま助けに行くから待ってろよ……」
「ち、ちょっと待てよ、山本。お前にまで万一のことがあったら、オレは奈津実さんなんといって詫びたらいいんだよ。もっと落ちつけよ。頼むから…」
「そ、そうかぁ…。だったら、どうすればいいんだよ。オレは……」
「とにかく、一旦ここを引き払ってもどったほうがいいと思うんだ。それから吉備野博士に相談したほうが無難だよ。幸いここも早急には崩壊が起こるとも限ったわけじゃないし、吉備野博士に相談してからでも遅くはないと思うし、そのほうがオレたちが生半可に動くよりはずっと安全だと思うんだ。な、そうしろ。山本」
「うう……、わかったよ。お前がそれほど云うのなら、そうしよう……」
どうやら、山本も耕助に言われて冷静さを取り戻したようだった。
「よし、パティ行ってくれ」
「はい、かしこまりました。耕助さん」
こうして、三人は超空間の中で見え隠れしている山本Bを残したまま、元いた世界へと帰って行った。
二
「うーむ…。それはかなり猶予のない問題のようですな。これはおそらく何らか影響によって、急速に超空間が崩壊しかけているものと思われます。早急に山本さんを救出しないと、取り返しの付かないことにもなりかねません。よろしい、これから私の助手たちを呼びましょう。パティ、きみはすぐ戻って助手たちを呼んできてくれたまえ」
「はい、かしこまりました。博士」
パティは言うよりも早く、三人の前から姿を消していた。
「博士。山本Bを何とか助けてください。アイツはぼくの分身みたいなものなんです。耕助とふたりでどうにか助けようしたんですが、空間そのものも安定性を欠いているようで、ぼくたちの力では手の施しようがなくて戻ってきたんです」
「前に行った時もに安定性がやや崩れかけておりましたが、先ほどからお話を伺っておりますと、一刻の猶予も残されていないのかも知れませんな…。非常な残念ですな。せっかく佐々木さんが発見された空間なのに、もはや余命幾許もなく崩壊寸前の道を辿っていようとは、も本当に残念でなりません」
「吉備野博士。ぼくからもお願いします。何とかして山本のことを助けやってください。アイツにもしものことがあったら、奈津美さんがあまりにも可哀そうです。それに、この山本だって、自分の分身が目の前で消え去るのを見るのも残酷過ぎます。何とか助けてやってください。お願いします。博士」
「いましばらくお待ち願えますかな。助手たちがやって来ましたら、一斉に探索に取りかかりましょう。もう間もなくやってくる頃ですかな」
吉備野の言葉が、終わるか終わらないくらいのタイミングで、パティを先頭に五・六人の男たちが現れた。
「お待たせいたしました。先生、話はパトリシアから聞きました。これからすぐ出向きますか。どのようなことでも指示してください」
助手のひとりが前に出て吉備野の指示を仰いだ。
「諸君、超空間はもはや崩壊寸前の危機にに晒されているようです、これから私たちは山本徹さんを救出しに行かねばなりません。中は非常に不安定な状況が続いていると思われます。諸君も身の安全を確保しながら、充分に気をつけて事に当たってください。以上」
助手たちは吉備野の訓示が終わると、何やら機材を出して調整に入った。ものの五分も経つか経たないうちに助手たちがやって来て
「先生、準備ができましたが、いかがいたいしましょう」
「よろしい、それでは参りましょう。山本さん、佐々木さん。準備はよろしいですかな」
「はい、OKです」
「こっちも大丈夫です」
ふたりが答えると、吉備野のはさらに細かい指示を与えた。助手たちは指示に従いテキパキと動いて、最後に計器類のスイッチを入れた。フィーンという低い唸り声のような音が響き渡った。すると、耕助たちの眼の前の空間が一瞬ゆがんだように収縮したかに見えた。次の瞬間、空間の一部にポッカリと黒ずんだ穴が開いた。
「さあ、参りりましょう。まず、私はから入ってみましょう。皆さんも私に続いて来てください」
『今回はどんな空間が広がっているんだい…。山本Bのヤツ、無事でいてくれよ……』
山本は、そんなことを考えながら吉備野の後に続き、耕助や助手たちも中に入った。中はどんよりとくぐもっていて、前回きた時よりさらに生気が感じ取れなくなっていた。
「なんだぁ。今回は……、前回よりももっと死んでるよう感じぞ。どうなってるんだぁ…」
山本がひとり言のようにつぶやいた。
「うーん、これは予想以上に崩壊速度が進んでいると見ていいでしょう。皆さん、一刻も早く一刻も早く山本徹さんを救出しなければ危険かと思われます。とにかく急ぐのに越したことはありません」
「博士、崩壊速度が進んでいるって云われましたけど、あとどれくらい持つんですか。一体…」
耕助が聞いた。
「さあ、どれくらい持ちますのやら……、それが私にも予想不可能なのです。何しろこの空間は、私どもの見識では計り知れないほどの未曾有な空間で、その崩壊速度がいかほどのものか割り出そうとしても、計算がおぼつかない状態なのです」
「そうですか…。それじゃ、博士。ぼくも向こうのほうを捜してみますから。博士はここにいてください」
この空間が、どれくらいの広がりを持っているのか、耕助には皆目見当もつかなかったが、その上空間の奥行きや上下左右の繋がり関係さえはっきりしないのだった。まさしく吉備野博士の言うとおり、ここは未曾有の空間なのかも知れないと耕助は思った。
『山本のヤツ、どこにいるんだろう。しかし、山本Aも云ってたけどタイムマシンでも使わない限り、普通の人間にはそう簡単に入り込むなんてできないよなぁ…。一体どうやって、こんなとこに入っちまったんだろう。アイツ……』
それから四・五十分ほどかけて探し回った娘だったが、山本の幻影はおろか影も形も見出すことはできなかった。
『そうだ…。この空間いる時は、自分の考えているることが、テレパシーみたいに相手に伝わるんだったな…。よし、やって見るか。ダメ元だしな……』
その場に座り込むと耕助は精神統一を始めた。
『まず、心を無の状態にしなくっちゃいけないんだろう…。こういうことは……』
耕助は瞑想に入った。最初はうまく行かなかったが、徐々に心の中が澄んでいくような気がしてきた。
『お、なかなか気持ちがいいもんなんだなぁ……。心の中から余計なものを取去るって、こういうことだったのか。うーん……』
それから、さらに一時間ほどが経過した。
『よし、もういいだろう。これくらいで……』
耕助は立ち上がると、心持ちか空間の奥行きが瞑想を始める前より、幾分広がったようにも感じられた。
『いや、気のせいだよな。きっと……。さて、呼びかけてみるか。いや、待てよ。呼びかけるよりも、オレの眼の前に姿を現わすように念じてみよう。それがいい……』
胸の前で両手を合わせて、耕助は心の中で強く念じ続けた。
『山本よ。お前がどこにいるのか、オレにはわからないし見えないんだ。もしも、お前がこの空間にいるんだったら、いますぐオレの前に姿を現わしてくれ。頼む、出てきてくれー。山本ぉ…』
念じ終えた耕助は、組んでいた手を外しなずら、
『やっぱり、ダメだったか……』
と、つぶやいて、ガックリと肩を落とした。
諦めかけた耕助が吉備野の待っている場所に戻ろうとして時だった。
『…耕……助……か………』
耕助の頭の中で、途切れ跡切れになった山本の声がした。
『や、山本。お前いま何処にいるんだ。お前がいなくなったって奈津美さんから聞いて、ずっと探したんだぞ。山本Aや吉備野博士たちも来てるんだ。どこにいるんだよ。オレには姿が見えないんだけど、この近くにいるんだよな。どこなんだ。そこは……』
『わから……ない…んだ…よ……そ…れが…いく…ら…出…口を…探し…ても…み…つか…ら…な…いん……だ………なんと…かし…てくれ……耕…助……』
『よし、わかった。どうなるか解からないけど、考えがあるんだ。いいか、オレのいう通りにやってみろ。山本』
『わ…かっ…た……よ………ど…うす……れば……い…いん……だ』
『よし、あとで説明するから、まず、オレのところに絶対に行くんだと心に念じてみてくれ。それがダメだったら、また考えればいいから、それだけやってくれ』
『わ…かっ…た……こう……か…』
ふたりの間にしばらく沈黙が流れた。山本も必死に念じているのだろう。あわせて耕助も、山本が無事に戻れるように念じ続けた。
すると、耕平の立っている眼の前の空間の一部が、ゆらぐような明滅をみせて溶けだした。
その明滅が空間全体に広がり、やがて明滅もピークに達したのち静かに収まった。
「ふう、どうなってんだ。一体」
何が起きたのか分からないというよう顔で、山本Bが耕助の前に立っていた。
「お前、大丈夫なのか。ホントに、行方不明になってからもう一週間以上も経ってるんだぞ。ホントになんともないのか…」
「そんなに経ってるのか…、オレはただトイレに行って出てこようと思ったら、ここにいただけだ。そんなに経ってるなんて夢にも思わなかった……」
「お前がいなくなったって、お前がいなくなったって、奈津美さんが心配してオレのところに相談しにきたのが三日ほど前だから、もうかれこれ一週間以上は経ってるんだから、ホントに大丈夫なのよ」
一週間も飲まず食わずのわりには、意外と元気そうな山本をみて耕助は聞いた
「ところで、お前腹減ってないのか何も食ってないんだろう…。一週間も…」
「だから、そんなに経ってないって、せいぜい一時間か二時間くらいのもんだろう」
「そんなはずはない。現にオレが奈津美さんから…」
「何かありましたかな。佐々木さん…」
異変に気がついたのか。吉備野たちも集まってきた。
「お、山本Bをも見つかったのか。どこにいたんだ」
山本が息を切らせながら言った。
「とにかく、無事でなによりでしたな。山本さん」
「それがおかしいんです。博士」
「何がですかな。佐々木さん」
「少なくても、ぼくらには山本が失踪してから一週間以上経っているのに、山本は二時間くらいしか経過していないって云うんですけど、どういうことなんですか。これは……」
「ほほう…、時間の間隔に隔たりがあるとおっしゃられますか。なるほど、なるほど…」
吉備野は、妙に関心をしたような仕草で言った。
「つまり、この空間は時間軸の流れそのものが、私どもの存在している三次元空間とは、まったく異なった構造で成り立っているものと考えられます。従って、それは浦島効果とでも申しましょうか。あの浦島太郎が『龍宮』という場所で、三年間を過ごして地上に帰ってきたら、すでに七百年も経過していた。というあれです。確証はありませんが『龍宮』というのは、この超空間そのものだったのではないかいう、仮説が成り立つと思われるのです」
「なるほど、浦島太郎の話は、ほかの『桃太郎』や『かぐや姫』のおとぎ話と違って、なにとか風土記に載っている実際にあった話らしいですからね」
と、山本は相槌を打った。
「さて、山本さんも無事に救出されたことですし、私どももここから引き揚げることにいたしますかな」
こうして、ようやく吉備野たちは元の場所に戻ってきた。
「でも博士、もしも、このままあの超空間が消滅してしまったら、ぼくらはもう二度とこっちの世界にはこれなくなってしまうんでしょうか」
耕助が心配そうな顔で吉備野に尋ねた
「いや、そのような心配はないと思われます。なぜなら、超空間もパラレルワールドと同じように、無制限に存在していると考えらますし、仮にひとつの超空間が消滅したとしても、ほかの別な超空間を通過することも可能かと考えられます。よって、その心配は無用かと存じますぞ」
「ですが、博士。この山本は便所からでたら、超空間に繋がっていたと云ってましたが、これはもしかしたら、超空間がいたるところに通じ始めているということで、危険この上もない状態じゃないんですか」
「そうですよ。そんなことにでもなったら、オレたちはおちおち糞もしていられなくなりますよ。博士」
耕助の言葉に、得たりとばかりに山本Bも載ってきた。
「佐々木さんは、そのように感じられますか……。ふーむ…、実は私も懸念はしておったのですが、この『超空間』というのはどの宇宙にも属さない、まったく違う組成から進化したもので、私どももその過程を解明しようとしておるのですが、手元には参考となる資料が何もない状態ですので、私どもも手を拱いているところなのです。さて、私どももひとまず引き揚げることにいたしましょう。
それから、パティは引き続いて佐々木さんたちをお守りするように、くれぐれも頼みましたぞ」
「はい、かしこまりました。博士」
「それでは、皆さん。ご機嫌よろしゅうに」
こうして吉備野たちは戻り、耕助も山本Bととパティを連れて次元の違う世界へ帰って行った。残された山本も、書きかけていた小説の仕上げをするべく家路に着いた。
三
それからしばらくは、山本も会社と自宅を往復するだけの、単調な繰り返しの日々を送っていた。そんな中で、毎日コツコツと書いている小説も順調に進み、あとは最終章と若干の手直しをする段階にまで差し掛かっていた。
『よし、あともう少しだ。きょうは天気もいいことだし、しばらくぶりで公園でもブラブラしてくるか……』
外に出ると、この季節にしてはカラッと晴れ渡って陽射しも強く、雲ひとつない絶好の行楽日和だった。公園にくると、案の定いたるところでいも煮を囲みながら、酒を酌み交しあっているのが見えた。そんな中を山本は当てもなく歩いていると、誰かが自分を呼んでいる声に気がついた。
振り返って声のするほうに目を向けると、先輩の河野が四・五人の男たちと鍋を囲んで、いも煮会をやっているのが見えた。河野は隣にいる男と、二言三言話してから山本のほうにやって来た。
「やあ、山本くん。ひさしぶりだね。何だい、散歩にでも来たのかい」
「どうも、ご無沙汰しています。あんまり天気がいいんで、家にばかり燻ぶっていると体に悪いと思って、ちょっと出てきたんですけど、きようはずいぶん込み合ってますね。ここも」
「ああ、この天気だし行楽日和だからね。どこでもこんなんじゃないの。ところで、きみとは『超空間』以来だったけど、あのあと何だかんだと雑用が多くて、そのままになってたけど、その後きみのほうは何か変わったことでもなかったかい」
「飛んでもないですよ、先輩。大ありだったんですよ、オレなんかずっとパニクり通しだったんですから、ホント」
「ほう、あれから何かあったのかい…」
河野はタバコに火をつけながら聞いた。
「それが大ありだったんですよ。あの後しばらくは何事もなかったんですけど、ある日突然耕助がオレのころを訪ねてきたんです」
「へえ、耕助くんが…、ところで山本くんはこれから何か予定でもあるのかい」
「いや、別にないですけど、何か」
「それなら、ちょうどよかった。ぼくもいまあんなことやってるし、あれが終わり次第きみのところに寄るから、その時にゆっくり聞かせくれないかい」
と、河野はいも煮会をやっている方向を指して言った。
「それは構いませんけど、でも、いいんですか。わざわざ来てもらっても…」
「なーに、構わんさ。どうせ、家に帰ったところでガキどもがうるさいだけだからね」
「それならいいですけど、じゃあ、待ってますから…」
「そうかい、じゃ、後ほど寄らせてもらうよ」
もどって行く河野を見送りながら、山本もタバコを出して火をつけると、それを片手にゆっくりと歩きだした。太陽はやや西に傾いて、ぽつぽつと帰る準備をしている人たちも出始めていた。
それから、山本は本屋で二・三冊の本を買い込んで帰宅した。
家に帰るとすぐに書斎に入り、またパソコン机と向き合っていた。
『しかし、河野先輩も好奇心が旺盛だよなぁ…、普通の人なら簡単には信じられないことでも、あの人はあっさり受け入れてしまうんだから、すごい人だよなぁ。ホントに…』
そんなことを考えながらも、山本は先ほどから中断していた小説の完成を急いでいた。小説も終盤に近付き、いよいよ大詰めの場面に差し掛かっていた。しかし、山本は迷っていた。このまま、すんなり終りにしてしまって、いいものだうかという迷いだった。
『まいったなぁ…。せっかく、ここまではスムーズに来れたのに、もうあと少しなんだぞ。うーん…、どうしよう……。人に見せるわけじゃないけど、自分で納得いかないものを残すとなると、なんとなく心苦しいんだよなぁ……』
悶々と考え悩んでいる時だった、妻の奈津実が入ってきて、
「徹さん。河野さんが見えられたわよ」
と、告げた。
「お、来たか。すぐ通してくれ」
「もう、上がってきたよ。山本くん」
河野は部屋に入って腰を下ろしながら、
「これはさっき飲んで余ったヤツを貰って来たんだが、よかったらきみが後で飲んでくれ」
山本に缶ビールの入った紙袋を渡した。
「あ、どうもすみません。頂きます」
「ところで、さっきの話が気になってね。耕助くんが来たって云ってたろう。どうしたんだい。何かあったのかい。向こうで…」
「はあ、それが向こうの山本Bがいきなり行方不明になったって云うんですよ………」
山本は佐々木耕助がやって来た経緯や、パラレルワールドの日本に行って山本Bを捜したが見つからなかったこと、もしかしたら超空間に迷い込んだのではないかと思ったこと、実際に行ってみて山本Bの幻影を見かけたこと、どうしても見つけることが出来ず吉備野博士相談したこと、超空間自体が消滅しかけていること、耕助の努力により何とか山本Bを救出したこと、などを出きるだけ細かく河野に語り終えた。
「うーん、なかなかすごい話じゃないか。あの超空間が消滅しかけているってのが……」
自分でも信じられない世界が消滅しかけていると聞いて、河野は驚きの色を隠せない表情で言った。
「でも、それってもしかすると、もう過去や未来に行けなくなるってことなのかい…。いや、そんなこともないのかな……、あれはわれわれの宇宙とは、まったく違う進化を遂げた空間だと、吉備野博士も断言したんだろう。それにパラレルワールドのような、無数の構造を持っているとも云ってたんだよね。だとすると、その心配もないってことか……、うーむ…」
そこでまた、河野ははたと考え込んでしまった。この河野という男は、物事を理論的に解釈しないと気が済まない性質らしかった。
「それで、救出した後のふたりはどうしたんだい」
「ああ、それでしたら、無事に向こうに帰って行きました。その後何の連絡もないから、きっと平和に暮らしてるんじゃないですか」
「三人…、ああ、パトリシアか。それにしても、あのアンドロイドはすごかったねぇ。ぼくも触れてみたわけじゃないけど、見るからに肉感的に出来ていたし、ああいうものを創ってしまうんだから、吉備野博士という人も大した科学者なんだねえ。ぼくなんかつくづく感心してしまうよ」
それからしばらく山本と超空間や、パラレルワールドのことなどについて、彼一流の仮説を持ち出して話に花を咲かせ河野は帰って行った。
河野が帰ると山本はすぐに机に向かったが、一度中断したものはなかなか元のペースには戻らなかった。それでも二・三枚は書き進んだものの、いつもの調子にはなれなかった。
『仕方がない。また後にするか…』
書くことをやめてタバコを吸っていると、パラレル世界に帰った山本Bのことが浮かんできた。
『アイツらどうしてるかなぁ……、アイツもえらい目に遭ったよなぁ。しかし、あっちの奈津実もすごいよなぁ、あんなにアイツのこと心配してたし、ホント羨ましかったよな。ん…、うちの奈津実もオレがいなくなったら、あんなに心配してくれるのかなぁ…。いや、わかんねえぞ。うちのはわりとドライだし、ちょっと強情ぱりなところもあるから、本気で心配してれるかどうかなんて……』
山本は身震いをひとつするとそんな考えを打ち消した。
『しかし、向こうの奈津実も少し時間がかかったにしても、よくパラレルワールドのことを理解してくれたもんだよ。そこにいくと、うちの奈津実は絶対にわかんねえだろうなぁ。アイツはもともとSFになんか興味も持ってねえし、大体オレがふたりいるなんて聞いたら、腹を抱えて笑い転げるに決まってるんだ。へぇーんだ。クソー…』
山本はくさくさしてきたので、部屋を出て外に行こうとした。
「あら、徹さん。どこへ行くの…」
「ちょっと出てくる」
「だって、あなたさっき帰ってきたばかりじゃない。また行くの…」
「さっきはさっき、いまはいまなの…。いいから、ほっといてくれよ」
「なにも、そんなに怒ることないじゃないの。徹さん」
「別に怒ってなんかいねえよ。ただくさくさしてただけさ」
「何にくさくさなんかしてんのよ。いいわ、買い物もあるからあたしも一緒に出るわ」
奈津実は台所から買い物かごを持ち出すと、山本とふたり並んで出かけて行った。
その晩は原稿も書かずに、居間でテレビを見ながら過ごしていた山本だった。そこへ後片づけを済ませて奈津実も戻ってきた。
「なあ、奈津実。お前パラレルワールドって、知っているか…」
と、ストレートに聞いてみた。
「なによ。藪から棒に、あたしだってパラレルワールドくらい知ってますわよーだ」
「何だ。知ってたか。じゃ、もうひとつ聞くけど、もし仮にオレがふたりいたとしたら、お前はどうする…」
「なによ。気味が悪いわねぇ…、そうね。どうしようかしら、ひとりでもウザいのにふたりもいたら、あたし逃げ出すかも知れないわよ。きっと…」
「云ったな。コイツ、誰がウザいんだよ。誰が…」
「あ、そうだ。徹さん。さっきくさくさしてるって云ったわよね。何をくさくさしてたのよ…」
とっさに奈津実は、思い出したような言い方で山本の矛先をかわした。
「いや、何でもない。ただ、もう少しで上がりそうなんだけど、最後のとこでモタついていたんで、ちょっとイライラしてただけだ」
「そう、そんならいいけど、あんまり根を詰めないでやってくださいよ。徹さん」
「ああ、わかってるよ。きょう早めたよ。また明日からでもボチボチ書いてくさ」
「そうぉ。じゃ、頑張って書いてね。さて、あたしはお風呂に入ってこようかな。お先いいかしら、徹さん」
「いいよ。オレ跳ねる前に入るから」
奈津実が風呂に行くと、山本は書斎に戻ってパソコンの電源を入れた。別に原稿を打つつもりはなかったが、さっき行き詰った箇所の再構成をしてみよう思ったからだった。
「あれ、やっぱりこれでいいんじゃないか。何でさっはダメだと思ったんだろう。おかしいなぁ…。きっと河野流仮説の毒気に充てられたかな……。よし、よしと、うん、これでいいな。お、乗ってきたぞ。少し書き出してみるか。まだ寝るには早いし、ちょうどいいや。ふん、ふんと…」
それから、あっという間に二時間が経過して行った。仕上がるまでには間があったが、それでも後はエピローグを書けば、まとめることが出来るまで進んでいた。時計を見る午前一時を回っていた。そろそろ寝ようと思い書斎を出た。寝室に入ると奈津実はすでに静かに寝息を立てて眠っていた。山本は足音を忍ばせながらゆっくりと布団に潜り込んだ。
四
そんなこんなで数日間すぎて、山本もごく普通の日々を送っていた。そんなある日仕事を終えて帰宅の途中、公園の側を通りかかった時だった。
「あのぅ…、山本徹さんでしょうか…」
どこからともなく山本を呼び止める声がした。振り返ると、髪を肩のあたりまで垂らした若い女が立っていた。
「そうですが、あなたはどちらさんですか…」
山本が尋ねると、女はつかつかと近づいて来た。
「わたしは吉備野博士から使わされた者ですが…」
「吉備野博士から…。どんなご用件ですか……」
怪訝に思った山本が訊ねると、女は少し間をおいてから、
「はい、博士が申しますには、超空間が崩壊するのは必至とのことで、完全に消滅するかあるいはこのまま収まるまで間、しばらく時間を飛ぶのは止めたほうがよろしいのではとのことでした」
「それでわざわざ来てくれたのかい、きみは…」
「はい。それで、どうしても飛ばざるを得ない時には、わたくしがお供してお守りするようにとのことでした」
「お守りするようにったって、オレはもう飛ばないよ。むやみに時間を飛んでると、ろくなことが起こらないからね。だから、せっかく来てくれたのに悪いけど、オレは大丈夫だからきみは帰ってくれていいよ。ホント」
「そうはまいりませんわ。ことが収まりの着くまでお守りするようにとの、博士のお達しですのでお側に置かせていただきますわ」
「お側にと云われても、うちにはカミさんがいるから、家に連れて帰るわけにもいかないし、弱ったなぁ…」
「それなら、大丈夫ですわ。わたくしホテルをキープしますので、ご心配なさらないでください」
「でも、さあ、きみは未来から来たんだろう。お金は持ってるのかい…」
「ええ、それも大丈夫ですわ。博士に用意して頂きましたから」
「それなら、まあいいけど…。じゃあ、オレがホテルまで連れてっ上げるよ。着いておいでよ」
ふたりはホテルを目指して歩き出した。歩きながら山本はひとつ聞いてみた。
「きみも博士の助手かなんかやってるのかい…」
「いえ、わたくしも博士に造って頂いた、スーパー・アンドロイドですわ」
「え、きみもパティと同じアンドロイドなのかい……」
山本は驚いて立ち止まってしまった。
「はい、申し遅れましたが、わたくしスーパー・アンドロイドのMRTⅧ『志乃』と申します」
「しかし、驚いたなぁ…。きみもアンドロイドだったとは……」
そんなことを話しながら歩いて行くと、間もなくホテルのある駅前通りまで辿りついていた。山本は一室をキープすると部屋まで案内して行った。
「さあ、ここがきみの部屋だ。入るといいよ」
山本は先に入ると、アンドロイドの志乃を促した。
「ありがとうございます。失礼いたします」
部屋に入ると、志乃は着ていたコートを脱いで洋服掛けに入れた。コートの中に包み込まれていた志乃の肢体は、パトリシアにも勝るとも劣らない見事なプロポーションをしていた。ただ、ひとつ違っている点は、パトリシアよりも全体的に小柄の体系で、吉備野も日本人仕様を意識して造ったのだろうと山本は考えた。
「さっきも云ったように、オレはもうどこにも行かないし行く気もないんだ。だから、みきの無駄足になると思うけど、どうするんだい。どこにも行かない限りは、超空間の影響だって関係ないんだろう。それでもオレのことが気になるんだったら、好きなだけここにいればいいさ。とにかく、これ以上オレは変なことに関わりあいたくないんだ」
志乃が腰を下ろすのを待って山本はきっぱりと言った。
「そうですか。山本さんも幾度となく時間を飛んで、いろいろと辛い思いをされたのですわね。でも、それだからこそ、わたくしがお慰めして差しあげないとなりませんわ」
「ん…、何だい、その慰めって…」
「はい、山本さんがお望みのことがあれば、どんなことでもして差しあげるようにと、吉備野博士からも申し使っておりますので、何なりと申しつけてください」
「いや、きみにしてもらいたいことなんて、別にないしいいよ。そんなに気を使わなくても…」
「そうですか。もし、何かありましたら、いつでもおっしゃってください」
「うん、ありがとう。じゃ、オレは帰ってみるかぁ…。それじゃまたな。志乃」
「もう、お帰りですの。もう少しお話しを伺わせて頂けませんか。わたくしはこちらの世界は初めてですので、吉備野博士からプログラムされた知識しかありません。ですから、もっと実践的な知識を山本さんのほうからお聞きしたかったのです」
「実践的な知識と云われてもなぁ…。きみはアンドロイドだし、学習機能もついてるんだろうから、人に聞くより自分で学んで覚えたほうがいいと思うんだけどなぁ」
山本は思い出したように、ポケットからタバコを出して火をつけながら言った。
「しかし、教えろって云うんなら、教えてやってもいいけど、何が知りたいんだい。きみは…」
「はい、わたくしは吉備野墓博士により造られたアンドロイドです。博士は自分たちに偽てわたくしを造られた父であり、いわば神とも云える方なのです。博士はわたくしをパトリシアにも勝る最高のアンドロイドだと自負しておりました。機能的にも子供を産めない以外は、普通の人間の女性とまったく代わらないほど、ほぼ完ぺきなものだともおっしゃっておられました。ですのに、わたくしのことを山本さんはただのアンドロイドとしか見ておられません。それがわたくしには、とてもつらいことなのです…」
山本は少なからず戸惑っていた。目の前にいるスーパー・アンドロイド志乃は、どこから見ても生身の人間と見分けがつかないほど、ほぼ完ぺきに造られたものに違いはなかったが、山本にはアンドロイドというものが、未だ完全には理解できていない部分もあった。もっともアンドロイドそのものが、現代社会に存在していないのだから仕方のないことでもあったのだが・・・…。
「しかし、オレにどうしろって云うんだい…。確かにきみは見た目も人間とまったく代わらないし、素晴らしいアンドロイドだと思うよ。それ以上、どう理解しろと云うんだい。志乃」
「こうすれば、よろしいのですわ。山本さん」
志乃は、そういうよりも早く身に着けていた衣服を、あっという間に脱ぎ捨てていた。
「あ、何をするんだ…。志乃、やめろ…」
山本は驚いて叫んだ。
「いいえ、こうでもいたしませんと、山本さんはわたくしを認めてもくれませんもの。さあ、存分にお確かめになってください」
はち切れんばかりにたわわに揺れる志乃の乳房をみて、山本は一瞬めまいのようなものを感じた。まさしく、それは見事なまでに均整の取れた、パーフェクトボディというのがふさわしいものだった。妻の奈津実と比べてたら、奈津実には到底勝ち目はないだろうと思った。
すると、志乃は山本に近づくと手をつかみ自分の胸に押し当てた。触れた感触は生身の人間といささかの違いもなく、山本に伝わってくる温もりはおろか、鼓動さえ伝わってくるようにも思われた。もはや志乃はアンドロイドとは思えないほどに艶めかしく、ひとりの科学者が最高最大の技術を駆使して創りあげた、もうこれ以上のものは造れないだろうと自負しているのが解るものだった。
「わ、わかった。わかったから、その手を離してくれ。志乃」
「そうはまいりませんわ。山本さんご自身が、とくと納得して確認していただきませんと、わたくしがこまります」
「だから、もうわかったから、いいよ。この胸の張り具合といい、きみは素晴らしいアンドロイドなんだから、その手を離してくれ。なあ、志乃」
「そうですか。納得していただけましたか、それでは、どうぞ」
ようやく、志乃は山本の手を放した。
それから、しばらくして山本はホテルを出て家路に就いた。辺りはすっかり夜の帳につつまれ、山本の傍らを冷たい北風が吹き抜けて行った。
家に帰るなり山本は、それまで延び延びになっていた、書きかけの小説を仕上げようと思った。パソコンを立ち上げてキーボードに向かうと、何故かひさしぶりに触れるような気がした。山本はタバコに火をつけると、改めてエピローグ部分の再構成に取りかかった。
『やっぱり、ここの場面だったら主人公ならこうするだろうなぁ…。いや、待てよ。ここがこうならこっちはこうかな…いや、違うな。こっちがこうだから、ここはこうするか…。よし、いいぞ。エピローグは物語の締め括りだからな。力を入れてかからないとダメだぞよし、これならいいだろう』
こうして、山本は夕食までのわずかな時間も惜しんで、物語のエピローグ部分を書き続けていた。そして、ついに奈津実が呼びにくる頃には完成しかけていた。
「出きたぁ。よし、あとから気になるところを手直しして完成だ。お、こんな時間か、たまには呼びに来られる前に行ってみるか…」
大きく伸びをひとつすると、山本は居間へと向かった。
居間では奈津実が夕食の準備を整えていた。
「あら、徹さん。いま呼びに行こうと思っていたとこよ。さあ、座ってちょうだい」
「お、くさやの干物か、どうしたんだ。これ…」
「きょう耕平さんの小母さんにいただいたの」
「へえ、珍しいな。いま時…」
「小母さんね。大好きなんですってよ。これ」
「ふーん、オレも嫌いじゃないけど、匂いがちょっとキツくてなぁ。ん、でも、うまいな。これは…」
「ねえ、徹さん。この前あなた云ってたでしょう。パラレルワールドの話。あたしもいろいろ調べてみたのよ。見た目にはあたしたちのいる世界と同じでも、何かが少しづつ違っている世界が幾重にも重なり合っているって云うんでしょう。ねえ、ねえ。そしたらさ、そこにはもうひとりのあたしがいるわけじゃない」
「ああ、いるだろう。それぞれの世界にひとりづつな」
「うわぁ、逢ってみたいわ、あたし。どんな生活してるのかしら、そこの山本奈津実は……」
「大した変わりはないだろう。まったく同じ世界なんだから、バカだなぁ。お前も……」
「あら、そうかしら、だって、そこはあなたのいない世界かも知れないわ。そしたら、お金持ちのひとり息子と結婚して、もっといい暮らしをしてるかも知れなぃじゃない」
「そんなことは絶対にない。お前はどこの世界にいても、オレと結婚するのに決まってるんだから、無理、無理」
「どうして、そんなことがいい切れるのよ。あなたに」
痴話喧嘩に等しい言い合いに飽きたのか、奈津実は立ち上がった。
「さぁて、後片づけしなくっちゃ、徹さん。お茶碗を台所まで持ってって」
「ん、わかった…」
食べ終わった食器類を台所に運んでから、山本は自分の部屋に戻った。
『奈津実のヤツ、ホントにあんなこと考えてんのかなぁ。まあ、いいか。人が何を考えたって勝手なんだし、さて、小説の仕上げにかかるとするか…』
机に座ってパソコンを立ち上げると、モニター画面に小さなメッセージパネルのような窓が開いた。
「おや、何だこれ……」
よく見ると、そこにはこう書かれていた。
【ただいま、マザーシステムより通信が入りました。それによりますと、
超空間の崩壊がいよいよ始まったとのことです。
いかがいたしますか。わたくしがそちらに伺いますか。ご返答お願い
いたします。 MRTⅧ 志乃】
『始まったか…。どうすればいいんだぁ……。行くしかねえか。よし』
「急用ができたから、ちょっと出てくる」
と、だけ奈津実に告げて山本は急いで飛び出して行った。帰ってきた時よりも、いっそう寒さが身に染みる晩だった。
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