第四章 おかしな世界

       一


 耕助やもうひとりの山本徹が、彼らの住む二十一世紀に戻ってから、間もなく二ヶ月が過ぎ去ろうとしていた。相変わらず会社に通いながら、夜の暇な時間や土曜日曜祝祭日などを利用して、山本は書きかけのままになっていた小説を仕上げようと、ひたすら机に座りキーボードを叩く日々を送っていた。そんな山本のひたむきな姿を見ていて、妻の奈津実も時折りお茶などを持って行きながら、仕上がり具合を聞くのを楽しみにしている様子だった。

 そんなある土曜の昼下がり、山本の書斎から奈津実を呼ぶ声がした。台所にいた奈津実が急いで行ってみると、大きな伸びをしながら山本が歓声を上げた。

「出来たぞ。オレの小説がついに出来上がったぞ。ヤッホー」

「まあ、やったわね。徹さん。出来上がったら一番最初に見せてくれる約束でしょ。見せて見せてー」

「よし、お前のノートに入れてやるから読んでみてくれ。オレは久しぶりに散歩でもしてくるから」

 山本はサンダルを引っかけると外に出た。澄み切った青空は、もうすっかり秋めいていて、頬を打つ風も透き通るようで訳もなく清々しく感じられた。公園に来るとベンチに腰を下ろし、タバコを取り出して火をつけると、こんな風にのんびりしている自分がまるで嘘のように思えた。

 パラレルワールドに紛れ込んだり超空間に出くわしたりと、あまりにも現実とはかけ離れたことが立て続けに起こったのだから、山本でなくても正しい判断など出きるはずもなかったに違いない。

『アイツら、どうしてるのかなぁ……』

山本は、ふと耕助や山本Bのことを思い浮かべた。

『もうアイツらとは、二度と逢えないかも知れいなしなぁ……。それにしても、あの超空間って何なんだ。あんなものが実際にあるなんて、夢にも考えてなかったけどホントなんだよな。吉備野博士だってあんなに驚いてたくらいだから……』

 そんなことを考えていると誰かが声をかけてきた。

「よお、山本くんじゃないか」

 振り向くと、山本の中学時代の先輩にあたる河野が、ニコニコしながら近づいてきた。

「ああ、河野先輩、先輩も散歩ですか」

「ん、相変わらずうちの子供たちかうるさくてね。家に居てもなかなか落ち着かないんだ」「でも、子供のいる生活っていいですね……」

「そうか。きみのところはまだだったね」

「いや、いいんです。もう諦めてますから、そんなことは……」

「悪いことを聞いてしまったかな。ごめん、ごめん。それより、きみもいよいよ小説を書いているそうじゃないか。出き具合はどうなんだい」

「え、どうして先輩がそれを知ってるんですか」

「うちの女房が、きみの奥さんから聞いたって云ってたぞ」

 そう言うと、河野は山本の横に腰を下ろし、タバコを出して吸い始めた。

「で、どうなんだい。いつ頃仕上がりそうなんだい」

「はあ、実はいましがた書き終わったところです。それでずっと家に籠ってばかりいたんで、少しは外の空気でも吸おうと思って出てきたところです」

「そうか、そうか。ついに書き上ったか。確かSF小説だったよね。良かったら、ぜひ、ぼくに読ませてもらえないか。ぼくもきみほどではないがSFも読むんだ。それに山本くんの書いた小説をなら、ぜひ読んでみたいんだ」

「いいですよ。いまうちのカミさんが読んでますけど、いま時間取れますか先輩。よかったら家に来ませんか、メモリーにでも保存してあげますから」

「よし、行こう」

 こうしてふたりは、急いで山本の自宅に向かった。山本は河野を自分の書斎に招き入れると、さっそくメモリーに原稿をコピーして河野に渡した。

「しかし、初めて書いた小説なんであんまり自信がないんです。それでもいいんですか」

「かまわん、かまわん。じゃあ、借りてくぞ。帰ったら、さっそく読んでみよう」

「あ、先輩。読み終わったら、感想を聞かせてください。絶対ですよ」

 山本は、立ち上がって帰ろうとしている河野に、あわてて声をかけた。

「もちろん、そうするよ。楽しみに待っててくれ。じゃあな」

 河野は、そう言い残して帰って行った。山本はどんな反響があるか楽しみだったが、半面すごく酷評されるのではないかという不安も感じていたが、すでに矢は放たれたのだから素直に結果を待つことにした。

 山本は居間に行って奈津実の様子を覗いてみた。奈津実はノートパソコンを抱え込むようにして、山本の書いた小説をむさぼるように読んでいるのが見えた。仕方がないので自分の書斎に戻ってきた。そして、さっき書上げばかりの小説には、まだ足りない部分があることに気づき、その続編を書こうと思い立ち構想を練るために、改めて机に座り直したのだった。

 まず、佐々木耕平を思わせる主人公が縄文時代に行ったのだから、副主人公の自分を匂わせるような人物も、何とかして自分自身も縄文時代に行って、主人公を探そうとする内容にした。この構想はすでに山本が経験済みなので、フィクションも交えて比較的楽にまとまり、あとはそれに肉付けをしながら書き進んで行けばいいだけだから、結構楽な作業になるだろうと思われた。

 こうして、山本はさっそく最初一ページを書き始めた。あらかじめ経験したことを書いているだけなので、たちまちA4用紙で五・六枚を書き上げてしまっていた。とにかく山本はすさまじい勢いで書き進んでいたので、その日の夕方までに第三章の終わり近くまで漕ぎ着けていた。

 その時、台所のほうから奈津実の声が聞こえてきた。

「徹さん。食事の用意が出きたわよ」

「うん、あと少しで終わるから、すぐ行くよ」

 居間に行くと、奈津実が食事の準備をして待っていた。

「ねえ、徹さん。あなた河野さんが帰ってから、いままで何をしていたの……」

「何もしてねえよ。ただ今朝仕上がった小説の続編を書いていただけさ。それよりお前もう読み終わったのか。あれの」

「ううん、まだよ。一気に読むのもいいけど、もったいないので、じっくり読ませてもらうわよ。せっかく徹さんが書いた小説ですもの」

「そんな大したものじゃねえよ。あんなの……」

「あら、ご謙遜ですこと。でも、なかなか面白いわよ。あれ、あたし徹さんにあんな才能があったなんて全然知らなかったわ」

「そ、そうかぁ、そんなにおだてたって何も出ないぞ」

 山本は少し照れ臭そうに言った。

「あら、おだててなんかいないわよ。それより、ビール飲む。お祝いに」

「だから、もうよせよ。オレをからかうのは……」

「いいから、いいから。ちょっと待ってて、いま持ってくるから」

 そう言い残して、奈津実はそそくさと台所に行ってしまった。こうして山本家の一日は、何事もなかったように過ぎ去って行った。

 しかし、次の日の朝、河野が少し意気込んだ様子で山本のところにやって来た。

「どうしたんですか。先輩、こんなに早くから……」

 山本があまりに慌ただしく駆け込んできた河野に聞くと、

「どうしたも、こうしたもないよ。山本くん、これは大した傑作じゃないか。これはホントにきみが書いたんだよな。間違いないな……」

「ええ、そうですけど、一体どうしたんです。ホントに…」

「山本くん。すまんが水を一杯もらえないか……」

「いいですよ。ちょっと待ってください。おーい、奈津実、河野先輩に何か飲み物でも持って来てくれ」

「はーい」

 山本が声をかけると、アイスコーヒーを持った奈津実がやって来た。

「いらっしゃい、河野さん。徹さんがいつもお世話になってます。どうぞ、召し上がってください」

 奈津実が運んできたアイスコーヒーのグラスを河野と山本の前に置くと、河野はすぐさまグラスを取り上げると一気に飲み干した。

「ふー、やっと息がつけた。どうもごちそうさま。ところで、あ、奈津実も一緒に聞いてください」

「まあ、どうしたんですか。河野さん」

「実は山本くんには悪いとは思ったんだが、無断できみの原稿をぼくの大学時代の先輩が努めている、東京の出版社に送ってみたんだよ。そうしたら、そこで出している雑誌の新人賞募集があるって云うんだよ。もう締め切り間近だけど、いまならギリギリ間に合うんで応募して見ないかって、いましがたメールがあったんで、これもきみには悪いが独断でOKを送っておいたぞ。どうだ。すごいだろう」

河野は唾を飛ばしなから一気にまくし立てるような勢いで、しゃべり終えてホッとひと息ついた。

それを聞いていた山本が、少々困惑した様子で河野に言った。

「しかし、先輩。あんなものは、たかがド素人の書いた三文小説ですよ。それを新人賞に応募だなんて大げさ過ぎますよ。絶対に無理ですって……」

「そーんなことない。きみの才能は、このぼくが保証するよ。絶対に大丈夫だから、いまに見ていろ……」

 河野は思いつめたような表情で念を押した。

「それにきみは、中学時代にも詩を書いてたじゃないか。ぼくはあの頃から、コイツは何か光るものを持っているなと思って見ていたんだから、きみには才能があるんだよ。もっと自信を持ちたまえ」

 河野はそれだけ言うと、

「いや、朝っぱらから騒がせてしまって申し訳ない」

と、謝って帰って行った。

「すごいわねぇ。河野さんって、すっかり徹さんに入れ込んでいるんだもの」

「まあ、いいじゃないか。あの人はああいう性格なんだから……」

 そんな話をしていると、いきなり玄関の戸が開いて河野が顔を出した。

「すまん、すまん。ちょっと言いそびれたというか、聞きそびれたんで戻ってきたんだが、あの作品の終わり方を見るとまだまだ続編が出きると思うんだが、これはあくまでもぼくの願望なんだがね。きみにはもう少し頑張ってもらって、ぜひ続編を書いてもらいたいと思っているんだけど、どうなんだい。正直なところは……。それに主人公が最後に縄文時代らしい時代に辿りつくじゃないか。これはまったくのぼくの思い込みで云ってるんだから、あまり気にしないで聞いてくれよ。ぼくの願望としては縄文編はどうだろうかね」

「はあ、そのことですか。実はぼくも縄文編がいいんじゃないかと思って、昨日から書き始めたところなんですけど、やっと三分の一程度が書き上がったばかりなんですよ」

「ほう、それはすごいじゃないか。で、あとどれくらいで書き上がるんだい……」

「んー。頑張って書けば今日中か、遅くとも明日には上がると思うんですけど、あくまでも予定ですので、どうなるのか正直なところまったく見当もつきません」

「そうか。じゃ、しっかり書いてくれたまえ。上がったら必ず見てくれよ。頼んだぜ」

河野は自分が言いたいだけのことをいうと、さっと立ち去って行ってしまった。

「まあ、大変なひとね。河野さんって……」

 奈津実は半ばあきれたようにつぶやいた。


      二


 妻の奈津実は河野のことをあんな風にいうけれど、山本に取ってみれば河野は小学校時代からの先輩であり、幼少時の頃には彼らのリーダー格として、山本ら年少組の子供たちは河野から自分たちの知らない遊びや、その他様々な事柄まで教えてもらっていたので、絶対に逆らえない存在にもなっていた。それは一般的にいうところのガキ大将というものでもなく、河野は自分より年下の子供たちの面倒見も良かったせいもあり、みんなから慕われていたし人望も厚くいわゆる秀才肌の人物であった。

 そんな理由もあって、山本は河野から期待と激励を受けて続編小説の完成を目指していた。当初はその日のうちに終わらせるつもりだったが、書き進んで行くうちに自分でも納得いかない箇所が出てきたり、何度となく手直しをしているとなかなか作業が前進しなくて、結局翌日に回さなければならなくなっていた。

山本は早朝から起き出し自室に籠りキーボードを叩く羽目になり、出勤ギリギリまで粘りに粘った甲斐もあってようやく完成する目途も立った。

『よし、あとは帰ってからだな。今晩には完成だ……』

 こうして山本は出勤して自分に与えられた仕事をそつなくこなして、退社時間とともに早々に帰宅するとすぐさま机に向かっていた。それから二時間ばかりを費やして山本の二作目の作品は完成した。

『よーし、出来た。完成したぞ。短期間で書いたものにしては、まあまあの出きかな…。しかし、待てよ。誤字脱字があってはまずいな。最初からチェックしてみないとダメか。それからでないと河野先輩にも見せられないな。よし』

 それから山本は、四・五日かけて文章の修正及び手直しに時間を割いた。自分でもこれで充分だという確信を持つことができた。

 翌日の土曜日、山本は河野の自宅に向かっていた。その足取りが幾分軽く感じられるのも自分で考えていたより、はるかに早く作品を完成できたという自信からくるものだったのだろう。

「ごめんください。山本です。河野先輩はご在宅でしょうか」

 声をかけると、河野の妻が顔を出した。

「あら、徹さん、いらっしゃい。いま呼んできますから、どうぞ上がってください」

 居間に通され座っていると、河野の妻はすぐに戻ってきた。

「あのう、徹さん。ここでは何だから、部屋のほうに来てもらうようにと主人が云っていますので、どうぞ」

 河野の部屋まで来ると、ドアが開いたままになっていて、河野は机に向かって何かをやっていた。

「先輩、おはようございます」

「おう、山本くんか。こんなに早くからどうしたんだい。まあ、座りたまえ」

「失礼します。実は、先輩と約束してた小説の続編が出きたんで持ってきたんですが……」

「おお、もう出きたのか。今回は、まただいぶ早かったじゃないか」

「ええ、ホントは月曜日の朝には上がったんですけど、修正とか手直しでけっこう手間取っちゃて、どうにか昨日やっと完成したんでさっそく持ってきたんです。このメモリーに入ってます」

 山本は自分のポケットから、メモリースティックを出して河野に渡した。

「へえ、どれどれ、それしても月曜の朝だろう。土・日・月って云えば三日弱じゃないか。尋常じゃない速さだぞ。これは……」

「いや、ぼくも実は正直いって驚いているんですが、でも、この作品はぼくにとっては思い入れのある特別な作品なんです。とにかく読んでみてください。ぼくは、これから少し用事があるので失礼します。それではよろしくお願いします」

 山本は河野宅を辞して外に出た。秋空が澄み渡り銀杏並木の葉がそろそろ色づき始めていた。この時山本の胸には何故かふと寂しさのような、郷愁めいたものが沸き上がっていた。それが何であるのか彼には解らなかった。はるか縄文の世界で生きている耕平に対するものなのか、カイラとの間に生まれた娘のライラに対するものなのか、山本自身にもはっきりとは解からないままだった。そのまま当てもなく街の中をぶらつき、昼近くになって家に辿りついたが妻の奈津実は留守にしているようだった。

 翌日になって昼過ぎ河野が訪ねてきた。

「いやー、読んだよ、山本くん。すごかったよ。あれは…」

 河野は部屋に入ってくるなり、開口一番唾を飛ばしながら喚き散らすように話し出した。

「一作目は、主人公がタイムマシンを手に入れた経緯や、それと知らずに偶然に自分の生まれ前の時代に行ってしまい、それに気づいて慌てて現代に戻ったら、一週間も時間にずれが生じていた。そして突然行方不明になった自分を探していた親友に事情を話す。そして行方知れずになっている父親の真相を探りに再び過去へ……。そこで、まだ独身時代の母親に出逢うシーン良かったし、とにかくあれはあれで傑作だと思った」

「はあ、そうですか……」

 山本は一生懸命熱弁をふるいながら、感想を述べている河野にキョトンとしていた。

「はあ、そうですか、じゃないよ。山本くん。それに第一部もそうだが、第二部にしたってすごいじゃないか。どうして、きみはあんなストーリーを思いつくんだい。ぼくぁ、つくづく感心したよ」

 そこまで話して河野も興奮から醒めたのか、ポケットからタバコを出して火をつけた。

「ぼくが思うにきみは、いままて使い古されたタイムパラドックスを根底から覆すような手法で、第一部に取り組んでいた。ぼくはどうなるのかと思って第二部に期待していたんたが、そこでもまだ解決策は示されていなかった。どうするんだい。この問題は……」

 一度吸い込んだ煙を吐き出しながら河野は言った。

「はあ、どうなるんですかねぇ…。ぼくはただの思いつきで書いただけですから、そう云われても困るんですけど……、そのうち何とか考えてみますよ」

「と、いうことは、きみはまた続編を書こうとしてるのかい」

「そのつもりではいますけど、いつまでもダラダラ書いていてもしょうがないんで、今度ので一応完結しようとは考えています」

「ほう、そうかい、そうかい。で、いつ頃に書き上がるんだい」

「いや、まだまだですよ。いまは書くかどうかも考え中だし、第二部だって昨日書き上げたばかりで、ぼくはプロの作家じゃないし、いつになるのかなんて見当もつきません」

 山本もタバコに火をつけるとひと息いれた。

「しかしだね。ぼくはどうも、きみの書いた小説を読んていると、その中に出てくる主人公の坂本陽介と森本茂の関係が、佐々木耕平くんときみのように思えてくるんだが、何故だろうねぇ……」

「………」

 河野の鋭い指摘に、山本は一瞬たじろいだ。

「まあ、それはともかく、第二部の縄文編か、あれもどうしてどうして素晴らしい作品だった。まるできみがその目で見てきたような説得力があって、なかなかのものだった。どうすれば、あんなことが書けるのか、不思議でならないんだよ。ぼくには…」

「ああ、あれですか。この街でも十数年前に縄文遺跡が見つかったじゃないですか。前にあそこの近くを通りかかったんで見てきたんてすよ。あの時代の人間って、どんな生活をしているのかと思ったら、食生活もそうですし、結構豊かな生活をしていたんですね」

「ほう、どうしてそう思うんだい。まるできみが行って見て来たみたいじゃないか」

 またしても河野の突っ込みに、山本は何も言えなかった。

「きみは何かとてつもないことを隠しているんじゃないのかい。このぼくに…」

「え……、ぼくが隠し事だなんて、そんなことはないですよ……」

「だって、そうじゃないか。きみの書いた縄文人の生活にしろ、その様式やなんかも妙にリアル過ぎるんだ。おかしいと思われたって不思議じゃないはずだ。どうなんたい。その辺のところは…」

「参ったな……」

 山本は、そのまま黙りこくってしまったが、ものの五分も経った頃にようやく口を開いた。

「わかりました。それじゃ、お話しします。しかし、先輩。これから話すことは、ほかの人には絶対には他言しないようにお願います」

「ん、わかった。誓うよ」

 それから山本は、耕平と自分が遭遇した一部始終を事細かに語って聞かせた。

「と、いうわけで、ぼくもつい二ヶ月ほど前にこっちに戻ってきたばかりなんですよ。これが、そのタイムマシンなんです」

 自分の腕から外した腕時計を河野の前に置いた。

「うーん、きみが云うことはまんざら嘘とも思えないし、これがそのタイムマシンなのかい。本当に………」

 そう言いながらも河野は、恐る恐る山本の置いた腕時計を手に取った。

「初めは誰でもそう云うんです。ぼくもそうでしたから…」

 河野はタイムマシンである腕時計を、裏返したり高く差し上げて透かしたりして、散々眺めまわしてから山本に戻したてよこした。

「うーん、実に興味深い話たねえ……。まだ、信じられないよ。しかし、昔から『事実は小説よりも寄なり』って、云うからぼくも信じるよ」

「ところで、先輩。さっき話したパラレルワールドや超空間については、どう思われますか」

「そうだねえ…。パラレルワールドはあるかも知れないが、その『超空間』っていうのは初めて聞いたんで、まったく見当もつかないなぁ…」

「そうですか。やっぱり……」

「しかし、それはかなり興味の魅かれる話でもあるな……」

 そこで河野も山本も腕組みをしたまま、考え込んでしまった。

「ところで、山本くん。ひとつ頼みがあるんだがいいかな……」

「何ですか。一体…」

「ぼくのことを縄文時代とか、その違う次元にあるという、日本に連れて行ってもらえないかな……」

「マ、マジですか…、先輩……」

「ああ、マジもマジ、大マジだぞ。ぼくは…」

「異次元の日本は、ぼくの持っているマシンには、次元転移装置がついてないので無理ですけど、縄文時代なら行けますよ。でも、大丈夫かなぁ…。あそこは熊とかニホンオオカミなんかもいるから危険ですよ。先輩」

「それなら大丈夫だぞ。山本くん。ぼくはこう見えても大学時代に射撃をやってたんだ。だから、銃にはそれなりに少しは自信があるんだ。それにうちの親父が若い頃に狩猟をやっていたから、いまでも家には猟銃が置いてあるから、それを持って行けばいいさ。これから、すぐ行こう」

「え、これからですか……。それに準備もあるじゃないですか、いろいろと……」

「準備なんていらないさ。ぼくもそれなりの服装に着替えてくるから、きみもちゃんと着替えて公園で待っててくれ。それにさっききみが云ってたじゃないか。そのタイムマシンを使えば、いつでも元の時間に帰って来れるって、それじゃ、とにかく後でな」

 河野は言うよりも早く、山本の部屋を飛び出して行った。

 山本も仕方なく、河野に言われた通り着替えると公園へと出かけて行った。


      三


 それから、ややしばらく経った後、お互いにそれぞれ装備を整えて公園にやって来た。河野は背にナップザックのようなものを背負い、猟銃を収めたケースを担いでいた。

「何だ。山本くんは何も持ってこなくていいのかい。手ぶらのままで……」

「ええ、耕平のところには前に使っていた弓と石槍が、置いたままにしてありますから」

「でも、耕平君に何か手土産でも持って行ってやらなくていいのかい」

「あ、そうか…。よし、じゃあ、アイツ日本酒が好きだから買って行ってやるか。すみません。これから、そこの酒屋で買ってきますから、少し待っててください」

 山本は近くの酒屋まで走って行くと、日本酒の入った買い物袋を下げて戻ってきた。

「ついでに自分のタバコも買ってきました。それでは行きますか。すみません。こっちに来てください」

 山本は河野を所定の場所まで案内すると、マシンの年代計を紀元0000に設定した。

「それじゃ、行きますよ。先輩、ぼくの肩に手を触れててください」

始動ボタンを押した。公園の風景がかき消され、代わりに辺り一面うっそうとした草原が広がっていた。

「ほう、これが縄文時代か……。なるほど、なるほど」

 河野はこれと言って驚く様子もなく、もの珍しそうに周りを見渡している。

「うん。やはり、ぼくたちの住んでる世界とはまったく空気が違うね。まるで空気が透き通るようだ」

新鮮な空気を胸いっぱい吸い込むようにして河野は言った。

「あ、先輩。これが耕平が初めてここに来た時に建てたという記念碑なんです」

「うーむ。そうか、耕平くんが失踪してからもう七年も経つのか……」

 河野は耕平の刻みつけた文字を見ながら、感慨深げにつぶやいた。

「さあ、行きましょう。こっちです」

 草原の中をしばらく歩いて行くと、曼殊沙華が一面に咲き乱れている場所に差し掛かった。

「あ、こんなにいっぱい咲いている。少し積んで行ってやろう……」

ところかまわず咲き誇る曼殊沙華を積み始めた山本を見て河野は、

「どうするんだい。そんなものを積んで……」

と、訝しそうに聞いた。

「これですか。前に先輩にも話したじゃないですか。ぼくがいた頃に一緒に暮らしていて、熊に襲われて死んだ女の娘のことを、その娘が曼殊沙華を好きだったんで供えてやりたいと思いまして……。よし、これくらいでいいか…。お待たせしました。行きましょう。耕平のところに行く前に、この花を供えてやりたいんで先に墓地のほうに寄ります。こっちです」

 ふたりは墓石が並べられた墓地へとやって来た。墓石とはいっても単に石を置いただけの粗末なものだった。

「ここです。いま供えますから、少し待っててください」

 山本は、カイラの墓前に曼殊沙華を供えると、祈りを捧げて立ち上がった。しばらく歩いて行くと、草原の切れた辺りから木立ちが茂っているのが見えてきた。その木立ちを縫うようにして縄文人の住居らしい集落が見えてきた。

「あ、あの辺りです。耕平のヤツいればいいけど……」

 耕平の住居の近くまで来ると、山本は大きな声で叫んだ。

「おーい、耕平。いるかぁー。また来たぞー」

 すると、住居の入り口が開いて耕平が顔を出した。

「おう、山本。あ、河野さんも一緒でしたか。ご無沙汰しています」

「やあ、耕平くん。元気そうで何よりだね」

「珍しいな。お前が家にいるなんて、今日は狩りに行かなかったのか……」

大抵は狩りに出かけていて、留守にしているのを知っている山本が聞いた。

「ん、コウスケが風邪を引いたんで、今日は出なかった」

「風邪なら前にオレが置いて行った風邪薬がまだ大分残ってるだろうが、呑ませなかったのか……」

「呑ませたさ。だけど、こんな時でもないと一緒にいてやれないから、今日は行かなかった」

「あら、トオル。またあえた。よかったよ。ほら、ライラもげんきたよ」

 ウイラがライラを連れて出てきた。

「おお、ライラ。ずいぶん大きくなったな……」

 山本はライラに駆け寄ると、両手を伸ばして抱え上げた。ずっしりと重かった。思わず涙が溢れそうになるのを堪えるのがやっとだった。

「何歳になったんだ。五才か…、いや、もう六才になったのかな……」

 山本はひとり言のようにつぶやくと、

「ほら、これが前にも話したオレの娘のライラです。もう、こんなに大きくなって、だんだん死んだカイラに似てきたようだし、次元が違っていても月日が経つのって、こんなにも早いもんですかねぇ」

 山本は、しみじみとした口調で言いながら、ライラを河野に見せた。

「しかし、羨ましいねえ。きみは、こんなに可愛い女の子がいるんだから、うちなんて男ばっかり四人だろう。うるさくて堪んないんだよ。本当に羨ましいよ」

 本当に羨ましいという表情で、河野はライラの顔を見入っていた。

「さて、こんなところでも何だから、どうぞ中に入ってくださいよ。河野さんも山本も、どうぞ、どうぞ」

 耕平に促されて河野は山本とともに、ログハウス風の耕平の住居に入った。

「ほう、これはなかなか素晴らしい住まいじゃないか」

 中に入るなり、河野はその素晴らしい出来映えに、舌を巻いている様子だった。

「しかし、これは誰が造ったものなんだい。まさか、耕平くんがひとりで造ったんじゃないんだろう」

「いえ、違います。以前に山本が機材を持ち込んできて、邑のみんなに手伝ってもらって造ったんです。だから、こんなものは邑のいたるところ建ってますよ」

「へえー、そうかい。それにしても、これは素人が造ったものとは思えないほど、素晴らしいものだよ。まったく感心したよ」

 なおも珍しそうに部屋中を見て回っていた河野が、

「お、いいね、いいね。囲炉裏まであるじゃないか。昔、田舎のおばあさんの家に行くとこんな囲炉裏があってね。ぼくは囲炉裏が大好きだったんだ…。懐かしいな………」

 ただ、そこにあるのは囲炉裏と言っても、丸太をチェーンソーで四角くに切り取って、中を掘り起こしただけの物だったが、河野にとっては懐かしてものとして捉えていたのだろう。

「よし、それじゃ、河野さんも来たことだし、なんか獲物でも獲ってきて歓迎会でもやろう。河野さんは銃も持って来たみたいだから、三人で狩りにでも行かないか。山本」

「お、いいな。それ、この時代は野性の動物なんて、いくらでもいるからじゃんじゃんとれるんですよ。先輩」

「ほう、そいつは面白そうだな。行こうか。この銃は万が一のことを考えて護身用に持って来たんだ。縄文時代なんて初めてだったし、どんなのが飛び出してくる分かったものじゃなかったんでね。こんなにも早く役に立つとは思わなかったよ。行こう、行こう」

 河野も賛同したので、さっそく三人は動物たちが水飲み場にしている、川の流れている森を目指して出かけて行った。うっそうと生い茂った灌木類をかき分けて進んで行くと、やがて小鳥たちがさえずり何処からか水の流れる音が聞こえてきた。

「あ、もう間もなくです。ちょっと見てきますから、待っててください」

耕平は茂みをわけて前進すると、頭だけ低灌木の隙間より覘かせるようにして様子を窺がった。

「大丈夫です。います、います。あまり音を立てないようにして、こっちに来てください」

 河野と山本は、耕平に言われたように足音を忍ばせて近づいて行くと、首だけをそっと出して川の流れている辺りを覗いた。

「素、すごいじゃないか…。あんなにいるなんて……」

「シィ…、静かにしてください。先輩。感づかれたら、みんな逃げちゃいますよ」

 感喜を上げる河野を山本が注意した。

「すまん。つい驚いてしまったもんで……」

 河野は山本に対して素直に詫びを入れた。

「さて、どれを狙います。いまいる中では、イノシシとかカモシカがいいと思うんですが、どれにします…」

「そうだなぁ…。イノシシなんか、どうだろう。子供の頃、うちの親父が狩猟をやっていて、たまに獲ってきたんだよ。だから、ぼくもやって見たいのさ」

「よし、それだったら、ここは一番河野さんにお任せしますか。その腕前も見てみたいし…」

「そうかい。じゃあ、やって見るとするか。だけど、ぼくは生きてる物を撃つのは今回が初めてなんで、自信なんてまったくないよ」

 そう言いなから、河野は肩から猟銃のは入ったケースを下ろすと、銃を出して弾倉に弾丸を込めたり準備を整えて行った。

「よし、出来た。これでよしと、それじゃ、あの一番手前にいるイノシシを狙ってみるから、見ていてくれよ」

 河野はさっそうと銃を構え、イノシシに標準を合わせた。

「ダーン」

 けたたましく、乾いた発射音が森の中に木霊した。

 イノシシはその場に倒れ込み、一緒に水を飲んでいた動物たちも蜘蛛の子を散らすように、何処へともなく逃げ去って行った。

「お見事です。河野さん」

 耕平が拍手を送った。山本は一目散に倒れたイノシシのところへ走り寄った。耕平と河野が後から行くと、イノシシはすでに絶命しているようだった。

「すごいですよ。先輩、一発で仕留めるなんて、さすがは大学時代に射撃をやってだけはありますよ。見てください。これを……」

 山本が指し示したイノシシを見ると、河野の撃った弾丸は脇腹の斜め後方から命中したらしく、そこら一面におびただしい血が流れ出て、それが地面を伝って小川に落ちて、川下のほうへと向けて流れて行った。

「今日のところは、これで充分だろう。これから帰って、さっそく河野さんの歓迎会をやろう」

「いや、せっかく来たんだから、何かもっと、んー、山鳥かキジかなんかいるところ、知らないかい…」

 生まれて初めてイノシシを仕留めた河野は、それに味を占めたらしく、ますますやる気十分の意気込みで言った。

「それなら、ここじゃなくて、もう少し戻った辺りがいいです。行きましょう。いまイノシシを担ぐ丸太を切ってきます」

 こうして、邑へ帰る道々あちこち足を運んで、結果的に山鳥二羽とキジを一羽を土産に邑へと帰りついた。

 それから、陽が西に傾く頃になって、三人は山本が前に住んでいたログハウス風の家に集まり、ひさしぶりに再会した耕平を囲んで大宴会が始まっていた。

「いや、実にひさしぶりだったね。耕平くん。元気そうで何よりだった。ああ、そうだ。これは自分用に持って来たんだが、きみもよかったら呑まないかい」

 ボルドーのワインとヘネシーのブランデーを、ナップザックの中から取り出して前に置いた。

「なーんだー。先輩も持って来たんですか。オレも持って来たんですよ。ウィスキーだけど…」

 それから宴会は始まり、途中からコウスケとライラを寝かせ付けたカイラも加わり、その晩の三人は大いに盛り上がって行った。


      四


 昔話に花が咲いて、三人ともすっかり酔いが回った頃に、河野が突然思い出したように話をし始めた。

「これは山本くんから聞いた話なんだけどね。きみと同一人物らしい、佐々木耕助くんと偶然発見した『超空間』のことなんだ」

「何ですか。その『超空間』って云うのは………」

「うん。それが、実に不思議な空間らしいんだ…。そうだろう。山本くん」

 河野はブランデーをひと口すすりながら、いきなり話を山本に振ってきた。

「ん、あれは非常に不思議でおかしな空間だった……」

 山本もブルっと身震いすると、水割りをひと口飲みこんで話を続けた。

「耕助がもうひとりのオレを連れて、こっちの世界に来た時だった。異次元の日本で過ごしてきたふたりと、こっちの世界で生きてきたオレと、経験とか記憶に違いがないかどうか、三人でとことん話し合ったんだが、結局どこまで行っても堂々巡りで埒が明かなくなって、みんなでウンザリしていたら、そのうちに耕助のヤツが妙なことを云い出したんだ」

 耕平は山本が持ってきた日本酒を飲みながら、山本の話をひとり静かに聞き入っていた。

「オレたちが時間を移動する時に、0,何秒かの一瞬だけ通り過ぎる空間があるだろう。あの空間って、一体なんだろうっていう話になったんだ。

 そのうち耕助のヤツが何とかして、あの空間に留まることがでないかって、云い出したからオレたちは、あんなホントにあるかないか解からない空間になんて、絶対にいけるはずがないって云ってやったんだ」

 山本は呑みかけの水割りを飲み干してから、なおも話の続きをゆっくりと語り始めた。

「そうしたら耕助のヤツは、そんなことはやって見ないと解からないだろうって云いだして、自分でも何かしら思いついたところがあるらしくて、オレたちもシブシブOKしてついて行ったんだ」

 河野がタバコに火をつけたのを見て、自分も吸いたくなったのかタバコを取り出して火をつけた。

「耕助のヤツは何かしらの操作をマシンにしたらしく、あっという間にオレたち三人は何とも妙な空間に立っていたんだ。その空間っていうのが、また変なところで実際には立っているんだが、立っているのか横になっているのか解らないほど、感覚的に変な気分になるおかしな空間で、空間でそのものがところどころ伸縮するように、歪んでいるとにかく妙な空間だったんだ……」

 山本は、そこでひと息入れると、また話を続けた。

「ところが、その空間っていうのがとんでもなく変な世界で、音というものがまったく存在しなかったんだ。それに三人とも近くにいることは判っていたが、姿さえ全然見えなかったし最初はオレたちもすっかりビビッてしまったよ。でも、声は出ないが相手の考えていることがテレパシーみたいに、頭の中で直接感じ取れることが判ってきて、みんなのところに行きたいと思って、目の前の空間を両手で掻きわけて見たら、何とか耕助のいる場所に出て行けたのさ」

「それで、どうしてんだ……」

 それまで黙って聞いていた耕平が初めて口を開いた。

「ん、それで、耕助がいうには、もしかするとここは自分のイメージしたものが、そのまま実体化させることが出来るんじゃないかって云いだして、月面のイメージを思い浮かべたらしいんだ。そうしたら、いきなりあの月面から地球を仰ぎ見た、誰でも知っている有名な場面が現れたんで、オレたちはビックリ仰天してしまったんだ。ただイメージだけかなと思って、そこら転がっている石ころを拾ってみたら、イメージだけじゃなくちゃんとした質量も感じ取れる本物だったんだ」

「しかし、おかしいんじゃなぃのか。確か月には空気がなかったはずだぞ。いくらイメージだけでも本物たって云ったじゃないか。空気がないのに息ができるなんて絶対におかしいぞ」

「そんなこと、オレに云われたって知らないよ。そこが超空間の超空間たる所以かも知れないし、機会があったら吉備野博士にでも聞いてくれ。とにかく、オレは知らないよ」

 山本は耕助の質問にタジタジとなりながらも、彼らしい論調でその場を凌いだ。

「見ろ。耕助が余計なことばかり言うから、どこまでまで話したか忘れちまったじゃないか……。ええーい、面倒くさい。この話は、もうやめた、やめた……」

「また、そうやってすぐ投げ出す。何回も云うようだけど、それが一番お前の悪いクセだぞ。分かっているのかよ。ホントに…」

 耕平が辟易したようにいうと、

「まあ、耕平くんもそう云わずに聞いてくれたまえ。山本くんに聞くところによると、その超空間ってのがすごく不思議な空間なんだそうだ。そここで、せっかく縄文時代に来たんだから、

きみも一緒に誘おうかと思って寄ってみたんだが、どうだい。耕平くんも行って見ないか。昔から『百聞は一見に如かず』って云うくらいだからね。とにかく一度見てみないことには話にもならないと思うんだ」

「面白そうですね。初めて聞いたけど、超空間ってどんなのところなのか判らないけど、ぜひ連れてってください」

「よし、決まったね。じゃ、山本くん頼むよ。ぼくも早くこの目で確かめて見たいんだ」

「それじゃ、ふたりともオレの肩に手を乗せてください。

 山本に言われたように、ふたりはお互いに肩を組むようにして、それぞれ山本の肩に手を乗せた。

「それでは行きます」

 山本がマシンの操作をすると、瞬時にして三人はまったく見たこともない、奇妙な空間に立っていて横なのか縦なのかさえ、判然としない不思議な感覚に見舞われていた。

「なるほど、確かに山本くんに聞いた通りの不思議な空間だね。ふーむ」

「でも、二回目に来た時もそうだったけど、今回の空間も前のとはまったく違うんですよ……」

「なるほど、なるほど。そうか、山本くんから聞いた話を総合的に判断するとだね。この空間というは、パラレルワールドのような、いや、もっと多元的に複合化された世界じゃないかと思うんだ」

「どういうことなんですか。先輩の話は難し過ぎて、オレにはチンプンカンプンでさっぱり解かりませんよ」

「そ、そうか…、それはすまん、すまん。平たく云うとだね。パラレルワールドの存在は、きみも経験済みだと云ってたから、すでに理解できてると思うんだが、その超空間というのはそれをもっと複雑化したものだと思うんだよ。だから、きみは何回かここに来ているんだろう。それでも一度も同じ空間には行きつけない。パラレルワールドというは地層のように幾層にも積み重なった世界。ところが超空間というのは何故かは解からないが、すごく流動的なものでであって、はっきりとした実体を持っていないのではないかと思えるんだ。

 実体を持たないかゆえに、ここに紛れ込んだ者が思い描いたイメージを実体化して、さらにそれを固定化までしてしまう、驚くべき空間だとも云えるんじゃないのだろうか」

「あれ、でも、おかしいですよ。先輩、この前きた時には音がまったく存在しなかったのに、今日はちゃんと聞こえてるじゃないですか。どうなってるんですか。これは……」

「だから、さっきも云ったように、ここはとても流動的なものであって、今日はたまたま音の存在が許された空間なのかも知れないよ。ぼくが思うには……」

 と、河野が言った時だった。

「まったく、その通り。ご明察ですな」

 どこからともなく声が聞こえてきた。突然な、目の前の空間が開いてひとりの紳士が現れた。

「あ、吉備野博士。来ていたのですか」

 山本が驚いた様子で尋ねた。

「はい、私もあれ以来、ここが気になりましてな。幾度となく足を運んでは調査をしております」

「初めまして、私は河野と申します。博士のお噂は山本のほうから聞き及んでおります。どうぞ、よろしくお願いいたします」

「これは、これは。ご丁寧に痛み入ります」

 河野の丁重なあいさつに感服したのか、吉備野も河野に対して深々と頭を下げた。

「ただいま、あなた方のお話をお伺いいたしておりまして、私も気づいてはおりましたが、この空間は流動的なのもさることながら、時空間はおろか時間軸の流れからも、完全に分離された恐るべき空間であることが判ってまいりました。まさしく、これはわれわれの宇宙がビッグバンという、原始的原子の爆発により生み出されたのではなく、まったく別個の形で出現したのではないかという結論が成り立ってくるのです。それにしても、私たちの理論や原理を完璧に否定されるのであれば、私どもといたしましても、もうこれ以上は手の打ちようもない次第なのです。ですから、山本さんたちにもあまり深入りなさらないようにと、ご忠告を申し上げたいと思い参上した次第なのです」

「それにしても、ホントにこの空間がそんなに危険なんですか。ぼくにはとてもそんな風には見えないのですが……」

「はい、私どものグループの研究によれば、この空間そのものが非常に不安定すぎて、いつ何時崩壊するかさえ予測不可能であるとのことでありますので、ここにいる者はすべて速やかに退去するようにとのことでした。それでは確かにお伝えしましたので、私もこれにて失礼いたします。おふたりともご機嫌よろしゅうに……」

 そう言い残すと、吉備野は瞬く間に姿を消し去って行った。

「吉備野博士があれほど云ってくれていることだし、ぼくらも早く戻ったほうがよさそうだ。耕平くん、山本くん」

「それじゃあ、行きますか。耕平もいいか…」

「ああ、いつでもOKだ」

 山本が縄文時代へと念じたのであろう。三人の姿はたちまち耕平の住居の前に戻っていた。

「ふうー、やれやれだ。それにしても、あそこがあんなに危険なところだとは、夢にも思わなかったよ。いつ崩壊するか解からないなんて……、もしかすると、オレたち命拾いしたのかも知れねえな……」

 無事に帰れたのを安心したように山本が言うと、

「すまん…。ぼくの思いつきのせいで、きみたちまで危険な目に遭わせかねなかったんだから、本当にすまん。この通りだ……」

 河野はふたりに対して深々と頭を垂れた。

「よしてください。先輩、別にオレたち全然気にしてませんから、ホントによしてくださいよ。そうだろう。耕平」

「そうですよ。止めてくださいよ。河野さん」

 山本と耕平に慰められる形で、ようやく河野は頭を上げた。

「それにしても、まるっきり違う宇宙って、どんなのなんだろうな。オレなんかにはまるで想像もつかないよなぁ……」

 山本は、さっき吉備野博士に聞いた話を思い出して、ひとり言のようにつぶやいた。

「うん、そうだねぇ。ビッグバンとか宇宙の仕組みなんてのは、ぼくたちは頭の中では解かっているつもりでも、実際のところはどうなっているのか、専門家じゃないんだから分かるはずもないしねぇ……。でも、ぼくの好奇心からきみたちにまで、迷惑をかけてしまっことは確かなんだから、謝るよ。本当にすまなかった……」

 また、河野はふたりに対し深々と頭を下げた。

「またぁ、よしてくださいよ。先輩、オレと耕平なんてもっと危ない目に何度となく遭ってるんですから、止めてくださいよ。ホントに……」

「そうですよ。河野さん。オレたちは熊退治とか、イノシシに追っかけ廻されたり、散々危ない目に遭ってるんですから、大丈夫ですって」

 ふたりに宥められた河野は、急に真顔になり山本に言った。

「なあ、山本くん。これ以上長居をしては耕平くんに迷惑をかけるといけない。ぼくらもそろそろ戻ろうじゃないか」

「そうですね。じゃ、そうしますか、オレもやることが残ってるし……。それじゃ、元気でな。」耕平」

 山本も耕平に別れを告げると、マシンの調整に入った。

「河野さんもお達者で、山本も元気でなぁ、さようなら……」

 耕平が別れを告げるのと、ほとんど同時にふたりの姿はその場から消えていた。残された耕平の傍らを冷たい秋風吹き過ぎて行き、ここ縄文時代にもすぐに冬の訪れが迫っているようだった。

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