Summer Triangle 1
──2年後。東京、銀座。
華やかなビル街の一角。建物と建物の間に忽然と現れる地下への長い階段。一歩降りるたび、壁に埋め込まれた石がきらきらと明滅する。
入り口の扉を開くと光は一層強くなり、床を、壁を、天井を大小さまざまな輝きで埋め尽くす。それはまるで星空の洞窟。銀河の果てのような夢の世界。
「いらっしゃいませ。コンセプトバー『Summer Triangle』へ。お客さま、当店は初めてですか?」
「は、はい……」
顔を黒いヴェールで隠した男の店員が、若い女性客に一礼した。
「当店は星空を眺めながらお酒を楽しむための空間となっております。お酒は定番のものからその日の気分に合わせたリクエストまで、お客さまのお好みの一杯をご用意させていただきます。どうぞ遠慮なくお申し付けください」
「……はい」
「注意事項が一点。店の中の星空はご自由に撮影いただいて構いませんが、ほかのお客さまや我々店員をカメラに収めるのはどうかご容赦くださいませ。この店はあくまで星と、あなたのための空間です。それでは、どうぞお時間が許す限り星の光をご堪能ください」
女性客は1人掛けのソファ席に案内される。さっそく星の光を撮影しようとスマホを取り出して向かいの壁に向け……そのすぐ下、4人用のボックス席に2人並んで座る男性客と、彼らと親しげに会話をする店員に気がついた。
「……うん、すごく甘くて美味しい!これ氷じゃなくてキウイ入ってる?」
「入ってます。凍らせたフルーツを入れた、フルーツポンチみたいなカクテルですね。甘いもの大好きな先輩にぴったりだと思って」
「えー、めっちゃ良いこれ。これも記事にしていい?」
「いいですよ。そのために出したんで。先輩が記事にして宣伝してくれればお店も儲かってwin-winですから」
「お前のそういう俗なとこ全然変わんないな……」
「先輩も全然変わってないですよね、身長とか」
「さすがにもう伸びないんだって……」
少しラフな格好をした男性客の隣には、眼鏡をかけたスーツの男性客がいる。店員がそちらに声をかけた。
「そっちはどうですか?ギブソンっていって、マティーニによく似たカクテルなんですけど」
「……ああ、すごい……こう、がつんとくるな……。美味いよ」
「え、敬介、俺にも一口」
「先輩はだめです、潰れますよ。一応仕事で来てるんでしょう?」
「や、でも仕事だから飲んで味確かめないと……」
「だめです。……代わりにジントニック作りますからちょっと待ってください」
「やった、サンキュー!」
男性客の少年のような笑顔に女性客は思わずシャッターを切りかけて……慌てて我に返った。改めて壁にカメラを向け、写真を撮る。
「お客さま、ご注文はお決まりになりましたか?」
気づけば、店に入るときに案内してくれた店員が横に立っていた。
「あ……す、すみません、撮影に夢中になってました。ええっと……、あの、おすすめとかあれば……特に好き嫌いとかないんで、それを……」
「承知いたしました」
店員が奥に下がり、少しの後、戻ってくる。
「当店オリジナル、『銀河鉄道からの景色』です」
皿に乗ったグラスが女性客の目の前に置かれた。カクテルグラスには澄んだ湖のような青が湛えられ、水面に浮かんだ金粉が星のようにきらきらと輝いていた。グラスの足下にはホワイトチョコで作られた十字架が添えられている。
「銀河鉄道……宮沢賢治ですか?」
「はい」
「これ、北十字のシーンですよね。すごくきれい……」
「お気に召していただけたようで何よりです。当店のバーテンダーが作品に詳しくて、ほかにも苹果を使ったカクテルや蝎の火をイメージした強いカクテルもございますので、そちらもよろしければお楽しみください」
「バーテンダーの方、どなたですか?」
「あちらの奥にいる彼です。普段は彼自らお客さまにカクテルの説明をするのですが、今日は申し訳ありません、雑誌の取材が入っておりまして」
女性客はああ、と得心がいったように頷いた。さっきの席にいた店員がカウンターの奥でカクテルをシェイクしている。
バーテンダーの店員がグラスにカクテルを注ぐタイミングでヴェールをちらりと持ち上げる。ヴェールの奥に見えた繊細な銀縁の眼鏡、その更に奥で細められる黒い瞳に、女性客は手に持ったスマホを落としかけるほど動揺した。
──きれい、と声にならない声で呟く。
「……お客さま?」
「あ、いえ、失礼しました。いただきます」
「どうぞごゆっくり」
カクテルを運んできた店員が去って、別のテーブルの注文を取りに行く。女性客は深呼吸してから青のカクテルに口をつけた。ホワイトキュラソーとレモンの酸味がベースのジンの味を和らげる、強いけれどすっと飲めてしまうお酒だった。
青いカクテルを飲みながら、女性客は壁際の席の様子を窺った。バーテンダーの店員が何杯めかのオーダーを運んで、そのたびにラフな格好の男性客のほうが写真とメモを取っている。隣のスーツの男性客は何者なのだろう。同僚という感じはしない。だが、客同士は非常に親しそうだった。
「──それでは、2人でしばしお楽しみを」
店員が一礼する。真横を通るとき、女性客は思い切ってその店員を呼び止めた。
「あっ!あの……」
「はい、ご注文でしょうか」
「あ、……銀河鉄道の……蝎の火のカクテルを一つ……」
「かしこまりました」
「それから……あの、こんな、初めて来たお店で、初めて会った店員さんにこんなこと言うのもおかしいんですけど、さっき……あの、顔を一瞬見てしまいまして、その」
「…………」
「とても、きれいだなと……」
「……ありがとうございます」
「不躾ですみません、よろしければお名前だけでも……」
「……ここの店員は皆、星々を輝かせるための黒い石炭袋なんです。ですから、名前はありません」
「あ……すみません……」
「でも、そうですね。もし暗闇のなかから『おれ』のいる方角を知りたいのであれば、アルビレオという星を探してください。おれはそこにいます。……それでは、蝎の火をお持ちいたします」
女性客は去っていく店員を目で追った。そこでカウンターの奥に輝く金と青の星を見つける。アルビレオ。銀河鉄道の夜の中でサファイアとトパーズとも呼ばれた二重星だ。
アルビレオがあの位置にあるということは……と女性客は店内全体を大きく見回す。
「あ、……夏の大三角……」
床に。天井に。一際輝く三つの星。それを跨ぐように広がる巨大な天の川。確か、あれがベガで……と女性客は記憶を辿る。そのとき、入り口のドアが開いた。
「…………」
淡い茶髪のスーツの男だった。すっと整った目鼻立ちが美しい、まるで俳優のように端正な顔。これには他のテーブルにいた女性客もにわかにざわついた。ヴェールを被った店員はその男には何も言わない。無言で手を、壁際の席へと向けた。男はラフな格好の男性客の向かい──美しく輝くデネブの真下へと腰を下ろす。
「仁、おつかれ。先に始めてるぜ」
「悪い、残業なかなか終わんなくて」
「相変わらず忙しそうだな」
「まーね」
「失礼いたします」
女性客に声がかかる。バーテンダーでも、最初に案内してくれた店員でもない、声の感じからすると壮年の男の黒子であった。店長だろうか。
「蝎の火でございます」
店員は真赤に燃えるカクテルを女性客の前に置いた。
「燃えているのはブランデーでございます。すぐに消えてしまいますので、お写真を撮るのであれば今のうちに」
そう言われ、女性客は慌ててスマホをカクテルに向ける。艶やかな火がカメラに収められると同時、ゆるやかに消えていく。
「本物の蝎の火のように、ずっと燃えていればよいのですが。それでは飲めませんからね」
「そうですね……」
「永遠に燃える炎を手に入れるのは難しいものですね」
店員が静かに去っていく。火が消えたあとのグラスを女性客は静かに傾ける。視界の端にデネブの星を見る。
「『アルビレオ』から『デネブ』へ。今夜のおれの気持ちです。どうぞ、お楽しみください」
「……ちなみに何?」
「なかなか来てくれなくて寂しかったので、ブラッディーメアリーを」
「怖ぇよお前、ヤンデレ属性とかそういうのいいから」
「違いますよ。意味はあとで教えてあげますから、今はごゆっくり」
(……ブラッディーメアリーのカクテル言葉は『私の心は燃えている』……)
舌の上でアルコールが灼けるように踊り──。
(……ああ、そういうことだったのか)
刹那の恋心まで、溶かしていった。
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