Side:Hiroto 7
香の匂い。静謐。邪なものは一切断たれた聖なる空間。
「…………」
背筋を正して正座する。それが一番疲れないからだ。……ああ、それでも足の感覚がなくなりつつある。くらくらする。この一瞬、おれたちは神様の御意志に触れる。
(……ただのトランス状態、酩酊、幻覚だ。そんなの…………)
――子供に教義の原文をそのまま教えるのは難しい。だから映像教材がよく使われた。
とはいえおれたちは神乃子さまの息子。教義は生まれたときから頭に叩き込まれていたから、おれたちがこれを見るのは単に「他の子供たちがどのように教義を学んでいるのか」を知るためでしかない。
『銀河鉄道の夜』
本来この宗教と何の関係もない作品でも、教義に似た描写があれば採用された。銀河鉄道の夜もその1つ。カムパネルラの尊い精神を、ああいう風に生きなさいと教えられるのだ。
『いかがでしたか、博士さま、学士さま』
『すばらしい高潔の精神でした。彼は友人を助け、その功績を称えられてうつくしい銀河の中へと旅立っていったのですね』
『ええ、ええ、そうですわ学士さま。カムパネルラはとてもご立派なお方です。……博士さまはいかがでしたか?』
『……どうしてザネリが生き残って、カムパネルラが死んでしまったのですか?』
『……それは、ザネリはカムパネルラに助けられたから……』
『おかしいですよ。だって、ジョバンニはザネリが生き残った世界に、カムパネルラがいない世界にこれからも生き続けなければならないんですよ?これからは誰がジョバンニを助けてくれるのですか?』
『おわかりになりませんか、博士さま。カムパネルラの心が、ジョバンニの心に生きているのです。ジョバンニはこれから心の中のカムパネルラを手本に自らを助け、生きていくのですよ』
…………何か、違うのではないか。初めて教義に疑問を抱いたのはそのときだった。
(どうして?やさしい天使さまは神様に認められてよい人生を送れるはず。それなのにどうしてカムパネルラは死んでしまったのだろう。天使さまとして認められるには少し善行が足りなかった?ううん、命がけで友人を救った、そこまでして認められないだなんておかしい、おかしいよ。カムパネルラには帰ってきてほしかったよ)
学士とはずっと同じように育てられてきた。同じものを食べ、同じものを聴き、同じものを謡った。だから違いようがなかったのに、おれの内面が、いつのまにか学士の内面とは別のものに育ち始めていた。
「――ッ」
意識がふと戻ってくる。口の端から垂れた涎が、白い着物に汚い染みを作っている。
正座は崩せない。矯正用のベルトが締められているからだ。このベルト、SMプレイで使うようなアレに似てるな……なんて雑念が過ぎる。
(ははは、……やっぱりおれにはもう無理だ。反省なんてできやしない)
「お時間となりました。博士さま、お加減はいかがですか」
「少し意識が飛んでいたよ。正座は慣れていたつもりだったのだけど、こうも長時間だとしんどいね」
「……休憩ののち再開いたします。未だ日出羅木の教えを思い出していただけないようですので」
侍女たちがおれの拘束を一時解き、水を飲ませ、足を揉み、屈伸運動を命じる。
(おれをいくらこのお堂にぶち込んだって無駄だって、いつになったら母さんはわかるのかな)
久しぶりだからうまく順応できなかっただけで慣れてはいる。……あと3セットくらいやったら許してもらえるかな。
***
新宿で車に乗せられた時点で手荷物は全部没収された。そのまま目隠しをされて車で何時間だっただろう、8時間か10時間か15時間か。途中一度だけトイレ休憩と食事のために兵庫のサービスエリアで降りたのは覚えている。
日出羅木市に入る手前の車中で白い着物に着替えて、真夜中、裏口からこっそりと
そこから朝も昼も夜もなく、お堂で一人反省会だ。気が狂う。母さんはおれがきちんと反省するまで顔を見せる気はないらしい。
「――あー……」
お腹空いた。ハンバーガー食べたい。美味しそうな肉汁。最後に食べた朝ごはんモスでよかったな。目の前に仁さんもいて、オニオンフライひとつ分けてもらって、あー…………。
……また気絶してた。3セットはとうに過ぎているけれど、いつまで続くんだろう。おれが再び神様の教えを受け容れたら?まさか。そんな曖昧なゴールを母さんや学士が設定するはずがない。たぶんどこかに時間の期限があるはずだ。どこだろう、……ああ、ぐらぐらする。
『――お前は日出羅木神乃子の息子としてふさわしくない!この家を出ていきなさい!』
『旦那様、しかし博士さまは次代の神乃子でございます!』
『学士のほうが神乃子に相応しい!そうだろう!とにかく私の目の黒いうちはこの悪魔を屋敷に入れることは許さん!!』
『旦那様……!』
わざわざ隣の県の繁華街まで出てSNSで出会った男と遊んでいることがバレて勘当されたとき。おれにはちゃんとわかっていた。父さんが激怒するという形で、おれをこの家から出してくれたことをわかっていた。
だから父さんへの感謝は尽きることがない。福岡に住む純一伯父さんもおれによくしてくれた。二人でおれの生活費、学費、その他諸々、香まで準備して、秘密裏に東京の大学に逃してくれた。
……父さん、うん、父さんにはやっぱり会いたい。最後のお別れを、……感謝を……。
***
「今日は何日で今は何時?」
「知る必要はございません」
お堂と、御屋敷内のほんの数か所のみの出入りを許可されてから、何日だろう。太陽が沈んで真っ暗になっても肌に蒸し暑さを感じるから、少なくとも季節はまだ夏で……9月くらいだろうか。
「それで今日は。拘束具はつけなくていいの」
「旦那様がお隠れになられましたので、博士さまが正式にこの家に戻られることを神乃子さまがお許しになられました」
……ああ、……そうか。…………期限は、父さんが死んだら、だったのか。
「近日中に次代神乃子を決定する統一集会が実施されます。身を清め、心を鎮め、みなさまにご納得いただけるようなお言葉をご用意くださいませ」
「父さんの葬式におれは出られるの?」
「……神乃子さまにおたずねなさったらよいでしょう」
侍女はおれを小さな個室に案内して去っていった。ここにも呆れるほど何もない。文机と紙と鉛筆があるくらいだ。
――椅子くらい買えよ。
「……ふふ」
仁さんの言葉を思い出して笑ってしまった。本当にこの家は椅子を用意したほうがいいと思う。常時正座は疲れる。
(……ああ、でも、つらいな。……記憶の中の仁さんの声が、少し朧げになってきてる)
顔はまだちゃんと思い出せる。でも、あのときどんな声色で、どんなふうにおれを呼んでくれていたっけ、というのが曖昧になっている。ここにいて思い出せるのは、おれがまだ次代の神乃子と呼ばれていた頃のものがほとんどだ。
「……仁さん」
紙に向かい、鉛筆を握り、正座する。とにかくおれは、おれにやれることを、やる。
(必ずあなたのところに帰ります。あなたはおれにとって希望の光。あの夜空に輝くひときわうつくしいデネブの光。永久に立つ北十字……)
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