Side:Hiroto 2

(……疲れた……)

夏休み。生活費の足しにしようと思ってビアガーデンで短期バイトを始めた。

比較的給料よかったし、期間限定だから後腐れなく辞められるし、客は毎日入れ替わるから顔を覚えられにくいし、そもそも酔っ払ってるから誰もいちいちスタッフの顔なんか見てないし、ビールと料理が運べれば接客の質とかとやかく言われないし。

唯一のデメリットといえば、生活が若干夜型になってしまうことだった。朝の祈りをこれで3日連続サボってしまっている。明日こそちゃんとやろう……と帰路で誓う。

マンションが見えてきたところで、エントランスに人影があるのに気がついた。

「…………」

鉢合わせたくなくて離れたところから少し様子を見る。だけどオートロックを開けて中に入っていく気配がなかった。服装からして宅配便じゃないし、何、勧誘か訪問販売……?こんな夜中に……?

もう少し近づいてみて、それが茶髪の男であることに気づく。まさかと思いながら、走ってエントランスに駆け込んだ。

「――仁さん……!?」

「まど、…………」

やっぱり仁さんだった。仁さんもおれに気づいて、目を大きく見開いて。

「…………っ……」

そしてぽたぽたと涙をこぼし始めた。おれも動揺してしまって「え」とか「あの」とか全然気の利かない言葉しか出てこなくなる。

「…………っ、……ううっ……」

仁さんは何かを言いたそうで、でもうまく言葉にならないという様子だった。何もわからないけれど、とにかく。……ここに来たということは、おれに会いにきたんだと信じて。

「大丈夫です。とにかく、中入りましょう。話はゆっくり聞きますから」

そう声をかけて、仁さんの手を引いた。仁さんは抵抗せず、おれに手を握られたままついてきてくれた。


「とりあえず何か食べましょう。レトルトのカレーあるんでそれでいいです?」

「……ん」

「すぐ用意しますんで好きなところに座っていてください」

エレベーターで移動する間に気づいたことは、4つ。

仁さんのお腹がすごく鳴っていたこと。その音に仁さん自身が注意を払っていなかったこと。鞄もスマホも何も持っていなかったこと。顔も身体もその一挙一動が疲れ果てた様子だったこと。

(いつからここにいたんだろう。……ひとまず服が乱れていたり、怪我や出血があるわけではなさそうなのはよかったけど……)

とりあえず急いで警察や救急車を呼ぶ必要はないと判断して、まずは元気を取り戻してもらうために食事を出す。何が起きたのかわかるまで、極力慎重に対応すべきだと思った。

レトルトカレーとご飯を盛った皿と、お茶を入れたグラスを持ってテーブルがある部屋に戻ると、仁さんはベッドの縁におとなしく座っていた。おれが初めて彼を『視た』ときに輝いていた天使の羽根は、もう一枚も残っていないように見えた。それくらいさみしい背中をしていた。

「どうぞ。食べられそうなら食べてください。……おれ、邪魔にならないよう向こうの部屋にいますんで」

「……いい」

「……すみません、今なんて……?」

「…………行かなくていい。……悪いんだけど、そこにいてほしい……」

「…………わかりました」

『悪いんだけど』という前置きに、仁さんの申し訳なさを感じる。おれに申し訳ないと思うなんてかなり弱ってるな……。

仁さんはカレーを、最初はゆっくり、だけど次第にかき込むようにして一気に食べていった。横顔に少しずつ元気が戻ってくる。最後にお茶を一気に飲み干して、手を合わせた。

「……ごちそうさまでした」

「足りました?」

「ああ、うん。もう大丈夫。食ったらちょっと落ち着いたっていうか……その、急に来て悪かった」

「いいですけど、一体何があったんですか?」

「…………」

「聞きますよ。こんな状態の仁さんをこのまま追い返すわけないじゃないですか」

「……うん……」

「おれのことが信用できないならちゃんと離れてますんで。……今夜はあなたの許可なくあなたに触らないって誓います」

「……別に、離れてなくていーよ。ってか、俺が食ってる間ずっと立ってた……んだよな?ごめん、気づかなくて……。……隣、座っていいし……そもそもお前の家なんだから俺が座っていいとか言うのも変なんだけど……」

「……では失礼します」

仁さんと拳3つ分くらい離れてベッドに腰を下ろす。おれの膝辺りを見ながら仁さんが話し始めた。

「どっから話したらいいかわかんねーから、順番に話すけどさ……」

「はい」

「……やっぱあいつら、マルチだった。お前の言う通りだった」

「……」

「そんで、今日セミナーあってさ、水買わされそうになってギリギリで走って逃げたんだけどさ、なんか、スマホとか財布とか家の鍵とか全部入れた鞄そこに忘れたみたいで……めちゃくちゃヤバいだろ、それ……」

「…………」

「おまけに電車の中で敬介と湊に会うしさ。……あいつらマジでわかりやすすぎ。昨日もヤったし今日も品川のホテルでヤってきますみたいなさ、もうラブラブオーラみてーなのが少しも隠しきれてねーの。……たった3駅一緒に乗っただけでキツくてさ、気持ち悪くなって吐くかと思った」

「…………」

「鞄ないのに新宿過ぎてから気づいてさ、とにかく高田馬場より先に行ったらマジで帰れなくなると思って高田馬場で降りて、でもSuikaねーから駅出られねぇって思ったら、お前に返してもらった1000円がズボンのポケットに入りっぱなしで……。それで運良く出られて、……でも家の鍵ねーから帰れなくて。700円くらいあったから、一か八か、ここに来て……」

「…………」

「……っ、そしたらさ、来たはいいけど部屋番号わかんねーの!だっせーよな!一番上の階ってのは覚えてたから片っ端から鳴らしたんだけどさ、どの部屋も誰もでねーし、建物間違ったかって思って何度も出たり入ったりしたし、それでなんかずっと不審者してて、腕時計もねーから今何時かもわかんなくってさ!……朝飯しか食ってなくてもう限界だったし、喉渇くわ暑くてぼーっとしてくるわ、そもそもなんで俺ここ来たんだっけ?約束もしてねーのにいきなり来て会えるわけねーじゃん、夏休みなんだから帰省しててもおかしく、……ないって、気づいて、……なんかもう、ほんとにどうしたらいいかわかんなくなってたところに、お前が帰ってきて……」

「……仁さん」

「あー……なんか全然まとまってなかったよな、ごめん、とにかく、えっと、……」

「いいですよ、茶化したり、逃げたりしなくても。……話してくれてありがとうございます」

……言いたいことはたくさんある。話の中の矛盾点もいくつかある。だけどそれを指摘するのは後でいいと思った。今はとにかく。

「礼なんて、……なんで、お前が俺に言うんだよ、逆だろ」

「そんな状況でおれを頼ってくれるほど、おれを信用してもらえて嬉しかったです。だから、ありがとうございます」

「…………」

仁さんが驚いたように目を丸くした。そして、ちょっと気まずそうに視線をそらす。

「……信用、っていうか、あいつらのこと知ってるのは円だけだし、……敬介と湊がいない状況で俺が行けそうだった場所がここだけだったっていうか……。……たぶん、お前が思ってるほど俺は……」

「それでもいいんです。選択肢として考えてもらえただけで嬉しい」

「………………」

「酒が入っていたとはいえ、あなたには、申し訳ないことをしましたから」

「……まど……」

「……じゃあ、緊急性の高いものから1つずつ解決していきましょう。大丈夫です。おれがなんとかしますから」

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