Side:Jin 10
8月7日、金曜日。その日のセミナーは昼前から始まった。
内容は前回よりも少し難しいビジネス論だった。まず「先生」が喋り、その後様々な分野の経営者であるゲスト講師が経営とは、稼ぐとはどういうことかを入れ代わり立ち代わり熱心に語っていった。参加費ちょっと高ぇなと思ったけど、これだけ講師を呼んでるんだったらまあしょうがないかって感じだ。
「君たちはまだ若い。君たちがいきなり本格的なビジネスに参戦するのには大きなリスクを伴うだろう。だが、本を読み、我々の話を聞いているだけでは一向に成長できないのも事実だ。……そこで我々が勧めているのは、実際にビジネスを行っている人の下で直接学び、働くことだ。インターンにも少し似ているだろう。だが、インターンと違うのは君たちが働いた時間ではなく、成果で金銭を得られるということだ」
「考えてもみてください。会社の社長が時給いくらで働いていますか?時給いくらで働く社長に、新しいイノベーションが生み出せますか?私たちはあなたたちのような優秀な若者の成功を願っています。その成功のため、擬似的な社長となってみる――」
「――多少は身銭を切らねば、真剣には――」
「――――――――!」
「……!…………!」
(……やば、さすがにちょっと疲れてきた……)
気づけばぶっ通しで……何時間だろう。わからない。4時間くらい経っただろうか?人の話を聞いている最中に時計を気にするのはマナー違反だと言われ、腕時計もスマホも開始前に鞄にしまってしまった。時計もない。窓もないから時間の経過がわからない。
昼飯休憩どころか小休憩すらないのだからお手上げだ。そもそも始まってから水分補給もしてないんだけど。
周りの奴らもだいぶしんどそうだ。トイレを我慢しているのか唇を噛んで震えているのすらいる。俺はまだ大丈夫だけど……喉渇いたな……あと腹も減った……。
「それでは最後に――」
唐突にペットボトル入りの水が配られた。飲んでいいですよと言われ、ほとんどの奴がそれを飲む。……程よく冷えていて、ひどく美味しく感じた。
「美味しいでしょう?実はそれ、■■山の湧き水を――。私はこの水を売ることで――一介のサラリーマンから港区住まいの社長に――」
……話が長い。しまった、もう一口くらい飲んどくんだった。でも一気にガブ飲みした奴は逆にトイレに行きたそうで、それはそれで苦しそうだった。
「水ですから、在庫のリスクはありません。日持ちもしますし、最悪飲んでしまえばいいんですからね。……で、…………これも、……こうで……」
…………あれ?
……今、このおっさんなんて言った?……なんか、……あれ?なんか、俺たちがこの水を売るって話になってねぇか……?
『――たぶんマルチじゃないですかあれ』
円の言葉がふっと頭を過ぎった。
いや、だってこれはただのビジネスセミナーで。
「はい!私、経営者になるための第一歩として、まずはこの水を10本売ってみます!」
友達も参加してて。
「俺は1ヶ月で15本売ってみます!」
いろんな経営者が参加してるすごいもので。
「先生たちから原価100円で仕入れて、200円で売れば……」
…………いや、違う!やっぱマルチだこれ!!
俺が気づいたと同時、バインダーに挟まれた紙と筆記具がセットで手渡される。
「やる気がある方は是非名前を記入してくださーい!」
まるでアンケート用紙みたいに気軽に言ってるが、バインダーの金具の下にくる位置に「契約書」とはっきり書かれている。そして小さい文字で書かれた、甲乙の複雑な文章。……水をダンボール3箱分購入して……云々……。
「書きました!頑張ります!」
「ありがとうございます。販売については私たちも全力でサポートします!」
「…………」
書き終えた奴が1人、また1人と席を立って別の部屋に案内されていく。俺たちが最初に入ってきた入口には屈強な男が2人立っていて、まるで「書かないとここからは出られない」と暗に言っているようだった。
「仁くん」
「……!……菜々……」
「どうしたの?書かないの?私、仁くんだったら絶対できると思うよ?本屋さんでバイトしてるんだから、物を売るのは得意だよね?」
――ああ。
この女、はじめから「グル」なんだ。きっと、カズサもナツジも。
「い、いや……本屋ってさ、あまり店員が客に特定のモノ勧める商売じゃないっていうか……」
「じゃあ尚更だよ!この機会に勉強しようよ!1箱10000円なんだから、飲み会2~3回くらいやるのと変わらないお金で販売の経験ができるんだよ?すごくない?」
「…………」
「私、実はもう2箱ぶん売ってるんだ!仁くんになら特別にいっぱい売るヒケツ、教えてもいいよ……?それとも仁くん、菜々のこと信じてくれないの……?」
「おれ、……は……」
……2万3万なら、出せる額だ。
……確かクーリングオフってやつがあるから、とりあえず買って、あとで返品したっていい。
……本名も大学もバイト先も最寄り駅も全部知られている。今逃げたところでまた捕まるだけじゃないか。
……皆で毎日のように飲んで遊んで、楽しかった。ここで逃げたら、この1ヶ月で築いた関係が、全部壊れる。
――また、ひとりになる。
「菜々たち、ずーっと友達だよね?」
菜々のひんやりした手が、俺の頬を両側から包む。
正面から覗き込まれて、逃げられない、そう思った。
「菜々、仁くんのこと大好きだよ。友達として……ううん、これから一緒に進んでいける、パートナーとしても!」
「…………っ……」
……嫌だ。
こんな、嘘まみれの『好き』だなんて、いらない。
嫌だ。……信じたかった、のに。
『嫌だと思ったら――』
……脳裏に、円の声が蘇る。
『嫌だと思ったら従わないでください!あなた自身を守るために逃げてください……!』
「――ッ……!」
バインダーを、菜々の胸に叩きつけた。その勢いのまま突き飛ばして、椅子の列が乱れるのも構わず、出口に向かって走り出した。
「痛いっ!」
「菜々さん!」
突然暴力的な行動に出た俺を、まだ座っていた何人かが驚いたような目で見ていた。講師たちが菜々に駆け寄る。それらを全部後ろに置いて、屈強な男たちが「待ちなさい!」と叫ぶのも無視して、俺は下りのエスカレーターを駆け下りた。
建物を飛び出して、浜松町駅に駆け込んで、改札を通って、駅のホームに辿り着いて、扉が閉まる寸前に電車に駆け込んで。……電車が発車してからようやく、はー……と大きく息を吐く。俺と一緒に乗ってきた奴はいない。……逃げ切れた。
「あ、……あぶな、……かっ…………」
扉の上のモニターを見る。ほとんど何も見ずに乗ってしまったけど、ちゃんと山手線の外回りに乗れていた。このまま新宿まで乗って、いつも通りの帰宅ルートにつけば1時間くらいで家に、帰れる……。
「……仁、一体どうしたんだ……?」
「は、…………」
……なあ、神様。
「……なんで、東京に、いんのお前ら…………」
…………俺、なにか、悪いことした?
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