Side:Jin 6

『おれは仁さんが何をどう言ってもヤります。仁さんは嫌なら俺をぶん殴って逃げてください。着替えは仁さんの鞄と一緒に玄関にあります。そこまで逃げたらもう追いません』

黒い瞳が見下ろしている。眼鏡のない顔は存外に端正で、ギャップに動揺する。

『顔です。初めて見たとき、天使さまがいるって思いました』

『でも近づいてみたらおれが思っていた天使さまではなかったです』

『そういう意味じゃないですよ。天使さまのふりをしながら地上に蹲ったままで……報われない気持ちにずっと囚われてて可哀想だなって思いました』

顔しか知らない俺に勝手に惚れてきて、天使だのなんだの変なことばかり言って。


『ただ一言、おれのことを、……『悪魔』だと。そう罵ってくれたら、おれはもう金輪際あなたに関わらないと約束します』


抵抗してもいいと言われた。逃げるための言葉も教えられた。

だけどそれを、俺は信じられなくて。

……もうどうでもいいやと思ってしまって。


『――――あぁ……ッ……!!』





『三鷹――三鷹――お降りのお客さまは……』

「――――ッ!!」

三鷹のアナウンスで跳ね起きた。慌てて電車を降りてぜえはあと息を切らす。

「あっぶな……寝過ごすところだった……」

しかも昨日の夜を思い返すような夢を見てしまって、気分は最悪に近い。ああもう、マジで早く帰って飯。飯だ飯!!

余計なことを考えないように飯のことだけを考えながら早足で歩く。家の見慣れた白い壁と青い屋根が見えて、ようやく帰ってこられたという実感が出てきた。ほっと息を吐き出したそのとき――。

「……仁?」

「…………敬介……」

横断歩道の向こうに敬介の姿が見えた。……嘘だろ。なんで、どうして今。

「……お前、もしかして今帰ってきたのか?今日輪講あるんじゃなかったのか?」

学校用の鞄を持った敬介が渡らなくてもいい横断歩道を渡って俺のところに駆け寄ってくる。なんで……なんで今日に限ってこんな朝早いんだよ……。

「…………」

「仁?どうし……」

「……いや、実はそうなんだよな!あのあと酒足りなかったよなってあいつと飲み直しててさ、それで終電逃しちまって!いやー久しぶりにドジやらかしちまった!」

こうなったら開き直るしかない。どのみち……円がどこまで黙ってるか知らないが、どちらにせよ2人で帰ったことまでは敬介にはバレているのだ。その後も酒飲んで一緒に居たってだけで、嘘は言ってないし。

「……円と飲んでいたのか」

「そうそう。あいつやべーくらい酒強くてさ、全然潰れねぇの。笑っちまった!」

「…………仁、……なあ」

「いやでもマジで焦った!2週連続で輪講休むのはさすがに卒業が危うくなっちまうからさ。今からすぐ支度してまた高田馬場までとんぼ返り……」

「何かあったのか?」

「…………」

敬介の手が、俺の手首を掴んでいた。

「……何かって何」

「すまない、具体的には出てこないんだが……。……なんだか、いつもと違う気がする」

「……」

「……うまく言えないが、遠くに行ったような……」

「遠くって何だよ、俺はここにいるじゃん」

「……そう、そうなんだが…………」

「変な敬介。ってか、朝飯も食いたいし、シャワーも浴びねぇとだし、もういい?敬介もこの時間に外いるってことは朝イチで講義なんだろ。早く行けよ」

「…………そう、だな。呼び止めてすまない」

手がそっと離される。もう一度捕まる前に、一歩駆け出した。

「ま、心配してもらえたのは嬉しかったけどな!じゃあなー!」

「…………」

そのまま家まで走る。……走るとさすがに尻の穴がズキズキした。

玄関の扉を開けて、ただいまも言わずに階段を駆け上がって、自分の部屋に入って鍵をかける。……子供の頃、敬介からもらった剣のおもちゃのキーホルダーが机の上で朝日を反射してきらきら輝いていた。


「……なんで、…………なんで今日に限って、……わかるんだよ……」


――……うまく言えないが、遠くに行ったような……。


「…………なんだよ、他人に抱かれてきたとか、わかるもんなの……?」

壁際に立てかけた姿見を見る。普段と同じはずだ。キスマークとかつけられたわけじゃないし、怪我したわけでも……。

「……あ」

微かに濡れた髪に気づく。……汗も何もかも洗い流したくて髪も洗ったんだった。普段ワックスで整えてる髪型が今朝は全然なってなくて……だから敬介も違和感を持ったのかもしれない。

「…………」

手のひらで横髪に触れ、鼻に近づける。……円の髪と同じ匂いがした。



大学についたのはギリギリ。同期の発表の内容も全然頭に入ってこなかった。

「結城、なんか調子悪そうだけど大丈夫か?」

「また風邪ぶり返したとかー?」

「大丈夫、ただの飲み過ぎだから……」

――ああ、愛想笑いもすげー疲れる。早く帰りたい……いや、確か夕方からバイト入れてたな……。

敬介のこととか、湊のこととか、いろいろなことを考えたくなくて逃げるように増やしていたバイトがここにきて負担になる。……もういっそ辞めちまおうかとすら思う。辞めねーけど。

(今辞めたら次探すのもダルいし、金は貯めておきたいし)

……ああ、でも。

(バイト行ったら、また、あいつと顔合わせることになんのかな……)


結局その日は体調が悪いってことにしてバイトは休んだ。輪講と最低限の進捗を片付けて大学を出る。家に帰ると姉貴がいた。……最悪。なんでいるんだよ。

「仁、いいところに帰ってきた!ちょっと出かけてくるから心雪こゆき見てて!どうしても行かないといけないから母さんに心雪預けようと思ったら入れ違いになっちゃったみたいでさ」

「事前に連絡しねーからだろ……いきなり来た姉貴が悪い」

「しょうがないじゃない、急いでたんだからー!」

つーかそれなら俺にも連絡よこせよ……と思う。行き当たりばったりで、いざというときは他人頼みの姉貴のことは、正直言ってムカつく。結婚して家を出てくれたときはせいせいしたものだが、近くに住んでいるせいでたまに不意打ちで戻ってくるのがまた腹立つ。

「あのさ、俺今日体調が……」

「じんにーにー」

体調悪いんだけど、と俺が言い切る前に扉の向こうから心雪が顔を出した。苹果みたいに赤い頬に笑顔をいっぱい浮かべて話しかけてくる。

「こゆ、にーにーとあしょぶ!」

「そうねー、心雪、仁にーにーと遊んでもらおうねー」

「……俺体調悪いんだけど?」

「え?心雪にうつる病気?」

「いや……疲れただけだからうつったりはしねぇけど……」

「じゃあいいじゃない!一緒にパンパンマン観てくれるだけでいいから!じゃ、行ってきます!1時間くらいで戻るから!」

「ぱんぱん?こゆ、にーにーとぱんぱんみる!ぱんぱんー」

「……あー…………」

…………。

「にーにー?」

「……わかったよ、パンパンマンな……タブレット繋ぐからちょっと待ってろ……」

「ぱんぱん!にーにーとぱんぱん!」

ガキ特有の甲高い声が部屋中に響く。頭に響いて痛くてしょうがねぇ。



(あー、クソ。…………何も考えずに寝てぇ……)

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