エピローグ
山本徹が元いた世界に帰ってから、早くも半年が過ぎ去ろうとしていた。戻ってきた当初は、一年以上も家を空けていたことが、妻の奈津実にばれはしないかと、半ば冷や冷やものだったが、何んとかばれずに済んで、自分なりにホッとしたものだった。それでも戻ってきた当時は、それまで着ていたシャツもズボンも、ボロボロに破れていて、まともには人前に出られない状態だった。
そのために、山本はこっちの世界に戻ってくる時に、あらかじめタイムマシンの時間を、夜の時間帯に合わせておいたのだ。だから、夜の公園に着いた頃には人気もなかったし、人の目にも触れることもなく、自宅まで辿りつくことができたのだ。
それから着替えをするために、昼の時間帯に戻ろうとして、山本は思わずハッとしたのだった。
『しまったぁ。いまは夜だったんだ。太陽が出てなきゃ、このマシンは動かないんだった。どうしよう…』
そう、この吉備野博士の造った、腕時計型携帯用タイムマシンは、太陽光がないと稼働しないシステムになっていた。しばらく思案した挙句、山本は耕平の家に行って母親から、耕平の服を借りようと思いついた。
「こんばんは、山本です。小母さん、いらっしゃいますか」
出てきた耕平の母親は、山本の姿をみて驚いた様子で、
「まあ、どうしたの、徹さん。その格好は…」
「はあ、すみません。小母さん、これにはちょっと込み入った事情がありまして…、訳はいまは言えません。誠にすみませんが、耕平のシャツとズボンを、貸して頂けないでしょうか。明日にでも返しに来ますので、お願いします」
「耕平…、ああ、耕助ね。それは構わないけど、それにしてもすごい恰好ね…。さあ、上がってちょうだい。耕助も間もなく戻ってくると思うから、さあ、どうぞ上がってちょうだい」
山本は、耕平の母親に言われるまま家に上がり、しばらく待っていると耕平の服とズボンを持ってきた。
「これを使ってちょうだい。それから、いまお風呂に火を入れてきたから、着替える前に入ってらっしゃい」
「あ、いやぁ、ありがとうございます。それじゃ、お言葉に甘えてお借りします。では、ちょっと失礼します」
山本は湯殿に行き、破れたシャツとズボンを脱ぎ捨てて、湯船に首までどっぷりと浸かった。非常に気持ちがよかった。生き返ったような気がした。ついさっきまでいた縄文時代では、味わうことができない幸福感に浸っていた。
しかし、その時なぜか、言いようのない違和感を感じていた。先ほど耕平の母親が耕平のことを、耕助と言っていたが引っかかっていた。これはどういうことなんだろうと、山本は自分の耳を疑ったくらいだった。さっき別れてきたばかりの耕平が、耕助という名でいまここに存在しているのだ。もしかしたら、自分は知らず知らずのうちに、パラレルワールドの分岐点のひとつにでも、紛れ込んでしまったのだろうか。何がどうなっているのか、わけがわからなかったが、ここでは耕助という名の耕平が、間もなく帰って来るのだから、そう悠長ことは言っていられなかった。
風呂から上がると、居間で耕平の母親が酒の用意をして待っていた。
「これはいつも、あなたにお世話になっているから、徹さんに飲んで頂こうと思って、買っておいたのよ。いい機会だから、ここで飲んで行ってちょうだい。しばらくぶりに、徹さんともお話しをしたいし、さあ、こっちに来て座ってちょうだい」
「あ、構わないでください。小母さん。突然お邪魔して、しかも見苦しい姿まで、お目にかけてしまって、ホントに申し訳ありません。実は、これから行くところがありまして、勝手なことばかり言ってすみません。あとで改めてお礼に来ますから、今日はこれで失礼します。本当にすみません」
「あら、そう。それは残念ねぇ。せっかく来てくれたのに、ゆっくりしてってくれればいいのに、用があるんじゃ仕方がないわね。じゃあ、またゆっくり出てきてちょうだい」
耕平の母親が引き止めるのも構わず、佐々木家に暇を告げた山本だった。別に行く当てもなかったのだが、もしあのまま酒を飲んで酔った勢いで、耕平のことを口走ろうものなら、大ごとになりかねなかったからだ。
山本は、その足で駅前に向かいホテルで一夜を過ごし、翌朝自分が出かけた日に戻り、通りすがりの床屋に入って、ボサボサに伸びた頭を散髪して、しばらく本屋をのぞいたり、街をぶらついてから自宅に帰った。実際には一年余り経っていたのだが、山本も内心では奈津実にバレはしないかと、ビクビクものだったが、妻はこれといって気にする様子もなく、いつものように家事をこなしていた。
そんな姿を見ていると、山本は急に妻のことが愛おしくなり、駆け寄って行って後ろから抱きしめていた。
「ちょっと、何すんのよ。あなた、この頃少し変よ。今朝だってあたしの顔を見つめたりして、ホントにどうしたのよ。キモいったらありゃしないんだから。もう…」
「何いってるんだよ。オレは、お前のことを心から愛しているだけだよ。嘘じゃないぞ。ほら…」
山本は言うよりも早く、奈津実の頬に唇を押しあてた。
「やめてよ。もう…、一度病院に行って見てもらったほうがいいわよ。まったく…」
奈津実はブツブツ言いながらも、台所のほうへと消えて行った。
山本も、いつもの生活に戻り、会社への通勤と土日は、これまでほったらかしに近かった、奈津実とふたりでいる時間を、大切にしようと心賭けるようになった。
それから五ヶ月が過ぎ去り、野山はすっかり秋めいて遠目にも、赤や黄の樹木が目立つようになっていた。そんなある日、山本はふと亡くなったカイラと、ふたりの間に出来た娘のライラのことを想い出し、急に懐かしくなった。
山本は、近くに二十数年ほど前に、工業団地建設の際に発掘された、縄文遺跡があることを思い出していた。話では聞いて知ってはいたが、もともと古代史には疎いということもあり、わざわざ見学しようという、気にもなれずに今日に至っていた。
しかし、いまは違っていた。なぜかは知らないが、何かしら郷愁のようなものが、沸き上がってくるのを感じていた。
居ても立ってもいられなかった。衝動にかられた山本は、気がつくと自転車を走らせていた。この街の縄文遺跡は市が整備をして、復元された竪穴式住居や、掘立柱建物などと一緒に、発掘された土器や日常的に使われた、道具類を展示する展示館が建てられいた。
山本は公園内に足を踏み入れた。
『ここがホントに、あの縄文の邑かよ…。まるっきり雰囲気が違うじゃないか。まるで場所がわかりゃしないじゃないか……』
山本が訝しく思うのも不思議ではなかった。彼のいた縄文の世界は、いまからざっと数えても三千年も前の世界なのだから、地形にしてもいまのものとはまったく違う、ものなのかも知れなかった。まして、この遺跡自体が厚い土に覆われ、埋もれていたものを重機や人手によって、掘り起こされ発掘されたのだから、山本がいた縄文の世界とはすっかり様変わりしていても、それほど驚くほどのことでは、ないのかも知れなかった。
それでも、山本は気をとり直して、カイラとムアイを埋葬した場所を探そうと、公園内を三時間かけて捜し回ったが、結局のところ彼の努力は徒労に終わり、ただ疲れだけがもの凄い重圧感となって、のし掛かってきたのに過ぎなかった。
いくら捜し回っても、カイラの墓は見つけられずに、山本は仕方なく墓地と書かれた、表示板のところへ行って、跪くと両手を合わせてカイラの冥福を祈った。
秋の陽は釣瓶落としというくらいで、まだ四時にもならない時間帯なのに、辺りはすでに夕暮れの様相を窺わせていた。山本はせっかくここまで来たのだし、閉館まではまだ間があったので、資料展示館を覗いて帰ろうと思い立った。
展示館の中は、土曜日の午後ということもあり、十人くらいの人が発掘された土器や、石斧・槍の穂先・動物の骨を加工して、造られた釣り針などに見入っていた。これらの発掘された遺跡物は、縄文時代の初期・中期・晩期に、分けられて展示されていたが、ここの遺跡群は主に晩期のものが、主流であると説明掲示板に記されていた。
山本は順を追って展示品を見て回ったが、やはり一番多いのは土器類であった。展示されている土器の大半は、砕けたものを寄せ集め欠損した部分を、人工的に加工した復元物がもっとも多かった。
そんな中、縄文初期・中期と見て行き、最後に晩期のコーナーについた時だった。そこに展示されている、土器類に眼を移した瞬間、山本は見る見るうちに顔面が、蒼白に変わって行くのが自分でもわかった。
『まだ残っていたのか…。こんな物が…』
その縄文晩期コーナーの一角に、並んでいた物は山本が壊れた自転車の、車輪を利用して造ったロクロで、カイラが初めて造った縁のところに、角状の突起がついた火焔土器と、山本徹製作による土鍋が、ふたつ並んで展示されていた。ふたつとも造った時のまま傷ひとつなく、二十一世紀になった現在まで残っているのは、ほとんど奇跡に近いものかも知れなかった。特にカイラの製作した火焔式土器は、見事なまでの造形美を誇り、現代の有名な美術品と比べても、勝るとも劣らないほど実に素晴らしい、気品に満ちた造形物であった。山本は我を忘れて、カイラの火焔土器に見入っていた。出来ることなら、この手で抱きしめてやりたかった。
その時、微動だにしないままで、展示物に見入っていた山本の耳に、閉館を知らせるアナウンスが聞こえてきた。我に返った山本は、外に出ようとして向きを変えようとしたが、金縛りにあったように足が動かなかった。大きく深呼吸をひとつすると、ようやく足を動かすことができた。やっとの思いで外に出てくると、もうすっかり夕闇が迫りかけていた。山本は、またカイラの墓地と思われる場所に立っていた。そして、その場に跪くと短い期間ではあったが、自分に父親という経験をさせてくれた、カイラに対して心から感謝して深々と首を垂れると改めて、カイラの冥福を祈るのだった。
そして、いまでも縄文という遥かに遠い時間軸の中で、耕平やウイラやコウスケ・娘のライラたちが、暮らしていることを想いながら、二度と訪れることもない縄文の世界に、これまでにない感傷を抱きながら、どうしようもなく心の底から、込み上げてくる熱いものを押えるようにして、山本徹は止めどもなく溢れ出る涙を、拭うこともなく縄文遺跡公園を後にした。もう間もなく、この街にも雪の降りだす季節が、すぐそこまで迫りつつある頃で、山本の立っているかたわらにも、冷たい風が音もなく吹きすぎて行った。
完
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