最終章 さらば友 さらば縄文時代

       一


 縄文の山々にも、いよいよ冬が近づきつつあり、紅葉樹も葉がすっかり赤や黄に染まり、一層深まりゆく秋を感じさせていた。

 人喰い熊が潜んでいる茂みを、三方から取り囲んだガイダ・山本・耕平を、中心とした縄文の里の狩人たちは、いま熊を誘い出すチャンスを窺がっていた。

「どうしたもんじやろうかのう。どうやって、ヤツを誘き出すかだ。まともに掛かったんじゃ、こっちが危ない可能性があるしな……」

 ガイダが小さな声でつぶやくように言うと、山本は何を思ったのか背中からナップザックを下ろすと、何やらゴソゴソ探しているようだった。

「あった。これだぁ」

「何だぁ。それ…」

 耕平が小声で聞くと、山本は照れ臭そうにして、

「爆竹さ。いつか暇な時にでも、お前と遊ぼうかと思って買ってきておいたのさ」

「お前、そんなものを持ってきて、どうする気なんだ…」

「これを矢の先に括りつけて、あの熊が潜んでいる少し先に打ち込んで、爆竹の音で驚いて飛び出したところを、みんなで討ち取ろうって寸法さ。どうだ、いいだろう」

「何じゃ、それは、そんなもんで熊が驚くのか? わしにはとても信じられんがな…」

 ガイダが呆れたように言った。

「いいですか。これは、ここんところに火をつけると、大きな音を立てるんです。いま、やって見せますから、よく見といてくださいよ。

 それから、熊が姿を見せたら、すぐ攻撃できるように皆さんも、準備のほうをお願いします」

 山本は一本の矢先に、爆竹を結わえて耕平に手渡した。矢を受け取った耕平は、弓につがえると大きく引き絞り、そこへ山本が矢先の爆竹に火をつけた。間髪を入れずに耕平は、熊が潜んでいるところから、少し離れた場所を目掛けて矢を放った。次の瞬間、

「パン、パン、パン、パン、パパン、パーン」

 連続音とともに爆竹は炸裂した。小さいながらも、火薬の爆発音を初めて聞いた熊は、驚いて茂みの中で仁王立ちになり、上半身をさらけ出してきた。

「それー、いまだぁー」

 ガイダの号令とともに、狩人たちは構えていた弓や、槍を熊を目掛け一斉に撃ち放った。

 一本の槍が熊の右前足に当たり、一本の矢は左眼の辺りに命中したようだった。

「グワォー」

 何が起こったのか、わけも分からず熊は大きな声で、吠え立てるとガイダたちに気づいて、慌てたように茂みに身を隠してしまった。

 狩人たちは、熊が隠れた茂み目がけて、次々と矢を射かけていった。

 と、突然、茂みを押し退けるようにして、怒りの表情を露わにした熊が、こっちに向かって突進してきた。茂みのある所から、ここまで三十メートルほどしかない。山本は小石に結わえつけた爆竹に、火をつけると熊が走ってくる手前を目掛けて、続けざまに投げつけて行った。

「パ、パン、パン、パン、パン、パン、パン」

「パ、パ、パン、パン、パン、パン、パン、パン、パ、パン」

「パン、パン、パン、パン、パン、パ、パン、パン、パン」

「パ、パン、パン、パン、パン、パン、パン、パン、パン」

 辺り一面に爆竹の炸裂音が鳴り響いた。さすがに熊も驚いたのか、一瞬たじろぐように身をひるがえすと、一目散にその場から逃げ出して行った。

「おい、ガイダ。熊が逃げたぞ。追うか。どうするんじゃ」

 ひとりの狩人がガイダに意見を求めた。

「いや、止めておけ。手負いのヤツらほど、手に負えないものはないからな。これに懲りて、もうわしらの邑のほうには、しばらくは近づかんじゃろう」

 釈然としないものを感じたまま、邑へもどる道々ひとりの狩人が、誰に言うともなしに話し出した。

「前にコウヘイとトオルが造った、落とし穴なんじゃがのう。あれを反対側の竹林の近くにも、あと二つ三つ造って置いたらどうじゃ。しばらくは来んじゃろう。と、ガイダは云うちょるが、わしゃあ、どうも安心できんのじゃあ。どうじゃろうかのう」

「それはいいと思いますよ。オレは賛成します。それに邑のみんなが力を貸してくれるんだったら、アッという間にできちゃいますよ。三つと云わず、五つでも六つでも造ればいい。そうすれば、みんな安心して生活できるじゃないか」

 大乗り気で山本が賛成したので、帰路を辿る一同がどっと湧いた。

 こうして、その日の午後から、邑の裏手にある竹林の近くに、熊を落とし入れるための、落し穴の穴掘り作業が始まった。穴掘りに参加した者の中に、ムアイと呼ばれる邑一番の力持ちで、ひと際でかい図体の男が交じっていた。

縄文人の平均身長が、一・五メートルそこそそこなのに対して、この男は優に二メートルは、あろうかと思われる体躯で、それなりに横幅もあって現在で言うならば、力士かプロレスラーなみの見事な身体であった。そのわりにはどこを見ても、無駄な贅肉などまったく付いていない、完璧なボディーの持ち主なのだった。

 そのムアイは穴を掘っていても、他所のグループが大きな岩にでも、ぶち当たろうものなら、自分の持ち場をほっぽり投げてでも、岩の出た場所まで出向いて行って、誰の力も借りずに自分ひとりで、軽々と岩を持ち上げては穴の外に、平気で放り出してしまうという、実に迫力満点の男なのであった。

 いまも数人の仲間が、大きな岩を退かそうと梃るっていると、通りがかったムアイが見るに見かねたのか、横からヒョイと割って入ると、無造作に岩を脇に放り投げると、そのまま立ち去って行ってしまった。

「ふぇー、スゴいな。ありゃー、居るところには、いるもんだな。スゴいヤツがぁ…」

 もの凄い馬鹿力に半ば呆れたように、山本は額の汗を拭いながら耕平に言うと、

「ああ、ムアイは特別さ。お前もいま見たろう。彼が持ち上げて投げ出した岩だって、きっと二百キロくらいは、軽くあるんじゃないのかぁ…」

「に、二百キロ…。そんなにあるのかよ。軽々と投げ捨てたから、もっと軽いのかと思っていたら、二百キロかぁ。うーん」

 大人が大きな石を軽々と、持ち上げるのを見て驚く子供のように、ムアイの後姿を見送って、山本は感心したようにつぶやいた。

「周りの人とも、あんまり喋らないみたいだし、何だか怖そうな人だよな。何となく近寄り難いような。それにオレたちよりも、だいぶ歳も上のようだしな……」

「何云ってんだよ。山本、お前は知らないから、そう思うかもしれないけど、彼はすごくおとなしいし、それにとてもやさしい男なんだぞ。歳だってそうだ。この時代の人間は二十一世紀のオレたちと違って、すごく老けて見えるけど、ホントはオレたちよりも、ずっと若いはずなんだ。ウソだと思ったら、お前も一度くらい話してみろよ。分かるから、今度オレが紹介してやるよ」

 そんなこんなで、三・四日掛かりで合計六カ所の、落とし穴の掘削作業が終了した。予定していたよりも、はるかに早く完成したのは、ムアイが穴掘りに加わった功績が、極めて大きかったと言えるだろう。このムアイという男、持ち前の怪力と人並外れた、身体を買われて普段は山に籠って、樹木などの伐採に従事しているとの話だった。

「それにしても大したもんだ。あのムアイつて人は…。オレなんて、力仕事はからっきしダメだし、耕平、お前だって、そんなに力には自信が、ないほうじゃなかったっけ」

「ん、確かにな。でも、ここに来てから、いろいろとやってるうちに、筋肉も結構ついて来たみたいなんだ」

「へえー、お前でもやれば出きるんだぁ。んでも、思ったより早くできてよかったよな。さあ―て、これからどうやって、熊を誘い出すかだよな。もっとも、熊の野郎もこっぴどい目に遭わされたんで、当分の間は姿を見せないと思うけどよ」

 そんな話をしていると、山へ帰って行くのかムアイが、こっちにやって来るのを見つけた。

「あ、ムアイが来た。ちょうどよかった。ちょっと待ってろ。いま紹介してやるから、おーい。ムアイ待ってくれ」

 耕平は、ムアイのところに走って行くと、ふた言三言話していたが、すぐにムアイを連れて、山本のところへ戻ってきた。

「コイツはオレの友だちで、トオルって云うんだ。きみと話したいって云うから、紹介するよ。よろしくな」

「いやー、凄かったよ。すご過ぎだよ。キミは、お見事でした」

 山本に褒められると、ムアイは体に似合わないような笑顔を見せて、にっこりと笑いながら言った。

「あんたがトオルか。カイラは気の毒なことをした…。わしも子供の頃は、よく遊んだもんだ。ほんとうに可哀そうなことをしたな……」

 そう言いながら、今度はいまにも泣き出しそうな顔になっていた。

 この時、縄文人というのは、男でも女でも何と純朴なんだろうと、山本は心の中にジーンと来るものを感じていた。そんな中で、このままムアイと別れてしまうのが、惜しいと思った山本は、ぜひ自分のところに来て、一緒に酒でも飲まないかと誘った。すると、ムアイも酒は嫌いではないらしく、ふたつ返事で承諾したので、穴掘り工事の後始末が終わるのを待って、三人揃って山本の住居を目指して帰って行った。

 家に着くと山本は、囲炉裏に火を焚いて川で獲ってきた魚の干物や、耕平と一緒に狩りに行って捕まえた、野ブタやイノシシの干し肉を焼いて、最後に自家製の果実酒を出してきて、落とし穴工事の完成を祝って、細やかながら宴が始まった。酒を酌み交わしながら、話は必然的にどうやったら、「熊を誘き寄せるか」という一点に絞られていた。

「とにかく、わしは思うんだが、ヤツの巣穴は判ってるんだったら、直接こっちから出向いて行ったほうが、早いんじゃないじゃろうかのう」

「それはいいとしても、どうやって攻めるんだい。何か作戦でもあるのかい」

 干物の焼いた魚を、頬張りながら山本が訊いた。

「トオルが持っているという、燃える水があるじゃろが、あれを入れ物ごと担いで行って、熊が出てきたところに、巣穴の上から目の前に落とすんじゃ。それをコウヘイが、火のついた矢で射るんじゃよ。そうしたら、イチコロじゃろが。どうだ。いいじゃろが」

「でも、どうやって誰が、あの岩山までガソリンを持って登るんだい」

「わしがやるしかなかろうが」

「だけど、あの辺は岩だらけだし、足場も悪いから危険なんじゃないのかい」

「何を云うとるんじゃ、トオル。どこの足場が悪いと云っとるんじゃあ。あんなところは、みんなわしの庭みたいなもんなんじゃい。ガッハハハハ」

 ムアイは豪快に笑うと、山本が焼いた器の酒を一気に飲み干した。

「それで、いつやる気なんだい。もうそろそろ雪も近いし、熊も冬眠に入る頃じゃないのかい。冬眠に入ってからでは、ちょっと面倒じゃないのかな」

 冬が近づいているのを心配して耕平が聞いた。

「いや、その反対じゃい。いいか、よく聞いてくれよ。熊は冬眠してからのほうが楽なんじゃ。寝入り鼻を襲うのが一番なんじゃ。人間だって、寝入り鼻を起こされたら寝ぼけるじゃろうが、あれと同じことよ」

「それじゃ、いつ冬眠に入るのか調べなくちゃいけないなぁ。でも、どうやって調べりゃいいんだろうなぁ」

 山本がひとり言のようにつぶやいた。

「明日から、わしら三人で熊の巣穴の近くに陣取って、寝ずの番をすればいいんじゃい。わしはこれから、邑長のところに行ってくる。そうだ。お前らも一緒に来てくれ。そのほうが一番手っ取り早いんじゃ」

「でもさ。もう夜だし、明日の朝早く行ったほうが、いいんじゃないのかい」

 耕平が言うのも聞かず、

「なーに、構うことあるかい。邑長だって、お前らには一目置いとるんじゃから、平気じゃろう。これからすぐ行こう」

 ムアイを先頭に三人は邑長のところに行き、明日から熊の冬眠を見届けるために、巣穴近くに陣取って寝ずの番を、やることを告げて了承を得ると、邑長は寝ずの番をしている間の食料を、邑の者に交代では運ばせることを約束してくれた。

 こうして、邑長のもとを辞した三人の頭上には、冬の銀河が二十一世紀のそれとは、少しも変わることのない、輝きを見せて満天に広がっていた。

 家路を辿りなから、帰ったらすぐにでも明日からの、宿泊用にキャンプ用具の点検を、早めにしておこうと山本は考えていた。


       二


 翌朝、目覚めるとすぐに山本は、外に出て空を見上げていた。この時期には、珍しいほど晴れ渡った空には、春を思わせるような太陽が輝いていた。

 山本は食事を済ませて、ガソリンを詰めたポリ容器を前に待っていると、やがて耕平とムアイの姿が見えて来た。

「やあ、おはよう、山本。ムアイが来るのを待っていたら、ちょっと遅くなっちまった」

「おはよう、トオル。お、これか、燃える水ってのは…」

 ムアイは山本の前に、ふたつ並べておいてあるポリ容器を指した。

「ところで、耕平よ。これをどうやって運ぶ…。これも結構重いし手に持って歩くんじゃ、あの山道はきついんじゃないのか」

「なーに、そんなことは心配するな。こんなもンは、わしが片手で担いでいくから、大丈夫じゃあ」

 ムアイは胸を張るよう言うと、ポリ容器に手を伸ばして待ちあげようとした。

「ちょっと待って、それじゃ、大変だろう。ロープで結わえてやるから、少し待ってて」

 山本はロープを持ち出して来て、容器がズレないように結びつけた。

「よし、これならいいだろう。これを担いで行けば、ずっと楽なはずだ。ムアイ、頼んだよ。それじゃ、行こうか」

 人喰い熊の棲む、巣穴のある山を目指して、険しい道なき道を歩き続け、巣穴の近くまで近づいた時、つとムアイが立ち止まった。

「よし、ここで待ってろ。わしが様子を見てくる」

 ムアイはポリ容器を置くと、特大の槍を持って急な斜面を駆け上って行った。

「ホントに、アイツは身軽なんだなぁ…」

「そりゃ、そうさ。毎日山の中を駆け回ってるんだからな」

「だけど、ひとりでホントに大丈夫なのか。熊以外にもイノシシとか狼だっているじゃないか」

 また、心配そうな顔で山本が言った。

「大丈夫だって、お前も見たろう。あの大きな槍を、あれはふつうの槍の二・三倍はあるぞ。槍先だって特別硬い石を使ってるんだってから、ムアイが持てば鬼に金棒なのさ」

「うん、あの槍も槍先も確かに普通のよりは、かなりデッカイよな。あれだったら、熊だって一コロかも知れねえな」

「そうだよ。だから心配するなって、少し落ち着けよ。山本」

 耕平に言われて山本も腰を下ろした。しばらく待っていると、ムアイが急斜面を駆け戻って来た。

「どうだった」

 耕平が尋ねると、ムアイもしゃがみ込みながら、

「熊はいなかった。しかし、ケガもまだ治ってないようだ。血の跡が残ってたからな」

「で、どうする気だ。これから…」

「体が弱っているのなら、いまを逃す手はない。少しでも早いうちに仕留めたほうがいい。しかし、ここにいたんじゃ、どうにもなるまいが、もっと巣穴のほうに移動しよう。ふたりともついてこい」

 と、言うよりも早くムアイは立ち上がり、ポリ容器を担いで登って行った。山本と耕平もそれに続いた。しばらく行くと、巣穴からさほど遠くないところに、少し平坦な場所を見つけた。

「よし、ここにしよう。あとは熊の帰ってくるのを、待つことにしようか。その後のことは、その時になってから考えよう。ふたりとも少し休んでおけ」

 ムアイは腰を下ろすと、岩にもたれ掛かった。ふたりも同じようにしゃがみ込み、山本はタバコを取り出して火をつけた。

「トオル、お前がいつも咥えている物は、いったい何なんじゃ。そんな煙吸ってどこがいいんじゃあ」

「これかい。これはタバコって云うんだ。これを吸っていると気持ちが落ち着くんだ」

「へえー、そりゃいいな。どれ、わしにも試しに一本くれんかのう」

 もの珍しそうにムアイが手を出した。

「いや、止めたほうがいいよ。いつだったか、邑の人にも一本あげたら鼻水は出るわ、咳は止まらないわで、ひどい目に遭ったことがあったんだ。だから、止めといたほうがいいと思うよ」

「なーに、わしゃあ、そんなバカなことはせん。頼むから、分けてくれんかのう」

 ムアイが執拗に頼み込むので、山本は仕方なく一本分けてやった。

「じゃあ、一本上げるけど、いいかい。よく聞きなよ。煙をいっぺんに吸い込んじゃだめだよ。最初は、ほんの少しだけ、ゆっくりと吸い込むんだ。わかったかい」

「よし、分かった。初めは少しだけゆっくりとだな」。

 山本が火をつけてやると、ムアイはタバコをゆっくりと吸い込むと、教えられた通りに、ほんの少しだけ、吸い込んだようだった。そして、ゆっくりと吐き出した。別に咳き込む様子もなかった。やがて、ムアイはホワっとした表情になった。

「こりゃあ、ええもンじゃのう、トオル。何だか頭の中がクラっとして、とってもええ気分じゃあ…」

 この時、ムアイは縄文人として初めて、喫煙に対する快感を味わったのだった。

こうして、熊の巣穴を見張り続けていると、辺りはすっかり夕方近くになって来て、山本と耕平は野営用のテント張りを始めた。どうにかテント張りが終りに近づいた頃、下の方からガイダが上ってくるのが見えてきた。

「おーい、ガイダ、こっちだよー」

 山本が小さな声で呼びかけると、ガイダもそれに応えるように手を振った。

「ガイダ、どうしたんじゃ。こんなところまで来るなんて、邑で何かあったのか」

 上がって来たばかりの、ガイダにムアイが問い質す。

「いや、何もない。邑長に云われて食い物を持ってきた。それから、わしも熊退治に加われとのことだから、よろしく頼む。ところで熊はどうした」

「うむ。それが、ケガもひどいらしくて、ここにはまだ戻っておらん。さっき巣穴を覗いたら血の跡が岩にベットリついとったから、今夜は来んかも知れん」

「それじゃ、オレたちはまた寝ずの番をしなくちゃなんねえのかよ。やれ、やれ」

「いや、そんなことはないぞ、山本。熊は夜行性じゃないから、夜は出歩かないだ。それにケガもしてるだろう。なおさら、いま頃はどこかでジッとして、動かないでいるだけだから、心配しないでぐっすり寝ろよ」

 と、耕平が言うとガイダも話しに加わって来た。

「そうとも、コウヘイの言うとおりだ。もし、何かあってもムアイひとりいれば安心だから、心配しないでゆっくり休めばいい」

 その後、食事を終えてしばらく、談笑してから就寝についた。

 次の日も、その次の日も何事もなく三日目になった。午後になると、さすがにガイダが音を上げたのか、こう言った。

「もう、これ以上ここにいても無駄じゃな。邑に戻って、もう一度みんなで相談して、どうすればいいのか決めよう」

「オレも、そのほうがいいと思うな」

 山本も同意したので、一同その場を引き上げることになった。

 一旦、山の巣穴から戻って一週間も過ぎた頃、ガイダとムアイが山本のところにやって来た。

「トオル。もう、そろそろいい時期だと思うんじゃが、もう一回行って見ないか、あの山へ。これを逃したら、もうおそらく今年は終わりじゃろうからのう」

「ああ、行こう。実はオレ待ってたんだ。ガイダかムアイがやって来るのを」

「そうか。それは悪かったのう。だが、これが恐らく今年最後の熊狩りになるだろうから、わしも念入りに策を練っていたんじゃ。それに、わしら四人だけでは心もとないんでな、助っ人を三人ばかり頼んできた。おい、みんな来い」

 ガイダが声をかけると、ムアイを先頭に屈強そうな男が三人現れた。

「紹介しようかいのう。これがタイヒ。こっちがチルト。そして、こっちがボイタじゃ。みんなわしと同様に、狩りを専門にしているヤツらじゃから、安心して任せておけ」

「あ、どうもよろしく。それで、これからすぐ出かけるのかい」

「ああ、そのつもりじゃ。コウヘイもすぐ来ると云うとった」

「それじゃ、すぐ準備するから待っててくれ」

 山本は必要なものを用意すると、すぐ外へ飛び出して行った。

 間もなく耕平も合流して、ガイダを先頭にした一行七人は、熊の棲む山を目指して出かけて行った。一時間ほどかけて、岩でゴツゴツした坂を進んで行くと、登り詰めたところに先週見つけた、広さ十坪ほどの平地があった。

「よし、ここなら熊の巣も見通しがいいし、まずはヤツがいるかいないか確かめよう。それから、ムアイは燃える水を持って、あの巣穴の上のほうに上って待機していてくれ。持って行くのはひとつでいいぞ」

「わかった。任せてくれ」

 ムアイは機敏な動きを見せ、結わえてあったポリ容器を解して、ひとつだけ結わえ直すと背中に担いで岩山に向かおうとした。

「ちょっと待ってくれ。ムアイ」

 山本がムアイを呼び止めた。

「何だ。トオル」

「これを上から投げ落とす時に、この蓋のところを少し、緩めてから落としてくれないか。いまやって見せるから、よく見ててくれ…」

 山本は、残ったほうの容器の蓋を、軽くゆるめて見せた。

「こうやって、少しだけゆるめてから、投げ落としてくれればいいから、解ったかい」

「わかった。任せておけ」

 そう言い残し、ムアイは足早に、その場から立ち去って行った。

「よし、熊が本当に中に、いるのかどうかを確かめねばならん。残った者の中で誰か、様子を見に行く者はおらんか」

 ガイダが皆の顔を見渡しながら聞いた。

「よし、オレが行こう」

 耕平が名乗り出た。それを見た山本は少し慌てて止めた。

「ちょっと待てよ。耕平、何でお前がそんな危険を冒してまで、行かなくちゃいけないんだ。もとはと云えば、みんなオレのために、協力してくれてんじゃないか。オレが行くから、ここに残れよ。お前は…、バカ野郎。お前に万一なことでもあったら、ウイラやコウスケはどうする気なんだよ。オレが行くよ。このオレが行く」

「ちょっと待てよ、山本」

 今度は耕平が止めた。

「お前にだって、奈津実さんがいるじゃないか。反対に、もしお前が死んだりしたら、彼女が可哀そうだろうが、それでも行くのか」

「ああ、行くよ。それに奈津実は、オレがここに来てるなんて知らないし、お前と一緒で行方不明にでも、なったんだと思うだろうよ」

 バチーン、耕平はいきなり山本を殴りつけていた。

「何すんだよ。耕平」

 まさか、殴られるとは思ってもいなかった山本は、少しよろけながら耕平を睨みつけた。

「ちょっと待て、お前たち」

 ふたりの雲行きがおかしくなったのを、見てとったのかガイダが慌てて止めに入った。

「ここでお前たちに騒がれて、熊に気づかれでもしたら、大変なことになるんだぞ。喧嘩なら帰ってからにしろ。様子見なら、わしが行く。トオルもコウヘイも、一緒に付いてこい」


        三


 ガイダ・耕平・山本の三人は、足音を忍ばせて熊の巣穴に近づて行った。

「わしが見てくる。お前らはここにいろ」

「ひとりで行っちゃ、危険だよ。オレも行くよ」

 山本が止めた。

「大丈夫じゃ、少なくてもお前らよりは、危険には慣れとるからな。いいから、ここで待っておれ」

 そう言い残して、ガイダは岩陰から離れると、忍び足で熊の巣穴へ近づいて行った。巣穴の近くまで行くと、岩をよじ登り始めたガイダは、穴の真上まで来ると小さな岩を拾い上げ、巣穴の前辺りを狙って投げつけた。岩はドスンと音を立てて落ちたが、周りは何事もなかったように静まり返っていた。

 ガイダが手招きをしてふたりを呼んだ。急いで山本と耕平が近か寄ると、降りてきたガイダが何やら、考え込むような仕草をしながら言った。

「どうやら、ヤツはまだここには戻ってないらしい。よほど、わしらにやられた傷がひどいのか、もしかすると、もう生きとらんのかも知れんのう……」

「そんなことって、あるのかなぁ…。あんな熊が、あの程度の傷で死んじまうなんて、オレにはどうしても信じられないよ」

 山本がつぶやくように言った。

「いや、わしも分からんて、この目で確かめたわけではないからのう。あるいは、まだどこかに隠れ潜んで、傷が癒えるのを待っているのかも知れんから、まだまだ油断はできん。あと二・三日待ってみよう。それでも、出て来んようだったら、それはそれでどうしようもないからのう」

 ガイダは腕組みをしながら答えたが、何かを必死になって考えているようだった。

「それじゃ、これからどうする気なんだい。ガイダ」

「うむ、向こうに戻って泊まり込みで、見張りを続けよりあるまい。しばらくの間はな…」

 みんなのところに戻って話し合った結果、それぞれ二名づつ組を作り、時間を決めて交代で見張ることになった。

 縄文人には時間という概念はなく、彼らは太陽が昇ると起き出し真上に来れば食事を取り、沈めば就寝むという習慣がついていた。だから、交代する時間は山本が頃合いを、計って知らせるようことになった。

 まず、山本が手を挙げた。続いてムアイも名乗りを上げてきた。こうして交代制で熊の見張りは開始され、後の者たちは山本のテントで休憩を取ることにした。

「ところで、ちょっと聞くけどさ。熊はどうなったと思うんだい。ムアイは」

 熊穴を見張りながら山本が聞いた。

「わしは、ヤツは必ず戻ってくると見てるんだ」

「どうして、そう思うんだい」

「うん、これはわしの勘なんじゃが、何度も云うようじゃが、熊はあんな傷じゃ絶対に死にゃあせん。きっと、どこかに隠れて傷が治るのを待っているじゃ。そのうち戻ってくるから見てろ」

 何かしらの確信があるらしく、ムアイは堂々と言い切った。

「しかし、こんなに時間がかかるとは、思ってもいなかったよなぁ。これだけの人数がいて、未だにやっつけられないなんて、カイラが可哀そうだよなぁ。ごめんよ。カイラ…」

「なーに、そう心配するな。もう少しの辛抱じゃあ。わしだって、カイラのことは忘れ取りゃあせん。本当にあの娘は子供の頃から、可愛い娘じゃったからのう」

 カイラとは二・三才しか歳が離れてないのに、ムアイはまるで老人のような目つきで、どこか遠くのほうを見つめていた。

 しかし、熊はその姿を現す気配すら見せず、一日が無情にも過ぎ去りまた夜がきた。テントに戻ってからも、山本はイライラを隠し切れずに、耕平に所かまわず当たり散らしていた。

「おい、耕平。熊の野郎は一体どうなっちまってんだぁ。ホントに、もう死んでんじゃねえのかよ。あれから、どれぐらい経ったんだぁ。二週間じゃ効かないだろう。それなのに姿も見せないなんて、絶対におかしいぞ。ヤツはやっぱり、もうくたばってるだよ。ええーい、イライラする……」

「そんなにイライラしないで少しは落ち着けよ、山本。ムアイも云ってたじゃないか。ヤツは必ず生きているって、だからもっと落ち着けよ。ホントに忙しいヤツだなぁ。お前は」

「コウヘイの云うとおりだ。熊はあんな傷ぐらいじゃ死にゃあせん。わしも永いこと狩りをやってから分かるんじゃ。そのうち戻って来るから見ていろ。お前も疲れとるんじゃろう。いいから、もうそろそろ就寝め、トオル」

 逞しい腕で山本の肩をやさしく叩くと、ガイダはその場に横たわった。

「そんじゃ、オレたちも、もう寝よう…。ガイダの云うとおり、お前は疲れてんだよ。早く寝ろ。明日も早いんだぞ」

 耕平は、そう言うと自分もその場で横になった。

「ん……」

 山本も耕平に言われるまでもなく、身を横たえたがなかなか寝付かれなかった。何の断りもなく、二十一世紀に置いてきた妻の奈津実のことや、熊に殺されたカイラの無残な姿が、交互に浮かんできては、なかなか寝付かれなかった。何度か寝返りを打っていると、尿意を催してきた山本は外に出た。

 用を足していると後ろから、

「何だ。眠れないのか。山本」

 耕平が近づいてきた。

「ああ、何だか、いろんなことを考えていたら、眠れなくなっちまった…」

「そうか…。オレに係わったばっかりに、お前にまでいろいろつらい思いさせてしまって、すまん…」

「何云ってんだよ、耕平。お前とオレの仲じゃないか。そんなことはどうでもいいさ。それより、これからどうなるんだろう。熊はホントに戻ってくるのかなぁ。ホントはやっぱりどこかで死んでるんじゃないのか…」

「ベテランのみんなが、生きてるって云うんだから、ホントにそのうち戻って来るんだろう。それより、早く寝ろよ。さあ、行こう」

 耕平に促されて、山本もテントに戻った。横になっても、やはり彼の脳裏には次から次へと、カイラのことが浮かび上がり、なかなか寝入ることが出来なかった。それでも昼の疲れが出たのか、いつしか深い眠りに落ちて行った。

 次の日も、その次の日も何事もなく過ぎ去り、三日目の昼近くになって見張りに出ていた、チルトが血相を変えて戻ってきた。

「大変だぁ…。熊が戻ってきたぞー」

 チルトは息を切らせながら言った。

「何気なく巣穴を覗いたら、何かが動いているんでよく見たら、やっぱりあの熊かいたんじゃ。みんなも来てくれねえか。いまボイタが見張ってるんで…」

「やっぱり来たか。よーし、行くぞ。みんな」

 ガイダの号令で、そこに居合わせた一同は一斉に外に飛び出した。

「あ、ムアイちょっと待て」

 出て行こうとしているムアイを山本が呼び止めた。

「きみはまたこの前みたいに、この燃える水を待って行ってくれ。前に教えたとおりに岩の上から落とすんだ。分かったかい」

「ん、分かった。行くぞ。トオル」

 一歩出遅れた形で現場に行く、ガイダがみんなに号令をかけていた。

「……と、云うわけじゃから、ああ。来た来た。ムアイはすぐ岩に登ってくれ。登りついたら、わしらで熊を誘きだすから後は頼むぞ」

「熊の様子はどんな感じなんだい。ガイダ」

「うーむ、遠くてはっきりはわからんが、確かに生きとることは間違いない。それにわしの射った矢が、左眼の脇辺りに突き刺さったままだから、前よりは体も弱っとるようなんじゃ」

「ふーん。じゃあ、やっぱり、いまがチャンスなんだな。よーし」

 山本も岩陰から首だけ出すと、巣穴のほうを覗いてみた。すると、岩穴の奥のほうで微かに、何かが動いているのが判った。

「確かにいるな…。もしかすると、オス熊でも戻って来たのかな…。耕平、ちょっと来てくれ」

「何だ。山本」

 呼ばれた耕平もすぐ飛んできた。

「お前の弓で、あの巣穴の前まで飛ぶかな」

「ああ、飛ぶと思うよ。それがどうかしたのか…」

「熊を誘き出すために、いい方法を思いついたんだ」

「どんなんだ。その方法って…」

「簡単さ。ほら、例の爆竹があるじゃないか。あれをだな、お前の矢に結わえ付けて射つんだよ。熊のヤツは火薬の爆発音なんて、この前一回聞いたきりだけだから、絶対に驚いて飛びしてくるに違いないんだ。どうだ。いいだろう」

「なるほど、一理あるかもな。よし、ガイダに話してみよう」

 すぐさま耕平は、ガイダのもとに賛否を聞きに行った。山本もすぐ後を追った。

 ガイダも耕平の話を聞くと、納得したらしく即座に賛成してくれた。

「よし、もう少し前に進むんだ。熊に気づかれないように音を立てるな。それから、誰かムアイに合図を送ってくれ。みんな、行くぞ」

 足音を忍ばせるようにして、一同は熊の巣穴を目指して進んで行った。


        四


 楽に矢が届く範囲まで近づいて来た。山本は耕平から矢を三本受け取ると、一本に爆竹を括りつけあとの二本には、火矢用の脱脂綿を張り付けて固定し、カンテラの燃料を滲み込ませて完了だ。

「よし、これで完成だ。準備はできた。いつでもいいぞ。耕平」

「ちょっと待て、山本。なんか少し様子がおかしいんだ。オレの気のせいかも知れないけど…」

「何が変なんだ…」

 山本が耕平のほうを振り向いた。

「何かはわからんが、奥のほうで別の何かが、動くのを見たような気がしたんだ」

「何だって、どれどれ…」

 山本は急いで耕平の言った岩穴を覗き込んだ。すると、確かに奥のほうでゴソゴソと、動いているものが確認できた。

「何だ、なんだ…、もしかして、もう一頭いるってのかい。あのメス熊一頭でも、手を焼いてるってのに、冗談じゃないぞ。こりゃあ……。どうする、耕平」

 言われた耕平も、どうすれはいいのか、咄嗟には判断がつかずガイダに聞いてみた。

「こんな場合、どうすればいいんだい。ガイダ」

 ガイダも腕組みをして考え込んでいたが、

「一匹はケガをしているとは云っても、二匹ともなるとわしらだけではどうにもならんな。あと四・五人応援を頼むしかない。誰か邑に戻って人数を集めてきてくれ」

 ガイダが号令をかけた。

「分かった。わしが行こう」

 ひとりの男が立ち上がると、急ぎ足で立ち去って行った。

「ムアイは、もの凄い怪力の持ち主だし、熊が出られないくらいの大岩で、あそこの穴の出入り口を、塞ぐことって出きないのかなぁ。ねえ、ガイダそんなことって無理なのかい」

 山本がひとり言のように言うと、

「うむ、確かにそれもあるな…。よし、ムアイを呼び戻せ、話しをしてみよう」

 ムアイが戻るのを待つ間、ガイダは何かを考えていたが、急に山本と耕平のほうに向き直った。

「わしは、前から考えておったんじゃが、トオルもコウヘイもふたりとも、わしらの知らない物を持っているし、知らないこともいろいろ知っている。それらの物や知識をどこで手に入れ、どうやって知ることが出きたんじゃ。わしは、それを知りたいと思っておったんじゃよ。教えてくれんかのう」

 山本は耕平の顔を見た。耕平は黙ったままこっくりと頷いた。

「じゃあ、云うけどさ。オレたちはガイダたちの知らない、ここからとても離れた、遠い世界からやって来たんだ。ガイダたちには、話しても分からない思うほど、とても遠い世界からやって来たんだよ。そこには日本という国や、いろんな国が世界中あるんだ。

オレたちは、そこの日本という国から来たのさ。そして、その国のご先祖様がガイダたち縄文人なんだよ」

 山本の話しが解ったかどうかは別として、ガイダは山本の話を熱心に聞いていたが、ひと言だけ山本に聞き返してきた。

「難し過ぎて、わしにはよう分からんが、その国とか世界とかいうのは、一体何なんだ。トオル…」

「簡単にいうと、ガイダたちの住んでいる、この邑やほかの邑をもっともっと、ずうーっと大きくしたようなものさ」

「ウーム、トオルの話は難しくて、わしにはさっぱり分からんのう…」

 そんな話をしていところに、ムアイが戻ってきた。ガイダはムアイと話しをしていたが、みんなのほうを向いてこう言った。

「ムアイはできると云っていた。これからすぐやって見るそうだ。これが最後だから、みんなも気を抜かないでやってくれ」

 山本は、もう一度念を押すように、ムアイに細かい指示を伝えると、ムアイはすぐさま岩を駆け上って行った。

 ムアイが、巣穴の上のほうによじ登って行くと、適当に岩を捜しているようだったが、なかなか手ごろな岩がないらしく、さらに上のほうへ登って行った。それでもあちこち探し回っているのが下からも見て取れた。しばらく見ていると、ようやく見つけたらしくムアイが大きく手を振っいる。

「やっと見つけたらしいが、だいぶ上まで登ったようじゃが、大丈夫じゃろうかのう、ムアイのヤツ…」

 ガイダが心配そうな顔つきで言った。

「ムアイは、山暮らしや山歩きには、慣れてるって云ったから、大丈夫でしょう。そろそろ合図しても、いいんじゃないのかな。ガイダ」

 もうやっつけたのも同然と、いうような調子で山本が言った。

「うむ、ムアイのことじゃから、大丈夫じゃろう。よーし、やれー」

 ムアイは準備に取り掛かった。手筈どおり耕平は爆竹のついた矢を弓につがえると、山本がそれに火をつけた。爆竹に点火するまで数秒しかなく、耕平は急いで弓を弾き絞ると、熊の巣穴目掛けて矢を放った。巣穴の前に矢が突き刺さった瞬間、爆竹は炸裂して猛烈な爆発音が響き渡った。

 パン、パン、パン、パン、パン、パン、パン、パン、パン、パン。

 驚いて飛び出してきたのは、怪我をしているメス熊のほうだった。ムアイはガソリンの入ったポリ容器の蓋を緩めて投げ落とした。ポリ容器は見事にメス熊の肩口に命中し、当たった瞬間容器の蓋が外れてゴボゴボと音を立てて、メス熊の肩から背中を伝って足元に滴り落ちた。

「よし、いまだ。射て、耕平」

 山本が号令をかけた。耕平は言われるまでもなく火矢を放っていた。矢はメス熊の右足に当たり、次の瞬間ボワンッという大音響とともに、滴り落ちるガソリンに引火して、メス熊の体は炎に包まれていた。メス熊は全身を業火に包まれながら、七転八倒の苦しみを見せて、そこいら中を駆け回ったり、大地の上を転がり回っていたが、その動きも徐々に弱まって行き、次第に動きが鈍くなっきて、ついにはピクリとも動かなくなり、メスの人喰い熊はついに息絶えていった。周囲には肉の焼ける何とも言えない、臭いが立ち込めていた。

 それを巣穴の奥で見ていた、オス熊が何を思ったのかノソリノソリと初めて、人間の前にその姿を現した。巣穴から四・五歩ほど前進してきたが、周りでは地面に沁み込んだガソリンが未だに燃え盛っていた。

 それを上から見ていたムアイが、いまがチャンスと思ったのか、用意して措いた大岩を持ちあげると、できるだけ正確に熊に当てようと、崖の縁まで歩み寄った時だった。ムアイの抱え上げている大岩の重みからか、ムアイの立っている崖の出っ張り部分が、付け根のところから崩れ落ちた。

「ああ、ムアイ…」

 山本と耕平が同時に叫んだ。

 ムアイを乗せて崩れた岩は、大轟音とともに大地に落ちて、それら岩も幾つかの岩塊と化し四方に飛び散った。その反動を受けてオス熊のほうも、小さな岩塊に当たって弾き飛ばされていた。

「ムアイー、大丈夫かー」

 ガイダも山本も耕平も一斉に、ムアイが落ちたと思われる場所に走り寄った。他の狩人たちも全員集まってきた。

「ムアイ、しっかりしろ」

 ガイダが、ムアイの体を抱き起こした。あれほど強靭な肉体を持った、ムアイにしてみても全身打撲で骨折も、甚だしく息も絶え絶えの状態だった。

「死ぬんじゃないぞー。ムアイー、こんなことで死んじゃいかんぞー」

 ガイダは必死でムアイに呼び掛けた。

「ムアイ死ぬんじゃねえぞ。しっりしろー。お前はカイラの仇を討ってくれたんだから、絶対に死ぬんじゃねえぞ」

「ムアイ、しっかりしろー。死ぬんじゃねえー。ムアイ」

 山本も耕平も必死に呼び掛けた。ムアイは手を差し伸ばすと、山本の手をしっかり握りしめ、ニッコリと微笑むと静かに息を引き取った。あまりにも哀しい別れであった。山本の胸に言いようのない虚しさが込み上げてきた。山本はとっさに、側に落ちていたムアイの石槍を掴むと、オス熊の倒れているほうを、目掛けて駆け出していた。

「危ないぞ、トオル。まだ生きてるかも知れんぞ」

 ガイダも急いで山本の後を追った。オス熊が倒れているところまで来ても、熊はピクリとも動かなかった。首が異様な方向に折れ曲がっている。先ほど岩塊に当たって折れたものと見なされた。

「やっと終わったな。山本」

 耕平が寄って来て、山本の肩に手を置きながら言った。

「ああ、終わったな。これでやっとカイラも、安心して成仏できるだろう」

 山本は、妙にしんみりとつぶやいた。

「どれ、わしがムアイを背負って帰るから、トオルすまんが、わしの槍を持ってくれんかいのう」

「ああ、いいよ。そんなことはお安い御用だ」

 有に二メートルはあると思われる、ムアイの体をガイダが背負って歩き出すと、山本と耕平がそれに続き後ろから、他の狩人たちもぞろぞろと付いて来た。

 邑に戻るとムアイは、たったひとりで二頭の熊を倒した、英雄として称えられ邑を挙げての、大葬祭が営まれることになった。カイラの時でさえ、四・五日かけて葬祭が行われたのだから、今回は最低でも一週間はかかるだろうと山本は腹を括っていた。

 やはり、山本が予測していた通り、七日目には葬祭儀式が終わり、ムアイの遺体は埋葬された。

「これでムアイも土に還っちまうんだな……」

 翌日、山本はムアイの墓前に来て手を合わせながら、ひとりポツンとつぶやいた。

 その足でカイラの墓にも寄って、熊を退治したことを報告して、心の中でカイラに語りかけていた。

『カイラ、向こうでは元気でやってるかい。お前の幼なじみだった、ムアイがお前を殺した熊をやっつけてくれたんだよ。ムアイも間もなく、お前のところに行くだろから、その時は、また仲よく遊んでもらってくれ。オレはそろそろ元の世界に戻って行くんで、もうここには来れないと思うけど、お前のことは決して忘れないよ……』

 山本は、もう一度手を合わせカイラの冥福を祈ると、ゆっくりと立ち上がった。空はどんよりと曇り、部厚い雲が縄文の里を覆い隠すように垂れこめていた。

 その晩、山本は耕平の住居を訪ねていた。

「ご苦労だったな。いろいろと、山本。ところで、どうしたんだ。浮かない顔をして」

 あまり顔色の冴えない山本を見て、耕平が聞いた。

「オレ…、そろそろ戻ろうかと思ってんだ。あっちに……」

「どうしたんだ。急にあっちに帰るなんて、何かあったのか…、どうしたんだよ、山本…」

 いきなり二十一世紀に帰ると言われて、慌てて耕平は聞き返した。

「別に何にもありゃしないよ。ただ…、ただ、ここにジッとしているのが、たまらないんだよ。オレには…、いろんなことが思い出されて、辛くてつらくてたまらないんだ。

それに、もうここに来てから、一年以上も経ってるんだ。だから、そろそろ帰ることにしたよ。お前には迷惑ばっかり賭けたよな。許してくれよ。な…」

 そう言うと、柄にもなく山本は深々と頭を下げた。

「ちょっと待てよ、山本。時間のことなら何とでもなるだろう。お前がここに来た一年前に戻れば、済むことじゃないか。だから、もういいじゃないか。お前の言い分はわかったからさ。もう止めないよ。おれにも経験のあることだからな。それで、いつ帰るんだ…」

「ん、明日にでも戻ろうかと思ってる。きょうムアイとカイラの墓に行ってきた。カイラには全部報告してきたよ」

「そぅか。明日か…。寂しくなるな……。よし、じゃあ、今夜は呑み明かそう。きょう邑長がトオルと飲んでくれって、特別に持って寄こしたんだってさ。呑んで呑んで呑み明かして、辛いことなんかすべて忘れっちまえよ。」

 明け方近くまで、ふたりで酒を酌み交わし、太陽が昇る頃になって山本は、最後にひと目だけでも娘の、ライラを自分の眼に焼き付けておこうと、その寝姿を見に行くとライラは、静かな寝息を立てて眠っていた。

「よし、これで何も思い残すことはない。じゃあ、オレはそろそろ行ってみるから、ライラのことはよろしく頼む。それから、ウイラと仲良くやれよ。耕平」

「ああ、お前も達者でな。ライラが大きくなったら、コウスケの嫁にでもしてやるから、安心しろ」

「ああ、ありがとうよ。それじゃ、行ってみる…。お前も体に気つけてな…」

「じゃ、オレあそこまで送って行くよ」

「いや、いい。オレはもともと人に見送られるのって、あまり好きじゃないしさ。それに見送るほうだって、寂しい思いをするだろうし、だから、いいよ。見送りなんてしなくても、ひとりで行けるから…」

「そうかぁ、じゃあ、止めとくよ。それじゃな」

「ああ、そうしてくれ。じゃあ、行ってみるよ。さよなら、耕平」

 山本は後ろも振り向かずに、耕平の住居を後にした。振り向けば未練も残るし、後ろ髪を引かれる想いをぐっとこらえて、山本はひたすら草原の道なき道を歩き続けた。草原を吹き抜ける風は、ひと際冷たさを増していた。もう間もなく、この縄文の里にも雪の降る季節が、近づきつつあることを如実に物語っていた。

 しばらく歩いて、耕平の建てた記念碑まで辿り着いた。山本の胸には万感の思いが込み上げてきた。もう、おそらく二度と来ることもないであろうと思われる、この縄文時代という歴史の彼方に埋もれてしまった世界が、この上もなく懐かしい思い出となって、自分の記憶の中に刻まれることに、なるのだろうと思いながら、タイムマシンのスタートボタンを押していた。


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