第五章 山本VS人喰い熊の死闘
一
山本徹は、人喰い熊を殺すための方法を、試行錯誤しながらもいくつか考えていた。その中で最も効率的で、確実に熊を退治する方法として、いちばん有効と思われるものは、熊を誘い出して落とし穴に落とした上で、ガソリンを使って焼き殺すのが、一番有効な方法ではないかという結論に達した。そのためには、どうしても落とし穴に陥れることが必須条件になっていた。耕平とも細かな計画を立てた上で、再びタイムマシンを駆使して、ガソリンの仕入れに未来へ戻って行った。
やがて、山本はポリタンク二個分のガソリンを、両手にぶら下げて帰ってきたが、当の熊は一向に姿を現さなくなっていた。冬眠には時期的にも早いというのが、邑人たちの意見だったが熊を見かけたとか、熊に襲われたという話も聞かないまま、数日間が過ぎ去って行った。山本も耕平とふたりで、熊の出そうな場所を探索して回ったが、それらしい痕跡すら見出せなかった。
そんなある日、狩りに出ていた邑人のひとりが、大慌てで邑に駆け戻ってきた。
「おーい、大変だぁー。熊が出たぞー。熊が出たぞー…」
「ついに出たか。一体どこに出たんだ」
邑人の叫び声に、色めきだって山本は聞き返した。
「邑の外れの、ずっと向こうの竹林にいたのを見かけた」
「よし、わかった。それなら何とか誘き出せるかもしれんぞ。行こう。耕平」
山本と耕平は急いで、熊を見かけたという、邑外れの竹林に行って見たが、その時にはすでに熊の姿は、どこにも見つけることが出来なかった。
「チクショー、なんて素早いヤツだ。もう、いやがらねえ。どこに行きやがったんだ」
逃げ足の速い熊に、山本は舌打ちをして悔しがった。
「大丈夫だよ、山本。こうなったら、餌を仕掛けて誘き出してみるか…。狙い撃ちにすれば怒り狂って、追いかけてくるだろうから、それを落とし穴まで誘い込んで落とすんだ」
「餌を仕掛けるったって、何を仕掛けりゃいいんだよ」
「熊は雑食だから、何だっていいさ。イノシシだって、野ブタだってかまいやしない。とにかく何でもいいよ」
それからふたりは、獲物を得るために狩りに出かけて行き、苦労の末にどうにか野ブタを一頭仕留めて帰ってきた。
「よし、これを穴の前に仕掛けといて、オレたちはこっちのほうに隠れて熊が現れるのを待ってればいいんだ」
ふたりは物陰に隠れて、人喰い熊が現れるのを待ったが、しばらくその場に待機していても、熊は一向に姿を見せないまま、時間だけが情容赦なく過ぎて行った。それから、また少しの時間が流れ去り、野ブタの置かれた場所から、さほど遠くないところに、小さな動物が現れて近づいてきた。
「お、何だ。犬じゃねえか。こら、シッ、シ」
「いや、犬じゃない。あれは狼だ。あれが絶滅したと云われている、ニホンオオカミだ」
「ええ、あれがニホンオオカミ…」
耕平は弓に矢をつがえると、ニホンオオカミ目掛けて矢を放った。ニホンオオカミはその場に、もんどり打って倒れ込んで、足を二・三回痙攣させて息絶えた。
山本は狼の死骸の傍に近づくと、まじまじとその姿に見入っていた。
「これが、あの絶滅したニホンオオカミかぁ…」
そこに横たわっているニホンオオカミは、体長が現在生息している秋田犬と、ほぼ同じくらいか幾分小さめの体長をしており、大陸に生息していたハイイロオオカの、亜種と言われているものである。
「しかし、ここですでに絶滅している、ニホンオオカミと出くわせるとは、思っても見なかったぜ」
「オレも前に、二・三度見かけたことはあるが、こんなに間近で見るのは初めてさ」
「んで、これをどうする…」
「そうだな。野ブタと一緒に並べておこう。餌は一匹でも多いほうがいいから」
ふたりは、それから物陰に隠れて様子を窺っていたが、熊はいくら待っても現れることもなく、彼らの周りを時間だけが、素知らぬ顔で通り過ぎて行った。
「おい、山本。きょうは現れそうもないな。もうすぐ夕方になるし、そろそろ帰ろうか。この野ブタは、もったいないから持って帰ろう。このまま放置しておくと、また狼が出てきて喰われるといけないからな」
こうして、カイラを殺した熊退治の一日目は徒労に終わり、山本と耕平は重い足取りで邑へと帰って行った。
翌日も、そのまた翌日も、山本は耕平と熊の出没を待ったが、カイラが殺された日以来、邑人からも『熊を見た』と、いう話は、聞かれなくなっていた
「どうしっちまったんだろう。熊の野郎、あれから全然姿を見せなくなったし、冬眠でもしちまったんじゃねぇだろうな…」
「いや、そんなことはないと思うよ。雪が降りだすまでには、まだ間があるから食い物集めに、躍起になってるんじやないかと思うんだ」
「じゃあ、こんなとこでグズグズしてられないじゃないかよ。早く見つけ出してカイラの敵を討ってやらないと、オレの腹の虫が治まらないんだよ。お前だって、そうだろうが、カイラはウイラの姉さんなんだぞ。口惜しくないのか、お前は」
「そりゃあ、口惜しいさ。ウイラだってあんなに悲しんでたんだから、オレだって敵を取ってやりたいさ。ウイラのたったひとりの姉妹なんだからな」
「それなら、なおさらじゃないか。こんなところでいつまでものんびりして、いつ出てくるかわからない熊なんか、待ってたって仕方ないだろうが、何とかして見つけ出してやっつけてやらないと、オレは居ても立ってもいられないんだよ。クソー」
所在の分からない熊に、いきり立っている山本を見て、耕平はカイラの死を目の当たりにして、一晩中一睡もせず泣き明かしていた、ウイラのことを思い浮かべていた。
「じゃ、どうする。別な方法でも考えるか。せっかく作ったのに、この落とし穴もったいないな。お前、何か名案でもないのか」
「いや、別にない。でも、この落とし穴は残しておこう。これは必ず役立つはずだからな。それから、邑の人が落ちないように、何か目印でもつけておくといい。まず明日から熊がどこに棲んでいるのか、熊の巣探しを徹底的にやろう。そこから始めないと埒が明かないぞ」
次の日から、ふたりは山の奥まで分け入り、熊の棲んでいそうな洞穴は、ないかと捜し回って行った。毎日通い詰めて三日が過ぎたころ、とある山の斜面の岩場で、やや大きい洞穴があるのを発見した。
「おい、見ろよ。あの穴なら、熊が出入りするには、充分じゃないか」
「うん。確かに。あそこなら熊が棲んでいても、おかしくない大きさだな…」
「しかし、どうやって確かめよう。まさか、面と向かって入って、行くわけにも行かんし、そんなことをしたら、それこそこっちの命がいくら、あったって敵わないからなぁ」
耕平は、しばらく腕組みをして考え込んでいた。
「よし、きょうはここまでにして、ひとまず帰ろう。ここは邑からもかなり離れているし、日暮れ前に戻ったほうがいい。穴を見つけただけでも、よしとしなくちゃな」
こうして、一旦ふたりは邑に戻ってきたが、夜横になってからも、山本はなかなか寝付かなかった。目をと閉じても、カイラの背中に残された、熊に引き裂かれた傷痕が、まざまざと浮かび上がってきた。
『可愛そうにな…、カイラ。随分苦しい思いをしたろうに…、もう少し待っていてくれ。オレが必ず敵を討ってやるから…』
そんなことを考えながら、まんじりともしないで明け方になり、少しだけウトウトと浅い眠りについた。そして、ようやく眠りから覚めた頃には、太陽はすっかり昇りきっていた。
間もなく、耕平が木の葉で包んだものを、手に持って小屋に入ってくると、それを黙って
山本に手渡した。
「何だ、これ…」
「ん、ウイラがお前にやってくれってさ。食い物だそうだ。どうせ、お前朝飯まだだろう」
「うん。まだだ…。ありがとう、遠慮なく頂くよ」
山本の腹ごしらえを待って、また熊の棲んでいるらしい、洞窟を目指して出かけて行った。山の斜面を登りきったところで、ふたりは岩陰に身を潜め、洞窟の様子を窺って見た。
「何とかして、あそこに熊がいるのかどうか、確かめなくちゃならないな。どうしよう。どうやって確かめればいい」
「どうやって云われても、熊が出入りするのを待って、確かめるしかないんじゃない…。ほかに何か方法でもあるのか。山本は」
「うん…、確かにそうだな。こうなったら、熊が出るか入るかするのを待って、証拠を掴むしかねえだろう。何しろこっちには、時間は有り余るほどあるんだから、とにかく待ってみるか」
それでも穴の周辺からは、物音ひとつ聞こえてこないまま、時間だけが過ぎ去り山本も、徐々に苛立ちを隠せない様子で、山本の足元にはタバコの吸い殻が、山のように積み重なっていた。山本の貧乏ゆすりに気がついた耕平が、
「おい、山本。もっと落ち着けよ。お前がイライラしたって、どうしようもないじゃないか」
「う、ん。いや、オレは別にイライラしてるわけじゃないぞ。しかし、このままじっと待てたって、何の進展もないと思うんだ。いま思いついたんだが、ここからあの穴のところまで、石でも投げつけてみようと思うんだ。物音に気がついて、熊が出てくるか来ないかで、その存在が確認できるじゃないか。やってみる価値はあるぞ。これは」
「ん…、そうかも知れないけど、そんなことして大丈夫かな」
「大丈夫だよ。任せておけって、大体何をそんなに心配してんだ。お前は」
そう言うと、山本は近くに落ちていた、少し大きめの石を拾いあげると、熊の棲穴らしい洞窟目がけて石を投げ込んだ。山本の投げた石は洞窟の縁に当たって、鈍い音を立てて転がった。辺りは静まり返っていが、遠目でよくは見えないのだが、何やらうごめくものが目に映った。
「あ、やっぱり熊だぞ。見てみろ、耕平」
「ん、熊だ、しかも、まだ仔熊じゃないか。親熊はどうしたんだ」
物音に驚いて様子を見に出てきたのか、そこには人間でいうならば、五・六歳児くらいの大きさの、小熊が歩いているのが見えた。
「おい、耕平。何とかして、アイツを捕まえられないか。掴まえて邑に持って帰って、アイツを囮にして親熊を誘き出すんだ」
「捕まえるったって、いくら仔熊も熊は熊だぞ。もし暴れられたら、こっちだって大変だぞ。下手したらこっちだって、怪我をするかも知れないんだ。どうする気なんだよ」
「そうだなぁ…。まず、いまは子熊だけらしいが、いつ親熊が戻ってくるかわからないし、ここは一回戻って、もう一度計画を立て直してから、出直したほうがよさそうだ。ここが熊の棲みかだってことが、判っただけでも上出来だらさ、取り敢えずきょうは帰ったほうがいいな。どうせ来るなら、もっと早く来て親熊が餌を、漁りに行った直後を狙うのが一番安全だ。そうしよう」
耕平を促すようにして、立ち上がろうとした時だ。
「待て、山本。親熊が戻ってきたぞ。隠れろ。早く」
慌てて山本は腰を屈めて首を出すと、ふたりのいる二・三十メートル先を、巣穴を目指して戻ってくる親熊の姿が見えた。
「危なかったな。仔熊を掴まえている時でなくて、よかったよ。お前の判断は正しかったな…」
耕平が山本の背中を叩きながら言った。
「まったくだ。ホント命拾いしたってのは、こういうのを云うんだな。きょうは、もう帰ったほうがいいよな。帰ってちゃんとした計画を立てて、万全の準備をしてから来たほうがいい」
それから、ふたりは熊に気づかれないように、ゆっくりとその場を離れて、邑へと帰って行った。耕平は邑に戻ったら、すぐにでも邑長に相談して、熊退治の対策を図ってみることにした。
二
その夜、山本の部屋には耕平とウイラと、狩りの名人と云われている、邑人が四人ほど集まり、カイラと邑人を殺した熊の子供を、捕獲するための作戦会議か開かれていた。
「……と、云うわけで、邑の人たちを殺した熊を誘き出すには、どうしても仔熊を生きたまま、捕獲しなければなりません。このことは、先ほど邑に戻ってきた時に、邑長にも相談ししておます。邑長のおっしゃるには、この熊退治に関するすべての権限は、オレとここにいる、山本に一任すると云って頂きました。そういうわけで、邑でも有数の狩りの名人と云われている、皆さんに集まってもらった次第です。よろしくお願いします」
耕平の挨拶が終わると、その場に居合わせた一同から、一斉に拍手が沸き上がった。
「それで、わしらにどうしろと云うのかね」
耕平が初めて弓を造った時に観てもらい、『いい弓だ』と褒めてくれた狩人が言った。
「はい、皆さんはオレたち素人なんかよりも、ずっと狩りに長けてらっしゃると思うのですが、今回のような仔熊を生捕りにする方法も、ご存じなのではないと考えました。何とかして仔熊を傷つけずに、捕らえることが出来ないのか、その辺のところを教えて頂けないかと、思い立って集まってもらいました。何かいい知恵がありましたら、ぜひ教えてください。お願いします」
話しを聞いた狩人たちは何やら相談していたが、その中のひとりが耕平に訊ねた。
「お前が見たという、その仔熊の大きさはどれくらいだった」
「はい、大きさにすると、まだ生まれたばかりらしくて、確かこれくらいでした」
耕平は両手を広げて、仔熊の体長を示して見せた。
「なるほど、それは本当にまだ生まれてから、確かに日は浅いな。ふうーむ…」
「じゃぁ、こうしたらどうだ」
また、違うひとりが提案した。
「蔦のツルを刈ってきて、少し大きめの網を編むんじゃよ。巣穴の上に登って行って、仔熊を誘い出して網をかぶせ、身動きが取れなくしたところを、みんなで取り押えるってのはどうだ」
「そりゃ、いいや。それは、いいと思いますよ」
その時、いままで黙ってみんなの話を聞いていた、山本が賛成した。
「それじゃあ、こうしましょう。みなさんで、その網を造ってください。オレたちも出きる限り協力しますから、早急に造って頂きたいんです。そして、一日も早くカイラを殺した熊を退治して、カイラの仇を討ってやりたいんです。そうしないと、カイラも安心して成仏できないと思うんです。どうか、みなさん。よろしくお願いします」
そう言うと山本は、居合わせた狩人たちに向かって深々と頭を下げた。
「おう、わかった。わしらに任せておけ。それに、最初に殺られたのは、わしの弟だったんだ。だから、弟を殺した熊を、わしも憎いんだ。何でも力を貸すから、分からないことがあったら、わしに何でも聞いてくれ」
「そうだったんですか…、それはどうも…」
「それじゃ、わしらは帰るぞ。気を落とさずに頑張れよ」
こうして、その晩集まった邑の狩人たちは、解散してそれぞれの住居に戻って行った。
次の日から、山本と耕平それに邑の狩人たち六人は、仔熊を捕獲する網造りに専念して行った。ある者は蔦のツルを刈り、ある者はそれを天日に晒し、ある程度まで乾燥させてから、網を作る作業に従事して行った。山本と耕平は、親熊を落とし穴に落とした後、どう処理するかという一点に集中していた。
そうした日から何日か経って、ついに仔熊の捕獲用網が完成した。邑人の報告を受けて、ふたりが広場に行って見ると、実に見事な網が出来上がっていた。
「どうだ、これなら仔熊を捕らえるのには、充分じゃろうが…」
待っていた狩人のひとりが、そう誇らしげに言った。
「ええ、充分です。それにしても、随分見事な網を造ったもんですね。短期間のあいだに…」
そこに広げられていたのは、仔熊一頭を捕まえるのには十分すぎる、大きさの見事な出来栄えの捕獲網だった。
「みなさん、ご苦労さまでした。それでは明日から、さっそく仔熊の捕獲作戦を開始したいと思いますので、よろしくお願いします」
山本が頭を下げると、周りで見ていた邑人たちから歓声が沸いた。
「よかったじゃないか、山本。みんなもよろこんで、協力してくれるって云うんだから、こんなに力強いことはないよ。オレも力を惜しまないから、明日からオレたちも頑張ろう」
「ん、ありがとう、耕平。でも、最初に熊に殺られたのが、あの人の弟さんだったとは、オレもまったく知らなかったよ。オレもあの時は、あまりにも酷かったんで、何も云えなかったけど、ホントに気の毒にな…」
山本も耕平も、そんな話をしながら、自分たちの住居へと戻って行った。
翌日の早朝、まだ辺りが暗いうちから、子熊の捕獲部隊である六人は、すでに熊の巣穴のある岩場に陣取っていた。なぜ、そんな早朝から集まったのかというと、熊は日の出とともに餌を探しに出かける、習性があるからだと山本は聞かされていた。だから、その前に場所を確保して、スタンバイしておく必要があったのだ。
「そろそろ夜が明ける。みんな準備はいいか」
弟を熊に殺されたという、邑の狩人がみんなに声をかけた。みんな無言で頷く。
東の空が徐々に薄らいで行き、やがて空を朝焼けに染めながら、ゆっくりと太陽が昇り始めた。しばらく待っていると、熊は巣穴から出てきて餌を求めて、何処へともなく立ち去って行った。
「よし、出て行ったぞ。だが、すぐに降りて行ってはまずい。しばらく距離が空くのを待つんだ。慌てて出て行ったりすると、仔熊の鳴き声を聞きつけて、舞い戻って来られても困るからな」
巣穴近くに身を潜めていた、狩人のひとりが静かに立ち上った。
「そろそろ、いい頃合いだ。わしが下に降りて行って仔熊を誘い出すから、みんなは網を被せてくれ」
狩人は巣穴の真上まで降りると、石槍の穂先で巣穴の縁を、力まかせに二・三度叩いた。ガン、ガン、ガン。鈍く乾いた音を残して辺りに響いた。少しの間があって、巣穴の入り口に小さな仔熊が姿を現した。
「いまだ。それー」
下で見張っていた男が合図すると、上の四人が一斉に捕獲網を、仔熊目がけて投げ下ろした。
網は少しの狂いもなく、仔熊の体をすっぽりと覆っていた。山本たちが上から降りてきた時には、下にいたふたりが仔熊を、しっかりと取り押さえていた。
「よし、帰るぞ。親熊がいつ戻ってくるかわからん。戻ってからでは面倒なことになる。わしらも早く邑へ帰ろう」
熊の子供は、常に親熊と行動を共にするのだが、この仔熊は生まれてからまだ日が浅く、親熊と一緒に餌を探して、回るほどは成長しておらず、人間の子供でいうならば、ヨチヨチ歩きの幼児くらいの、成長過程であったために比較的、それほどの苦労もせずに容易に、捕獲することに成功したのだった。こうして、ことのほか難なく仔熊を捕らえた六人は、意気揚々と邑に帰りその旨を邑長に報告した。
捕えてきた仔熊は、落とし穴の手前に杭を打たれ、そこにロープで繋がれ親熊が、いつ現れてもいい準備が整えられた。
その晩から、山本と耕平は狩人の四人を含めた六人で、親熊がいつ仔熊を奪い返しに、現れてもいいようにふたりずつ、交代で寝ずの番に立つことになり、最初に名乗り出たのが山本と、弟を殺されたという邑の狩人だった。
仔熊の近くで、見張っているわけにもいかず、さほど遠くない場所にテントを張り、そこで親熊が現れるのを待つことになった。
熊はもともと気が小さく、警戒心が強いために人の気配がすると、近づかない性質を持っていた。だから、二十一世紀の現代でも山に、山菜採りに行く時などには、熊除けの鈴などの鳴り物をつけて、人間がいることを知らせることが、熊との遭遇を避けるの手段として、もっとも有効だと言われていた。
中天には十三夜月と思しき、月がこうこうと辺りを照らし、視界はきわめて良好であった。親熊がどこから姿を現しても、十分にわかる明るさを保っていた。
「親熊はやって来るだろうか…」
山本は一緒に熊が現れるのを、見張っていた狩人に聞いてみた。すると、狩人は即座にこう答えた。
「いや、来んじゃろう。熊は狼なんかと違って夜行性じゃないから、夜は現れんはずだ…。それに見てみろ。仔熊だって、気持ちよさそうに眠ってるじゃないか」
「じゃあ、それを知ってて何でオレに付き合って、こんなことをしてるんだい。アンタは…」
「邑長がそうしろと云われたからな。邑長の云われた言葉には従わねばならないという、長い間のしきたりがあるんじゃ、わしらにはな…。昔から」
「んじゃ、自分の意見なんか云えないのかい。アンタらは」
「ああ、邑長の言葉は絶対なんじゃ」
それっきり、狩人は黙ってしまった。仕方なく山本はポケットから、タバコを取り出すと火をつけた。
すると、狩人の男がまた聞いてきた。
「トオル。お前がいつも咥えているのは、いったい何なんだ」
「ん、これかい。これはタバコって云うんだ」
「タバコ? そんな煙を吸って、どこがいいんだ」
「どこがって、気持ちが落ち着くんだよ。イライラしている時になんか、特にね。一本吸ってみるかい。アンタも」
言われた男も、ちょっと気をそそられたのか、
「どれ、わしにも一本くれ」
山本が男に一本やって火をつけてやると、もの珍しそうに手に取ってながめていたが、おもむろにひと口吸った次の瞬間。
「ゲホ、ゲホ、ゲボッ」
狩人の男は、ものの見事にせき込んでいた。
「ゲホ、ゲホ、ゲホ、ゲホ、ゲホ」
それは、山本が傍らで見ているだけでも、あまりにも無残な姿であった。狩人は涙と鼻水で顔をグジャグジヤにして咳き込んでいた。山本が背中を摩ってやると、ようやく咳も収まり狩人は落ち着きを取り戻したが、よほど苦しかったのかまだ肩で息をしていた。
「おい、大丈夫かい。しっかりしろ」
山本の手渡したハンカチで、汗や涙や鼻水を拭き取ると狩人は言った。
「フー、何でお前は。こんなひどいものを吸って平気なんだ…。わしゃあ、死ぬかと思ったぞ」
狩人は肩で息をして、まだゼイゼイ言いながら涙を流していた。
タバコについては、未だによく判っていない部分が多いようだが、一四九二年にコロンブスがアメリカ大陸を発見して、原住民(インディアン)が吸っていたのを見つけ、それをもらい受けて持ち帰ったのが、ヨーロッパに広まったもので、日本にも鉄砲の伝来とともに、ポルトガル人によって持ち込まれ、長崎から日本中に広ったとされている。
そんなこんなで一晩が過ぎて、昼寝をしているところに耕平がやって来た。
「昨夜はご苦労さん。どうだ、熊は出てきそうか」
「ん、来なかったな。やっぱり熊は夜行性じゃねえから、夜は出歩かないらしいぞ」
「で、どうする。夜動かないとなると、やっぱり別の手で誘い出さなくちゃダメだな。なんか他の方法を考えなくちゃならないぞ」
「でも、自分の子供がいなくなったんだから、親熊だってかなり必死に探してると思うんだ。かなり距離も離れているし、昨日や今日ってわけには行かないまでも、必ずここを嗅ぎつけてやって来ると思うんだ。だから、それまで根気よく待つしかないとオレは思う」
「うーん、持久戦か…。それも仕方ないかなぁ。よーし、こうなったらこっちも、腰を据えてじっくり待つとするか」
ふたりはそれから、熊が姿を現した時の対処法の確認をし合って、それぞれの持ち場へと別れて行った。
三
それから二日が経ち、今夜は山本と耕平の組み合わせの日だった。中天には雲ひとつなく、見事なまでの満月が光り輝いていた。
「久しぶりだな。こうしてお前と月見るなんて、何年ぶりだろう…」
しみじみとした口調で耕平が言った。
「うん。確かに久しぶりだ。子供の頃、みんなでホタルを取りに行った時以来かなぁ。もうだいぶ昔の話しだよな」
山本も耕平も、子供の頃に近所の友だちとみんなで、ホタルを取りに行った時のことを思い出していた。
「そうかぁ、あの時以来かも知れねえな。こうやってゆっくり月見るなんて…」
耕平も遠い日を懐かしむように、ぽつりとつぶやくと体を横にし、
「オレ、こうやって寝転がって月を眺めるのが好きなんだ。ホントにキレイだよな。山本も横になって見ろよ。気持ちがいいぞ」
耕平に言われるまま、山本も傍らに来て横になって見た。横になりあらためて月を眺めてると、山本自身も月を眺めるという行為は、なるほどしばらくぶりだった。そして、こんななことを言った。
「ホントだな。いまでは月をこんなにノンビリと、眺めるなんてなかったもんなぁ。そんな余裕もなかったし、それだけ慌ただしい世界に生きて来たわけだから、仕方がないことだったのかも知れないが、久しぶりだよな。こうして月見るなんて…。しかし、不思議だよなぁ。この時代には電気とかネオンとか人、工的な光も何もなかったから、月があんなにきれいに見えるんだぜ。オレたちのいた時代では信じられないよ。それに銀河だって、ほらあんなに鮮やかに見えるし、この時代はホントに素晴らしいよ。オレ子供の頃に本気で宇宙飛行士になりたいと思ってたんだ。宇宙飛行士になって月とか火星に行くのが夢だったんだ。だから、子供の頃はSFばかり読んでたし、宇宙物とか未来物とか時間物とか。あ、パラレルワールドなんてのもあって、それからあらゆるジャンルの物を読んでた。だけど、今回みたいに本物のタイムマシンに、巡り会えるとは思ってもいなかったんで、ちょっと面食らったとこも、あったのは事実だよなぁ…」
そんな話をしながら、山本はタバコを吸い込み、吐き出された煙は風のない、月夜の空間にゆっくりと漂って行った。
「しかし、あれから何日経ったんだぁ。一、二、三…、三日かぁ。人間だったら自分の子供がいなくなったら、死にもの狂いで探すと思うんだが、やっぱり動物は違うのかな。自分の子供が可愛くないのかなぁ。所詮獣は獣なのかぁ…」
「いや、そんなことはないと思うぞ。オスのほうはどうか知らないが、メスには母性本能があるから、毎日血まなこになって、探しているんじゃないかなぁ。それにオレたちに連れ去られたなんて分からないから、巣穴の周辺を探してると思うんだ」
仔熊のほうに目を向けると、満月の光に包まれて小さな寝息を立てて眠っていた。そんな中で、山本と耕平はいろいろと昔話に花を咲かせていたが、熊は一向に現れる様子もなく時間だけが静かに過ぎて、どうやら夜の底もうっすらと明るさを増して行った。
「おっ、もうそろそろ陽が昇りそうだぜ。オレたちも家に帰って、少し休んだほうがよさそうだな」
「ん、そうするか。やっぱり、夜は出て来なかったか。チクショウめ。もう一回作戦を立て直さないといけねーな。こりゃあ」
山本も同意したので、ふたりはそれぞれ住居に戻って、仮眠を取ることになった。
その日の昼を過ぎた頃に、どちらからともなく集まり、熊の捕獲作戦に関する相談に花を咲かていた。
「熊が出てこない以上、こっちもどう動けばいいのか、皆目見当もつかねえから、もう一度ガイダさんにでも、相談して見ないか。耕平」
ガイダというのは、弟を人喰い熊に殺されたという、あの狩人のことであった。
「うん。そうだな。あの人なら、オレたちと違って経験が豊富だし、何か、いいアイディアでも、出してもらえるかも知れないしな。そうするか…」
さっそく、ふたりでガイダの住居に出向いて行くと、前に山本のところにも来たことのある。ガイダの狩人仲間のふたりも集まっていた。
「こんにちは、ガイダさん。それに皆さんもお揃いで、ちょうど良かった」
「おっ、トオルとコウヘイか。いまお前たちの話をしとったところだ。さあ、こっちへ入ってくれ」
「皆さん。ホントにお揃いで、何かあったんですか」
耕平が尋ねると、
「今しがた邑長に呼ばれてな。帰ってきたところだったんだ」
「へえー、邑長に…、それで何だったですか。邑長が直々に呼び出すなんて、滅多に聞かないことですが…」
耕平は邑長から、何か特別な話しでもあったのかと思い尋ねてみた。
「うむ、わしらもな。邑長から直接くるようにと呼ばれるのは、いままでにもあんまりなかったことだで、何事があるんたべえと思って、おっかなびっくり行ってみたらよ」
ガイダがそこまで言うと、もうひとりの狩人がひき続きしゃべり出した。
「邑長はな。お前たちのことをすごく気にかけておられてな。コウヘイはとにかく、トオルはまだここに来てから日も浅いことだし、カイラを殺した熊退治の件では、かなり苦労をしてるようだから、お前たちで手を貸して一日も早く、カイラの仇を討ってやってくれと、頼まれてきたんじゃ」
「お前らふたりには、わしらとしても邑としても、いろいろ世話になっているから、出きる限りの協力は惜しまないから、わしらに出きることなら何でも言ってくれ」
三人目の狩人が話の最後を締めくくった。
「そうですか。それは、ありがとうございます。オレたちも、実はそのことで伺ったんですが、熊一頭を倒すのにはとてもじゃないですが、オレたちふたりの力では無理だと思うんです。前に熊を誘い込もうとして造った落とし穴があるんですが、熊はまったく現れる様子もないし、どうしたらいいのか判らなくなって、皆さんの知恵をお借りしようと、思ってやって来たですが、何かいい手はありませんか」
「そうか。落とし穴があったな。しかし、落とし穴に落ちたとしても、その後はどうする気なんだ。そう簡単には殺せないぞ。うーむ」
山本の説明を聞いていたガイダが、腕組みをして考え込んでしまった。
「あ、それなら大丈夫です。こっちにはガソリン……、いや、燃える水があるから、それを熊にぶっ掛けて火をつけ、焼き殺そうと考えてるんです」
「燃える水…? 何じゃ、そりゃあ。わしゃあ、そんなもん見たことも聞いたこともないぞ。水が燃えるなんて、そんなもんがどこにあるんじゃ」
「オレのところに置いてあるんです。何だったら、見本を持ってきます」
「ああ、見せてくれ。本当に水が燃えるのかどうか、見てみたいもんじゃ」
「わかりました。いま持ってきますから。ちょっと待っててください」
山本は自分の住居に戻ると、携帯用の醤油を詰めるプラスチック製の小さな容器に、ガソリンを移し替えるとみんなの待つガイダの住居に帰ってきた。
「お待ちどうさまでした。持ってまいりました。これが燃える水。ガソリンです」
そう言うと、山本はガソリンの入った容器をみんなの前に置いた。
それを手に取って光に透かして、眺めまわしていた狩人のガイダが、
「何だ。これは、ただの水じゃないか。こんなものが燃えるとは、わしには思えんのだが、みんなはどう思う」
と、ほかの狩人たちに聞いた。すると、すかさず山本がこう付け加えた。
「いいえ、これは普通の水ではなくて、ガソリンと云って、油の一種になんです」
「ここで、とやかく云っていても埒があきません。どうでしょう。ここは、どこか外に行って試してみてはいかがでしょう」
今度は耕平が狩人たちに提案した。
「それがいい。どうも、わしには信じられん。水が燃えるなんて……」
狩人のガイダは、ブツブツ言いながらも承諾した。
それから間もなく、山本たち五人は邑はずれの岩山の麓に来ていた。
「よし、ここなら他に火が燃え移る心配もないし、ここでやりましょう」
耕平が狩人たちに是非を伺うと、
「うむ、ここならいいだろう。で、わしらに何をしろって云うんだ。コウヘイ」
「まず、このガソリンの入った容器を、あそこの岩の上に置いてきますから、それをゼンダさんに、火を付けた矢で撃ってもらいますから、そうすればこの水が本当に燃えるかどうか判りますから、お願いします。何しろ、ゼンダさんは邑で一番の弓の名人なんだから、山本もよく見ておけよ」
「それじゃ、オレが向こうの大きな岩の上にこれを置いてきますから。ちょっと待っててください」
山本は急いで二十メートル先の岩の前までくると、ガソリンを入れた容器を動かないように小石で固定して戻ってきた。
「準備OKだ。ガイダさん、お願いします」
「よし、任せておけ」
ガイダが弓を構えると、あらかじめ用意してきた火矢用の矢の根元に、消毒用アルコールを染み込ませた、脱脂綿を括りつけた矢を一本手渡した。ガイダが弓に矢をつがえると、耕平が矢尻に火をつけた。無言のままガイダは弓を引き絞ると、的になるガソリンの入った容器に狙いを定めた。
ガイダの放った矢は、一直線にガソリン容器目指して飛んで行った。
次の瞬間、ボンという鈍い音とともに、ガソリンの入った容器は勢いよく燃え上がった。
「おおぉ……」
それを見ていた、ふたりの狩人は驚愕の声を上げた。ただ、ガイダだけは微動だにしないいで、黙ったまま燃え上がる炎を見ていた。
「凄いもんじゃのう。わしゃー、驚いたぞ」
「いやー、大したもんじゃて…」
狩人たちは口々に驚きの声を上げた。
「どうですか。ガイダさん。あれなら熊を焼き殺すことは、充分可能だと思うんでが」
まだ黙ったまま、燃え盛る炎に見ているガイダに、耕平が声をかけた。
「いや、充分じゃろう。それにしても、わしも初めて見たが、何なんじゃ、あの燃える水というのは…」
「ああ、ガソリンですか。あれはオレや山本の住んでいた、ここからずっと遠いところにある物なんです。それより、これから山本のところに帰って、もっと詳しくどうしたら熊を誘き出せるか、皆さんと相談したいと思うんですが、いかがでしょうか」
こうして五人は帰ってきたが、帰りの道すがら狩人たちには燃える水という、ガソリンのことが物珍しく感じられたのか、根掘り葉掘り聞かれたが、車自体のないこの縄文の世界の人間に、ガソリンのことを説明するのは、どんなことをしたって不可能に近く、山本も耕平も疲労困憊しゲッソリとしていた。
四
山本の住居に戻ると、さっそく熊退治に関する作戦会議が開かれた。
「熊の巣穴はオレと耕平で、仔熊を見つけた時に判ってるんですが、問題はどうやってここまで誘き出すかなんです。うっかり巣穴に近づいて行って、もしも反対に熊と出くわしたりしたら、それこそこっちの命が危ないわけですから、そこんところをうまく考えておかないとダメだと思うんです。皆さん、何かいい考えがありましたら、どんなことでもいいですから、ぜひ聞かせてください」
家について、まず口火を切ったのは山本だった。
「あ、それから、もし人間だけで戦うとしたら、どれくらいの人数がいれば間に合うのか、その辺も併せて教えてください」
山本に続いて耕平も口を挟んできた。
「わしも、さっきからずっと考えていたんじゃが、コウヘイが云うように熊一頭だけなら、こっちも十人くらいいれば大丈夫だと思うんじゃが、山に入って行くとなると話は別だな。もし、二・三頭いっぺんに出て来られたら、逆にこっちが全滅しかねない。それに足場が悪い。獣と戦うには足場が一番大切だから、それはなるべく頭から外して考えるべきなんじゃ。だから、みんなで頭を絞って知恵を出し合って、何んとか最善の方法を考えるべきだと思う。どうだ。皆の衆何んとかいい考えは浮かばないか」
ガイダがしゃべり終えると、そこに居合わせた一同も、お互いの顔を見合わせて、深いため息をついた。
「やっぱり、大ベテランのガイダさんでも無理ですか」
ガックリと肩を落としながら、山本がつぶやくよう言った。
「じゃが、そう落胆することもあるまい。ヤツらは冬眠前だから、いまは必死で餌になる木の実を求めて、あちこち探し回っているに違いない。
幸いこの付近には、栗やドングリ・椎の実がなんかが、まだまだ一杯残っているから、必ずこの辺りまで餌を探しに、やって来ると思うんじゃ。だからわしらも冬のために蓄えてきた木の実を、クマから見えるような場所に、晒しておこうと思うじゃがどうじゃろう。熊が出てきたところを、一気にやっつけようと思うとる」
「そうだ。それがいい。さすが、ガイダだ。そうしよう」
ガイダの話を聞いていた狩人のひとりが叫んだ。
「よし、決まりだな。それでは、これからすぐにでも土台を作って、栗や木の実を盛っておけ。それと、弓と槍の腕の立つ者を十人くらい集めておいてくれ。わしは邑長のところに報告に行ってくる。それから、トオルもそんなに気を落とさず、わしと一緒に来てくれ」
山本は、邑長のところへ行く道すがら、ガイダに話しかけた。
「ガイダさん。すみません。オレのために気を使ってくれて、本当にありがとう」
「何もわしは、トオルのためにだけやっているんじゃないぞ。わしも弟を殺されてるんだ。お前だって、カイラを殺られているんだし、お互いに頑張って、ふたりの仇を討ってやらないと、ふたりとも安心して成仏できないじゃないか」
「それはそうなんだけど、こっちとしても犠牲者がひとりでも出たら、家族の者に迷惑をかけてしまうと思って、それだけが心配だったんだ…」
「そんなことはない。そんなことは絶対にあり得ない。わしが保証するんだから、そんなに心配するな。トオル」
そんな話をしながら、邑長のところに報告に行って帰ってくると、邑外れでは餌を盛りつける台座が、すっかり出来上がっており、ドングリなどの木の実も、すでに盛りつけが終わっていた。
「よーし、みんな今日から十人ずつ交代で見張りにつけ、熊は滅多に夜は動かないから昼だけでいい。もし熊が出てきて手が足りないと思ったら、いつでもみんなを呼ぶようにしてくれ。わしとトオルも毎日くるぞ。あ、それからコウヘイも、手伝ってくれるそうだから、みんなも頑張ってくれ」
「おー、任せておけ。殺されたゼンダとカイラの仇は、わしらで討ってやるから安心しろ」
ひとりの若い狩人が言った。ゼンダというのは、ガイダの熊に殺されて死んだ弟の名前らしかった。
その日から、さっそく十人ずつグループになって、熊が餌を狙って現れるのを見張るために、それぞれ二・三人が四方に散らばって、物陰に隠れて待つことになった。もちろん、山本と耕平も加わったことは言うまでもない。
その日は何事もなく過ぎ去り、翌朝見張り登板のグループが現場に行って、何やら気忙しく動き回って、ガヤガヤと話してる声を聞き、山本と耕平も何事かと顔を出した。
「どうした。大分騒がしいようけど、何かあったのか」
「それが、わしらもいま来てみたんじゃが、昨日あれほど山盛りにして置いた。栗やドングリが今朝来てみたら、三分の一ぐらい足らなくなっていたんじゃが、どうしたもんじゃろうかのう、これは…」
「やっぱり、どこかほかのヤツらが来て、盗んで行ったんじゃろうか…」
居合わせた男たちは口々に、グチともひとり言ともつかない、言葉をつぶやいていた。
山本は栗が積まれていた、台座の周りを一通り回ってみた。
「これは、人間じゃねえぞ。見てみろよ。ほら、ここにもあそこにも食べカスの、栗やドングリの残骸が、落ちてるじゃないか」
「あ、ホントだ。しかも、そんなに大きな動物じゃないな。たぶん、リスとか野ネズミの類じゃないかと思うんだ」
耕平が何かを拾い上げて山本に言った。
「どうして、お前にそんなことが分かるんだよ。耕平」
「だって、見てみろよ。ほら、ドングリの食い残しに小さな歯型がついてるじゃないか。これはどう見たって、リスかネズミのような小型の生き物に違いないよ」
耕平から手渡された、ドングリや木の実の残骸を見て、山本はうなずきながら言った。
「こりゃあ、このままにしては置けねえな。リスなんかだったら構やしないんだが、もしもネズミでも大量発生してみろよ。それこそ、人間の生活に直接影響してくるんだから、こりゃあ、このままネズ公の餌になる、栗なんかを放置して置いたら、大変なことになる。何とかしなくちゃ…」
「そうか…。そういうこともあったか…。うーん」
耕平も腕組みをして考え込んでしまった。
「それじゃあ、こうしたらどうじゃろう。毎日ここまで餌を運んだり、持ち帰るのも大変じゃから、わしらが交代で寝ずの番をしたら、いいと思うんじゃが、どうじゃろうかのう…」
と、ガイダが提案したが、山本がひと言だけ反論した。
「いくら何でも、そりゃあ、大変ですよ。第一体が持たないんじゃないですか。寒いし、それに狼だって出るんでしょう」
「いや、大丈夫じゃろう。狼や獣どもは火でも焚いていれば、恐れて近寄って来ないはずじゃから」
長年の経験からなのだろう。ガイダは自信たっぷりに言い切った。それで、取りあえず用心のために狩りの時に使う、犬を二・三匹連れてくることで話は合意した。
それぞれの持ち場に陣取った男たちは、いつ現れるかわからない熊の出没を待ったが、寝ずの番を始めてから、六日間は何事も起こらないで過ぎ去り、七日目の午後になって事態は急転した。
「おーい、大変だー。また、熊が出たぞー。熊が出たぞー」
ひとりの邑人が、こっちに向かって走ってくるのが見えた。
「おい。一体、今度はどこに出たんじゃ」
ガイダは、走ってくる村人を捕まえると、いきなり問いただした。
「ああ、ガイダか。熊が出た。邑の反対側の森の近くを、歩いているのを見かけたというんじゃ」
邑人はゼイゼイ息を切らせながら、それだけ言うとその場にへたり込んでしまった。
「ついに出たか。みんな、聞いたか。向こうの森だそうだ。すぐ追いかけるぞ」
「おおー」
耕平は急いで、水の入った竹筒を邑人に手渡して、ガイダたちの後を追いかけた。
森の入り口まで来た時、ガイダが立ち止まって言った。
「ここからは、トオルとコウヘイとお前ら五人は、ふた手に別れて向こうに回ってくれ。わしらはこっちから回る。みんなぁ、くれぐれも抜かるなよ」
山本と耕平は五人の狩人とともに、森の左側のほうに回り込んで行った。
十五分ほど進んだところで、狩人のひとりが立ち止まった。
「しぃ、静かに、この近くのどこかにヤツは潜んでるぞ。みんな気配を悟られんように気をつけろ…」
辺りを見回しても、そんな気配は感じ取ることはできなかったが、狩人たちはある一点を凝視し続けている。
「間違いない。やっぱり、あそこいら辺に潜んでいるぞ。急いでみんなを呼んで来い」
こういう時の分担が決まっているらしく、ひとりの狩人が足音も立てずに素早く走り去って行った。熊が隠れ潜んでいると思われる茂みは、まったくカサリとも揺れ動く様子もなかったが、確かに何かがいるという雰囲気は全員が感じ取っていた。
「しかし、これからどうするんだい。ガイダさん。このままじゃ、どうしようもないよ」
熊もこちらの存在には、気づいていないらしく、茂みに隠れてゆっくりと、昼寝でもしているのかも知れなかった。事態が進展しないのを見て、苛立ちを露わにした山本が訊いた。
そうこうしているうちに、あちこちに散らばっていた、邑の狩人たちも集まってきた。
「よし、お前とお前とお前は、あっちだ。それからお前ら四人は、向こうに廻ってくれ。残りのわしらは、こっちから一気に攻める。いいか。抜かるんじゃないぞ。それー」
こうして、縄文の大ベテラン狩人ガイダを先頭に、多くの縄文人たちを震え上がられた、人喰い熊との最後の戦いの火蓋が、切って落とされようとしていた。
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