第四章 縄文を吹わたる風
一
それから三日ばかり経った朝、山本が朝食の支度をしていると耕平がやって来た。
「おはよう、これから朝飯か。山本」
「ああ、おはよう。すこし考え事していたら、つい寝坊してしまったよ。何か用かい。こんな早くから」
「ウイラから聞いたよ。お前、カイラともうまくいってるって、ウイラが喜んでたぞ」
「何だ。もう、バレちまったのか…。困ったことやっちまったよ。オレ、カイラにも奈津実にも、悪いことしちまった。オレ、後悔してるんだ…」
「何を云ってんだ、山本。カイラも喜んでるって云ってたぞ。ウイラが」
「耕平、お前は他人事だから、そんなのん気なことを云ってられるんだ。オレの身にもなってみろよ。いまオレがどんな気持ちでいるか、お前になんかわかってたまるか。もう、帰ってくれ」
「何をそんなに怒ってるんだ。お前。わかったよ、帰るよ。帰ればいいんだろう」
苛立っている山本を見て、耕平は黙ってその場から立ち去って行った。
山本は耕平に腹を立てているのではなく、自分自身に苛立っていたのだった。あの晩、カイラが突然やって来て、目に涙を浮かべながら、『ワタシ、寂しい……』
と、山本に抱きついて泣かれた時には、どうしたらいいのか分からなかったことも事実で、ながい時間と時代を隔てた、者同士が交わったという時点で、山本は自分が人類の歴史を、変えてしまうような大それた事を、仕出かしてしまったのではないかという、恐怖感に似たものを抱いたことも事実だった。
カイラは毎日山本のもとを訪れては、ふたりで土器作りに励みながら語り合い、時には耕平と三人で狩りにも出かけることもあった。そんなカイラを見ていると、山本は自分の妻などは、とうの昔に失くしてしまっている、純真無垢な初々しさを、感じ取らずにはいられなかった。
だからそこ、山本は真剣に悩んでいた。未来に残してきた妻と、カイラの板ばさみになって苦しんでいた。いくらあんなガサツな妻でも、妻の奈津実のことを愛していた。だが、カイラのことにしても。このままにしておくわけには、行かなかないと思っていた。自分の苦しい胸の内を、耕平に相談してみようとも考えたが、もうこれ以上耕平には、余計な心配はかけたくなかった。そんな山本の苦しみには、見向きもしないで縄文の時間は、静かに時を刻んで行った。
それから三ヶ月ほど経った、ある朝のことだった。
突然、ウイラが訪ねてきた。
「おはよう、トオル」
ウイラはにこやかな笑顔で挨拶をした。
「やあ、ウイラ、おはよう。どうしたんだい。こんなに朝早くから」
「カイラから聞いたよ。おめでとう、トオル」
「おめでとうって、何がだい…」
山本は怪訝な顔で聞き返した。
「カイラ、出来たって、喜んでいた。トオル、よかった。ワタシも嬉しいよ」
「出来たって…、何ができたんだい。ウイラ」
ウイラの言っている意味がわからず、山本はまた訊ね返した。
「子供だよ。トオルとカイラの子だよ。おめでとう」
「ええ…」
思いも寄らないウイラの言葉に、山本は絶句してしまった。
妻の奈津実と、結婚してから四年も経っているのに,未だに子供ができないでいる山本だった。
こうして、耕平を捜しに縄文時代までやって来て、無事巡り合うことができたのは幸運だったが、それにしても、日本人の祖先とも言われている縄文人の娘、カイラに自分の子供ができたと聞かされたのだから、山本徹でなくても驚くのは当然のことだったろう。
ウイラは嬉しそうに帰って行ったが、山本はショックがあまりにも大きすぎて、しばらくその場から動くことさえできなかった。
何千年という時間を隔たてた時代まで来て、オレは何てことをしてしまったんだ。と、山本は後悔の念に駆られたが時すでに遅く、いつの間にか人類の永い歴史の一部に、介入してしまっていることに気がついた。
ウイラが知った以上、当然耕平の耳にも入っているに違いなかった。山本は食事を取るのも忘れてもがき苦しんでいた。そして、それは深い奈落の底に落ちた亡者のように、山本の心は千々に乱れ、自分でもどうすればいいのか、判らないほどに疲れ切っていた。
『ああ、オレはどうすればいいんだぁ…、こんなこと耕平に相談してもしょうがねぇし…、本当にオレは、どうすればいいんだよ…』
山本は自分の頭を掻きむしりながら、その場にうずくまってしまった。
「おい、山本いるか」
テントが開いて、耕平が顔を出した。
「こ、耕平…」
あまり、いきなりだったので、耕平に自分の無様な姿を、見られた山本は思わず口ごもってしまった。
「何してんだ、お前。ウイラから聞いたぞ。おめでとう、よかったな。山本」
「何が『よかったな』だよ。そんなの全然、よかぁねえよ。相変わらずノーテンキなヤツだな。お前は」
「何をそんなに剥れているんだよ。めでたいじゃないか、お前に子供が出来たんだぞ。もっと素直に喜べないのか。山本」
「どうして喜べるんだよ。これが…。いいか、よく聞けよ。お前はどうせもともと独り身だったし、結婚しようと何しようとかまわないさ。しかし、オレにはれっきとしたカミさんがいるんだ。そういうわけには行かないんだよ」
「だって、お前んとこはまだ子供がいなかっただろう。この際、奈津実さんには悪いと思うが、お前もここで一緒に暮らしたらどうなんだ」
「バ、バカヤロー。そんなこと出きるわけねぇだろうが、何云ってるんだ。耕平」
山本はムキになって怒りだした。
「お前はどうせ、ここから離れるつもりはないんだろうから、それでもいいさ。オレはそうは行かないんだよ。第一オレは歴史に直接介入してしまったんだからな。そんなことは、絶対にやっちゃいけないことだったんだ…。それなのに…、それなのにオレは、何て愚かなことをしてしまったんだろう……」
「そんなに落ち込むなって、お前らしくもない。もっと元気を出せよ。山本」
見るからにガックリしている山本を、慰めるように耕平は肩を叩いた。
「それに、お前は歴史に介入したって云ってるけど、この時代が二十一世紀から、どれくらい離れた過去かも知らないし、お前の血を受け継いだ子供が、ひとりくらい生まれたって、二十一世紀に直接影響を与えるとは、考えられないんじゃないのか…。オレにはよく解からないけど」
「そんなこと、オレにだって解かんねぇよ。だけど、オレがバカなことをやっちまったことだけは、確かかなんだからな…」
「なあ、山本。お前が何でそんなに落ち込んでいるのか、オレにはわからないけど、とにかく、いまはしばらく、カイラの様子を見守っていてくれないか。そうしないと、あまりにもカイラが可哀相じゃないか、頼むよ」
耕平に言われて山本は、少し困惑した様子で考え込んでいたが、
「わかったよ。オレにも責任のあることだしな。お前にそういわれると、このまま放っておくわけにも行かないし、しばらくここにいることにするよ。お前にばかり心配かけちゃ済まないからな」
「そうか。分かってくれたか、ありがとう、山本。後のことはオレが何んとか考えてやるから、ぜひ、そうしてやってくれ。よし、こうなったらお前とカイラの住む、家を建てなくっちゃいけないな。さっそく、木を伐り出してこなくちゃいけないな。お前も手伝えよ」
「おい、耕平。家を作るっつったって、そんなに簡単に出きるのか……」
「なーに、材料ならいくらでもあるんだし、これからすぐに伐り出しにかかろう。邑の人で手の空いている、人に手伝いを頼んてみるから、ここで待っててくれ」
「ちょっと待ってくれよ。木を切るったって、そんなに簡単にはいかないだろう。ここに生えてる木は巨木ばっかりなんだから、大変なんじゃないのか…」
「ここにいる人たちは、昔からそうしてやって来ているんだ。そんなに心配するなよ」
「それにしても、ここにあるノコギリだけじゃ、どう見たって無理だぜ。よし、こうなったら、お前が人集めをしてる間に、オレがもう一度未来に戻って、チェーンソーでも買ってくるから、待っててくれ」
と、いうよりも早く、山本は姿を消していた。それから、耕平が邑人を連れて戻った頃には、山本はチェーンソーに燃料を入れ終え、準備万端整えて待っていた。
「よし、それじゃ始めるか。それにしたって、あんまり太い木はいらないよな。これぐらいの太さで充分だと思うんだけど、耕平はどう思う」
山本は中くらいの木を指して耕平に聞いた。
「いや、お前がいいというなら、それでいいんじゃないのか」
「よし、それじゃ始めようか。みなさん、よろしくお願いします」
こうして、山本徹とカイラの住む、住居つくりは開始された。
山本の作ろうとしていた家は、縄文時代の人たちが住んでいた。竪穴式住居ではなく、まず土台になる柱を立てて、枠組みを組んでから床になる部分に、丸太を敷き詰めた二十世紀後半に流行った、ログハウスをイメージしたものだった。
邑人たちも、初めて造る家に物珍し気にしながらも、山本の指図通りによく働いてくれた。おかげで、四日掛かりで無事ふたりの住む新居は完成した。
建物の外壁には、丸太の皮の部分を薄く切り取った物を張り、透き間風が入らないように加工を施した。屋内も同じように加工し、部屋の中央部には丸太を四角に切り取り、囲炉裏を作り冬の暖房用に備えた。
建物が完成した晩、手伝ってくれた邑人をたちを招いて、ささやかながら新居の完成祝いを兼ねた、宴が執り行われていた。カイラやウイラも加わって、宴は夜遅くまで大いに盛り上がって行った。
やがて宴も終わり、邑人たちが引き揚げた後も、耕平とウイラは残っていた。
「しかし、見事な家が出来たもんだな。オレもこんなのに住みたいな。なあ、ウイラ」
「ホントだよ。ねえ、ウイラと耕平にもこんなの作ってよ。願い、トオル」
この家を気に入っているウイラを見て、山本は自慢そうな口調で言った。
「へえー、ウイラはそんなにここが気に入ったかぁ。耕平、お前はどうなんだ。お前も欲しいっ云うんなら、いつでも作ってやるぞ。何しろ、材料になるの木材なんて、タダでいくらでも手に入るんだからな」
「それはオレだって欲しいよ。それに、この囲炉裏がいいなぁ。これがあれば、獲ってきた魚やなんかも、すぐに焼いて食えるし、オレも欲しいな」
「そうか、そんなに欲しいんだったら、ひとつ造ってやるか。あ、それならまた邑の人たちに、手伝ってもらえるように頼んでおいてくれ」
「わあー、ホント―、うれしい。ありがとう、トオル」
ウイラは嬉しさのあまり、小躍りするように喜んでいた。
しばらくして、耕平とウイラは帰って行ったが、見送りにでた山本とカイラの傍らを、冷たい風が吹き抜けて行った。この時代にも、そんな風の吹く季節がやって来たのかと、山本は身重のカイラが、身体を冷やしてはいけないと思い、カイラの肩をやさしく抱いて、家の中へと戻って行った。
二
それからの山本は、何かが吹っ切れたように、縄文での生活に溶け込んで行った。カイラとふたりで、新しい土器作りに精を出す傍ら、邑人たちの生活が少しでも向上するように、自分の知る限りの知識や技術を駆使して、あらゆる面で邑の人々の困りごとや、相談に乗ってやったりしていた。そのお蔭で山本のところには、邑人たちがいろんな物を持って来てくれるので、日々の生活における食料には、ほとんど不自由することがなかった。
二十一世紀の世界と違って、ゆっくりとした歩調で進んでゆく時間の中で、山本の周りにも春が来てやがて夏になった。山本の子供を宿したカイラのお腹も、最近ではめっきり大きく目立つようになっていた。
そんなある日、耕平がやって来て山本を連れ出した。
「カイラも、そろそろじゃないかって、ウイラも云ってたけどどうなんだ。そんな兆しはあるのか、山本」
「わかんねえよ。そんなの、オレだって出産に立ち会うのなんて、初めてなんだから …」
「だけどさ、ほら、あるだろう。時々お腹が痛くなるという陣痛ってのが、それもないのか…」
「ん、ないみたいなんだ…」
「そうか…。何かあったら、すぐ知らせてくれってウイラが云ってたから、声かけてくれよ。じゃあな。オレ帰るから」
「ん、わかった。よろしく頼む」
そんな話をしている時だった。山本の住居の中からうめき声が聞こえてきた。
「ううう、あああ…」
ふたりが急いで中に駆け込むと、カイラがお腹を抱えて横たわっていた。
「これは、いよいよ始まったぞ。山本、オレは急いでウイラを呼んでくるから、待っててくれ」
耕平は自分の住居のほうに駆け出して行くと、すぐにウイラを連れて戻ってきた。
ウイラはカイラに駆け寄ると、お腹に耳を当てて様子を窺っていたが、すぐに耕平のほぅを振り向いて言った。
「カイラは、もうすぐ子供生まれる。はやく湯を沸かして」
ウイラに言われて山本と耕平は、慌てて土鍋を持ち出して湯を沸かし始めた。
「どっちかな。男かな、女かな…」
土鍋をかけて薪を燃やしながら、山本が聞いた。
「どっちでもいいじゃないか。元気で生まれてくれりゃあ」
「ああ、それもそうだな…」
耕平に言われて、そう答えた山本だったが、ただでさえ長く感じられていた縄文の時間が、さらにゆっくりと過ぎ去っているのでないかと思われ、この時ほど山本は時間が果てしもなく永く感じられたことは、自分の経験の中には一度もなかったのだ。何かを待つということは、いつの時代でもとてつもなく長く感じられるものなのだろう。
「……うーん…、長いなぁ…、あれからだいぶ経つけど、遅いなぁ、まだなのかぁ…」
山本は、その辺を行ったり来たりしながら、ブツブツとひとり言のように、つぶやきながらその辺一帯を歩き回っていた。
「おい、山本。少し落ち着けよ。お前がそんなに焦ったって、しょうがないじゃないか。それにまだ一時間も経ってないんだぞ。大体、子供なんてものは、そんなに簡単生まれるもんじゃないんだから、もっと落ち着けよ。こっちに来て、タバコでも吸ったらどうなんだよ」
耕平に言われて、山本はタバコに火つけながら歩いてきた。
「何だぁ、お前は昔からノンビリしてるから、そんなことが言えんだよ。少しはオレの身にもなって見ろよ。まったく人の気も知らないで…」
そんな話をしていると住居のほうから、
「おぎゃあー、おぎゃあー」
と、いう、産声が聞こえてきた。
「生まれたー」
いうよりも早く、山本は中へ飛び込んでいった。耕平も土鍋のお湯に水を差し、温度の調節を済ませて後に続いた。
「おんなの子だよ。トオル。よかったよ」
ウイラは、生まれたばかりの赤ん坊を、高々と持ち上げて山本に見せた。
「こ、これがオレの子か…」
「お湯、ここに置いて、コウヘイ」
耕平は、言われた通りに湯の入った土鍋を、ウイラの傍らに静かに置いた。ウイラは器用な手つきで、赤ん坊の体を洗うとカイラに渡した。
「おめでとう。カイラ、山本。よかったな、無事に生まれて」
「ありがとう、コウヘイ。トオル、おんなの子だよ。みて…」
たったいま生まれたばかりの赤ん坊が、カイラの腕に抱かれて静かに眠っていた。
「カイラ、よく頑張ったな。オレも嬉しいよ」
山本は跪いて、カイラの肩にやさしく手を置きながら、カイラの腕に抱かれて眠るわが子の顔を覗き込んだ。
さすがに、山本も初めて経験する子供の誕生という、彼自身の人生の中でも、ひと際大きな出来事のはずなのに、なぜか素直には喜べないものに苛まれていた。それは何の断りもなく、二十一世紀に置き去りにしてきた、妻に対する良心の呵責なのか、縄文というまったく次元の違う時代に来て、子供が生まれたことに対する、自責なのかは山本自身にも解らなかった。
『すまない…、奈津実。オレはとんでもないことをして、お前を裏切ってしまったのかもしれない…。本当にすまない……』
山本は心の中で、二十一世紀にいる何も知らない妻に詫びた。が、こうして自分の子供を産んでくれた、カイラもまた愛おしく思えた。
カイラは何も言わず、山本の手を握りしめたまま、優しい微笑みを浮かべていた。
そんなカイラを見ていると、何故か熱いものが込み上げてくるのを覚え、歯を食いしばるようにしてそれを抑えていた。
「かわいい赤ちゃんだよ。ほら、カイラにそっくりだよ。ほら、みて。トオル」
ウイラも、山本の顔をみてニコニコ笑っている。
「ホントだ。それに、この鼻のところなんて、お前にそっくりだぞ。山本」
「う、うん。そうだな……」
耕平の言葉に、それだけ言うのがやっとだった。
「カイラも疲れているだろうから、少し休ませてやったほうがいい。オレたちは、ちょっと外に出よう。山本」
何かを察したのか、耕平が山本の肩を叩いた。
「どうしたんだ。一体、元気ないぞ。せっかく子供が生まれたって云うのに」
歩きながら耕平は山本に聞いた。
「オレは…、オレは奈津実を裏切ってしまったんだよなぁ…。カイラに子供を産ませてしまったんだから、もう帰れないよな…。オレ…」
山本はガックリと肩を落としてしまった。そんな山本を見ていると、耕平も何も言えなかった
ふたりは黙りこくったまま、しばらく歩き続けていたが、山本がいきなり足を止めて、耕平に話しだした。
「なあ、耕平。聞いてくれ。ある晩、カイラがオレんことに来て泣いてたんだ。だから、オレは『どうしたんだ』って聞いたら『ウイラにはコウヘイがいる。ワタシには誰もいない。ワタシさびしい…』って、涙をボロボロこぼしながら、オレに抱きついてきたんだ。
だから、だから…、あん時ぁ、ああなって、こうなってしまったんだ…。ああ…、オレは…、オレはもうダメだぁ…。奈津実…、お前のところには帰れないよ。許してくれー」
山本はすっかり心を取り乱していた。こんな山本を耕平は、いままでに一度も見たことがなかった。どうしたら、一番いいのかと一計を案じていたが、これと言っていい方法が浮かばないまま、
「山本。おい、山本よ。そう落ち込むなって、もう少し冷静になってくれよ。別にお前は奈津実さんを裏切ったわけじゃないだ。いまは少しの間だけ、カイラを見守ってやってくればいいんだ。お前が、そんなことを云ったら、カイラが可哀そうじゃないか。もう少し落ち着いてくれよ。頼むよ。なあ、山本よ」
耕平に言われて、山本も自分が混乱していることに気づいたのか、また肩を落としてしまった。それでも、うじうじと何かを考えている山本を見て、
「そうだ。狩りにでも行こう。山鳥や魚を獲ってきて、カイラに食べさせてあげよう。赤ちゃんのためにも栄養になるし、そうだ。そうしよう。な、行こう。山本」
「ん…、それは…、かまわないけど…」
山本はしぶしぶ返事をした。
「よし、決まり。さあ、行こう。山本」
こうして、耕平と山本は出かけて行った。夕方近く帰ってきたふたりの手には、山鳥二羽と野ウサギ・コイやマスなどの獲物が、両手いっぱいにぶら下げられていた。
それらの獲物を料理してみんなで食べたが、カイラもウイラも美味しい美味しいと、喜んで食べるのを見ていた、山本もようやく元気を取り戻したようだった。
そんな山本の傍らを、涼しげな風が吹きすぎて行き、そこはかとなく秋の気配を感じさせる、季節が近づていて間もなく、冬の到来が来るのを告げているようだった。
三
縄文時代は、比較的穏やかで温暖な気候だったが、その縄文の世界にも季節が巡り、やがて厳しい冬がやって来た。冬の時期になると、邑の住人たちは夏の間に蓄えた、獣の干し肉や魚の干物・栗やどんぐりなどの木の実、農耕で採れるわずかばかりの古代米、(この時代の稲作は、現代のような水田ではなく畑作だった)などを冬場の食料に充てていた。
足りない分は、冬場と言えども狩りに出かけて、獲物を得なければ暮らして行けなかった。獲ってきた獲物も雪の中に埋めておけば、ある程度の期間は保存が利くので、かえって冬場のほうが暮らしも、暖かな季節よりも比較的に楽だった。ただ、冬は動物たちの活動が活発でないせいもあって、容易に確保することは困難だった。
だから、耕平と山本も連日のように、ふたりで野山に出かけて行っては、それなりに食料を確保することに熱中していた。
雪の降る冬場は、動物の皮を鞣して作った、靴のようなものを履いて出かけた。
「こう雪が積もると、動物もろくすっぼ歩き回らねえから、さっぱりだな。こりゃあ、鳥でも狙わないとだめだなぁ。どこかに、何かいねえか…」
山本は周りの木を、キョロキョロと見回してて見た。それらしいものは、どこを見回してみても見当たらなかった。すると、山本と反対方向を眺めていた耕平が叫んだ。
「おい、山本見ろよ。あれ、キジじゃねえか」
「何、キジだって、どこだ、どこだ」
耕平の指さす方向を見ると、十メートル先ほどの木の枝に、一羽のキジが羽根を休めているのが見えた。
「よし、獲れ。耕平、絶対に逃すなよ。山鳥もうまいが、キジ鍋はもっとうまいぞ。絶対に逃すなよ。今夜はキジ鍋で一杯やるんだから」
山本に言われるまでもなく、耕平は素早く弓に矢をつがえると、力いっぱい引き絞りキジに狙いを定めた。
耕平の放った矢はキジを目がけて一直線に飛び、キジは「キーッ」という甲高い鳴き声を残して地上に落ちてきた。
ふたりはキジの堕ちた辺りまで来ると、思わず顔を見合わせた。
「これは、結構でかいな」
「そうだな。コイツは脂も乗っていそうだし、旨いな。きっと」
それからふたりは、獲物を探して方々歩き回ったが、結局のところ収穫は耕平の射落としたキジ一羽だけだった。
「まあ、たまにはこんな時もあるさ。それより、そろそろ日暮れになるから、ぼちぼち帰ろうか。この辺は夜になると、狼が出るそうだから危険だぞって、邑の人から聞いたんだ。早く帰ろう」
「あれ、二ホンオオカミって、とっくに絶滅したんじゃなかったっけ」
「バカだな、お前は。それは二十世紀の初めだろうが、ここは縄文時代だぞ。縄文時代」
「あ、そうか。オレうっかり忘れてた」
「馬鹿野郎。そんなこと忘れてどうすんだよ。まったく」
しかし、山本はカイラと二十一世紀に残してきた、妻との板ばさみになっていて、日毎夜毎に悩みに悩み抜いて、夜も眠れない日々を過ごしていたのだから、自分が縄文時代にいることさえ、忘れていたとしても仕方のないことだった。悩んでいることを、耕平に悟られてはいけないと思い、表情にも出さずにじっと我慢の山本の心を、子供のころから付き合ってきた耕平にも、解らなかったとしても当然のことだった。
それから、また何日か過ぎ去ったあの日、狩りに出ていた邑人のひとりが、熊に襲われたという噂が流れた。
この時代の人々は、狩りに出る時はひとりで行くことはなく、必ず二・三人のグループで出るのが常だった。邑人のひとりが、獲物を追って岩陰まで来た時、いきなり岩陰から現れた熊に、襲われたということだった。後のふたりも慌てて応戦したが、とても勝ち目がなく命からがら、逃げ帰ってきたという話だった。
熊に襲われた邑人の捜索に、耕平も行くというので山本も、一緒に参加することになった。その道すがら山本が耕平に聞いた。
「なあ、耕平。確か、熊って冬は冬眠するんじゃなかったっけ」
「ああ、そうなんだよ。それに、この時代は栗やドングリなんて、掃いて捨てほど生ってるんだから、それを冬のあいだ間に合うくらい、蓄えておくって聞いたことあるけど、それがなんで人を襲ったりしたんだろう。こんなの初めてだって、邑の人も云ってたしなぁ…。もしかしたら、たまたま一頭だけ冬眠から覚めたのかも知れないな」
そんなことを話しながら歩いて行くと、やがて熊に襲われたという、地点まで辿りついたらしく、先頭にいたひとりが声を掛けると、邑人たちが一斉に駆け出して行った
「よし、オレたちも行って見よう」
邑人の後について岩陰を覗いた瞬間、山本は思わず顔を背けてしまっていた。
そこに横たわっていたのは、見るも無残に内臓や腕を、食いちぎられた邑人の遺体だった。山本は、こんな残酷な姿を見たのは、生まれて初めてだったのだ。
「う、うわぁ……」
彼は、その場にうずくまって、うめき声を上げていた。
「うわ、これはちょっとひどいなぁ…」
イノシシに襲われて牙で刺されたり、崖から落ちてケガをした人は見たことはあったが、耕平も、これほどのものを見るのは初めてだった。
「おい、山本。しっかりしろ、大丈夫か」
耕平は腰を屈めると、山本を抱え起こしながら言った。
「今日みたいのは、オレも初めて見たけど、ひどいよなぁ。あれは…。それより、お前ホントに大丈夫かよ」
「ああ、大丈夫だ。ただ、ビックリしただけだ。すまん」
山本は、まだ蒼ざめた顔をしたまま立ち上がり、手に持っていた荷物を耕平に渡した。
「それから、オレのテントを持ってきたから、これで熊に殺られた人の遺体を包んで運ぶといい。みんなのところに持って行ってやれ。あれじゃ、運ぶのも大変だろう」
テントの包みを耕平に渡すと、山本はまたその場にうずくまってしまった。
「え、いいのか。これはお前が高校の頃から、大事してきたヤツじゃないか。ホントにいいのか。汚れちまうんだぜ。それでも」
「いいから、黙って持って行ってやれよ。困っている時は、お互いさまだろうが」
耕平が、テントの詰まった荷物を運んで行った後も、山本はしばらくその場に屈み込んだまま、ひとりでゲーゲー胃の中のものを戻していた。それから、熊に殺られた猟師の遺体は、邑人たちの手によって邑まで運ばれ、邑長たちの手によって手厚く埋葬された。
その後、何事もなく数日が過ぎ去ったが、また猟に出ていた邑人が熊に襲われて、一緒に行ったもうひとりの邑人は、命からがら逃げ帰ってきたとの話が流れた。
そんな噂が流れた次の日、耕平が山本のところにやってきた。
「おい、山本。また邑の人が熊に襲われたんだってよ。聞いたか」
「ああ、カイラから聞いたよ。でも、今回は襲われた人も奇跡的に深手を負わずに済んで、自力で帰って来れたらしいから、好かったんじゃないか」
「ん、でもなぁ。こりゃあ、このまま放って置くわけにはいかないぞ。何とかしなくちゃいけないな。何か、いい手はないか。あの熊もこの前ので、すっかり人間の味を覚えやがったんだ。このままにして置いたら、また人を襲うかもしれない。こりゃ、もう弓や槍だけでは太刀打ちなんて、とても出きそうにないぞ。ホントになんかいい手はないのか、なんか。山本…」
「うーん…。そんなことを云われても、熊となんか戦ったこともないしなぁ…。お前とふたりで知恵を出し合って、もう少しじっくりとり考えてみるか」
「そうだな。二十一世紀の人間だって、熊に出くわしたら銃でも持ってない限り、とてもじゃないが勝ち目はないからな。よし、考えてみよう。それより、山本。お前、子供の名前はどうすんだよ。ちゃんと、考えてんのか」
「うん、まあな。オレとカイラの娘だから、ライラっていうのはどうかと、考えてたんだけど、どうかな。耕平」
「ライラか、いいな。それ、女の子らしくって可愛い名前じゃないか。いいな、山本にしては、なかなかのセンスじゃねえの」
耕平に褒められて、照れ笑いを浮かべしながら山本は耕平と、これからの熊対策について真剣に話し合った。
「こういうのはどうだ。穴を深く掘って、底の部分に竹を槍みたいに削って埋め込んで、落とし穴をいくつも作って熊を、そこまで誘い込んで落とすってのは…」
「だけど、熊はどこに出てくるかもわからないし、そんなに落とし穴ばっかり作ったら時間も掛かるし、そんなにあちこちに落とし穴を造って、もし邑の人でも誤って落ちでもしたら、それこそ大変なことになるじゃないのか。それより、もっとほかに方法はないのか。ほかに…」
「そおかぁ、ダメだな。これも…、せめて猟銃でもあれば一番いいんだろうが、買ってきてもいいんだが、銃なんてオレ一回も打ったことねえしなぁ…。思いつくのはそれぐらいだし、後はほかに何かないかなぁ…。ところで、耕平よ。ちょっと聞くが、お前の弓なんだけど的中率ってのは、割合にすると何パーセントくらいなんだ…」
「自分じゃ分かんないけど、どれくらいだろう。九十八パーセントってところかな。十回打ったら一、二回は外れるからな。それがどうかしたのか…」
「いや、何でもない。ただ聞いてみただけだ…」
それからもふたりで、ああでもない、こうでもないと議論を交わしたが、これといった具体策が浮かばないまま、耕平は帰って行った。
それからしばらく経ったが、あれから邑人が熊に襲われたという話も、この頃はあまり聞かれなくなっていた。そろそろ熊も、冬眠から覚める季節になったのだろう。と、いう噂もちらほと聞かれるようになっていた。
まだまだ、冷たい風が吹き抜けてはいたが、日ごとに陽射しも暖かくなり、やがて花の咲く春の足音が、縄文の世界にも聞こえてくる、そんな穏やかな季節が、ゆっくりとした足どりで近付いている頃であった。
四
やがて、縄文の里にも暑い夏が来て、山本とカイラの娘ライラも、すくすくと成長を遂げて行った。最近では、眠りから覚めてもむずかることもなく、可愛らしい笑顔を見せるようになっていた。カイラも、幸せそうにライラの面倒を見ながら、自分の仕事に精を出していた。
そんな、カイラとライラを見ていると、山本は未来に残してきた、奈津実のことが脳裏を掠めては、居ても立ってもいられないほどの、焦燥感に苛められていた。しかし、こうなった以上は、いつかは戻るにしても、いまの段階では身動きも出きないどころか、ちょっとやそっとのことでは、未来になど簡単には帰れないという、山本にして見れば彼なりに腹を括らざるを得ない、状況に立たされていたのだった。だが、そうなると何年かかるからないから、元いた時間帯には当然帰れない。と、いうことになると、いま頃は二十一世紀の世界で、妻の奈津実が突然失踪してしまった、夫の捜索願いを地元の警察に、提出しているかも知れなかった。
そんなことばかり考えていると、その辺のところを冷静に判断して、どのように処理すればいいのか、まったく分からないまま、茫然とした日々を過ごしていた。
自分が悩んでいることを、カイラや耕平に気づかれてはいけないと、ひたすら明るく振る舞い、何事もなかったかのように、噫(おくび)にも出さないでいる山本だった。
だから、耕平も親子三人で仲良く暮らしている、山本を見ても不自然さは感じられず、二十一世紀の慌ただしい世界にいた時より、ずっとのんびりとした生活を、送っている山本のほうが、よほど幸せなのではないかと、思えるようになっていた。ただし、何も知らないで未来に残されている、山本の妻の奈津実のことを思うと、ちょっぴり複雑な心境ではあった。
それから、また数日が過ぎてカイラが邑の女たちと、山菜採りに出かけて行った。ライラは、妹のウイラに預けて行ったので、山本はいつものように土器や、陶器の素焼き作りをやっていたが、時折りウイラがコウスケを連れて、ライラの顔見せにやって来ていた。
「やあ、ウイラ。耕平は、きょうも狩りに出かけたのかい」
「そう、邑の人と三人で行った。きょうはコイを獲ってきて、サシミが食べたいって云ってたよ。トオルにも分けてやるって云ってたよ」
「そおかぁ、鯉かぁ。鯉はやっぱり洗いだよな。よし、こうしてはいられないぞ。さっそく、酢味噌を作らなくっちゃいけないな」
「スミソ? なに、それ。ウイラ、わからない」
「いいから、出きたら持ってってやるから、待ってな」
そんな話しをしている矢先だった。カイラと一緒に山菜採りに行った、邑の女たちが大慌てで駆けてくるのが見えた。先頭を走ってきた、女が山本の住居の前まで来ると、そのまま地面に座り込んでしまった。
「どうしたんだ。そんなに慌てて…」
山本の問いに、
「カ、カイラが…、カイラがクマに…、クマに襲われて…、うわぁ、あぁぁ……」
息も絶え絶えに、そこまで言うのがやっとで、女はその場で泣き出してしまった。
山本は、顔面を蒼白にしながらも、
「ウイラ、邑の人を集めてくれ。これからすぐ助けに行くから、耕平もすぐ呼び戻してくれ」
間もなく数人の邑人が駆けつけてきた。カイラと一緒に行った女をひとり道案内にして、一行はすぐさまカイラの捜索に出かけて行った。カイラの捜索に向かう道すがら、山本はこの前のことを思い出していた。あの時の熊に襲われた邑人の惨状から見ても、おそらくカイラは、もう生きてはいないだろう。と、いう、観念が山本の脳裏を掠めて行った。
熊が現れたという地点まで来ると、女は脅えたように立ち竦むと、後退りしながら震える手で、ある一点を指さしていた。
そこには、血に染まったワラビやゼンマイとともに、すぐ側にひとりの女が鮮血に染まって倒れていた。
「カイラぁー」
山本は叫ぶよりも早く、駆け寄って行きカイラを抱き起したが、血に染まって体中傷だらけで、冷たくなっていたのはカイラではなかった。
「カイラぁー。カイラはどこだー」
女の遺体を、その場に静かに横たえると、山本はすぐさま立ち上がり、辺りを隈なく捜し回った。邑人たちも必死に探していたが、そのうちのひとりが岩陰で、うつ伏せに倒れているカイラを発見した。山本が近づいて見ると、カイラの背中には熊の爪痕が三本深々と残っていて、見るから痛々しく無残なものであった。
「カ、カイラ……」
山本は、その場に頽れるように座り込んで、カイラに抱きついていた。山本は身動きひとつしなかった。あんなに自分を慕ってくれた、カイラが死んでしまったのだ。無条件で泣きたかった。だが、いまはそんな感傷に浸っている時ではなかった。
一刻も早く邑に連れ戻って、手厚く葬ってやらなけれはいけなかった。埋葬に関する仕来たりとか風習とかは、いくら縄文時代と言えもど、そう大した変わりはないだろうと、いう思いが山本にはあった。
山本はカイラを背負い歩き出した。邑人の先頭を切って歩いて行った。歩きながら知らずに涙が溢れてきた。止めどもなく流れ出る涙を、拭うこともなく黙々と歩み続けた。カイラの体は、もうすでに温もりを失しなっているのが、またとてつもなく寂しかった。
邑に辿りつくと、ふたりの住居にカイラの遺体を下ろした。住居では耕平が待っていた。
「行けなくてごめんよ。山本。知らせに来た女から聞いたよ。ホントに気の毒なことをしたなぁ。お前もあんまり気を落とすなよ」
耕平が心から慰めてくれたことは、山本にとっても非常に嬉しいことであった。
翌日、邑長の特別な計らいによって、カイラの弔いは盛大に執り行われた。カイラのために村の人々が総出で、三日三晩に渡り神に祈りを捧げてくれた。耕平も言っていたが、『こんなことは滅多にない』ことなのだそうだ。
それこそ、村を挙げての大掛かりな葬儀で、それは現代でいうならば、国葬並みのものだという話だった。邑長がここまでして、盛大かつ大掛かりな葬儀をしてくれたのは、一重に日頃から山本の、邑や邑人に対する並々ならぬ、貢献があったからこそだった。
こうして邑人としては、最高クラスの葬儀を執り行われた、カイラの遺体は四日目の朝に、静かに墓地へと埋葬されて行った。残された山本と娘のライラは、カイラの妹のウイラからお乳をもらって、育てられることになった。
カイラの墓には毎日のように、色とりどりの花が手向けられて、一日として花の途絶えることはなかった。山本もライラを連れて、墓参りを欠かさず続けていたが、ある日奇妙な花が供えられていることに気づいた。耕平に聞いてみると、
「あれ、お前、『曼殊沙華』知らないの。別名『彼岸花』とも云うんだぜ。カイラが好きだった花だそうだ。やっと咲いたからって、ウイラが摘んできのを、オレが飾ってあげたのさ」
「へえー、知らなかったよ。こんな花があったんだぁ」
「まあ、山本が知らないのもしようがないさ。お前はもともと花なんかには、無頓着なほうだったからな」
そう、縄文時代の世界にも、季節が巡り彼岸花の咲き、また雪の降る厳しい冬の季節が、間近に迫りつつある頃でもあった。
「ところで、山本よ。お前、これからどうする気だ」
「どうするって、何がだ…」
「ライラだよ。あんな乳吞み児を抱えていたんじゃ、何も出きんじゃないのか。どうだ。ウイラがうちで預かっても、いいって云ってるんだけど、どうだ…。預かってやろうか」
「ん、うん…、そうしてもらうと助かるが、それじゃ、お前んところで迷惑じゃないのか…」
「なぁに、ひとりでもふたりでも同じだって、ウイラも云ってるし、それにコウスケだって、遊び相手がいれば退屈しないだろう。そうしろよ。な、山本」
「すまん。耕平、お前にばっかり心配かけて、ホントに助かるよ。ありがとう…」
「何を云ってんだよ。お前らしくもない。大体だな、お前とオレは昨日や今日の付き合いじゃないんだぞ。もう、三十年近く付き合ってるんだから、そんなに遠慮するなよ。それにライラは、ウイラの姉さんの娘じゃないか。心配しないで任せておけよ」
すっかり気落ちしている山本を、そう言って励ましてやるのが、耕平に出きる唯一の慰めだったのかも知れなった。それに自分が、タイムマシンを拾ったことによって、結局は山本まで巻き添えにして、つらい思いをさせたことに対する、耕平なりに反省の念を抱いていたことも確かだった。
「それにしても…」
突然、しばらく黙りこくっていた山本が口を開いた。
「許せねえ…。許せねえぞ。オレは、耕平。カイラや邑のみんなを殺した、熊のヤツを絶対に許せねえんだよ。オレは、もしも、このままアイツを野放し状態で放っておいたら、殺されたカイラや邑のみんなだって、安心して成仏できないじゃないか。オレは殺るぞ。アイツを、熊の野郎をぶっ殺してやるぞ。耕平、お前も手伝ってくれるよな」
「ん、まあ、オレはいいけど。でも、どうやって殺る気なんだよ。前にも云った通り、弓や槍ではとても、太刀打ちできないぞ。その辺のところは、どうする気なんだよ」
「そんなこと云ってたら、何もできないじゃないか。いいか、耕平。よく聞けよ。弓や槍が利かないんだったら、他に何か方法がないかどうか考えるんだよ。お前も一緒に考えてくれ」
「考えるのはいいけど、前に云った落とし穴はダメだろう。他に何があるんだろうなぁ…」
「うん。落とし穴な、前はダメだと思ってたけど、いま考えると案外使い道があるかも知れないぞ。お前が前に云ったのは、落とし穴をあちこちに掘るっていうから、時間ばかりかかってダメだって云ったんだけど、考えようによっちゃ十分使えると思うんだ。大きな深い穴をひとつ掘って、そこへ熊を誘き出して落とすんだ。どうだ。いいだろう。そのためだったら、オレは体を張って命がけでやってやるぞ。いまに見てろよー。熊の野郎め」
それから連日のように、山本と耕平は作戦を練り続け、ようやくこれはと思えるものが練り上げられた。
そして、その翌日からふたりは、落とし穴用の穴掘りに専念していた。
「熊用の落とし穴って、一体どれくらいの大きさに掘ればいいのかな。実際にその熊を見たわけじゃないから、熊の大きさも全然見当もつかないし、どれくらいの大きさにすればいいんだろう。山本。お前、以前にどこかで本物の熊を見たことあるか」
「いや、ねえよ。んでも、多分三・四メートル幅くらいでいいんじゃねえかな。それに深さは出来るだけ深いほうがいいぞ。オレ、ロープで縄梯子作っておくからさ。それに竹も用意しなくちゃな。それから穴を隠すための枯れ葉や草も集めなちゃなんねえな。こりゃあ、忙しくなるぜ。よし、頑張るぞ」
こうして、ふたりは二日間かけて穴掘りを続け、底辺部に竹槍用の太い孟宗竹を埋め込んで、人喰い熊退治用の落とし穴が四日掛かりで完成した。
「ふーっ、それにしても、かなりシンドかったよなぁ。何しろ、何をするにしても、全部初めてのことばかりなんだから、ホントにオレたちは、大変な時代に来ちまったんだなーって思ったぜ」
「ホントだなぁ。でも、縄文時代でよかったと思うぞ。これが原始時代やもっと古い年代だったら、どんなひどい目に遭っていたか解らなかったからな。それにしても、何でオレたちばかりこんなに、苦労しなくちゃなんないんだろう。なんか悪いことでもやったわけでもないのに…」
そんな話をしながら、ふたりとも穴堀りに疲れた体を休めるために、きょうのところはひとまず引き上げることにした。縄文の里にもいよいよ秋が深まり、野や山にも黄や赤の紅葉が、次第に目立つ季節になっていた。
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