第三章 山本がやろうとした事

       一


 山本が縄文の世界にやって来てから、すでに一ヶ月が過ぎようとしていた。ようやくこの世界にも慣れ、邑の住民たちとも徐々に親しくなっていた。この時代の言葉も、わりと容易に覚えることが出来た。

 そんな山本を見ていると、耕平も自分がここに来たばかりで、右も左も分からない頃のことを、昨日のことのように思い出すのだった。あの頃の耕平は、半分以上やけっぱちになり、行く先もわからないまま、この時代に辿り着いたのだが、そこで出逢ったウイたち姉妹に、邑へ連れて来られたのがきっかけで、この邑に住むようになったのだから、人生というのは誠にもって、不思議なものだと考えていた。

 そして今、数千年の時を隔てて、親友の山本徹が自分を捜しにやって来た。その山本とは昔一緒に遊んだような感覚で、野山に出かけては獣を追い回して、日々の糧を得ている現状に、いささかの不満もなく、むしろウイラ姉妹や邑のために、少しでも役立ちたいという、強い使命感に満ちている、自分自身に充分満足していた。

 耕平は、山本から再三にわたって、二十一世紀に戻るように説得されたが、耕平には元いた世界に戻る気持ちはなかった。一縄文人として、ウイラやコウスケとともに、一生を終えるつもりでいたのだった。

 しかし、山本は妻にもひと言も告げず、自分を捜すためにやって来たのだから、いずれは帰って行くことを知りながらも、複雑な心理状態に陥っていたが、山本の言葉を素直に受け入れることには、耕平自身も知らない心の中の、もっとも深い部分で拒否している、ものが存在していることは確かだった。

 それでも、山本が自分の身の危険を冒してまで、訪ねて来てくれたことについては、心の底から感謝していた。耕平が、タイムマシンを送ったのは、本当は未来の山本だったのだ。その未来の山本が、二〇二〇年の自分にマシンを渡したのも、自分のことは自分が一番、よくわかるという心理からだったのだろう。

 だから、山本は山本で初めて接する世界に、興味津々といった様子と眼で、縄文の人々の生活を観察しながら、自分でもって来たテントを、耕平の住居の傍に設置して、生活を送っていたのだった。

 そんなある日、ふたりはいつものように自分たちの住居から、さほど遠くない森林地帯に狩りに来ていた。

「なあ、耕平よ。この時代は、人間よりも動物たちのほうが、圧倒的に数が多いんだよな。だから、こうして毎日狩りをやっていても、容易に獲物を捕らえるともできるから、食い物には事欠かないんだろう。それなのに、これも河野先輩から聞いた話なんだけど、どうして、この時代の人たちの平均寿命は、三十代半ばなどという短命なんだろうな」

 それを聞いた耕平は、しばらく考えてからこんなことを言った。

「オレもよくは分からないんだが,一番の問題は食生活だと思うよ。栄養のバランスも、そんなに保たれていないし、それにあとは病気だな。風邪ぐらいなら何とかなるかも知れないが、他の病気なんかは原因も分からないから、部族の中にはシャーマンみたいな人がいて、その人が神に祈りを捧げて、病気が回復するのを待つだけなんだから、これじゃあ、病気なんて治るはずもないさ。それに薬草なんかもあるにはあるんだが、果たして本当に効くのかどうか分からないしな…」

「なーるほど。でも、オレが捻挫したときに塗ってもらった薬草は効いたぞ」

「ああ、あれか。捻挫や外傷なんかに効く薬はあるさ。何しろ彼らは一万年以上もの間、こんな生活を続けているんだからな。問題は内部の病気さ。胃炎や腹痛、それに下痢なんか起こしたら大変なんだ」

「うーん、そうか。それは確かに大変だな…。あ、それならオレも万が一のことを考えて、ある程度の薬は持ってきているから、何かの時に役に立つかも知れないぞ」

「へぇー、どんな薬を持って来たんだ」

「うん。まず、胃腸薬だろう。消毒液・風邪薬・解熱鎮痛剤・下痢止め・虫に刺された時のかゆみ止め・赤チンキ・絆創膏・ガーゼ・包帯・はさみ・ピンセット、そんなところかな。どうだ、これだけあればなんとかなるだろう。それに、二・三種類づつ買ってきたから、当分は持つはずだぜ」

「それはすごいな。なんかあった時は頼むよ。それにしても、他にもいろいろ持ち込んだみたいだけど、お前、よく金があるよなぁ、たいぶ金使ったんじゃないのか…」

 すると、山本はケロリとした顔でこう言った。

「あれ、云ってなかったっけ、お前が未来のオレに返した金の半分、二百五十万も貰ったんだ。これくらいのこと、どうってことないさ」

 そんな話をしながら、前に野ブタやカモシカを獲った、川の上流に辿りついていた。そこで何かを思いついた山本が提案した。

「なあ、耕平よ。たまには獣じゃなくて、魚でも獲らないか」

「ああ、オレは構わないけど、でもその槍じゃ無理だろう。どうするんだ」

「ヤスを作ればいいさ。ここいらは大自然の真っただ中なんだから、竹ぐらいいくらでも生えてるだろう。そいつを取って来てヤスを作ればいいさ。オレ竹を取ってくるから鉈を貸してくれ」

 山本は耕平の持っていた鉈を受け取ると、森を目指してさっそうと駆け出して行った。

 ひとり残された耕平は、何か獲物はいないかと辺りを窺っていると、親と逸れたのか鹿の子伴が小さな声で鳴いているのを見つけた。

『あれなら弓でも行けそうだな。よし』

 急いで弓に矢をつがえると、耕平は大きく引き絞り仔鹿に狙いを定めた。放たれた矢は仔鹿に当たり、音もなくその場に倒れ込んだ。

 仔鹿が倒れた場所まで来ると耕平は跪いた。

『悪く思わないでくれよ。これもオレたちが生きて行くためなんだから、ごめんよ』

 この世界にやって来て、耕平は獣を狩るようなってから狩りが終わったあと、いつもこうやって心の中で、つぶやくように祈りを唱えるようになっていた。それは、いつも見ている心やさしい縄文人たちも、みんながそうやって狩りを負えた後で、祈りを捧げているのに違いないと思ったからだった。

 そこへ竹を抱えた山本が戻ってきた。

「さあ、取って来たぞ。これだけあれば大丈夫ろう。枯れた竹も落ちてたから拾ってきた。やっぱり穂先は、乾いた硬い竹じゃないとだめだからな。これで穂先を作ろう」

 山本は器用に竹を割ると、サバイバルナイフで穂先の加工に取り掛かった。耕平が見ているうちに、瞬く間に二本の竹製ヤスを作り上げた。

「さあ、出来たぞ。これはお前が使え。じゃあ、行くか」

 一本を耕平に渡すと、山本はスニーカーを脱ぎ捨てると、川の中へ入って行った。

「おい、何かいるか」

 後から入ってきた耕平が聞いた。

「ああ、居る、いる。アユやフナやコイ・ヤマメまでいるぞ。こりゃあ、取り放題だぜ」

 言いながらも、山本は夢中で手製のヤスで魚を射止めては、取った獲物を川岸のほうに放り投げている。

「よし、オレもやるか」

 耕平も川に入り、ふたりは魚類の捕獲に夢中になり、あっという間に小一時間が過ぎ去って行った。やがてふたりは岸に上がってくると、獲物の山を見て互いに顔を見合わせて、にんまりと笑みを浮かべた。

「こりゃあ、大漁だ。よし、余った竹でヒゴを作ろう。それに通して持って帰ろう」

 竹を裂いて細いヒゴを作り、それらを耕平に手渡すと、ふたりで魚のエラに通してまとめ上げた。

「よし、じゃあ、ぼちぼち帰ろうか。それにしても、よく獲れたもんだ。こんなに獲っても、みんなに分けてやったって、一回には食べきりないんじゃないか。残ったヤツはどうするんだ」

「残ったものは干物にして、冬場の食料として貯蔵庫に保管しておくんだ」

「貯蔵庫…、そんなのあるのか」

「あるだろう。ほら、高い櫓のようなものが」

「櫓…、ああ、あれ貯蔵庫なのか。へぇー」

「よし、帰ろう」

 魚を通した輪になった竹ヒゴを、両肩に担いで耕平は立ち上がった。山本も同じようにして魚を担ぐと、耕平と並んで歩き出した。

「縄文時代って、ホントに気候が温暖なんで驚いたんだけど、河野先輩から聞いた話なんだけどな。氷河期が終わって、縄文時代になると温暖化が進んだろう。でも、それって一万年以上も前の話だろうが。何で、いま頃までこんなに温暖なんだろうなぁ」

「さあ、そんなこと急にオレに聞かれても、オレだって全然わかんねえよ。しかし、ホントに何故なんだろうなぁ」

 ふたりの疑問は、いくら考えても答えが見いだせないままだった。

 邑に戻ったふたりに、カイラとウイラの姉妹が駆け寄って来て、ウイラが縄文語で耕平に何かをささやいた。

「どうしたんだ。何かあったのか。耕平」

「うん。ウイラたちの母親が腹を痛がってるらしい、お前何か薬を持ってるだろう。何か出してくれないか」

「お腹って云ったって、いろいろあるからなぁ。もう少し詳しく聞いてみてくれ。何か探して見るから…」

 耕平は、ウイラとカイラの顔を見ながら、また何かを訊ねていた。カイラは自分の乳房と臍の中間部を抑えて必死に説明している。

「わかった。胃か。それなら、ちょうどいいのがあるぞ。ちょっと待っててくれ」

 山本はテントに入ると、中で何やらゴソゴソと探し物をしていたが、すぐに飛び出してきた。

「あったぞ。これだ。取り合えず、これを飲ませてやっくれ」

 山本は手に持っていた液体胃腸薬の小瓶を自分の口元に持って行き、フタを外して飲む仕草をしてからカイラに渡した。

 カイラとウイラは喜び勇んで、母親のいる住居を目指して駆けて行った。


       二


 翌日、山本が目を覚ましたところへ、耕平がウイラとカイラを伴ってやって来た。

「おい、山本。起きてるかい」

 山本がテントから顔を出した。

「何だ。こんなに早くから、どうしたんだ。お前ら」

「アリガトー、トオル」

 カイラが礼を言いながら、ペコリと頭を下げるとウイラも続いて頭を下げた。

「どうしたんだ。一体、こんなに朝早くから……」

 怪訝そうな顔をしている山本に、

「実はな、きのうお前からもらった胃薬を飲んだら、彼女たちの母親の腹痛がピタリと治ったそうだ。それで礼を言いたいって云うから連れてきた」

「ホント、ヨカッタ。アリガト、ナオッタ。アリガト、トオル」

 ウイラも山本に駆け寄ると、両手を握って喜びを伝えた。

「おう、それはよかったじゃないか。やっぱり効くもんだな。それにしても、こんなに効くとは思いもしなかったが、やっぱり効いたんだ。なるほど…」

 山本がしきりに感心しているのを見て、耕平が聞いた。

「お前、何をそんなに感心してるんだ」

「いや、大したことじゃないんだけど、前にある本で読んだことを思い出したんだ」

「どんなことだい」

「うん、昔な、どこの国の人だったかは忘れちゃったけど、初めてアフリカ探検に行った話なんだ。その時に原住民のひとりが腹痛を起こして、ひどく苦しがっていたんで、薬も持ってなかったんだそうだ。たまたま待っていた、自分用の歯磨き粉を飲ませたんだってさ。そしたら、その原住民もたちまち、腹痛が治って云うからさ。縄文時代の人だって、科学的な薬なんて飲んだことがないだろう。だから、その分効き目も凄かったのかなと思って、われながら少々驚いてたんだ」

「へぇー、そういうこともあるのか。そういえば、病は気からっていう言葉もあるしなぁ。ところで、お前きょうはどうする。少しは休んだほうがいいんじゃねえか」

 山本は少しの間なにかを考えていたが、

「オレさ。せっかく縄文時代に来たんだから、土器を作ってみたいと思っているんだ。どこかに粘土の採れるところってあるかな」

「この時代では土器作りなんかは、みんな女の仕事なんだよ。土器作りなら、カイラが得意だから教えてもらうといいよ。粘土の採れる場所も知ってるはずだから、聞いてやるよ」

 耕平はカイラと何やら話をしていた。

「食事が済んだら、一緒に行こうってさ。何だか、彼女すごく喜んでるみたいだぜ。まぁ、頑張ってくれ。オレはきょうも狩りに行ってくるからさ」

 耕平も狩りに出かけて、しばらく待っているとカイラがやって来た。

「どこに行く?」

 言葉が通じるか、心配だったが聞いてみた。

「向コウ、行ク。イイ」

 やはり片言ではあったが、ウイラのそれよりはカイラのほうが、発音的にしっかりしていて、聞き取りやすかった。ふたりがしばらく歩いて行くと、カイラが立ち止まって少し先にある土手を指さした。

「トオル。アソコ、アル。行コウ」

 カイラばが足早に歩いて行く。近寄ってみると、確かに黒っぽい色をした粘土質の地肌が目に入って来た。

「こりゃあ、なかなかいい粘土じゃないか」

 手に取って指先で軽く捏ねてみても、粘り気もかなり強いらしくて、上質の粘土であることが山本にもわかった。

「よし、これを掘って持って帰るぞ。カイラ」

 山本は持ってきたピッケルを使って掘り始めた。普通の土なら硬くて、とてもピッケルなどでは掘ることもできないが、粘土質の土は比較的に柔らかく、容易に掘り出すことができた。

「これだけあれば充分だろう。そろそろ帰るぞ。カイラ」

 辺りに生えている樹木の幹に、絡みついている蔦を刈りるとカイラに手渡した。それを使ってカイラは粘土を手際よく、ひとつの塊にして蔦のツルで結わえて行く。大きな塊を山本が背負い、小さい塊はカイラが両手で持って家路についた。

 戻るとすぐに、カイラの手ほどきで土器作りの準備を行った。カイラは粘土をよく捏ねてから、太い縄状のものを作り始めた。山本も見よう見まねで同じものを作って行く。

 カイラは縄状の粘土をらせん状に積み重ね、いわゆる土器の形状のものを形作って行く。山本のほうは、普通の土器ではなく最初に底部を作ると、もっと大きく粘土を巻いて行き上部に来るにつれて、湾曲状態になるよう巻き上げて行った。こうして山本の初めての作品は出来上がった。

 その作品は、直径が五十センチ高さ三十センチは、あろうかと思われる鍋状の物だった。そう、山本が作った物は一般家庭で、冬の料理には欠かかすことができない、土鍋をイメージして作られた物だった。そして、粘土は乾燥すると二・三割ほど縮小するので、山本はその分を計算に入れていたから、やや大きめに作っておいたのだった。土鍋と一緒にどんぶりのような器も作った。

「よし、出来たぞ。見てくれ。カイラ」

 山本は自慢気にカイラに見せた。

「コレ、何? トオル」

 カイラは怪訝そうな顔で山本に聞いた。

「鍋だよ。これで獲ってきた獣や、魚を煮て食べると美味いんだぞ」

「ナベ…、何、ワカラナイ」

 この時代には、まだ鍋という言葉さえも、存在もしなかったのだから、カイラには理解することもできなかった。

「鍋というのは、土器と一緒だ。この中に物を入れて火にかけて煮るんだ。それをみんなで食べるんだ。うまいんだぞ」

 大きなジェスチャーを交えながら、山本がしばらく説明すると、カイラもようやく理解したらしかった。さらに、山本はもうひとつ同じ物を作った。それを耕平のところにも持って行ってやるつもりだった。

 出来上がった土鍋は、ある程度乾燥するまで陰干しにして、その後天日で本干しをして、完全に乾燥させてから、野焼きをして素焼きにするのだが、山本はもっと硬質の焼き物を作りたかった。野焼きに代わる本格的な炉がほしかった。しかし、どうやって作ればいいのかわからなかったが、炭焼きの窯なら雑誌なんかで、見たことがあるのを想い出していた。それをイメージして造ろうと考えていた。とにかく石と粘土を組み合わせて何とか作ってみようと思った。石なら、その辺にゴロゴロ転がっているのだから、集めるのにはさほそど手間はかからなかった。ただ、天井の部分はどうするかだった。

 粘土が乾くまで石が落ちてくるのを支えるには、何か支(つっか)え棒のようなものをかる必要があった。そこで枠組みを組んで、粘土が乾くまで押えることを思いついた。規模を大きくすると、作るのに大変だと考えた山本は、取り敢えず土鍋を焼くのに、適切だと思えるものを作り始めた。

 まず、割った竹を火にかざして、丸みをつけたU字型の物を数個作り、それをビニールハウスの枠組みの要領で、土の中へしっかりと埋め込んだ。それから強度を保つために上と、両脇を別の竹で補強した。あとは石と粘土積み上げるだけだった。

 こうして、山本は苦労を重ねた末に、数日をかけ陶芸窯らしい物を完成した。だが、陶芸窯など一度も見たことのない、山本には陶芸窯なるものが果たして、これでいいのかどうかなど、わかるはずもなかったが、取りあえず粘土を焼いて強度をだすために、三日がかりで窯に火入れを施して、一応山本式陶芸窯は完成したのだった。

 耕平も連日のように狩猟に出ていて、最近はあまり顔を合わせることもなかったが、どうしても見せたくて、耕平を呼んできて感想を聞くことにした。

「へえー、これホントにお前が作ったのか。なかなかの出来じゃないか。お前にしては上出来だと思うぜ」

「耕平にそう云ってもらえると嬉しいよ。でも、陶芸窯なんて見たこともなかったし、本当にこんなもんでよかったのかどうか、まるっきり自信がなかったんたが、ホントにこれでいいのかなぁ…」

「いいんじゃないのかな。とにかく焼いてみればわかるさ。さっそく焼いてみろよ。もう、土鍋のほうは完全に乾燥し切ってるんだろう」

「ああ、それは問題ない。お前も忙しくなかったら、手伝ってくれると助かるんだけど、きょうは手が空いてないか…」

「ああ、いいよ。手伝うよ。何をすればいいんだ」

「そうだな。焼き上がるまで火は絶やせないから、薪になるような木材を集めなくちゃいけない。これから取りに行こう」

 ふたりは薪にする枯れ木を集めに森へと向かった。山本は鉈を使って枯れ木の伐採にかかったが、作業は一向に進まなかった。業を煮やした山本は、額の汗を拭いながらつぶやいた。

「これじゃ、いくらやっても埒が明かないや。よし、こうなったら一度未来に戻って、ノコギリかなんかを、持ってきたほうが早いな。お前がここに来た時に立てたという、あの記念碑のところは、確か向こうの公園の辺りだったよな。これから、すぐ買ってくるよ。急いで帰ってくるから、少し待っていてくれないか」

 と、云うよりも早く山本は、耕平を残して立ち去って行った。それからものの二十分も経つか経たないうち、大きな段ボール箱を荷台に付けて、自転車に乗った山本が戻ってきた。

「やあ、待たせたな。行ったついでだから、いろいろ仕入れてきた」

「何だ、またチャリンコを買って来たのか。それにしても、何をそんなに買ってきたんだよ…。山本」

「うん。まず、ノコギリだろう。大きいのと小さいヤツ、それにロープだろう。太いのと細いヤツ。斧もあったほうがいいだろう。それからトンカチと釘、これも大小含めていろいろ買ってきた。あと工具類に砥石だろう。それに針金、番線もいろんな太さのを買ってきた。あとはトランシーバーだ。お前との連絡を取るのにほしかったんだ。電池もたっぷり買ってきたし、一年くらいは持つだろう。砂糖や塩・味噌・醤油も、足りなくなるといけないから買ってきた。あと日本酒だ。お前好きだったよな。やるからお前呑めよ。空きビンは水でも入れて使え。ウイスキーはオレ用だ。あとは、その他もろもろだ。じゃあ、やろうか」

 出来るだけ枯れている木や、朽ち果てて倒れている樹木を選んで、切り出しを始めたふたりだったが、この時代は何をするにしても、あまり苦労もせずに成し遂げることができた。平地より森林のほうが多いのだから、動物を狩るにしても木材を集めるにしても、いずれも容易く収集することが出来た。

「これだけあれば十分だろう。足りなくなったら、また取りに来ればいいさ」

「そうだな。じゃ、帰るとするか」

 耕平が蔦のツルで結わえてくれた、木材を背負い邑へ帰ってきた山本は、その日から土鍋づくりの火入れをする傍ら、さまざまな大きさの土鍋類を作り続けて行った。


       三


 こうして、三日三晩かけて焼き上がった土鍋は、初心者の作った物にしては、実に見事な出来栄えだった。

「初めてにしては、なかなかよく出来たじゃないか。お前、陶芸の才能があるんじゃないのか」

 耕平に褒められて、山本もまんざらでもなさそうな顔だった。

「そうだ。耕平、お前きょうは山鳥でも獲って来いよ。オレはキノコとか食えそうな野菜類を採ってくるから、今晩は山鳥鍋でもしないか。あれは、いい出汁が出るからうまいぞ。きっと…」

「お、いいな。やろう、やろう」

 ふたりは手分けして、それぞれ獲物を求めて出かけて行った。山本はいたるところに自生している、野菜を探していたがキノコやフキなどは、簡単に見つけることはできるが、野生種のネギだけはどこを探しても、見つけることができなかった。それでもニラに似た野草があったので、それで我慢することにした。

 その晩、山本のテントにカイラ姉妹もやって来て、賑やかかに宴が始まり大いに盛り上がって行った。

「いやぁ、土鍋にしてもそうだが、このドンブリもなかなの物だな。うん。こりゃあ、皿なんかも作ったほうがいいぞ。それに湯飲みなんかも欲しいな」

 ふたりの話を聞きながら、カイラとウイラは土鍋とドンブリに興味を持ったらしく、これも夢中で話に熱中している様子だった。

「ほら、カイラたちもお前が作った、鍋に感心しているようだ。カイラにも湯飲みや、ね皿を作らせたらどうだ。お前、教えてやれよ」

「わかった。教えて作ってもらおう。オレはあした、パンクして置き去りにして来た、チャリの車輪を外してくるよ。どうしても必要なんだ」

「チャリの車輪…、いったい何に使うんだ」

「ん、このままじゃ、仕事がはかどらないから、車輪を利用してロクロを作ろうと思うんだ。ロクロがあれば大量生産とまでは、行かないが邑のみんなのところにも、行き渡るくらいの数はできると思うんだ」

 そこまで話すと山本は、山鳥なべを突っつきながら酒を飲み干した。

「そりゃ、いいや。みんなもきっと喜ぶぞ」

 翌日、山本は朝目覚めると、この時代に着いた時パンクした自転車を、放置してきた川原に来ていた。持ってきた工具を使い、自転車の解体に取り掛かった。山本が乗って来た自転車は、ミニサイクルというタイプのもので、車輪のサイズもさほど大きなものではなく、ロクロを作るには持ってこいの大きさだった。

『これで、よしと。さっそく邑に戻ってロクロを作るか』

 邑に帰ってくると山本は、今度はノコギリを手に林に向かった。ロクロの土台と台座になる、木材を切り出すためだった。適当な太さの大木を見つけると、ノコギリで伐採に取りかかった。しかし、立木の伐採などやったこともない山本には、その作業は困難を極めたものであった。三分の一くらいまで切り込んだところで、慣れない仕事に疲れを覚えた山本は、その場に腰を下ろしタバコに火をつけて一息いれた。

 静かな林の中でタバコを吸いながら、山本は二十一世紀に残してきた、妻の奈津実のことを考えていた。妻には何も告げずに、縄文時代にやって来たのだから、いくらか後悔の念を抱いたとしても、それはそれで仕方のないことだった。それでもこの時代にきて、それほど苦労もせずに、佐々木耕平と逢えたのだから、これは幸運なことには違いなかったが、耕平自身が未来に戻る気を示さない以上、いまの山本にはどうすることも出来なかった。だから、少しでも耕平たちの暮らしが、楽になるように協力を惜しまないつもりでいた。そして、ことが一段落したら、妻の待つ元の世界に戻ろうとしていた。

『さて、始めるか…』

 休憩を終えると、山本は立ち上がり木の切り出しに取り掛かった。途中に休憩を挿みながら三時間ほどかけて、切り倒した木をロクロの土台と台座に切り分けた。一度切り倒した木は、立木を切るよりも比較的簡単に切り分けることができた。

 切り離した土台と台座になる木材を持ち帰り、散々苦労した甲斐もあって、どうにか山本徹製作の縄文ロクロ、第一号は完成したのだった。さっそく、出来たばかりのロクロを耕平に見せた。

「へえー、これお前が作ったのか。よく出来てるなぁ。うん、回転にもムラがないしバッチシじゃないのか。これ」

「ここに来てからやることなすことが、何もかも初めてのことばかりで、あまり自信がなかったんで、耕平にそう云ってもらえるとオレも嬉しいよ」

 こうして山本は、本格的に焼き物作りに専念していった。山本が作ったのは鍋ばかりではなく、茶碗・ドンブリ・湯飲みといった、細々とした日常生活に必要と思われるものすべてだった。

 山本が、焼き物を作るようになってから、カイラも毎日のように山本のところへ、顔を出すようになっていた。カイラは、この時代の土器作りに関して、熟練したものを持っていた。だから、山本の作る土鍋や茶碗などにも、興味津々とした目で見ていたし、カイラも進んで山本の手伝いを兼ねて、土鍋作りに精を出していた。そんなカイラの献身的とも言える協力に山本は、ただただ頭の下がる思いがした。また、毎日カイラと接することにより、山本自身もカイラから得る部分も多くあった。カイラが分からないことがあれば、できるだけ分かりやすく教えてやった。

 毎日、そんな生活送を送っているうちに山本も、少しずつではあったが縄文語が話せるようになっていた。相手に自分の意思を伝えられるということが、こんなにも素晴らしいことだったのかと、カイラと接し始めて改めて感じることができた。

 山本とカイラはお互いが師匠であり、お互いが弟子であった。分からないことがあれば、どんな些細なことでもお互いに聞きあい教えあった。カイラもウイラに勝るとも劣らないほど従順で素直な性格の娘だった。こんなに心の優しい純朴な女たちは、二十一世紀のどこをどう探したって、滅多にはいないことを山本は知っていた。

 この縄文の世界での、まるで時間が止まっているような、のんびりとした生活がことのほか気に入っていた。だから、こうして、ここに自分がいること自体が、途方もなく『長い夢でも見ているのではないか』という、錯覚に陥っている自分に気づいて苦笑していた。

 粘土が足りなくなってきた。カイラとふたりで運ぶにしても、そんなに大した量は運べないと、思った山本は耕平に相談してみた。

「この前採ってきた粘土が、足りなくなって来たんだ。手の空いている時でいいから、運ぶの手伝ってくれないか」

「ああ、いいよ。じゃあ、これから採りに行こうか。カイラもいっしょに来るかい」

 カイラは黙って頷いた。

「でも、カイラはすごいよ。物事を吸収するのが早いんで、驚いているんだよな。一度教えたら絶対間違えないし、とにかく、素晴らしい吸収力を持ってるだよ。彼女は、その点、うちのカミさんなんか、いくら教えてもすぐに忘れちまうんだから、いやになっちゃうよ。カイラの爪の垢でも、呑ませてやりたいくらいだよ。ホント」

「もう、わかったからさ。お前の愚痴を聞いていてもしょうない。行くぞ」

 それから三人は粘土を採りに出かけ、大量の粘土を集め大きなボール状に固めた。それをフキなどの大形植物の葉で覆い、耕平が蔦のツルで周りを固定した。

「よし、これでいいぞ。さあ、行こうか」

 出来上がった粘土のボールを、運動会の玉転がしの要領で、転がしながら帰るのである。これがまた大変だった。学校のグラウンドのように、整備されていれば話は別なのだが、石や岩だらけの道なき道を、転がして帰るのだから重労働だった。自分たちの邑に帰り着いた頃には、三人ともクタクタに疲れ切っていた。

 粘土を大量に採ってきたおかげで、翌日から山本の仕事は多忙を極めていた。カイラを助手に使いながら、陶器を焼くための様々な、大きさの器類を造っていった。陶器と言っても、ここでは釉薬が手に入らないから、ただの素焼きになるのは仕方がなっかった、それでも山本は満足していた。土器しか知らない、この時代の人々に普通の焼き物を造り、使ってもらいたいという、使命感のようなものを抱き始めていた。

 完全に乾きっている、最初に作った形成物を五・六個ほど、試しに焼いてみることにした。山本は陶芸など生まれて、この方一度もやったこともなかったし、どれくらいの焼けばいいのかも判らないまま、多分丸一日くらい焼けば、大丈夫いだろうという、いい加減な素人判断で、焼き窯に火入れをすることにした。

 カイラは、山本の仕事を手伝いながら、山本はどうしてこんなに面倒なことを、しているのか分らなかった。野焼きなら手軽に焼けるのを、何日もかけて窯を造ったり、土器を焼く準備をしている姿を見て、カイラは山本のことを少なからず、訝(いぶか)しく思っていたのに違いなかった。しかし、カイラのそんな思いも、火入れをしてから四日目の朝に、山本がやっていたことが、無駄ではなかったことを知るのであった。

 翌朝、カイラが焼き窯のところまで来ると、山本がすでに窯の前に立って待っていた。

「おはよう、カイラ。火は完全に消えてる。カイラが来るのを待ってたんた。さあ、これから開けるぞ」

 山本が縄文語で言うと、

「うん、早く見たい。早く開けて。早く、早く」

 カイラに急かされるようにして、山本はピッケルで窯の入り口を塞いである、粘土を積み重ねただけの塊を壊し始めた。

 窯の中に潜り込んだ山本は、焼き物の上を覆っている灰を払い除けて、出来たばかりの土鍋を手に這い出してきた。

「ほら、これが出きたてほやほやの土鍋だ。凄いだろう」

 山本は得意そうに、いま出きたばかりの土鍋を、両手でたかだかと持ち上げ、カイラのほうを向いた。

「うわぁ、すごい、すごい。早く見せて。早く、トオル」

 カイラは、キャァキャァ騒ぎながらはしゃいでいる。山本は手で綺麗に灰を落とすと、カイラの手に渡した。

「これ、すごい。トオル、これすごいよ。こんなの初めて見たよ」

 初めて目にする土鍋を、手に持ってカイラは目を輝かせていた。それを見ながら山本は、もう一度焼き窯の中に入って、土鍋と細々とした器類を持ち出してきた。

「さあ、これからこれをウイラと、耕平のところに持ってってやろう」

「ホント、ウイラきっと喜ぶよ。行こう、行こう」

 喜び勇んで、カイラが山本を促すと、ふたりは両手に焼き上がった土鍋に、ほかの器類を入れて、耕平たちの住居を目指して歩き出した。

「おーい、耕平いるか…」

 山本が声をかけると、中から耕平が顔を出した。

「何だ。どうしたんだ。こんなに朝早くから、お揃いで…」

「こんなものが出来たんで、お前のところにも持ってきた。良かったら使ってみてくれ」

 と、手にした土鍋と中に入った、細かい雑器類を耕平に手渡す。

「へえー、結構よく出きたじゃないか。それに茶碗や湯飲みもあるのか。立派なものだ。お前、これホントに初めて作ったのか…」

 そこへ、コウスケを抱いたウイラも出てきた。

「これトオルが作ったんだ。すごいだろう。今夜にでも使ってみろよ」

 土器以外の焼き物など、見たこともないウイラも、初めて目にする土鍋には、驚いた様子で見入っていた。山本は土鍋と食器類の説明をして、耕平と今後の打ち合わせを済ませて、自分のテントへと引き上げて行った。

耕平は、いまもらった土鍋や、雑食器類の使い方を教えながら、ふたりの姿を見送っていた。


       四


 それからの山本は、耕平と狩猟に出かける傍ら、土鍋を中心とした「陶器」と、まではいかないまでも、素焼きの焼き物作りに、試行錯誤を繰り返していた。

 そうした日常的な生活の中で、耕平と狩りに行ったりカイラとの、陶器作りに勤しんでいるうちに、カイラの様子がおかしいことに気づいた。ロクロを使って粘土の形成をしていても、何かしら上の空でボーっとして、仕事にもあまり身が入らないようだった。そんなカイラを見るに見かねて、山本は聞いてみることにした。

「どうしたんだ。カイラ、どこか具合でも悪いのかい」

「ううん、何でもない。だいじょうぶ…」

 それっきり、何も言わないでカイラは、ただ黙々と土器作りを続けていた。それにしても、おかしいと感じた山本は、耕平に最近のカイラの様子を話し相談した。

「そういうわけなんだ。どう見ても、ただ事でないと思うんだが、何か心当たりでもないかと思って、お前に聞きにきたんだ。何か気がついたことでもないか…。オレにはさっぱり判らなくってさ…」

 耕平は、しばらく考え込んでいたが、山本の顔を見てニヤリと笑みを浮かべた。

「それはな。山本、多分カイラはお前のことが、好きになったんだと思うんだ。つまり、お前に惚れたんだよ。きっと、そうだよ」

「ほ、惚れた…、オレに…。何でだ。だって、オレにはカミさんがいるんだぜ。二十一世紀に置いてきた……」

「そんなことは知らないよ。第一オレたちが未来からきたとか、お前が結婚して嫁さんがいるなんて、彼女に分かるはずもないんだからな。お前、何とかしてやれよ。山本」

「何とかしろと、云われてたって困るよ。そんなこと、オレは…」

 実際、山本は面食らっていた。耕平に、予想だにしていないことを言われて、困惑していたことは確かだった。純真無垢なカイラのことを考えると、そう邪険なことも言えないと思ったが、どう言えばカイラを傷つけずに済むのか、まったくと言っていいほど分らなかった。

「そりゃあ、お前はいいよ。もともと独り身だったんだから、ウイラと結婚しようと、子供を作ろうと構わないさ。オレの場合は、そうは行かないんだよ。カミさんもいるし、お前と違っていつまでも、ここにいるわけには行かないんだからな。そのうち二十一世紀に、帰らなくっちゃいけないだろうし、オレはどうすればいいんだぁ…」

「なあ、山本。お前のいうことは痛いほどわかるよ。でも、それについてはオレがとやかく、云う問題ではないと思うんだ。あくまでもお前自身で考えて、最終的にお前が決めるべき、ことなんじゃないのかな…」

 耕平に、そう言われても山本自身、若い娘から惚れられた経験もなかったし、もしもカイラと恋愛関係にでもなったら、二十一世紀に残してきた妻に対して、顔向けが出来ないと思っていた。

「すまないな。お前にまで余計な心配させちまって、ホントにすまん。じゃ、オレ帰るよ。まだ、しなくっちゃならない仕事が残ってるんだ」

 山本が戻ると、カイラは一生懸命土器作りに励んでいた。いつまでも、愚にもつかないことばかり考えてはいられないと、気をとり直した山本はカイラに話しかけた。

「ロクロの使い方も、だいぶうまくなったじゃないか。さすがは、土器作りの名人だな。カイラは…」

 山本に褒められたことが、よほど嬉しかったのか、カイラはにっこりと微笑んだ。

「トオルの作ったロクロっていう、これとても便利だよ。いままでよりも、ずっとうまく出きるようになったよ」

 いま仕上がった土器を指さして見せた。ロクロの上には、山本がこれまで目にしてきた、土器とは比べ物にならないほどの、実に見事な火焔式土器が乗っていた。

「何だ。これは、凄いじゃないか。まるで山本太郎の彫刻みたいじゃないか」

「ヤマモト…、何?…。カイラ、わからない」

「いや、何でもないんだ。気にしなくていいよ。カイラ」

 ロクロに乗っていたのは、ひとつの火焔型土器だった。火焔の飾りのついた縁の部分に、少し湾曲した角のような、飾りが六ケ所ほどついていた。山本の知る限り火焔土器に、こんな角を思わせるような、突起物の飾りのついた物は、いままで見てきた縄文遺跡の中で、こんなものは見たこともなかった。

「これはいいね。なかなかいいデザインだ。やっぱりカイラは名人なんだな。うまいよ。とっても上手だ」

 山本とカイラは、その日も一日中ふたりで、陶器作りに精を出していたが、日が暮れかけてきてカイラは、自分の住居に帰って行った。山本も晩飯が済むと何もすることがなく、酒を呑んで寝袋(シェラフ)の中に潜り込んでしまった。

 山本も二十一世紀にいたのなら、こんなに早く寝ることはなかっただろう。いつもなら夕食が済んだ後は、テレビや新聞を見たりして過ごしたから、時間がこれほど長く感じれたことはなかった。それが縄文の時代にやって来てからの、時間の経過ときたらとんでもなく、遅く感じられるようになったのだ。

それが二十一世紀の日常の中で、いつも慌ただしく時間に追われるような、生活を送ってきた山本の、単なる錯覚なのかどうか、彼自身にもわからなかった。

時間というものは、そこで生活を送る人間の環境や、その時の状況などによって変わってくるのだろう。だから、子供の頃はゆっくりと感じられた時間も、大人になるにつれて徐々に、短く感じられるのではないだろうか。

 様々なことが、浮かんできて寝付かれずに山本は、シュラフの中で何度も寝返りを打った。やはり、カイラのことが気になっていた。いくら縄文時代の人間とは言っても、あんなうら若い娘に惚れられることは、そんな経験などしたことのない山本でも、まんざらでもない気持ちになっていた。

 しかし、『オレには妻がいるんたぞ』と、自分を戒めると今度こそ本当に寝ようとして、もう一度寝返りを打った時だった。テントの入り口のほうで何かの気配を感じた。

「誰だ?…」

 と、声をかけても何の反応もない。不思議に思った山本はシュラフを抜け出し、入り口のファスナーを開けて外を覗いたが、周りは暗闇で何も見えなかった。ポケットからライターを取り出して火をつけた。すると、ライターの小さな炎の揺らぎの中に、カイラが立っているがわかった。

「カイラ…。どうしたんだ。いま頃…」

 山本は、急いで入り口を開いて、カイラを中に入れてやった。

「カイラ、どうしたんだよ。こんなに遅く」

 カイラは何も言わなかった。山本は急いでカンテラを付けた。そこには眼に

うっすらと、涙を浮かべたカイラが座っていた。

「…………」

 ただ黙ったまま、涙を拭おうともしないで、カイラはひと言も話さずに、その頬にはひと筋の涙が滴っていた。事情もわからない山本は、ハンカチでそっと涙を拭いてやった。すると、いきなりカイラは山本に抱き着いてきた。抱き着かれた山本の胸に、カイラの鼓動が薄い着衣を通して、直接山本の胸に伝わってきた。カイラの手をやさしく振り解いた山本は、もう一度涙を拭ってやりながら、

「どうしたんだよ。ホントに…、わけを言ってごらんよ。カイラ」

「………」

 ふたたび尋ねたが、カイラは無言のままで泣いているだけだった。

 居た堪れなくなった山本は、カイラを優しくそっと抱きしめた。

「さあ、カイラ、そんなに泣かないで、わけを話してごらん。頼むから…」

 それから、しばらくカイラは泣き続けていたが、やがて、カイラは山本の胸から離れると、静かにその顔を上げた。

「さあ、云ってごらん。きみの云うことなら、何だって聞いてあげるから、一体どうしたんだ」

 カイラは、しゃくり上げながら、小さな声で言った。

「ワタシ、淋しい。ウイラはコウヘイがいる。ワタシには誰もいない。だから、淋しいの。トオル…」

 カイラは、また肩を震わせて泣き出し、山本にしがみついてきた。あまりに勢いよくしがみつかれて、その余勢を駆って山本は後ろに倒れてしまった。

「ワタシ、トオルのこと好き。トオルはワタシのことキライ…」

 溢れ出る涙が、カイラの頬を伝ってこぼれ落ち、山本の首筋を濡らしてゆく、カイラはさらにしがみついてきて、胸の温もりと心臓の鼓動が直に感じ取れた。

「抱いて…」

 カイラは自分の唇を、山本の唇に押し付けながら、

「ワタシのこと、キライ?…。トオル」

 もう一度聞いてきた。

「そんなことないさ。もちろん好きだよ。だけど、こんなことはいけないよ。カイラ。それにオレには…」

 妻がいるんだから、こんなことをしていけない。と、言おうとしたが、そこで口を閉ざしてしまっていた。自分には未来に残してきた妻がいるんだ。と、言ってもカイラには到底、理解してもらえなかっただろう。しかし、山本が言葉を濁した意味など知る由もなく、カイラは激しく山本を求めてきていた。

『ごめんよ、奈津実……』

 山本は心の中で妻に詫びていた。何の断りもなく二十一世紀に置いてきた妻に対し、山本は心の中で詫びていた。普段は小言ばかり言われている妻だったが、この時ほど愛おしく思ったことはなかった。しかし、いまは眼の前で涙を流しているカイラにも、何とも言いようのない哀れさを感じていたことも確かだった。

 テントの外の草むらでは、秋の虫たちが泣きはじめていた。もう、そんな季節に差し掛ろうとしている時期でもあった。

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