第9話
知花にブラウスを。9
緑色のブラウスに合うボタンはどれが良いか。知花と一緒に、気になるボタンを一つ一つ布に合わせていく。
「これも、これも、あー。どうしよう、選べない。」
30分程ボタンコーナーを見回り、最終的に知花の手には3個のボタン。セピア、モスイエロー、エメラルドグリーン。どれも合うからこそ、難しい。それなら。
「大きさはほぼ同じだからさ、全部使おう。丁度3個必要だから。」
「同じにしないと、おかしくない?」
「同じでなくても良いさ。貸して。服に乗せてみると、こうなる。」
ブラウスの前開きのボタンを付ける部分に3個のボタンを等間隔で乗せる。それぞれが緑に生えて花畑のようだ。可愛い。
「うん、花畑みたいだね。いいね。」
知花も俺と同じ景色を見ていたようだ。その瞬間、この子は幼き日の姪に戻ったように見えた。
「気に入ったか?」
「うん。」
ボタンを購入し、仕上げたら来週渡すと約束する。家のミシンでもボタンホールは作れるから、帰ったら直ぐに取り掛かろう。
「このブラウスとインコのスカート着て、水族館行きたいな。」
水族館か。結城さんを思い浮かべる。ラッコが好きだと言ったから、今度一緒に行こうと誘ったんだ。でも、ラッコがいる水族館は遠いので日帰りでは不可能。一泊するしかない。俺は慌てて、そういうつもりで誘った訳ではないと弁解した。すると結城さんは、ほんのりと頬を染めて楽しみだと微笑んでくれた。
ああ、先に進んでいっても良いんだと確信がもてて、俺も頬が染まるのを感じる、嬉しかった。
「お母さん、いないね。」
デパートの正面玄関に向かうが、姉はいなかった。携帯を見るとメッセージが2件。姉と結城さんから。
『デートに誘われたから行くわ。知花は中央線の三鷹行きに乗せたら後は勝手に帰るから、宜しくね。』
『知花ちゃんと楽しんでいる?今夜も通話するの楽しみ。大好きだよ。』
「………知花。俺が途中まで送るからさ、帰ろうか。ほら、オカズもあるから。待ってたら傷む。」
「お母さん、来ないんだね。」
知花の表情が曇る。ああ、姉はなんて罪な母親なんだろう。俺がどんな言葉をかけても、この子の本当に欲しい人からの声ではない。俺ではもう駄目なんだ。
「少し待って。返信するから。」
俺は選択を間違えた。今の重みに心が耐えきれず、結城さんの甘い誘いに返信を送ってから知花を送ろうとした。
「もう、もういや!貸してっ!」
だけど。知花は自分の母親に返信を送ろうとしていると勘違いしていて、スマホを奪われた。慌てて取り返そうとしたが、内容を見られてしまう。目を見張った知花は、信じられないといった様子で俺を見てくる。
「なっ、な、なに、これ……紬にいちゃん。この人、あの時のおばさんだよね。」
もう隠せない。なら、正直に言おう。
「藍さんの事で色々としてくれていたのに、黙っていてごめん。結城さんが好きになったんだ。付き合っている。」
知花からそっとスマホを取り返す。気候のせいではなく震える知花。絶望に叩き落としているのは、俺たち姉弟だ。俺も姉貴と同じだ。もう、それで良い。俺は結城さんを選んだ。
「藍さんは、尊敬する先生のような。所謂、憧れの存在だったんだ。俺の気持ちは伝えていない。
だからと言って、知花に不快な思いをさせた事に変わりはない。俺の為に色々してくれて、本当にありがとう。ごめんな。」
俺達の周りを、沢山の人が行き来する。忙しなく人が動く様に、俺は荒波のようだと錯覚した。どれだけの情報が知花に波となって押し寄せただろう。知花はグッと握った拳を振り上げ、俺に怒りをぶつけた。
「お前も、アイツも、汚いっ……汚いっ!」
「知花…」
知花は振り上げた拳を俺ではなく、自分の太ももに叩き下ろす。驚いて固まる俺を睨んできた。
「汚い、汚い、汚いっ!消えろ!」
「知花!」
知花が人混みをぬって早歩きで行ってしまった。俺は慌てておいかける。すみませんと謝罪しつつ急足をすれば、この人混みだ。直ぐに追いついた。隣を歩きつつ声をかける。
「ごめんな。俺を許さなくて良いから。お願いだから、見送らせてくれ。心配なんだ。」
俺を視界に入れないように、険しい顔をして歩みを進めていく。義理兄から住んでいる場所は教えてもらっていないが、姉から言われた電車に知花が乗るまでは見送りたい。
「電車に乗るまでは見送らせてくれ。お母さんからも、そう頼まれているんだ。」
「あっち行け!」
改札口を抜け目的のホームまで辿り着くと、知花が口を開く。周囲で電車を待つ人々の視線が痛い。だけど、俺は伝え続ける。
「おかず。これ、持っていってお父さんと食べてくれ。知花の好物を入れてあるから。な?」
「いらないっ!」
停車位置に立ち止まった知花に、差し出したバッグを叩かれた。それは硬い地面に投げ出され、通行人によって蹴られる。向こうまで飛んで行った。ホームから落ちたら大変だ。慌てて拾いに向かう。
「うおっ!?あぶねぇ!」
「す、すみません。」
「気をつけろよ。」
俺は謝罪しつつバッグを拾い上げ、知花を見る。わかっている。こんな事をしたかった訳ではないと。バッグの中のグチャグチャになったであろうオカズのように、知花の心の中もグチャグチャになっているんだ。
「知花、大丈夫だから。」
俺の言葉は聞こえていただろうか。知花は俺に背を向け、到着した電車に乗り込んで行ってしまった。
「知花。すまない。」
遠ざかっていく電車を見送る。俺は結城さんの声が無性に聞きたくなり、ポケットから携帯を取り出した。
ーーー
あれから4日。仕事を終え家に帰り、手を洗うと直ぐに炊飯器の蓋を開ける。フワリと水蒸気と共に炊き込みご飯の香りが俺の心を癒してくれた。よし、もう一仕事するか。
愛用のエプロンを着け、下準備してある材料を取り出す。鱈の切り身に片栗をはたいて油で揚げ、細切り野菜を餡掛けにする。2つを合わせれば、メインの完成だ。
味噌汁は朝の残りを温めて、自家製の糠漬けを切って皿に盛っていると、インターフォンが鳴った。
「おう!腹空かせて来たぞ。」
スーツ姿の桐生が、仕事用バッグとビールの入っているであろう袋を下げて立っていた。そう。俺が呼んだんだ。
「今日のメシ何?」
「ヒジキの炊き込みご飯、鱈の甘酢餡掛け、もやしの味噌汁、胡瓜と人参の糠漬けだ。卵焼き食べたいか?」
「決まってんだろ。手洗ってくる。」
勝手知ったる仲なので、洗面所に向かう桐生を横目に冷蔵庫から卵を取り出す。4個使うか。桐生好みの砂糖多めに醤油の味付けだ。卵焼き器でクルクルと卵液を巻いていると、向こうの部屋からテレビの音がし始める。先にビールを飲んでいるのだろう。糠漬けを出しておくか。火を止め、巻き終わった卵を皿に乗せていると、桐生が後ろからニョッキと顔を出した。
「な、なんだよっ!?」
「くれ。」
「持っていくから座ってろよ。」
「赤ん坊じゃねぇんだから、自分で持っていく。」
桐生は俺の家に常時置いている自分用箸を取り出し、ミニテーブルに置いてあるオカズ達を持って行った。
「今日はご飯大盛りなー。」
まるで母親に言うかのような桐生の声。いつもだろ。わかったと返事しながら、奴専用のどんぶりにご飯を盛る。山にしてやった。
「メシは美味く食いたいからな。話は後だ。」
桐生は俺にいただきますと丁寧に手を合わせてきて、箸を手に取る。何だかんだ丁寧な奴だ。
「お前さ、段々と俺好みのメシを作るの上手くなってきたよな。こえーよ。」
「嫌なら食うな。お前が文句言うから合わせてやってんだろ。」
「俺は文句ではなく、地域によっての味の文化の違いを意見しただけだ。」
結局桐生は山盛りご飯をおかわりした。5合炊いたのがカラッポ。清々しい食いっぷりだった。
「さてと、んで。何を聞いて欲しいんだ?」
大きめのグラスにかち割り氷をカランと入れ、焼酎をジンジャーエルで割る。味の引き締めにカットレモンを添える。暑い時に美味しい一杯だ。
桐生に出せば、一気に飲み干しておかわりを所望してくる。もう少し味わえよ。カクテルを作りつつ、俺はここ最近の出来事を話した。
「……俺は知花にどうしてやれば良いと思う?わからないんだ。」
「放っておけ。」
桐生は枝付きレーズンを一粒ずつ丁寧にとり、口に運ぶ。ゆっくり噛み締めるように味わい、酒を口に含んでマリアージュを楽しんでいるようだ。
「放っておけないよ。俺は知花を傷つけた。」
「知花ちゃんは、藍さんに自分を重ねてたんだ。お前と直接は付き合えないからな。疑似恋愛みたいなものさ。
お前が藍さんと正反対のような結城さんを選んだ。自分を選んでくれなかったから、そういった態度をとっただけさ。」
「そうなのか?そう思うか?」
「一時の恋心だから、そのうち諦めるさ。普通の恋愛を経て、大人になったら忘れたい恥ずかしい過去になるかもな。いや、なって欲しい。……何でお前なんかが、そんなにも可愛い子に告白されるんだ。ちくしょう。腹立つ。」
桐生はゴロンと床に寝そべり、瞬時にイビキをかきはじめた。疲れているのだろう。仕事終わりに付き合わせてしまって申し訳ない。2時間は寝させておくか。
俺は食器を流しに持って行き、蛇口をひねって水を出す。ザーザーと流れる水は、素直に排水溝に向かっていく。流れる先は一方通行で、決まっている。
俺は両手に水をためて、パッとシンクに落とした。バシャリと音を立てて水が一つになり流れていった。
「知花がみんなと同じ普通の恋愛が出来ていないのは、誰の影響なんだろうな。」
近くで響く桐生のイビキは、答えてくれない。
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