第3話

知花にブラウスを。3


知花と初めて会ったのは、梅雨で空気は湿気り空は曇った日。


姉が出産したと連絡を受けた3日後。シャインマスカットゼリーが今すぐ食べたいと姉から連絡がきた。学校が終わってからでは面会時間に間に合わないから、俺は午後の授業に出ず行く事にする。


不安定な雲の下、姉の好きなケーキ屋で目当てのゼリーを一つ買い、箱を片手に病院に向かう。産婦人科なんて足を踏み入れたことの無い俺にとって、そこに行くのは緊張しかない。ドキドキとしながら病院の入り口をくぐると、嗅いだことの無い匂いがフワリとした。例えるなら、命の匂い。

大きなお腹を抱えた女性。小さなおくるみを抱っこする男性。幼児と違う、新生児の泣き声が響く。ここには、小さな命が沢山いる。胸が、ドキリとする。


不審者にならないように背筋を伸ばし、受付の人に見舞いに来たと伝える。受付の人はいつものような雰囲気を纏わせ『ここに署名して下さい。2階の7号室にどうぞ。』と、流れ作業のように俺の後ろを差す。俺はペンを手に取り走らせ、どうもと返し、その階段に向かい段に足を乗せた。


「…………」


数段上がった時だ。2階から賑やかな足音に、人の声が響いてきた。俺は更に心拍数が上がる。きっと、誰かが命をかけてこの世に命を産み出そうとしているんだろう。

ゼリーの箱を片手にした自分が酷く場違いな気もしつつ、頑張って下さいと誰かも知らない人を心の中で応援する。


「姉貴、来たよ。」


姉のいる部屋に近づくと、中から高い泣き声が聞こえてきた。ノックして声をかける。直ぐに入って良いと返事があったので扉を開けると、声は更に大きくなる。直ぐに小さな透明のベビーベッドが目に入った。中でフニフニと何かが動いている。不思議な動きだ。


「えっと、出産おめでとうございます。お疲れ様でした。」


泣く姪が気になりつつ、とりあえず手土産を渡すと、姉は疲れた様子でため息をついた。


「24時間ずーっと世話をしなくちゃならないなんて、想像もできてなかったわ。3時間おきにミルクを飲ませてって言われてるけど、飲むのも時間かかるし、寝かしつけとかオムツ交換とかしてたらあっという間なのよ。30分睡眠を数える程しかできてないわ。お腹とか痛いし、胸は張るしで辛いのにさ。


こんなに大変なんて思ってなかった。」


俺に当たり散らすようにグチグチと言い始めた。この人は昔からそうだ。反論したら面倒臭くなる。話題を切り替えよう。


「知花ちゃん見ても良い?」


「いいよ。」


俺は息を殺しながらベビーベッドに近づく。知花は、壊れてしまいそうな程に小さかったから。

小さな顔。モコモコのタオルから覗かせる動く細い指。マジマジと見ていると、姉がベッドの上でガサガサとゼリーを取り出して食べ出した。大丈夫そうだ。


よし、この細い指に触れてみよう。自分の人差し指でチョンと知花の小さな小さな手のひらに触れてみると、見た目と違い力強く握られた。驚いて知花を見ると、知花も驚いたように固まった。互いに見つめ合う。目は少し垂れ気味で丸いんだな。義理兄に似ている。ホッとした。

新生児に初めて触れたが、何て優しいあたたかさなのだろう。甘い不思議な匂いは、この子の体臭か。なんて可愛いんだ。この子は、俺の姪だ。初めて俺は、小さな命に触れられた。心の底から嬉しさが沸き起こる。


「目はまだぼんやりとしか見えてないよ」


「そうなのか。あっ、は、離れないっ…」


手を離そうとしたが、思いのほかしっかりと握られている。強く離したら彼女の指が折れてしまいそうで怖い。


「手の甲をコショコショすると離れるよ。」


バグッとマスカットを口に放り込む姉は、少しだけ育児から離れられているようだ。俺は知花の手の甲を掴まれていない方の手で撫でてみると、パッと知花の手が開いた。面白い反応だ。可愛い。


「抱っこしてみたいな。」


「いいよ。」


姉がスプーンを口に咥えながらベッドから起き上がり、知花をサッと抱き上げる。母親になったんだな。姉は。


「腕を曲げて。首がすわってないから、こう、肘の所にのせて。お尻の所に手を添えて。そう。いいよ。」


恐る恐る手を出した俺に姉がグイッと知花を乗せた。知花が俺の腕の中にいる。俺が今、知花を抱えている。重さは感じないが、ずっしりとした命の重さを感じる。


何て可愛いんだろう。その感情しかない。今まで子供に関心は無かったけれど、この子は違う。俺の大切な姪だ。


「知花ちゃん、俺は君の叔父だよ。紬って言うんだ。はじめまして、これから宜しくね。」


「叔父って、アンタ……。タラちゃんで言ったらカツオポジションなんだから『紬にいちゃん』で良いじゃない。」


姉がベッドでゼリーを食べ終わった所で、俺の腕に音と共に振動が伝わって来た。知花を見れば、スッキリした顔をしている。


「紬の腕での初ウンチ、最高だったようよ。オムツ交換して。」


「えっ?俺が?女の子だぞ。」


「アンタ、そんな目で見てんの?」


「違うよ。俺は男だし、俺がしたら義理兄さんが何て思うか。」


「いいの。アイツにも紬にも世話を全部覚えてもらわないとね。」


俺も、この子の成長に関わって良いみたいだ。それなら、嬉しいな。俺は姉から教えて貰いながら、そっとベビーベッドに知花を乗せた。


ふと、知花の着ている服が気になる。白地にピンクの薔薇模様で、知花によく似合っている。生地はサラサラとして、フンワリとしていて。柔らかな肌触りだ。


「赤ちゃんの服って、着心地良さそうだな。」


「高いから余計にね。この服はプレゼントしてもらったの。素敵よね。」


姉に手順を教えてもらいつつ、何とかお世話を終えた。小さくて緊張したけれど、スッキリした様子の知花を見ると、またしてあげたいと思えた。


「簡単でしょ。私は一度は産んでみたかっただけだし、もういいわ。

2年後には離婚するからさ、今から慣れておいてよ。」


冗談だろうと思ったが、姉は本気みたいだ。ああ、この人は親父似なんだな。そして、俺は母親似なんだな。何も反論せず、俺は知花を見つめる。


重い雲から落ちてきた、ポツポツと窓を打つ雨。知花の涙なのかもしれない。なら、俺は義理兄の次に、この子の理解者になろう。


「知花ちゃん。産まれてきてくれて、本当に嬉しいよ。」


俺の言葉に新生児反応で笑った知花は、心から笑ってくれているように見えた。


ーーー


あの時、あんなに軽かった命は、今俺に恋のキューピッドをしてくれている。ませてきたと思いつつも、感謝しかない。


「なる程。これならジグザグミシンよりロックミシンで端処理をした方が着心地が良いですよ。」


俺の渡した本のページをサラリと見た藍さんは、脇の処理の項目を指差して笑う。


ロックミシンとは、布を切りながら縫う端処理専用のミシン。ジグザグミシンでもほつれ留め縫いが出来るが、肌当たりと見た目が全然違うんだ。


「ロックミシンを買っても長く使うかわからないので。今のミシンで出来る範囲で洋裁をしたいんです。」


知花が何歳まで俺の作ってくれた服を着てくれるかわからないんだ。俺は知花に喜んでほしいからミシンを動かしているだけ。彼女が望まなくなったら、ミシンは売りに出すだろう。


「それなら、ウチでミシンを使いませんか?店の2階でミシンのサブスクをする事にしたんです。

知り合いから職業用ミシンとロックミシンを譲られたので、この機会に色々な方に触れて欲しくて。どうですか?裁縫道具と糸はこちらで用意しますし、ミシンの使い方は私が教えます。」


藍さんからの提案に、俺は天を抜けて宇宙空間まで飛び出した気分になる。息が詰まり、全身が沸騰してきたようだ。

これで生地を買いにだけでなく、ミシンを使いにと藍さんのもとへ来られるようになれるんだ!


「無理にとは言いませんけど。ご検討してみてください。」


「紬にいちゃん、行くよね?予約しないと。」


「はっ!?はい。是非。宜しくお願いします。」


俺は変な表情になっていないだろうか。嬉しさを頑張って隠しつつ、藍さんに頼んで知花の生地選びに付き添った。

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