悪と正義の勇者

ハルマサ

第1話

 その瞬間ーー男の脳裏に浮かんだのは色褪せることの無い記憶の数々だったーー。


 ▼


 ーーーー広い広い空間には多くの人間が列を生していた。頑丈そうな鎧を身にまとい、腰に剣を吊るす騎士。白のローブで身を包み、手に杖を握った魔法士。質の良い服で身を固め、胸に爵位の紋章を付けた貴族などなど。

 他にも侍女に料理師に、庭師まで。この建物ーー王城に勤める全ての人間が集められていた。

 当然王城というのだから、彼らをまとめあげる存在もそこに座している。

 謁見の間の扉を開けて真正面。煌びやかで厳しい面持ちの玉座に肘を掛けて座る存在。

 艷めくブロンドの髪と髭。海よりも深く、巨大な何かを孕んだ瞳。装飾豊かなお召し物。頭上で輝く王冠と、それに負けない輝きを放つ指輪を幾つも指に嵌めて。

 ダリステル王国国王『レオレウス=ダリステル』は二人の少年少女を睥睨していた。

「サイラン。この者たちで違いあるまいな?」

「もちろんでございます、陛下」

 王の問いかけに答を返したのは、貴族の中でも年配の老爺だ。鼻にメガネを掛けた白髪の老爺ーーサイランが少年少女の方を見やる。

「この平民二人が、かの予言王『クローヴィス』様の予言にあったもの達でございます」

「うむ。ご苦労であった」

 サイランは一度頭を下げると、それ以上は何も言わなくなる。

 それを見届けて、王の双眸が二人の平民を捉えた。

 みすぼらしい少年少女だった。男の方は黒髪で、ボロきれのような布を纏っていた。女の方は白髪の美人だ。男と同じく雑巾のような布を纏っているが、着飾れば相当な美人になれるだろう。

 だが、結局はただの平民だ。その平民がどうして王城内の重鎮が一堂に会するこの場所で、王に対し、膝を着いているのか。

 その疑問はこの謁見の間に集まったものの大半が抱いた疑問だった。

 その疑問を無視する形で国王が二人の平民に話しかける。

「さて、突然このような場所に呼び出したことを先に詫びよう。そして、今一度尋ねたい。貴君らの名はなんだ」

 謝罪を述べておきながら、どこまでも上から目線の質問。

 だが、それに逆らえるものは居ない。故に少年少女は膝を着いたまま頭を上げ、王に自己紹介をする。

「グレン。家名はもちろん無い」

「⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎。同じく家名はありません」

 少年の方はやや礼儀にかける挨拶を、少女の方はぎこち無いながらも丁寧な言葉で名を述べた。

 少年の言葉に眉を顰めた騎士が数人、腰の剣に指をかけたが、王がそれを手で制す。

「グレン、⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎。貴君らをここに招集したのには訳がある」

「だろうね」

「グレン、静かにして」

 少年ーーグレンの言葉に少女が黙らせる。それを笑って見過ごせるのは王の寛大さ故か、それともーー。

 王は元の尊厳ある面持ちで二人の少年少女を真っ直ぐに見据えた。

「貴君らも知っての通り、我ら人類は絶滅の危機に瀕している」

「魔族の侵攻、ですね」

「うむ」

 少女の言葉に国王が首を引く。

「三年ほど前から始まった魔族の侵攻。初めは人類国が一致団結し、迎え撃った。しかし、彼我の戦力差は歴然。百あった国の半分が既に奴らの手に落ちた。我が国も直に滅びを迎えることだろう」

 突然の告白に、少女は瞠目した。魔族の侵攻が人類を脅かすものだとは聞いていたが、まさかその侵攻がダリステル王国まで及んでいるとは思わなかったのだ。

 それもそのはず。ダリステル王国は人類が生活圏を確保している中でも西の端に位置する国だ。対して、魔族の領土は東を占めているため、実質的にダリステル王国は最も魔族領から遠い場所にある国ということになる。

 そのダリステル王国が滅亡の危機にあるということで、少女は瞠目したのだ。

 王がちらりと少年の方に目を配る。グレンは王の話を聞いたあとでも、関心の薄そうな目で王を見つめていた。それに王は感心する。

「グレン、お前は心を乱さぬのだな」

「まぁ、魔族の侵攻は過去にも沢山あったし、それにその程度で動揺していたら、狩りなんて出来やしない」

 澄ました顔でグレンは言う。その後に彼は顎をしゃくった。

「なぁ、王様。回りくどい話は時間の無駄だと思うんだけど、この際だから単刀直入に行こう。どうせ、吉報だろ?」

「恐れを知らぬ若造めが」

 グレンの大言壮語に、王様は今度こそ本当に笑みを浮かべた。

 そして、立ち上がる。指に嵌めた宝石輝く指輪で二人の少年少女を指さして、

「グレン、そして⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎。貴君らに魔族の王ーー魔王の討伐を命令する」

「えぇ!?」

「ーーーー」

 少女が驚き、少年が笑う。

 その二人に王は声を大きくして、告げた。

「さあ、行くのだ! 勇者グレン、聖女⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎! 魔王を倒すことが出来たのなら、貴君らの望みを何でも叶えてやろうではーーーー」


 ▼


「ーーれは、良い判断だったと私は思うけどね」

 ⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎が先刻のグレンの判断をそう評価する。『ジャララスターク』。魔族四天王の中で初めて勇者一行の前に現れた魔族で、これまでの魔族と比べても桁違いに強い相手だった。

 そんなジャララスタークを息を残して無力化出来たのは、グレン達にとって最大の戦果だった。

 グレンはそこでジャララスタークを殺さずに、魔王の現在地や、残る魔族の兵力を尋ねようとしたのだ。

「ハンっ! その結果がそれかよ……」

 キースがグレンの腕を睨んだ。

 グレンは至って平気そうに振舞っているが、彼の左腕の肘から先がカチコチに固まっているのだ。

 それは先刻ジャララスタークが、文字通り死に際に放った悪あがきの結果だ。

 奴は死に際に己の体内で『石化の魔法』を構築し、それをグレンに吐きかけたのだ。

 あまりの至近距離での攻撃に回避が間に合わないと判断したグレンは、左腕で防御をしたのだが、その結果として左腕は石像となってしまったのだ。

「それも仕方ないことじゃん。あの場面で回避は不可能なんだし。ウチとしちゃあ、よく利き手じゃない方で受けられたな、と感心してるところだよ」

「お前もグレンの味方かよ……」

「惚れた欲目ってやつだね」

「どいつもこいつも、グレングレングレン……。この男のどこがそんなにいいんだか。俺にはただの田舎臭い芋勇者にしか見えないね」

 グレンを庇うフレアにキースが減らず口を返す。その後にグレンを睨んで、「俺の方が……」と小さく呟いた。

 グレンはそのキースの言葉を聞いてしまったが、敢えて拾うことはしない。

 そして、全員の顔を見回すと、中央に燃える焚き火に木をくべた。

「さて、さっきの戦闘の反省も良いけど、今はこの先どうするか、だ。四天王にも話を聞けなかったからね。また地道な聞き込みかな?」

「は? てめぇの腕をそのまんまにしてか?」

「左腕だ。戦闘に使うわけでもない。足でまといにはならないよ」

「ーーッ、てめぇはどこまでも澄ましやがって……」

 キースの額に青筋が浮かぶ。ともすれば拳で殴りかかろうとしたキースを⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎が、止めた。

「はいはい、二人とも仲良くね」

「ッ、かってるよ」

 ⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎の言葉を受けて、キースが大人しく地面に腰を下ろす。

 それに微笑んで、次にグレンを心配そうな目で見つめた。

「確かに魔王の討伐は急務だよ。こうしてる間にもどこかの国の人が苦しんでるかもしれないしね。でも、今はその腕をなんとかしないと……」

「ウチも⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎の意見に賛成〜」

 二人ーー否、キースも同じ意見だろう。三人の意見を聞いて、グレンは形のいい眉を顰めた。

「だが、俺の事よりも優先すべきことがーー」

「んなもんねぇだろよ! 仲間の事よりも優先すべきことなんかねぇ! 分かったらとっととその腕治せ!!」

 渋るグレンに腹を据えかねたキースがとうとう爆発する。乱暴な言葉が飛び出るが、それが仲間を思っての言葉であるのが彼らしいところだ。

 そんなキースの言葉に続けて、フレアがグレンの瞳を覗き込む。

「右手は⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎のもんだけどさ、左手はウチのもんなの忘れたの? 早く治してもらわないと、ウチが困るんだけど」

 フレアが約束の話を持ち出して、グレンを説得する。グレンは自分の左腕がなくても誰も困らないと思っていたが、フレアが困るというのなら話が別だ。

 だが、それでも左腕の石化を解除するのにどれほどの時間がかかることやら。その間に幾つの国と人が滅ぶのか。

「ーーーー」

 そんな思考を巡らせるグレンの右手が暖かな手で包まれる。

 見れば⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎の白い手が重なっていた。

「グレン。私もあなたの左手がないと困るわ。魔王を倒したら⬛︎⬛︎するって約束したでしょ? 左手がないと、その、指輪がはーーーー」


 ▼


 ーーーーその場に立ち竦む全ての人間が息を呑んでその瞬間を見守っていた。

 体内体外ともに全てのマナを食らいつくし、極大魔法を放った魔王、仲間と己のマナを消費して対抗魔法を放った勇者。

 全てのマナを使い果たし、魔法の一発も撃てない両者が最後に手にしたのは、互いに最も手に馴染み、使い古してきた愛剣だ。

 白い刀身に眩い黄金の光を纏わせた聖剣を腰に構える。

 黒い刀身に禍々しい紫の闇を纏わせた魔剣を頭上に構える。

 両者の間にある空間が悲鳴をあげ、時の流れさえも僅かに停滞をする。

 その刹那。人間と魔族の頂点に立つ二人は、空間を無視して駆け出すと、零秒の後に剣を切り結ぶ。

 火花が時に時を思い出させ、空間に空間を思い出させる。

 両者に再び空間が生まれ、火花が地に落ちる時間が流れる。

 だが次の瞬間には再び目もくらむほどの剣戟の応酬。白の軌跡と黒の軌跡が世界を火花色に染め上げる。

 両者の実力はほぼ互角。

 譲らぬ攻防ーー否、攻攻が繰り広げられる。

「ーーシィーーーーっ!!」

「ーーヌァーーーーッ!!」

 互いに大ぶりの剣技が、二人の間でぶつかり合う。刀身が震え、共鳴した。

 グレンの中に魔王の感情が流れ、魔王の中にグレンの感情が流れる。

 もはやどちらの感情か分からないそれに突き動かされながら二人はただ『棒』を振るう。

 誰を守るためでも、何を奪うためでもない。『棒』が成すべきことはただ一つーー折れぬように耐えること。

「ーーハァァァァ!!!!」

 魔王が上段に剣を構える。魔剣がマナに呼応し、歓声を上げる。魔剣の中に流れるマナを使った最後の攻撃だ。

「ーーはぁぁぁぁ!!!!」

 対して、グレンは剣を水平にし、それを肩より後ろに引いて構える。『刺突』の型だ。

 当然聖剣もマナに呼応し、光り輝く。聖剣に貯えられた全マナがこの一撃の元に集結する。

「ーーーー」

「…………」

 二人の息がともに消える。意識が研ぎ澄まされ、音が消え、匂いが消え、痛みが消えた。

 終いには色が消え、見えるのは聖剣の白と、魔剣の黒。

 だが、両者にとってはその情報だけで十分だった。

 この局面においてフェイントをかける体力は残っていない。

 ならば、決着は相手の放つ渾身の一撃を防げるか否か。

 その一撃を防ぐために両者の集中は極限まで研ぎ澄まされた。

 魔剣の黒が僅かに揺れた。

「ーーグォォォォオオオオオオ!!!!」

 魔王の咆哮が戦場を満たし、『死』を具現化したような大剣が、寄り道ひとつせず、真っ直ぐ正確な軌道でグレンの頭をかち割りに迫る。

 迫る、迫る迫る迫る迫る迫るーーーーーー。

 そうして魔剣がグレンの額に食いこんだその時ーーグレンの体が僅かに沈み、直後斬撃の間合いから消えた。

「ぅおおおおおおおおーーーー」

 否、否、否!

 消えたのではなく踏み込んだのだ。魔王の懐に。

 グレンが引き絞った聖剣を一切力が逃げることのないように体を動かして、そしてーー


 ーー放ったーーーー


 ▼


 ーーーー都の門を潜り、中央街道を馬に車を引かせながら進んでいく。

 道の脇を見れば、みっしりと人が囲んでおり、口々に感謝の気持ちを述べている。

 凱旋というやつだ。見事魔王を討伐した勇者一行を全国民が祝っているのだ。

 そんな中を手を振りながら進んで行った勇者一行は、王城の前で馬車を停め、待っていた騎士に案内をされ、国王の元へと向かっていく。

 王城へ来たことの無いキースとフレアが興味深そうに辺りを見回す。

 グレンも五年ぶりの王城に興味がないと言えば嘘になるが、今はそれよりも大事なことがあった。

「…………」

 グレンは隣を歩くパートナーーー⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎を見て、優しく微笑んだ。

 ⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎も笑みを返し、二人はそっと手を繋ぐ。

 そうして暫く歩くと、国王が待つ謁見の間の前までやってきた。

 騎士が扉の前で止まり、その扉を拳で叩く。

「国王様。勇者様御一行が参られました」

「通せ」

「は!」

 扉越しに放たれた国王の声には以前にも増して威厳が込められていた。だが、その声は少しばかり歳を老いて、掠れていた。

 騎士の手によって扉が開かれる。

 扉の先には赤い絨毯が真っ直ぐ伸びており、それを真っ直ぐ歩いていく。

 周囲の騎士から羨望の眼差しが向けられる。反対側に列をなす貴族たちが驚いたように目を丸くする。

 それらを横目で眺めながら、グレンは部屋の中央で地面に膝をついた。頭を下げて、国王に言葉を告げる。

「あんたより命じられた『魔王討伐』の任。無事完遂した事をここに報告する」

 その言葉を述べただけで、周囲が騒がしくなる。

「まさか、」「本当に……?」などと疑う声も聞こえるが、大半はその報告を喜ぶ声だった。

 感極まって騒々しくなる家臣達へ向けて、老爺の貴族が声を張り上げる。

「静かに! 国王様の御前であるぞ」

 その一言だけで先までの喧騒は一瞬にしてなりを潜めた。

 それを見計らって国王が立ち上がる。

「表を上げよ」

 国王が告げる。

 それに従い、グレンは俯かせていた顔を上げ、国王へと視線を向けた。

 国王は相変わらずの蒼眼をグレン達に向けている。だが、顔のシワがより深く刻まれており、髪にもシルバーが混じっている。

 その国王がグレンを見て、ひとつ頷いた。

「勇者グレン、聖女⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎、そしてその仲間達よ。誠に大儀であった。国民をーーいや、人類を代表して感謝を述べよう。本当にありがとう」

 その時、グレンは目を見開いた。

 なぜなら国王が頭を下げたからだ。初めて会った時、謝罪を口にしながらもその頭だけは頑なに下げようとしなかった国王が、頭を下げたことにグレンは驚いた。

 その豆鉄砲を喰らった鳩のような顔をするグレンを見て、国王が頬を緩める。

「貴君らは既に一介の平民などでは無い。今や世界を救った英雄だ。その英雄に下げる頭を持てぬのなら、ワシはこの地位を追われてしまう」

「それもそうだ」

 相変わらずの不遜な態度で応じるグレン。彼の言葉に懐かしさを感じた王様は暫し目を閉じ、そうしてまた見開いた。

「さて、褒賞についてだが、まずそちらのお前。何を欲する」

 国王がまずキースに尋ねた。

 彼は少し考えると、王に視線を向ける。

「じゃ、じゃあ『スイラル王国』の傭兵に俺を推薦してくれませんか?」

「そんなもので良いのか?」

「俺はグレンの仲間になる前はゴロツキやってたんでね、あんま贅沢な暮らしとか興味無いんすわ。俺には傭兵くらいの地位で十分っす」

「そうか。では、近日中に推薦文を書かせてもらおう」

「ありがとうございます」

 キースが珍しく礼を言う。普段の彼は無礼者もいい所だが、こうした場では意外と礼儀正しくいられるのだ。

 続いて王がフレアに尋ねる。

「んー、ウチは魔導書を何冊か貰えればそれでいいかな」

「承知した。後で好きなだけ持っていくが良い」

「ありがとうございますー」

 フレアの願いは予想通りだった。

 彼女が嬉しそうにするのを見て、王はその隣に視線を向ける。

「さて、⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎。貴君の望みはなんだ?」

「私の願いはグレンと同じです。グレンの望みを聞き入れてくれさえすれば、私は結構です」

「そうか。では、最後に。勇者グレンよ。貴君の望みを述べるが良い」

 国王の視線がグレンに向かう。それだけじゃない。騎士たちや貴族たち、仲間たちの視線もグレンに向いている。

 グレンは隣に視線を向けて、⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎の瞳を見つめると、王へと向き直り、己の望みを吐き出した。

「俺の望みはーーーー」


 ▼


「ーーーーそれじゃあ、行ってくる」

 グレンがそう言うと、⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎は尚も心配そうな顔をする。

「やっぱり、私も……」

「大丈夫だって。戦力差だって歴然だし、魔族なんかと比べたら赤子の手をひねるも同然だよ」

 グレンが笑うと、⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎は観念したようにグレンの手を離した。

 そして大きくため息を吐く。

「まだ魔王を倒して二ヶ月しかたってないのよ、これじゃあゆっくり休んだなんて言えないわ」

「まぁ、そうだな。でも仕方ないだろ、それを言ったのは先代で、今助力を求めてるのは現国王。国に養われてるも同然の俺はその助けを無下には出来ないからな」

「それは……」

「ま、すぐ戻るよ。なんたって俺は魔王すらも倒した勇者だぜ?」

「……ふふ、それもそうね」

 ⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎がお淑やかに笑った。その笑顔がグレンはこの世で一番好きで、だからこそそれを守るために今回の戦争に参加したのだ。

 再び勝つための理由を確認すると、グレンは扉を開いた。

「いってきます」

 再び同じ言葉を繰り返す。

 それに⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎はーーーー


 ▼


 戦場は障害物のない平原だった。開戦前の今は花が咲いているが、それも戦争が始まってしまえば踏みにじられる。

 グレンは花の一本を摘んで、胸ポケットに仕舞った。

「何をしていらっしゃるので?」

「『ピーシアの花』だ。大事な戦いの前はこれを見に持つようにしてる」

「あぁ、『平和の花』ですか」

 グレンに徴兵の言を伝えに来た騎士が納得する。

 それを横目で見て、今度はグレンから話を振る。

「皮肉な話だ」

「ーーはい?」

「魔族と戦っていた時は共に戦っていた仲間が今は敵の側にいる。俺は人間を守るために戦っていたはずなのに、今は人間を殺すために戦おうとしている。これを皮肉と嗤わずにいられようか」

「ーーーー」

 騎士は何も言わない。彼はグレンより三歳歳下の騎士だ。恐らく勇者に憧れて騎士になった一人だろう。

 そんな彼の憧れとしてあろうと思うが、どうしても此度の戦争を前にしては弱音が口を突いて出てしまう。

「自分はーー」

 不意に騎士が声を放つ。

 グレンが騎士の方を見ると、彼もまたグレンの瞳をじっと見据えていた。

「自分はそれでも勇者様を尊敬します。本来、勇者とは魔王を倒す者ではなく、勇敢な者の事を指す呼び名です。ですから、奥さんの為に戦おうとする勇敢なあなたを自分は『勇者様』とそう呼び、慕います」

 騎士の瞳はグレンの情けない顔を見ても、憧憬の色を映していた。

 その瞳が彼の言葉に嘘偽りが無いことを証明しており、それがグレンの心を軽くさせた。

「そう、だな。少し深く考え過ぎていたのかもしれない。今も昔も、俺はただ一人の女性を悲しませないように戦ってきた。今回も彼女を守る戦いなんだよな」

 グレンは自らの左手の薬指に光る指輪を眺め、次いで騎士の方を見た。

「ありがとう。迷いは晴れたよ」

「そうですか。自分なんかがお役に立てたのなら光栄です」

 堅苦しく敬礼する騎士。それに苦笑し、グレンは彼の肩を叩いて、背を翻した。

「さ、テントに戻ろう。そろそろ作戦会議の時間だ」

「……うわ、ホントだ!」

 懐から懐中電灯を取り出した騎士が時刻を見て驚いた顔をする。

 それから彼は急いで走り出した。

 その後をグレンもーーーー


 ▼


 煙が臭い。身体中が重たい。足場が悪い。

 ーーあぁ、最悪だ。


 ▼


「ーーーー勇者様!」

 一人の騎士がグレンの所へやってくる。その表情からは血の気が引いており、グレンは嫌な予感を覚えた。

 今しがた刺し殺した敵国の騎士から剣を抜くと、その血を払い、さやに納める。

「どうした?」

「それがーーーー」


 ▼


 馬は早くは走れない。そんなことはグレンとて重々承知している。

 だが、だがーー

「もっと、もっと速く!!」

「無理です! これで全速力なんですよ!」

「クッソ……!」

 グレンは悪態をつくと、視線を前へ投げた。

 オレンジ色の森があった。まだ夏の半ばだ。それは決して紅葉なんて美しいものでは無い。

 もっと薄汚いものだ。

「無事でいてくれーー⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎!!」


 ▼


 家が見えた。火の手はまだ回っていない。

 グレンはそこで一度安堵の息をつく。

 そして、馬が脚を止めるより早くに馬から飛び降りると、急いで家の扉を開いた。

「⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎! ⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎!!」

 グレンは大声でその名前を呼ぶ。

 すると、奥の方から物音がして、直ぐに⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎が顔を出した。

「グレン? 帰ったの?」

「あぁ、森が焼けていると報告を受けて直ぐに帰ってきた。⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎も早くーー」

 グレンの言葉はそう長くは続かなかった。

 グレンの視線の先にいる⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎より、更に奥。そこに揺らめく不自然な影を見たからだ。

「⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎、後ろーー!!!!」

「ーーぇ?」

 咄嗟にグレンが叫び、それを聞いた⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎が振り返る。

 だが、ほんの少し気づくのが遅かった。

「ーーーーぁ」

 それは酷くか細い声だった。

 グレンと⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎の視線が一点に集中する。

 ⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎の胸、そこから生えた一本の剣に。

「ぁ、だめだ、だめだだめだだめだだめだだめだ、だめだめだめだめだめだめだめだめだめだめだめだめだめ!!!!」

 グレンの叫びも虚しく、胸から剣を抜かれた彼女の体がゆっくりと前に倒れ、床に頭をぶつけた。

「⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎ーーーーーーーーーーーー」


 ▼


「ーー夢か」

 その男は目を覚まして初めにそう呟いた。

 それから自分が眠ってしまっていたことに気がついて、目を腕で擦った。

 黒髪の男だった。目の下には深く濃い隈が浮かんでおり、顎には髭がちらほらと生えている。頬はこけ、見るからにみすぼらしい男は、しかし服装だけは豪奢だった。

 いや、今はそうでも無いだろうか。血に濡れた鎧は元の白を失い、汚い赤に染まっている。剣も同じで、鞘を失ったそれは血に濡れたまま放置されたもんだから、ところどころ錆び付いている。それでも折れないのはこの剣がかつては『聖剣』と言われたほどの名剣だったからにほかならない。

 男はその剣を横に薙いで血をとると、再び椅子の横に立てかけた。

 男は今、椅子に腰をかけている。それも絢爛な見た目の椅子だ。

「ーーーー」

 男の視線が僅かに動いた。

 彼の眼前には真っ赤な絨毯が扉まで伸びていた。その絨毯の上に鎧を纏った肉の塊がゴロゴロといくつも転がっていた。

 その肉塊が零す液体が絨毯をところどころ黒く染めている。

 男は視線を横に向ける。

 何やら杖を手にした肉塊が壁に張り付いていた。どうやら胸に剣を刺され、その状態で壁に縫い付けられているようだ。

 同じく汚い液体が壁を垂れて、大理石の床を汚していた。

「ーーーー」

 今度は視線を背後に向ける。

 そこには大きな肖像画が飾られていた。

 でっぷりと太った髭男が、今男が座っている椅子に座って、ニヤついている画だ。

 男は視線を僅かに下に下げる。

 肖像画と同じ顔が、少し表情を歪めて地面に置かれていた。

 その瞳と視線を交わした男は鼻で笑うと、椅子に座り直し、肘掛に頬杖をついた。

 そして、再び休眠を取ろうと、瞼を閉じる。

「ーーーー?」

 と、その時。男の前から物音が聞こえた。扉が開く音だった。それに続いてコツコツと足音が響いた。

 その足音を聞いて、男は顔を上げる。

 そして、部屋の中に入ってきた人物と視線が合う。

 オレンジ色の髪の男だった。短髪で、歳の割には若く見える顔立ち。それを誤魔化そうと、顎に立派な髭を蓄えていた。

 鍛え上げられた体つきで、身長は男よりやや低い。腰には二本の短剣が吊るされており、それを目にして男は僅かに目を細めた。

 反対に、目を見開いた短髪の男がおもむろに口を開いた。

「ーーよう、そんなとこで何やってんだ勇者様ーー否、『愚者』グレン=クラージュ」

「ーーーー」

 男ーーグレンは何も言わない。

 暫くの沈黙を守った後に、短く口を開く。

「キース」

 それはかつて仲間だった男の名で、歳を重ねてグレンの前に立つ男の名前だった。

 キースが再度尋ねる。

「お前、こんなとこで何やってんだよ」

「ーーーー」

 それにグレンは答えない。

 その態度にとうとう頭の血管が破裂したキースが怒鳴り声を上げる。

「俺の国に土足で上がり込んで、何勝手に玉座に座ってんだって聞いてんだよ!!」

 キースの怒りを孕んだ視線を一身に浴びながら、グレンは冷めた瞳で見つめ返す。

 そして、その瞳をどこか遠くに向けて、キースの問の答えを述べた。

「戦争の続きだ」

「なに?」

「終わらぬ戦争を終わらせに来た」

 その返答を聞いて、キースの血管がまたひとつ破裂した。

 だが、彼はこの二年のうちに随分と成長した。激情に身を任せるのではなく、それをコントロールして、グレンに問いを尋ねる。

「……お前の国と『ヴァルナ帝国』が戦争をしたのは知ってるよ。けど、それは二年前に終わったはずだ。他でもない、お前の手でな!」

「ーーーー」

 グレンは言葉を発しない。ただ無言でキースに先を促すだけだ。

「どうしてうちに攻めてきた? 『スイラル王国』はその戦争に一切関与してないだろ!」

「ーーーー」

 やはりグレンは答えない。その反応に対し、遂に感情をセーブする機能までも爆発したキースが腰の短剣を抜き放つ。

「ーー戦争の続きを……」

「それはもう聞いたっつの!!」

 キースが怒鳴り、短剣を構えた。だが、彼はグレンを襲わなかった。

 グレンの口から聞き捨てならない言葉が発せられたからだ。

「……お前、今なんて言った?」

「ーーーー」

 キースが聞き返す。

 しかし、グレンは答えない。

 それは予想出来た事だったので、キースは更に声を張り上げた。

「おい!!」

「戦争の続きだよ。魔族と人間の」

 グレンが端的に答えた。

 魔族。彼の口から発せられたその単語を聞いて、キースの手が止まる。

 確かに魔族との戦争であればグレンが自国を離れて戦うのもわかる。

 わかるがーー

「……じゃあ、どうして人まで殺すんだ? 守るべき対象のはずだろ?」

 理解できないとばかりに、キースが尋ねてくる。

 それを愚かだと、そう思ったグレンは大きくため息を吐いた。

「キース。人間と魔族の違いはなんだと思う?」

「んなもん、何もかもだよ」

 キースが即答する。

 その答えにグレンはつまらなさそうにまたため息をつく。

「キース、俺は人を守るために魔族を殺した。だが、どうだろう。魔王を倒した後でも人が傷つく事を止められない。いや、むしろ前にも増して人は傷つき、死んでいく。何故だ?」

「ーーーー」

「俺は気づいたよ、キース。この世界に人間はもういないんだ。俺が最後の人間なんだよ」

「……な、にを…………」

「だからキース。俺は魔族を殺す。魔王の配下だった魔族も、人の皮を被った魔族も、全て一匹残らず殺す。それが…………」

 グレンはそこで言葉を区切ると、椅子の横に立てかけた聖剣を持ち上げた。

「それが、『勇者』としての俺の役目だ」

 そう言いきったグレンにキースは何も言えなかった。

 代わりに確信した。今、キースの目の前にいるのはかつての仲間『勇者グレン』ではなく、殺意に呑まれた『愚者グレン』なのだということを。

 同時に奥歯を噛み砕く。

 口内に鉄の味が広がり、それを過去と共に外に吐き出した。

 それからゆるりと短剣を構えたキースは、殺意を滲ませた瞳でグレンを睨んだ。

「殺してやるよ」

「……お前も、魔族だったか」

 己に向けられる殺意に気づいたグレンがそう呟く。

 そして、玉座から腰を上げると、聖剣を無造作に構えた。

「どこからでも、かかってこい」

「言われなくても!!」

 キースの足が地面を蹴り、次の瞬間にはグレンと肉薄する。

 ゼロ距離から睨み合う二人。

 直後に振るわれた二本の短剣と、一本の聖剣は両者の頬を開いた。

「ーーーーッ」

 一撃を食らわせたキースが即座に一歩後退する。だが、それを先読みしていたグレンが後を負い、その腹部に強烈な蹴りを食らわせる。

「ぐが……」

 口から血を吐くキース。足の止まった彼の顔面をグレンは回し蹴りで蹴り飛ばした。

 矢のように吹き飛んだキースは窓ガラスを割って、外へと身を投げ出す。

 それにも追い打ちをかけるべく部屋を飛び出したグレン。その眼前に、一本の短剣が投げつけられた。

「ーーーーッ!」

 咄嗟の判断で聖剣を振るったグレンは、短剣を弾き飛ばす。代わりに追い打ちには失敗し、丁寧な動きで地面に着地した。

 立ち上がり、辺りを見回す。

 どうやら庭園に落ちたようだ。辺りには手入れの行き届いた花木が植えられている。

 それを無常の瞳で眺めたグレンは、口から血を吐き出したキースの方を見る。

「くだらん戦いだ。どいつもこいつもそうだ。何故貴様ら魔族は弱いくせに人間を脅かす? 何故俺に退屈を強いる?」

「ーーッ…………」

 グレンの言葉にキースは言い返せない。

 いくらグレンが『愚者』に堕ちた所でその力は変わらないのだから、魔王を倒した彼にキースが敵う道理がないからだ。

 そんなことはキースとて、戦う前から分かっていた。だが、こうも直接戦力差を目の当たりにし、失望の眼差しを向けられてしまっては、何も言い返す事ができないでは無いか。

「ーーーー」

「はぁ、本当にくだらん」

 グレンがため息と共に聖剣を持ち上げた。

 そうして無慈悲な足取りで一歩ずつキースに近づいてくる。

 対してキースは後ずさるでも、反撃するでもなく、ただ黙って俯いていた。

 もう何をしても勝つことは出来ない。そう思ったからこその行動だ。

 しかし、ならばどうして彼は短剣を手放さないのだろう。

「ーーーーあぁ、本当にくだらん男だな、キース、お前は」

 顔を俯かせたキースが不意に、自嘲の音で呟いた。

 それを聞いたグレンが脚を止めた。彼の言葉の続きを待つように、動きを止めた。

 キースはくつくつと自らを嘲笑う。

「いつから勇者様を殺せるなんて、そんなバカな事を考えてたんだろうな。ホント、馬鹿すぎて笑えてくるわ」

「ーーーー」

「そうだよな、勇者を殺すなんて大言壮語、魔王じゃなきゃ口に出来ねぇ。だから、俺の役目はそうじゃねぇ。そうだろ?」

 キースが胸元から零れたロケットペンダントを手で包んで尋ねる。

 それがグレンへの問ではないと知っているから、彼は何も言葉を返さない。

 そうして、キースの奇行を見守っていると、彼はロケットのチェーンを引きちぎり、ペンダント部分を投げ捨てた。

 それが地面に跳ねて、口を開く。キースが映っていた。その隣に女性と子供が並んで映っていた。

「さぁ、やろうぜ。俺は俺の愛した妻と子供の為に戦う。アイツらの為になら、俺は勇者だって殺せるぜ」

「…………」

 キースの宣戦布告を聞いて、グレンは僅かに目を伏せた。その表情に僅かな『哀しみ』が浮かんだようにキースは感じた。

 だが、直ぐにいつもの澄まし顔のグレンがキースを睨み、聖剣を上段に構えた。

「貴様の愛と、俺の憎。どちらが強いか、教えてやろう」

「正義は必ず勝つんだぜ?」

 キースも短剣を腰の横に構える。

 両者の構えは互いに必殺技に繋がるものだ。つまり、この一撃に全てを込めるということ。

「行くぜ!!」

「ーーーーっ」

 キースとグレンが同時に踏み出した。

 グレンが上段より剣を振り下ろす。キースが腰から剣を斬りあげる。

 両者の剣先が空気を切り裂き、迫る。

 そして衝突。

 直後、甲高い音と、肉と骨が裂かれる音が立て続けに響いた。

 両者が位置を取り替えるように立ち、やがてどちらかの足が崩れ、前に倒れた。

 地面を濡らす血溜まりが、ペンダントの横に刺さった短剣に映し出されていた。


 ▼


 男は歩く。

 暗く閉ざされた雨の中を延々と、ただひたすらに雲が途切るその場所まで。

 血が流れる。

 黒く汚い血潮が男の鎧を赤黒く染め上げる。鎧が錆びれ、剥がれ落ちる。

 剣はとうに折れていた。

 髪が伸びた。背中を覆い隠す程に。

 髭が伸びた。決して立派とは言えない無精髭が。

 頬が痩けた、隈が目の周りに深く濃く浮かび上がる。

 何日も寝ていなかった。何日も食べていなかった。何日も、何日も。

 だが男は休まない。休息は死と同義。

 死ぬ時は己が役目を果たした時。

 だから男は休まない。

 男は今日も歩いている。

 血が満たし、肉が重なり、骨が敷き詰まる修羅の道を、男は今日も歩いていた。

 その道を歩く理由すらももはや覚えてないというのに。


 ▼


「ーーーーやめてくれ!」

 男の悲鳴が木霊する。

「助けてください!!」

 女の懇願が響き渡る。

「お許しを…………!」

 老婆が神に祈りを捧げる。

「お父さん、お母さん……!」

 子供が惨めに泣きじゃくる。

「イヤだ」「ごめんなさい!」「悪魔め!」「死にたくない!」「殺してやる!」「いや……」「許して!」「赦さない!」「お願い……!」「うぁぁ!」「そんな……」「それだけは……!」「嘘だ!」「お前は……」「せめて子供は……!」

「助けて!」「たすけて」「助けて!!!!」ーーーー

 命乞いの言葉を幾度聞いたことだろう。だが、魔族の言葉に耳を傾ける必要も無い。

 そうして幾つの命を切り刻み、幾つの国を滅ぼした事だろう。

 先日も一国を滅ぼした男は、今日も剣をもって独り歩く。

「ーーーー」

 前方に村が見えてきた。男が目をすっと細める。

 その視線の先では物見矢倉から男を見ていた青年が血相を変えて、何やら鐘を鳴らしている。

 そうして直ぐ。村が喧騒に包まれる。門が閉ざされ、壁の上から矢を構えた兵士が姿を見せる。

 そこまでの一連の流れが、三年ほど前から男を視認した国や村が行う行動だ。

 パターン化されたそれに辟易しつつ、男も確立された行動を取る。

「燃えろ」

 左の手に生成した炎を門目掛けて投げつける。

 炎は中空で爆ぜると、何千もの炎矢となって村の全域に降り注いだ。

 もちろん門の上の弓兵にもそれは当たり、男を狙う狙撃手は消える。

 それを見て、男は門を真正面から突破した。

 蹴破られた門はその先で待ち構えていた衛兵をぺしゃんこにし、その上を男が歩く。

 生き残りが無謀にも大ぶりの剣を振るってくるが、男はそれを弾き返し、お返しに喉を一突き。

 そうして絶命した衛兵をその辺に捨てると、道で息をする黒い人影にトドメを刺していく。

 更には道を歩く老人や女子供を後ろから斬りつけ、それに激昂した男を前から斬り伏せる。

 そうして二時間。見晴らしの良くなった村を見渡して男は一息ついた。

「…………ひっ」

 不意にそんな声が男の耳に響く。

 声の方に目をやると、子供を抱く女が、男の方を見て腰を抜かしていた。

 見落としはないと思っていたが、それも疲労のせいだろう。

 男は重い腰を上げると、ゆっくりと確かな足取りで女の元へ歩んでいく。

 女が逃げようと藻掻くがそれも瓦礫に阻まれ上手く進めない。

 とうとう男が追いついて、その剣を高々と振りかぶり、斬りつける。

「あぁぁぁぁああああ!!!!」

 女の絶叫が耳を劈く。

 その事に男は目を見開いた。まさか素人相手に一撃で仕留められないとは思っていなかったからだ。

 女は脚を切り落とされており、もはや逃げられる状態にない。

 男は今度こそと、剣を振りかぶり、狙いを定めた。

「に、げで……」

 女が子供へ向けて言葉を放つ。

 この状況で他人へ気を回す余裕があることに男は称賛の念を送る。

 そしてせめてもの救いとして、次の一撃で仕留めようと、女の首に狙いをつけた。

 そして、剣を振り下ろしーー

「逃げなさいーー『カナリア』」

 そう女が発する言葉を耳にしたとき、男は剣を振り下ろす手を止めていた。

 手だけではない、まるで石像と化したかのように全身の動きを止め、目だけを大きく見開いていた。

 そして暫くして、男が噛み締めるように呟いた。

「……カナリア…………?」

 どこかで聞いた事のある名前だ。

「カナリア」

 何か大切な名前だったはずだ。

「カナリア」

 胸の奥がザワつく響きだ。

「カナリア、カナリア…………カナリア」

 男は何度も何度も同じ名前を繰り返して、そうして頭を抱えて蹲った。

 直後に放たれたのは狂気的なまでの絶叫だった。

「ぁぁぁぁぁぁぁぁあああああああ!!!!」

 その瞬間ーー男の脳裏に浮かんだのは色褪せることの無い記憶の数々だった。

 カナリアと旅をした記憶。カナリアに咎められた記憶。カナリアを悲しませた記憶。カナリアを笑わせた記憶。カナリアの痛みを共有した記憶。カナリアとキスを交わした記憶。カナリアと一つになった記憶。カナリアと共に強敵を打ち倒した記憶。カナリアと共に帰国した記憶。

 そしてーーカナリアと結婚した記憶。

「俺は、俺は…………」

 男は、愚者は、勇者はーーグレンは、その事を思い出し、自らがなんのために戦っていたのか、その意義を思い出した。

 同時に償いきれない罪を自覚し、贖いきれない業を背負った。

 後悔が湯水のように湧き出て、グレンの胸を埋め尽くす。

 中でも最も色濃く、辛辣にグレンを痛めつけるのが、妻の死に際の一言だった。

 ーー天国で待っていますーーーー

「…………ぁ」

 その時、グレンは今まで感じていた痛みとは別の痛みに、思考を現実へと戻した。

「死ね死ね死ね!!」

 子供がいた。女の子供だ。

 彼女の手にはグレンが取りこぼした聖剣が握られており、その折れた刀身はグレンの胸を貫いていた。

「がふ…………」

 口から血がこぼれ落ちる。

 幸いと、剣は致命傷を避けて突き刺さっている。

 今すぐに止血をすれば、出血多量で死ぬことも無い。

 だが、グレンは胸の中で剣を何度も突き刺す子供を突き放しはしなかった。

「ーーーー」

 グレンの左腕が持ち上げられる。

 手袋が脱げ、中から指輪を嵌めた白い肌が顕になる。

 それを少女の元へ持ってくると、グレンは白い頬を優しく撫でた。

 とても温かな温もりをもった肌だった。

 その久しく忘れていた温もりに涙を零しながら、グレンは小さく囁いた。

「ごめん……ありがとう…………」

 直後、グレンの全身から力が抜け、背中から瓦礫に倒れ込む。

 グレンの瞳に映った空は雲が晴れた美しいものだった。

 そして、その空を瞳に、男は光を失った。

 人類を救った男は、最後に人類の脅威として、一人の少女の手に殺されたのだった。

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悪と正義の勇者 ハルマサ @harumasa123

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