センセイ。
時雨
センセイ、
チクタク、という時計の音だけが響いている。
センセイは俺に背を向けて、窓から外を見ていた。
「今日はここに置いてた教科書を取りにきたんです」
「そうかぁ」
センセイの妙に間延びした声が耳に残った。
……違う。残っただけなんてもの足りない。
できれば耳に焼きつけたい。まるで壊れたレコードのように、俺の鼓膜の横で永遠に、流れ続ければいい。
「今日で最後だもんな」
「……はい」
そうだ。ここ――国語準備室に来るのも今日で最後。胸元を飾る花が証明している。
受験まで、苦手だった国語をずっとセンセイが教えてくれていたこの部屋ともお別れだ。
最初から分かっていたけど、解放感なんて全くなくて、むしろ寂しさが勝つ。
「なんかこう、清々しいですね」
「そうかぁ?」
「はい」
気持ちとは裏腹なことを口走りながら、なにを言ってるんだろうと自分でも笑いたくなった。
でも、これでいいんだ。
いつまでもセンセイの中で、俺はかわいくない生徒だったらいい。むしろそうであってほしい。
「俺は寂しいけどなぁ」
センセイのくたびれた背中。大きな背中。黒いくせっ毛。
ずっと憧れた後ろ姿。
「……そうですか」
ほら、また。
素っ気ない言葉が口をつく。
「そうだ。高校卒業おめでとう」
「ありがとうございます」
「大学の発表はまだだよな?」
「はい。3月6日です」
「もうすぐだなぁ」
「……はい」
準備室の中は、なんだか暖かい空気で充満していた。
センセイの入れたコーヒーの匂いがする。
センセイは担任を持っていなかったから、生徒に呼ばれることもなかったんだろう。それにたぶんこうやって深く関わったのは、俺だけだし。
だから今こうして、ふたりきりで古びた国語準備室で話せているのだ。
「まぁ、たまには顔見せにこいよ」
「はい。覚えてたら」
ハハッとセンセイが乾いた声で笑う。
「お前、ほんとに生意気だなぁ」
「そんなことないです」
笑い声が響く。壁に少し反響する。
「あとそうだなぁ。話すことなぁ」
「ないなら別にいいですよ」
「いや、それなりにあるよ」
「そうですか」
ドアによっかかる。窓のちょうど対角線上。
悲しいとか寂しいとかいう感情は、案外体力を使うみたいだ。
そんな気持ちを押し殺しながらセンセイとずっと一緒にいた俺は、きっと国民栄誉賞モノだと思う。
「お前はかわいくないやつだからな。言いたいことはもっとあるけど。最後に説教はイヤだろ」
「嫌だって言っても、センセイ気にせずするじゃないですか。それになんですか、悪口ですか」
「そうだな」
あ、また笑った。背中が揺れてる。
この笑い声が好きだ。くつくつと低い声。低いからはっきり聞こえないけど、でも耳に心地いい。
「大人が見栄張って、自分を大きく見せるのは、俺はあんまり好きじゃないからな。お前はちゃんとしたやつで、胸を張って生きられる人間なんだから、自信持てよってそれは言いたいな。なんにしろかわいくないところもかわいい生徒だから、幸せな大人になってほしいわけだ」
センセイはコーヒーをすすった。
あぁ、ズルいなぁ。今まで俺のこと、ほとんど褒めなかったのに。
目の前にある机でずっと、国語を教えてもらっていた。
今と同じように、センセイはよくコーヒーを飲んでいた。
コーヒーを飲んで、小学校みたいな赤ペンで添削してくれた。なんだかこの部屋はずっと、大人の匂いがしていた。
きっかけ、なんだったっけ。
俺がテストで赤点取って、補習になったときだっけ。
センセイ知ってたかな。センセイの問題、そんなに難しくなかったんだよ。だから俺以外に、補習になった人、いなかったんだよ。
わざと赤点取ったって言ったら、怒られるかな。
もちろん最後まで、隠し通すつもりだけど。
でもさっきの口ぶりからしたら、きっとバレてたんだろう。
センセイの前で見栄張ってたのも、必要以上に生意気だった理由も、きっとバレていた。
そのうえで、ぜんぶ見透かしたうえで、それでも中身を褒めてくれたんだ。
でもさ、ズルいんだよ。
そんなこと今日になるまで一言もチラつかせなかったくせに。
すごく嬉しい。嬉しくてしかたない。
ズルいよ。
この気持ちは墓場まで持っていくつもりだったのに。
「先生」
俺の先生は振り返った。
少しだけ照れくさそうな顔をしていた。
そんなところも可愛いと思った。
「今まで、ありがとうございました」
「……おぅ、ありがとな」
グッと涙をこらえる。
これからどんなことがあるだろう。
センセイみたいな人には出会えるだろうか。出会えたらいいなと思う。人生に確定事項なんてないから分かんないけど、でも。
これからも、俺の先生はこの人だけなんだろう。
全身で俺の憧れになるような先生は。
すっかり体に馴染んだ教員室をあとにすると、こらえていた涙がひとつ、溢れた。
センセイ。 時雨 @kunishigure
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