#32
次のチャンスはすぐに訪れた。
特集記事が思いの外好調だったアイが提案したのは私自身の特集記事だった。
これまで最年少特任講師という話題性だけで話題になることを嫌い、私自身に焦点を当てた取材を断っていた私だが、この取材だけはいくつかの条件付きで受けることにした。
研究の内容に十分に紙面を割くこと、原稿を事前に確認し訂正できること、そして取材を自宅で受けること。
下心がなかったかと問われれば嘘になる。
「なるほど。遺伝子検査を行わなかった理由を説明できなかったこと、それが鷹野さんが両親に抱いている不信感の源なんですね」
アイが持っていたペンを置き、書き疲れた手をブラブラと振る。
徐々に身体の自由を失っていく恐怖、肉体の代わりとして扱うようになったヒューマノイドへの愛着、両親への不信感のきっかけ。まだ大学に入るまでも語っていないのに、気付けば軽く二時間は語り続けていた。
「のべつ幕なしに語りすぎたな」
私自身の取材とはいえ、語りに熱が入りすぎだ。
これまで自分の半生について友人にもあまり詳しく語ったこともなかったのに。
「いえいえ。取材なのですから。こんな詳しく語ってくださってありがたいです」
お世辞か本心か。
ニコリと笑う彼女の顔を見ると心筋梗塞の放散痛を思わせるキュッとした痛みを胸に感じ、ヒューマノイドの頬が赤く火照らないことに感謝した。
こんなにも自分語りに熱が入るのは、つまるところ彼女への好意が原因なのだろう。
好きな相手に自分のことを理解してほしいという自分でも青臭さに顔をしかめてしまう幼稚な願望。
口述の間、視線が手元に向いているのをいいことに、紙にメモを書き留めるアイの手つきをずっと眺めていたのだってそうだ。
ペンを握る彼女の手は白くすらっとしていて、細すぎる指のせいで関節の周囲が角ばって膨らんでいるのでさえ、私のような造物の手ではないという証として、艶めかしさを感じるほどだった。
もし、この瞬間、彼女の手を取って言い寄ったらどうなるのだろうか。
本当はそんな大それたことをする度胸もないくせに、そんな妄想ばかりがよぎる頭に嫌気がさす。
「疲れたろう。休憩するかい」
こうして気遣う言葉を発していても、どれくらいが社交辞令でどれくらいが婉曲な下心の発露なのか判別つかない。
「いえ、私はまだまだいけますけれど、鷹野さんこそ喉渇きませんか」
質問に思わず苦笑してしまう。
「ヒューマノイドの声帯はいくら使っても疲れないからね」
「あ。すみません」
失言したと目を伏せるアイ。
「いや、怒ってはいないよ。みんなよくやるからね」
目の前にいる私がヒューマノイドであると十二分に知っている相手でも、こうしてふとした瞬間に機械の私を生身として扱ってしまうのには慣れていた。
障碍を気にせずに接してくれているという意味では嬉しいけれども、生身の私が疎外されているようでさみしくもある。
「飲み物準備するよ。コーラと水、どっちがいい」
「じゃあコーラで」
微妙な雰囲気を変えたくて、もう一台のヒューマノイドに飲み物を準備させる。
「コーラ好きなんですか」
まるでワインでも味わうかのように、テイスティングしながらアイが尋ねる。
「ん。友人がね」
本当の理由はこの前出禁にされた馴染のセラピストが好きだったからだ。
「両親への取材はできたのかい」
話を逸らそうと話題を変える。
「いえ、胚盤胞の移植前だから安静にしておきたいからと連絡が」
「はは。体裁よく断られたな」
「出産が無事終われば、プレリリースがあるはずなので、その後もう一度アポイントメントをとってみようかと」
「まあ向こうも宣伝はいくらでもしたいだろうからな。僕の話をしてくれるかは分からないけれどさ」
そう言ってしまってから、これでは拗ねた子どもの言い方だと恥ずかしくなる。
私の幼稚な嫌味にアイの目が鋭く細くなり、
「好ましく思っていなさそうですね」
と心を射抜く一言。
「それは、男性妊娠というテクノロジーへの不信感ですか」
アイはそれ以上言わなかったけれど、目を見ればそれに続く言葉はすぐに分かった。
それとも両親への不信感ですか、と。
彼女から目線を離し、一瞬思考を挟む。
「テクノロジーは生産性の向上のみに奉仕すべきであるなんてイデオロギーは持っていないさ。これまで妊娠から疎外されていた男性も自ら子を育むことができる、というのは確かな価値さ」
そうだ。価値観は多様であるべきだ。脳裏に言葉をリフレインし、冷静な考えを連ねようとする。
けれども私の捻くれた情動は理性を追い出し言葉を続けさせる。
「産まれてくる子どもにとってどうかは知らないけれどね」
余計な一言だ、と後悔した時にはもう遅い。
「妊娠の前に、遺伝子検査をしなかったことはまだ恨んでいるんですか」
踏み込んだ質問に肩をすくめてみせるしかない。
「別に恨んでるわけじゃないさ。この身体とアイデンティを切り離すことなんかできない。なんの葛藤もなしに健やかな身体で生きる自分なんて想像できない。けれど、」
一瞬ためらったけれど、自分語りを続けて感傷に酔った私は止まれなかった。
「こうしてヒューマノイド越しでしか君と関われないことを怨む気持ちがないかと問われれば嘘になる」
ああ、言ってしまった。
なんとも童貞臭い好意の暴露に自分自身で悶え、彼女からなんの返答も返ってこないことに恐れを覚える。
けれども、彼女の反応は予想外だった。
飲みかけのグラスをサイドテーブルの上に置き、身を乗り出す。
「ねえ」
生身であれば彼女の吐息を肌で感じるほどの至近距離でのささやき。
「ロゥの身体、見たいわ」
ヒューマノイドの身体で精密な触圧覚を感じられるのは手足の先だけ。
虹彩の縞模様さえ見分けられる至近距離なのに、私は彼女の実在を全身で感じることもできない。
「だから家に呼んだんでしょ」
知覚を覆現に沈めていても痛みを感じるほどに、生身の鼓動が早くなる。
小さく可愛らしい唇に乗せられた艶やかな赤い口紅がヒューマノイドのレンズに焼き付く。
その艶やかな唇からこぼれる吐息を感じたかった。
「こっち来て」
突然の誘いに夢心地のまま、ヒューマノイドを操作し、開かずの扉を開く。
自分が普段から寝室の清掃を欠かさない人間であることをこれほどまでに感謝する日はなかった。
薄暗い寝室の中央、人工呼吸器に繋がれた私がベッドに横たわっている。
「人工呼吸器つけてるのね」
「自発呼吸はできるんだけれどね。覆現に潜っていると無呼吸になりがちだから」
説明しながら、たまらなく恥ずかしくなった。
他人に見せてはいけない恥部を見せびらかしている感覚。
大学時代の友人たちに自分の姿を開示した時、彼らが示してきた反応の数々を思い出す。
まるで近づいたら何かを壊してしまうのではないかと寝室の入り口から足を踏み入れようともせずに、遠巻きに私の姿を眺め、哀憫なのかただ反応に困っているだけなのかぼんやりとした悲しみを浮かべる彼らの表情。
けれどアイは違った。
ヒューマノイドの私を追い越し、ベッドに眠る私のそばへと近寄る。
「若いのね」
物おじせずに私の顔をまじまじと見つめ、「そりゃそうか。まだ一九だもんね」
と頬を撫でた。
「ずっと眠ったままなの」
「ずっと潜っていると体調が悪くなるから、たまには覆現を切って休んだりはする」
「こっちの体ではおしゃべりできないの」
「人工音声でよければ」
「今もそうでしょ」
「うん」
求めのままにヒューマノイドを充電スペースに戻し、覆現を切る。
しばしの間五感が完全に途絶え、冷えた体に感覚が戻ってくるように徐々に自分の動かない身体の輪郭が戻ってくる。
瞼を開く。
「まるで白雪姫ね」
膝をつき、ベッドに寄りかかった彼女がからかいの言葉を投げ、湿気を帯びた吐息が私の頬に触れた。
うまい返しを考えるけれど頭が全く働かない。
好きな人を前にすると何も考えられなくなるという言い古された寸鉄を文字通り身を持って体感した。
美貌は暴力だ。
リアル・ディベートで初めて彼女と対面した時には、その線の細い、陽炎のような儚さに美しさを覚えたのだけれども、こうして生身の自分のそばに実体となって表れた彼女はその肌のきめ細やかさで、安心感ある落ち着いた声色で、ほのかに髪から香る香油のかぐわしさで、私にその確かな美貌を押し付ける。
自分のそばに、それも生身の自分のそばに女性がいる。
金銭を介した疎外された関係ではないリアルの男女関係。
高揚感と焦りが混ざった浮遊感で打ちのめされた私はなにも考えられない。
「大丈夫、ちゃんと声出せる」
いつまで経っても黙ったままの私を心配して、彼女が頬をぺちぺちと叩く。
「話せるよ」
頬に感じるしっとりとした柔らかさに意識を奪われながら、なんとか答える。
「お、ヒューマノイド君と同じ声なんだね」
「うん。メーカーが違うと発音の癖も違うから気持ち悪くて」
「この体で休むときって、なにするの。寝てるだけなの」
「まあ、大体寝てるけれど」
「ふーん。オナニーは寝ているに入るんだね」
ぽふっと柔らかい音と共に、ベッドの上に紅白模様の筒状の物体が置かれる。
セラピストが置き忘れていったセクシャルウェルネスだと気付いた瞬間、全身から血の気が引いた。
「だめだよ、女の子を部屋に招くんだから。こういうのは隠しておかないと」
終わった。
千載一遇のチャンスを笑い話にもできないバカバカしい失態でふいにしてしまった。
「ごめん」
絶望感で一言ぽつりと小声でつぶやくのが精いっぱい。
「エッチしたいの」
聞き間違いだと思った。
「え」
「私とエッチしたいのって聞いてるのよ」
ベッドに腰かけ、私の身体にもたれかかりながら彼女が再び同じ言葉を繰り返す。
聞き間違いではなかった。
TENGAを見せると女の子が発情してエッチを求めてくるなんて、私が読んだ恋愛指南書には記載されていなかった。頭の悪い覆現AVの展開そのものだ。
「うん」
もう考えることは諦めた。流れに身を任せてしまおう。
「さっきからごめんとかうんとか子どもみたい。はい。脱ぎ脱ぎしましょうね」
赤子を扱うような口ぶりで、甚平の前を開いて胸をはだけさせ、ズボンとパンツがまとめてすぽんと脱がされる。
ぶるんと飛び出た陰茎は呆れるほどに起立していた。
私は末梢神経を自律神経系と体性神経系に分けて設計した遺伝子のいたずらに感謝をささげた。
もしも陰茎が体性神経系の支配を受けていれば、私はマスターベーションの身をダメにするような快感も年上のお姉さんに赤子のように扱われる愉悦も知ることができなかっただろう。
「もうこんなに大きくなって。触ってほしいの」
「うん」
「もう、本当子どもみたい」
くすくすと嘲る笑いを向けられる。
「そしたらね。正直にならないとね」
彼女は私に覆い被さるように両手をつく。
「な、なにを」
「貴方の性癖。他人にはおいそれと言えない性的嗜好、あるんでしょう」
ニコリと笑みを浮かべる彼女。その優しい笑みとは裏腹に、私は脅されているような心持になる。
言葉に、心臓が跳ねる。
心当たりはあり過ぎるほどにあった。
他人を、女性を孕ませることに性的興奮を覚えるキュエフェリア。
彼女がそれを知っているはずがない。
友人にも両親にもこんな恥ずかしい性的嗜好をばらしたことはない。
けれども私を見下ろす彼女は、私を隈なく見通しているのだろうと信じるに足る気配を漂わせていた。
もしここで意向にそぐわない嘘をつけば、たちまち彼女の機嫌を損ねてしまうだろう。
かすかに残された私の脳の正常な部位が違和感を表明するが、もはやこの体の主導権は下半身にある。
「わ、私は女の子を孕ませることに興奮する変態です」
「あら、とんでもない変態さん。ニュースにしちゃおうかな」
そんなことになったらとんだ醜聞だ。ひゅっと息が止まりそうな絶望。
「嘘よ」
言葉一片で面白いように揺れ動く私の様はとんだピエロだろう。
「私、貴方の子を産んであげてもいいわよ」
「え、」
ちょっとしたお願い事を聞いてあげるぐらいの気軽さで告げられる言葉。
嘘か真かも分からない誘いに、何も考えず是非と馬鹿みたいに答えようとする。
「でも条件がひとつだけあるの」
もう何を言われても私はうなずくしかない。
お金だろうか、地位だろうか、それとも危険な犯罪の片棒を担がされることになるのか。
どんな無理難題を突き付けられようが、もう私の下半身は逆らえない。
「条件はあなたが両親を傷害罪で告発することよ」
アイの要求は私が想像したどれでもなかった。
「どういう意味だ」
理解しがたい要求に思考の主導権が精巣から大脳皮質に戻ってくる。
「貴方の両親はガイドラインで推奨される遺伝子検査を行わず、貴方を産みました。結果貴方は避けられたはずの障碍を負うことになった。これは不作為による傷害です」
「そんなとんでもない告訴が通るわけがない」
「勝てるかどうかは分からないけれど、まったくの勝ち目なしじゃないわよ。過去には遺伝子検査の結果を伝えなかった医師が負けているし」
「それは職務を果たさなかったからだろう」
「両親だったら、障碍が生じるリスクが高い子どもでも産む権利がある、のかな」
整えられた上がり眉をひそめ、挑発するように問う彼女。
かつて子どもは儚いものだった。
銀の匙を咥えて産まれてきた子どもだって、その幸運を享受できるかどうかは本人の健康次第。
当時の世界で最も優れた医療を享受できたはずのマリア・テレジアの一六人の子どもたちでさえ、成人を迎えることができたのは一〇人だけ。
子が育つことはそれだけで有難いことであり、だからこそ子の健やかな成長は世界中で寿がれてきた。
現代医学の進歩は子どもの死をめったにないものにまで追い詰め、結果私たちは子どもの死に耐えられなくなってしまった。
いや、それどこではない。
何の危険もなく、何の障碍もなく、生まれてくること。それこそが当然のただしい生まれ方であり、だからこそ義胎妊娠はただしい生み方として、母胎妊娠よりも優れた生まれ方として認められたのだ。
「別に勝てなくてもいいんですよ。必要なのは彼らがただしくないことを世間に知らしめることです」
「それで何が得られる」
「世間が完全に安全な出産を求めるようになればいいんです。男性妊娠なんて義胎妊娠に比べ安全性の劣る生み方を許さないコンセンサス、子どもの遺伝子や生まれ方を親の意思で決めてはならないとするコンセンサスを得る」
そこまで言って、アイが思い出したように私の陰茎をもてあそび始める。
「というか、こんな格好で問答続けるつもりですか。さっさと欲に負けてもいいんですよ」
色っぽい媚びるような声色。
「だ、だから、そんなことをして何になるんだ」
陰茎への刺激に耐えながらなんとか尋ねる。
「私は『すばらしい新世界』を望むグループの一員です」
「孤児連盟、か」
「ええ。そうですね。以前の話の続きをしましょうか。この世界の行く先。世界が二種類の人種で分けられる世界の話」
ギリギリのところで耐え続ける私に呆れたのかアイはため息をつき、諦めたように語りだした。
「異常出生譚というものを知っていますか」
物語の形式だろうか。私は知らないと答える。
「ヒトとは違う、異常な生まれ方をした子どもにまつわる神話です。桃から生まれた桃太郎、が誰にでもわかる例でしょう。この手の話は世界中にあります。ミノタウロスはミノス王の后が雄牛と交じったことで産まれ、仏陀は王妃マーヤーの右脇から産まれ、キリストは処女懐妊によって聖母マリアより産まれた。異常な誕生は、彼らが並の人々とは異なる存在であることを示す分かりやすい証拠になります」
並の人間とは違う特徴を持つ人々は、良きにせよ悪きにせよ特別な存在として見なされる。
私自身だってそうだ。だれしもが私の身体障碍と並外れた頭脳を結び付けて考える。
「もちろん今の我々は桃太郎やミノタウロスの神話が御伽噺に過ぎないことを理解しています。ヒトは桃から生まれません。ヒトが牛と交わったところで子はできません。処女懐妊は若き過ちの苦し紛れの言い訳でしかありません」
アイの口角がきゅっと上がる。皮肉な笑みを浮かべようとしたのだろうけれど、私はただ彼女の美しさに見とれてしまう。
「ですが、ヒトがヒトを産むことは生物学的に証明された本物のヒトの産まれ方です。かつて世界すべてのヒトがそのようにして産まれてきて、そして今では多くのヒトが放棄してしまった産まれ方。世のほとんどのヒトが義胎で生まれるようになったら、彼らは母体より産まれ、家族に囲まれ育つヒトのことを同じヒトであると認識できるでしょうか」
王侯将相いずくんぞ種あらんや、と言ったのは秦の陳勝だ。
かつて権威として尊ばれた周はすでに滅亡し、辺境に位置する秦が中華平原を統治する理屈として持ち出せたのは、有徳者が世界を統治する天命を受けているとする天命思想だけで、それは簒奪者たちに徳があれば統治権を奪えるとする易姓革命の簒奪を正当化する理論を与えてしまった。
けれども家族がほぼ消滅した未来では、陳勝は同じ言葉は吐けない。
血筋の優劣は存在しなくとも、血筋を持つ人々と血筋が存在しない人々の差は実際のものとして存在するようになる。
「かつて指導者は自らが神聖である証として、己が神の子であると主張しました。近い未来、同じような神聖さは自らが親から産まれし子であると明かすだけで認められることになります。統治者の権限を持つのは過去より脈々と繋がる家系を持つ選ばれし人々だけ、有原罪の御宿りによって生まれる聖家族のみに与えられる権限であると、家系を持たない過去の裏付けも未来への責任もない個人に統治者の権限はないと、そう信じられるようになるでしょう」
荒唐無稽な笑い話だ、と一笑に帰すことはできなかった。
初めて彼女とふたりで話した日、これから先の家族の在り方について議論したのを思い出す。
家族妊娠と社会妊娠の比率がプラトーに達した未来。
親を持ち産まれてきた人々と国を親として生まれてきた人々。彼らは互いに異なる生まれをしたことに意味を見出さずにはいられない。
「孤児連盟は、社会妊娠による誕生を共通項とした人々がアメーバのように緩やかなつながりでまとまって生じたグループです。私たちは特定の人々だけが家系を繋ぐ特権を保有することを拒絶することで一致していましたが、その解決策においてはいくつもの分派に分かれてしまいました」
「テロリズムをやらかすようなやつとは違うと」
「ええ。世界を変えるには暴力はあまりに無力です」
アイは一蹴するように鼻を鳴らす。
「私たちはペンの力によって、母胎妊娠・家族妊娠をただしくないものとして糾弾しようと試みていました。特に母胎妊娠はその生物学的特性から、男女平等というこの世界のただしさにそぐわない性質を内包し、また偶発的な断絶の可能性も孕みます。これらの弱みを起点に母胎妊娠へのネガティブキャンペーンを続ければ、ドミノ倒しのように家族妊娠も衰退していくだろうという推測ですね」
なんとも楽観的なモノの見方でした、とため息をつくアイ。
「ですが男性妊娠がすべての想定をひっくり返しました。男女平等の出産、万世一系の夢は実現可能になってしまいました」
男も女も等しく子を産む責務を負えるようになった未来。
子を産む責務を負い家系という名の時間の重みを持つ人々と他者の重みに責任を負わずただ刹那的に生産される人々に世界は二分されるだろうと語るアイ。
「私たちはなんとしても男性妊娠を潰さなければなりません。ですが、世の大半の人間にとって男性妊娠の是非などどうでもいいことでしょう。親を持たず、親になりたいとも思わない人々にとっては」
「男性妊娠を『ただしくないもの』として廃絶するためには、当事者が声をあげなければならない」
次の言葉を横取りするように私が繋ぐと、彼女は優秀な生徒に褒美を与えるように軽く頬を緩ませた。
「その通りです」
「そのために男性妊娠の推進者である両親の子である私に彼らが『ただしくない』と告発させると」
「ええ。子を売り払う親が不適切なように、子に相応しい教育を与えない親が不適切なように、子に相応しい遺伝子を与えない親は親になる資格を有さない、そう糾弾するんです」
「じゃあ最初から」
「ええ。自宅に回春マッサージ師を呼ぶのは不用意でしたね」
知ったときは思わず笑っちゃいました、とその時の愉悦を思い出すようにケラケラと手を叩きながら嗤う彼女。
やはり、私の性的嗜好がバレたのは出禁になったセラピストからだった。
苦々しい思いを噛みしめる。
「慰めるわけじゃないですけど。貴方だけじゃないですからね。貴方のように家族妊娠で産まれながらも自らが受け継いだ身体的特徴に不遇を覚えている子どもたちには、同じような誘惑が持ち掛けられているはずです」
活動家、と表現したらいいのだろうか。もし殺人が自らの信念を通すために最も効率的な手段なら躊躇せず行うだろうと信じてしまうほどの冷酷さを彼女が秘めていたことに今更ながらに身が震える。
「お前の目的はなんなんだ」
「最初から言ってるでしょう。すべてのヒトが社会妊娠によって生まれる世界を」
「それはグループの目的だろう。お前自身の動機が分からない」
すべてのヒトが社会妊娠によって生まれる世界を実現するため、自分が妊娠することすら厭わない。
あまりに狂信的だ。
「私自身の目的ですか」
私の問いに彼女は顎に指を押し当て、「いうなれば、親子愛の否定ですかね」と若干考えるそぶりを見せてからそう言った。
「愛の否定、か」
「物質的生活の生産様式が社会的・政治的・精神的な生活過程一般を条件づける」
「マルクスの土台・上部構造論かい」
アイは肯定の笑みを浮かべる。
「親子愛という上部構造の土台となるのは遺伝、染色体の垂直伝搬です。利己的な遺伝子の乗り物たる私たちは、新たな乗り物を共に作る番として優秀な遺伝子を利己的に求める個人的優性思想を自明のものとする一方で、そうして造られた遺伝子の半分を共有する新たな乗り物に尽くす親子愛を自然な愛として受け入れてきました」
あまりに無簡素に語られる家族愛の源泉は、だからこそ彼女が家族愛にどれほどの憎しみを抱いているのか浮き彫りにするようだった。
「家族そのものを否定することはできないでしょう。イエスも則天武后もポルポトも、結局家族を破壊することはできませんでした。愛情という身の内に湧きあがる自然な温かい感情を外部から否定することなんて無理な話だったんです」
社会は家族だった、という彼女の言葉を思い返す。
私たちは共同体をまるで巨大な家族のように見なす。
だからこそ家族が共同体にとって都合の悪い邪魔者になっても、共同体が家族を捨て去ることはできなかった。
「けれども遺伝は破壊できます。ただ、子どもが『お前の遺伝子なんか欲しくなかった』と言いさえすれば」
真っすぐに私を見つめ、私にささやくアイ。
私の遺伝子を残したいという親のエゴと、より良い遺伝子を引き継ぎたいという子のエゴの対立。
ヒトの身体、ヒトの精神が、遺伝子の乗り物に過ぎないとしても、馬にも騎手を選ぶだけの利己はある。
「それでも家族は残る」
遺伝の伝搬の主役が個々人、家族から社会、共同体に移り変わったとしても、経済資本、社会関係資本、文化資本を相続したいというヒトの欲は残る。
地主は己が保有する広大な土地を信頼できる子どもに残したいと願うだろうし、政治家は自分が築き上げた人脈の蜘蛛の巣を似たような思想を持つ子どもに継ぎたいと願うだろう。
「後継者としての家族関係は残るでしょうね。ですが私はそんなのは気にしません」
まったくピント外れの反論ですねとばかりに、彼女は冷淡に言葉を投げ捨てた。
「私が憎むのは母親の無償の愛です」
まるで娘が母親に見せる同族嫌悪のように、彼女は母親の愛を憎むと呪詛を吐いた。
母が私に見せるような、無条件で、暖かく、包み込むような、粘り付いた、愛。
それを憎むと。
「自らの地位を継ぐ後継者としての子どもを愛する心。そんな父が子に見せるような条件付きの愛を私は憎みません」
「お前はなぜ母の愛を憎む」
再び問う。
理屈は分かった。けれど理由が分からない。アイが親子愛を憎むその感情が。
「化生という言葉を知っていますか。胎からでもなく、卵からでもなく、腐りきった肉からでもなく、何の拠り所もない無から生れ出ることを示す仏教の言葉」
私の問いに、アイはまるで陽だまりの下、昔話でも語るような朗らかさで語る。
「義胎が普及しだしたころ、ある偉いお坊さんがこの言葉を用いて義胎妊娠を批判したんですよ。人は胎から生れ出ることで今生を生き、胎から生まれ出ぬ人は今生の人ではない、中有や地獄の衆生のものであるって」
アイは笑って、
「仏教の教えとしては通ってるかもしれませんが、大衆に説話を説くお坊さんとしては失格ですよね。他人の生まれ方を地獄の生まれ方だなんて批判して、皆がああそうですかって納得するわけないのに。そのお坊さんは四方八方から叩かれて、謝罪しました。まったくもって間違った考えでしたって」
彼女が生まれるよりもずっと昔の話だろうに、当時の様子を懐かしむように目を瞑る。
「でも、私には沁みました。ああ、私は地獄の衆生なんだって。だから私はこんなにも苦しいんだって納得できたんです」
ゆっくりと瞼を開くアイ。
薄暗い部屋の中、彼女の瞳は私に繋がる生命維持装置の光源を反射して、赤く、恐ろしく光る。
「私は、化生の生き物です。親が居ると無邪気に信じ、その実何の拠り所もなくただ生産されただけの歯車です」
彼女が自らの出生を語る。
区の義胎妊娠目標数をクリアするため架空の義胎妊娠届を偽造され生み出された、社会妊娠第一世代。
一六になるまで自分には親が居ると信じて疑わなかった少女がからっぽな出生を知る物語。
「あの日、私はひとりぼっちでした。だれにだって親は居るのに、私にだけ親が居ない。だからしっぺ返しをしようと思ったんです」
辛い憎しみの籠った過去だろうに、彼女の口調はあいかわらずの朗らかさ。
「しっぺ返し」
私はそれが恐ろしくて、ただおうむ返しに尋ねる。
「世界のために親のいない子が必要なのに、世界に親が居る子とそうでない子が混ざっているのは不平等でしょう。だから私と同じような境遇の孤児たちを集めて、私たちがひとりぼっちじゃない世界を実現しようと心に決めたの」
「だから世界全員が親を持たずに社会妊娠で生まれる世界を望むと」
「それって、すばらしい新世界でしょ」
まるで将来の夢を語る少女のように、この世界を『すばらしい新世界』とする夢をアイは語る。
「さて、こんなつまらない話は終わりにして、次に進みませんか。できれば合意がいいんですけれど」
アイは私の上にまたがり、未だ萎えない陰茎をそっと握る。
「こんなことをしなくても、私を嵌めようとすればいくらでもやりようはあったんじゃないのか」
欲に素直な身体に呆れながらも、私は最後の抵抗を試みる。
「ハメようとはしてますけれどね」
思いつきのつまらない冗談を言って自ら笑うアイ。
「それとも取材を名目に家に招いた女性を酔わせて母胎妊娠を強制しようとしたと告発するぞって脅された方が好みですか」
彼女の手のひらの中で、陰茎がさらに膨張するのが自分でも分かった。
「マゾヒストでもあるんですね」
本気で引いているのか、ただの演技か。冷めた一言。
「私の目的のためには貴方には共犯者になってもらわないといけませんからね。裏切る動機があったら怖いでしょう」
当然でしょう、と告げるアイ。
「だからって、」
何とか反論しようとして、なぜ自分がここまで抗弁するのか自問する。
童貞臭い、異性への無垢な憧れが崩壊していくことへの失望、長年夢見た性交がまるで商品のように取引の材料にされていることへの絶望だろうか。
それとも他者を隷属させる手段としての性愛を夢見ていたのが、それとは裏腹に自らが彼女の性的魅力の奴隷に成り下がろうとしていることへの必死の抵抗か。
幼子のように駄々をこねる私に、彼女は苛立ちを見せることもなく、暖かい笑みを浮かべ、
「ロゥはね。自分が親から産まれてきたこと、どう思っている……」
突き刺すように問うた。
「どうって」
「自分の生まれに満足している……」
これまでの人生でそのようなクエスチョンを投げかけられたことなんてなかった。
なぜなら、私は日本有数の秀才カップルの間に産まれ、彼らの知的才能をこれ以上ないくらいに受け継いだ、世界の陽の当たる場所の更に先頭を歩く権利と能力を兼ね備えた幸せな子どもなのだから。
けれども、他と比べどれだけ恵まれていたとしても私は、
「みんなと同じような自分が良かった」
濾し、搾り取るように身の奥からにじみ出たその言葉は、動かないはずの生の声帯が震え放たれたように思えた。
私の慟哭はお見通しだったのだろう。
彼女は私の体を抱きしめ、すべてを受け容れるような抱擁を交わす。
「私も貴方も、自身の生まれ方を憎んでいるのは同じ。仲良くやっていけるんじゃないんですか」
彼女の虹彩の造形すら見分けれるほどの至近距離。
きらきらと宝石のように輝く栗色の瞳が私の眼を射抜き、果糖をたっぷりと蓄えた果実のように煌く紅い唇からこぼれる吐息が私を誘惑する。
「それとも、こう言った方がお好みですか」
悪魔のように妖艶な笑みを浮かべ、
「好きですよ」
と簡潔な言葉と共に、短い口づけをした。
取って付けたような告白。
言い訳のようなキス。
いくら私にとって女性の内面心理が把握不能のブラックボックスであっても、そのおざなりな告白の中身が空っぽなことぐらい分かってはいた。
けれども、彼女の柔らかな唇の感触が私の唇に触れた途端。
たとえ形だけであっても彼女が受け入れてくれるのなら、それ以外すべてを投げ捨てたっていいと。
そう感じてしまう。
私は逆らえない。
顔面を殴られなくとも、銃口を突き付けられなくとも、私は彼女の魅力に屈服するほかない。
ああ、彼女はファム・ファタールだ。
「じゃ、いれるね」
柔らかい、しっとりとした唇の余韻に浸る暇もなく、彼女が私の上半身から離れ、ベッドの下部がほんのかすかに沈み込む。
鬼頭にほんのりと温かみを感じる密着感を覚え、それを自覚した途端に史上最速の素早さで我が息子は吐精した。
「すっごい早いですね」
小悪魔は、呆れたようにそう言って、
「これで私は貴方ものですし、貴方は私のものです。うれしいでしょ」
と再び接吻を残した。
私が彼女の身体を征服したのか、彼女が私の精神を征服したのか。
判別もつかず、私はただうなずくほかなかった。
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