#7
午後に役所で手続きを済ませようと一日丸々有休を取っていたのは幸いだった。取引先との外せない用事があるツキミを駅に降ろして、私は父が運ばれた病院へと急ぐ。
病室に入ると、父はベッドから半身を起こし、無音のテレビをつけたまま、静かに本を読んでいる最中だった。
「ミチルか」
一瞥すると、父は本を持ったまま、
「孫が産まれるというのに気が緩んでたな」
と自戒するような笑みを浮かべた。
「まったくもってそうだよ」
思ったよりも元気そうな父の姿に安心して、ベッドのわきに置かれた椅子に座る。
「母さんは」
「俺が急に倒れたからな。パンツを家から取ってきてもらってる」
「心臓は大丈夫なのか」
「ん。不整脈だ」
父は病院着の前をはだけさせ、鎖骨上の覆現インプラントを避けるように埋め込まれたケーブルを見せびらかす。
「ペースメーカーを入れることになるだろうな」
「まあ大事なくてよかったよ」
ほっとして笑みを浮かべると、父は私の顔をしげしげと見つめ、古臭い文庫本にしおりを挟んでパタンと閉じた。
「聞きたいことがありそうな顔をしているな」
そう言い当てられて、真顔に戻ってしまう。
「なんで」
「お前は分かりやすいよ。何かに気を取られていると笑みが固くなる」
父が種を明かす。
「これまで一度もそんなこと言われなかった」
「言えばお前は取り繕ってしまうだろう。父親として子どもの嘘を読む術は持っておきたい」
長年の秘密を明かして得意気なのか、ニヤニヤと自慢げに解説する父。
「ならなんで今になって言ったんだ」
「そりゃあ親になる男をいつまでも子ども扱いしてはいかんだろう」
当たり前だ、とばかりに言い放ち、
「悩みは義胎妊娠か」
と尋ねた。
「よく分かるね」
「俺をだれだと思っているんだ。大学病院の教授様だぞ。悩みがあるなら話ぐらい聞いてやる」
「患者さんにもそんな態度で接しているの」
「それはせん。懇切丁寧に傾聴しているさ。無論カネは取るがな」
冗談めかした言葉。
「ツキミが落ち込んでいてね」
観念して事情を話す。
「心臓の手術は無事に終わったのにさ。さっきだって『あの子のへその緒は私に繋がっていない』なんてよく分からないことを言って」
脇の冷蔵庫からペットボトルを取り出しながら、父は「ほう」と独り言をつぶやき、
「あの子のへその緒は私に繋がっていない、か」
とツキミの言葉を吟味するように繰り返した。
ごくごくと喉を鳴らし、水を体内にたっぷり送り込んだ後、父は「ツキミさんは負い目を感じているのかもな」と言った。
「子どもが病気になってしまったことに負い目を感じてるってこと」
私が尋ねると、
「わが子を自分で身籠らなかったことに対して、だ」
と言い、ベッドの上であぐらをかいた。
「義胎とはなんだ」
父お得意の問答だ。小難しいことを主張したいとき、父は問答を繰り返すことを好む。
「人工子宮だろ」
「では、なぜ義胎は人工子宮ではなく義胎と呼ぶんだ。人工膵臓や人工甲状腺は、義膵臓、義甲状腺と呼ばないのに」
思ってもない方向からの問いに私は多少時間を取って考える。
「義胎が人工子宮だけでなく、人工子宮に栄養を与える維持部も含んだ呼び名だからでは」
「それもひとつの解釈だ。けれど人工心肺は実際の心臓や肺にはまったく似つかない構造をしているが人工心肺と呼ぶ。血液を循環させるモーターを人工心臓、人工血管も含めた体外循環システムを義心臓と呼んでも構わないのに」
たしかにそう言われたらそうかもしれない。
「俺は義胎という名称は子宮が持つ機能すべてを代替していないことを象徴しているのではないかと思っている」
「どういうこと」
「義肢を考えてみろ。義肢はカーボンフレームを骨の代わりに、電気回路を血管や神経の代わりとすることで、物体を把握し、精密に操り、体重を支え、地を走ることができる。モノによれば生身の足よりも速く地を駆けることだってできる。けれど義足はあくまで義足だ。走る時は走るための義足を、日常生活を送る時はその為の義足を。我が身同然に扱えてもそれは交換可能な代用品だ」
「義胎は子宮より劣るものだと」
「優劣の話ではない。子宮と義胎は別物だという話だ」
別物。
言葉が心に突き刺さる。
ツキミが、義胎が自分の子宮のクローンでないことにうまく言い表せない不安を感じていたのを思い出す。
「義胎妊娠は素晴らしい技術だ。代理出産や子宮移植が抱えていた倫理的問題は過去のものとなり、不妊にならざるを得ない女性に後ろめたいところのない純粋な希望となる選択肢を与えることができる。もはやラケルは神の御業に頼らなくとも子を持てるわけだ」
旧約聖書の一節だ。
ヤコブの妻、ラケルは不妊で苦しみ、ヤコブが側室と子を作ることを耐容せざるをえなかったが、神の御心によって身ごもることができた。
旧約聖書から幾千年もの間、結局は他の誰かの子宮を使わなければならなかった不妊治療は、義胎の出現によって聖書で語られる神の域に達した。
「よく知ってるね」
まさか父に旧約聖書を引用するような雑学があるとは思ってもいなかった。
「先週から暇だったからな。お前の部屋から失敬した」
父が机の上の本をぽんぽんと叩く。文庫本のタイトルはヨブ記だった。
「けれどな、どんな夢のような技術であれ、新たな問題を産む。義胎の出現によって正常な妊孕能を持つ女性に自分の子宮ではなく、自分ではない外部の子宮を使う選択肢が現れてしまった」
まるでそれが重大な過ちであるかのように父は語る。
「よいことのように聞こえるけれど」
「男には理解しがたいことさ。俺たちにとって子宮は既に外部化された存在だ。妻に子供を産んでもらうのと義胎で子供を得るのにさして違いはない。どちらも蚊帳の外だ」
「けれどな、」
父が語気を強める。
「女にとっては違う。人類誕生以降、いや哺乳類誕生以来、メスが子供を持つためには必ず自分の子宮を使わざるを得なかった。死のリスクを受容し、十月十日の間自らの体を我が子のため明け渡す必要があった。義胎が出現し、事実が書き換わっても人々の意識はすぐには切り替わらない。義胎妊娠が普及してまだ一〇年余り。母親から産まれ出ることを自然とする人々にとって、女性は自らの子どもを自分で産むべきであるという規範意識は根強く残る」
自然とは不思議な言葉だ。
人為が加わらぬ絶対的な存在として観念される自然。
けれどヒトそのものも自然の産物であり、頭脳が肥大しすぎて未熟なまま生まれるヒトは、他者の助け無くしては生まれることができない。
自然な産まれ方とは蜃気楼のようなものだ。
ヒトは過去にあったであろう産まれ方を自然なものとして見なすが、過去にはまた違った産まれ方が自然として見なされていた。
義胎を不自然と見なす人々も、保育器や病院出産、産婆までを不自然と見なすことはできない。
「私たちは規範の逸脱を悪として見なす。十戒を破ることは罪であり、法を犯すことは犯罪であり、健康を損なうことは病気である、というわけさ。ある規範を逸脱しても悪として見なされないためには、その規範より優先されるべき他の規範が求められる」
ヒトを殺すことは悪いことだ。
神に問おうが法廷に訴えようが医療者にコンサルトしようが、どのような権威者も人殺しは悪いことだと断言する。
けれど、特定の条件においては違う。
もしそのヒトが神の敵であるならば、その殺人は聖戦として正当化される。
もしそのヒトが法を犯した犯罪者であるならば、死刑執行は国家権力が持つ暴力装置のひとつとして正当化される。
もしそのヒトが人生の最終段階にあると医学的に判断され、尊厳ある生の実現のため、死がたったひとつの冴えたやり方であると本人が望むのであれば、その死は尊厳死や安楽死として正当化される。
「自然な産み方、母親が自らの胎で産むべきという規範を塗りつぶすために、多くの人々が採用したのは母子の健康のため義胎妊娠すべきであるという規範だ」
ツキミが義胎妊娠を決心した時のことを思い出す。
母体出産を自然なものとして考えていたある女性が、流産をきっかけにより安全な義胎妊娠を選択し、健康な子を授かったというナラティブ。
自然なお産は危険なお産であり、より自然から離れた義胎妊娠を選択することこそがただしいお産であるという物語。
「けれどその規範はあの子が病気になってしまったことで崩れた」
指摘すると、父はゆっくりとうなずいた。
「義胎妊娠が安全であるというのは程度の話、統計的なマクロの話であって、義胎妊娠によって産まれる子がすべからく健康であることを意味しない」
すべての悪しきものを遠ざけたところで災いは起きる時は起きる。
世界は公平に作られてはいない。
「ツキミは義胎妊娠を正しいと認めてくれる規範を失った」
そして迷ってしまった。
「あの子のへその緒は私に繋がっていない」
ツキミの言葉が脳裏に響く。
ヒトは自己犠牲を尊いものと見なす。
仏教の説話で本生経というものがある。ブッダの前世を伝える説話集だ。
その中で彼はある時は盲目のバラモンのため自らの両目を抉り、ある時は飢えにより我が子を食らわんとする虎のため身を餌として差し出した。
彼の自己犠牲の物語は、ガウタマ・シッダールタが目覚めた人(ブッダ)として規範を語るに足る人物であることを確信させてくれる。
自己犠牲はその清らかさによって彼らが信ずる規範をただしいものとする。
妊娠が私たちの心を打つのは、やはりそれが自己犠牲の精神を孕むからだろう。
義胎妊娠により母親たちは献身の機会を失い、ただしさに迷う。
ツキミは自己犠牲の場を求めてさ迷っているのだろう。
「できることはあるのかな」
「それは俺に聞くことじゃないだろう。俺は所詮ただの医師だからな。ツキミさんの夫、子どもの父親であるお前自身が考えるしかない」
呟くように問うと、父は頬杖をついて、半ば突き放すように言った。
何ができるのだろうとしばし考えるけれど、何も思いつかない。
父は深く考え込む私をしばらく黙って眺めた後、半ば唐突に
「なんで研究は諦めたんだ」
と尋ねた。
「それは」
責められているような気がして俯くと、就職の道を選ぼうと決心したあの夜の記憶が蘇った。
九年目の交際記念日、ツキミの家で豪華な晩御飯を済ませ洗い物をしていると、「ちょっと話があるの」と、背後から声を掛けられた。
「どうしたんだい」と、なにも気にしていない様を装いながらも、私はツキミの真剣な声色に恐れを抱いた。
「急にこんな話をしたら怒るかもしれないけれど」
ツキミがいつもやりがちな、もったいぶった前置きにも、思わず唾を飲み込んでしまった。
「主夫になる気はないの」
その言葉を聞いた途端、ほっとすると共に了解不能な寂寥感を覚えた。
「次出す論文には自信があるからさ。それで助教になれなかったらそうするよ」
自分自身でも何度も同じことを言っていると自覚してしまう言い訳でしのぎながらも、なぜそのように感じたか不思議に思った。
その日の晩早々に寝付いてしまった彼女の横で、そのさみしさが自分の覚悟のなさへの失望であると思い至った。
話があると持ち掛けられた時、「ついに振られるのか」と考えてしまった。
自分がやりたくて進んだ研究の道だが、いつまでもうだつも上がらず燻っているようでは結婚相手として考えられないと諦められても仕方ないと勝手に納得したのだ。
けれど、物わかりのいい自分がいると同時に、どうやったら破局を防げるか説得の術を考える自分も存在した。
九年間の付き合いを経て、ツキミが隣にいない自分が想像できなかった。
もしかすると彼女も一緒だったのかもしれない。ただ彼女は現状維持に汲々とする私とは違い、もう一歩踏み込んだ。
それが主夫にならないかという提案だ。
「どうしたらよいんだろうね」
ツキミの寝顔を撫で、独り言。
決断を後回しにしている間に、彼女は自分が大黒柱になる覚悟を固めた。自分だけが幼年期に揺蕩い続けるわけにはいかない。
そして次の日の朝、私は彼女に今年は本気で公務員試験を受けることを告げた。
「結婚を考えたら、いつまでも不安定な仕事はしてられなかったからね」
父の質問にそう答えながらも、これは嘘だな、と内心で吐き捨てる。
結局、金にならぬ仕事だと開き直って主夫の傍ら研究を続ける狡猾さもなければ、ツキミを振って野垂れ死に覚悟でアカデミックの世界に縋りつく醜さもなかったというだけ。
恋人とプライドと夢。
どれかどれかひとつを諦めなければならないトリレンマで夢を諦めた、それだけの話だ。
「でも父さんも息子がまともな職について安心しただろ」
実家に帰るたびに、いつも論文は進んでいるのかと尋ねる父に重圧を感じていた。
「俺はお前が研究の道に入ると聞いて嬉しかったよ」
予想外の答えに顔を上げ、父の視線を真っすぐに見つめ返す。
「でも研究職なんて三年先の職も分からない仕事だって」
「安定なんてものは時代の流れで決まるあやふやなものさ。百年前なら軍人になるのが一番安定した職だったろう。成りたいものもないからなんとなく医学部に入った俺が他人の選択を笑うことはできんよ」
「でも、」
父さんは成功したじゃないか。そう言いかけるけれど、父の柔和な笑みにそれ以上言葉を続ける気を失った。
「専攻医として医局に入ったときの教授の口癖が『妊娠は病気ではない』でな。そんなの当たり前だって顔をしたらめちゃくちゃ怒られたんだよ」
砕けた口調でそう話す父の姿はなんとなしに若く見えた。
「たしか俺が医局に入ったときの乳児死亡率が一.七だったかな。千人に二人も死なないわけだ。一〇〇年前は一〇人に一人の赤子は一歳になれなかったことを思えばこれもずいぶんな数値だが、教授はこんなもので満足してはいかんと立腹でな。『妊娠は病気ではないのだから、妊娠で人が死ぬのはあってならないことだ。先人らが感染症や黄疸を克服したように、君らは死を克服せねばならん』と鼻息荒く語られたんだよ」
私は父の挑戦の結果を知っていた。
「その教授の理念に共鳴して、父さんは世界に名の知れた産婦人科医になったわけだ」
私の拗ねた称賛に父は鼻を鳴らして、
「が、死は克服できなかった。栄養が足りずに死ぬ子、ビリルビンが溜まって死ぬ子、低酸素で死ぬ子は消えても、死を駆逐することはできなかった。俺の半生の目的は結局夢物語で実現不可能。ついには自分が病床に叩き込まれる始末だ。教科書に名が乗ったって、死は克服できなかった」
虚しく、「できなかった」、と言葉を繰り返す父。
私は彼の諦念になにも言えなかった。
返答に戸惑う私を見て父は、「語りすぎたな」 と頭を掻き、
「ヨブ記はお前が宗教学を志した理由だったよな」
と、机の上の文庫本の表紙を軽く叩いた。
「よく覚えているね」
一七歳の時。文系の道に進む理由を父に説明した時に話したことだ。
合理性のみで私たちの世界は説明できない。非合理もひっくるめて世界を理解するためには、非合理なものへの思考を行うことが必要で、そのために私は宗教や哲学を学びたい。
責められると思い、必死に理屈を考えて挑んだ弁明だったが、父は私の言い分を一通り黙って聞き、「ならそれでいい」とあっさりと認めた。
「なんでお前はこの話が好きなんだ」
ヨブ記は旧約聖書の一編だ。
ヨブは神を恐れ、悪を避けて生きてきたただしい男だった。しかし神は彼の信心を試すため悪魔をけしかけ、彼の財産を奪い、健康を奪い、子どもを奪う。
灰の中で重い皮膚病に苦しむヨブに対して、友人たちは彼がそのような目に遭うのは彼が罪を犯したからに違いないと責める。神の行いは無謬でありヨブに災いが起きたとすれば、それはすなわち罰でありヨブに罪があるからに違いない。
自らの罰が謂われないものであることを確信するヨブは友人との論争でも揺るがず、ついには神と対峙する。神は自分が創造したこの世界で人間は世界の中心に座していないとヨブを看破し、ヒトの身でありながら神の思惑を論ずるヨブの思い上がりを叱責する。
「この物語の終わり方が好きでね」
「ヒトを計画の範疇に入れていないとまで白状した神が、最後に付け足したように祝福を与えるのが、か」
ヨブ記のエピローグは、神の弁論に打ちのめされたヨブにかつてのような健康、かつて以上の財産、家族友人が与えられたという記述で締めくくられる。
「蛇足のようにも思えるがな」
「それはそうだけれどね」
父の真っ当な文句に失笑交じりの同意を示す。
「理由もなくすべてを奪われたヨブは理由もなくすべてを与えられました、なんてさ。神にはヒトの理解しえない考えがあると本気で示したいのなら、ヨブは報われず死ぬべきだ」
ヨブ記のテーマを身勝手に要約してしまえば、世界公平仮説への懐疑だ。
情けは人の為ならずとは言うけれど、実の世界はそうはできていない。利他精神に溢れる善人が訳もなく報いを受け、他者を踏みつけることを厭わないマキャベリアンが努力を報われる。
全知全能の神によって作られた世界が公平な世界ではないという矛盾。
この不都合な矛盾にヨブ記が出した答えは、神の中でヒトは取るに足らない存在であるという冷酷なものだった。
神はヒトを幸福にするために世界を作ったわけでなく、神のみぞ知る考えに沿って世界を創造した。
神の中でヒトはただ最後に作り出された造物に過ぎず、神の最終目的ではない。その目的はヒトの与り知れぬところにある。
そう考えてしまえば、この世界が完璧な世界でないのも当然だ。神はヒトにとって完璧な世界は端から目指しておらず、神にとって完璧な世界を求めている。
なのに、虫けらに過ぎないヨブに対し神は祝福を与える。
「これが蛇足なことぐらい、ヨブ記を語り継いできた人々にもわかっていたはずだ。けれども、あえてこの結末を選んだ。理性では神はヒトに興味を持っていないと結論付けても、感情ではそんなわけないと理屈をすべて投げ捨てでも叫びたい。訳もなく救われたい。そういう矛盾した考えが錯綜しているように思えて。そうした理屈と感情の相克について深く考えたいと思ったんだ」
一〇年以上も前、鼻につくほどの未熟だった頃の感傷を今更話すのは恥ずかしいものだった。
「なるほどな。そういう解釈も面白い」
「父さんこそ、なんで部屋から引っ張り出してきたんだい」
ヨブ記のどこが父の琴線に触れたのだろうか。
「お前だけ話して俺が話さないのは不公平だな」
無精ひげをこすり、しばし思索した後に父は話し出す。
「ヨブが現代人であれば、彼の皮膚病は神の罰とは解釈されず、その代わりに医療ケアを受けることになるだろう。灰の中から清潔な環境へ移し、体を掻くことを止めさせ、診断をつけ治療を施すことが医療者、引いては社会の役目であり、ヨブ自身も患者として自らの健康を取り戻すため努力する義務がある」
自分に繋がるコードを弄り、父はかみしめるように語る。
「かつて神の罰として解釈されていた病いは、現代では疾患として診断され、治療される。それは、目に見えない細菌やウィルスの感染、自己免疫機能の破綻、異常タンパク質の沈着などを起因として生じる疾患として定義される。医学的に原因が判明しないものでも共通の病態を持つものは症候群として区分けされ、機序は分からなくとも統計学的に効果の証明された標準治療が定められ、その病気を引き起こしやすい危険因子が特定される」
「酒や煙草は癌のリスクになりますって奴かい」
「そうだ。俺もよく言われたよ。高血圧だからもっと運動したり減塩しないと、心筋梗塞になりますよってな」
自らの現状を茶化すように父がおどける。
「俺たちは健康のため、煙草やアルコールを悪癖として遠ざけ、薄味の食事や日々の運動を善き習慣として歓迎する。かつて善悪の基準を神に置いていた俺たちは、今では健康を基準に善悪を判断するようになった。健やかに生きることこそが神聖な生き方であり、医師は神の言葉を語る神官の座に就いた」
つけっぱなしのテレビでは、ちょうど血液型診断のコーナーだった。
かつて星々の流れがヒトの運命を定めていると信じていた私たちは、今では血球表面の糖鎖修飾がヒトの性格を定めていると信じるようになった。
「医師として俺は多くの知見を伝えることができる。サリドマイドは催奇形性を持つ。母乳育児は乳幼児突然死症候群のリスクを減らす。そうして科学的根拠に基づいた医療を受けることが賢い選択だとやんわりと肘で軽くつくようにして選択を促す。けれども本当のところ、俺は健やかな子の産み方を伝えることはできない。いくらリスクを避けようが、不幸は起きる時は起きる」
「死は克服できない、か」
私が自分の言葉を反復したのを聞いて、父は皮肉な笑みを浮かべる。
「俺も老いたというわけだ。死が身近に迫りつつあるのを実感して、半生に疑問を覚えて、これまで祈りもしなかった神に興味が出て、そしたらちょうどよくお前の机の上にこれが置いてあったというわけだ」
父の顔をよく見ると、無精ひげに多くの白髪が混ざっていることに気付いた。
ポマードで固めた頭髪は黒染めで若々しく見せていても、身の内からは衰えが染みになって次第に漏れ出してくる。
「まあ、病人の弱音だと聞き流してくれよ」
恥ずかし気に父が頭を掻く。
「ああ。そんな弱音。父さんらしくないよ」
そう言いつつも、私には彼の姿が以前よりもくっきりと、まるで目からうろこが落ちたように父という人間の輪郭が明瞭になって見えるようになった気がした。
それからしばらく、三〇歳新人公務員の苦労や父の夫婦関係の愚痴などなど、ざっくばらんな雑談を楽しんだのちに、また週末にツキミと一緒に見舞いに来るからと別れを告げ、病室のドアに手をかけた。
「書きかけの論文さ、まだ捨ててはないんだ」
ドアに手に掛けたまま、思い切ってそう言った。
困惑か、驚きか。ベッドの上に横たわる父が動きを止め、私の後頭部に視線が注がれるのを感じた。
「そうか。がんばれよ」
一瞬の空白の後、告げられたその言葉を、父がどのような表情で言ったのか見ることは叶わなかったけれども、私はもう邪推せずにその言葉を素直に受け取ることができた。
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