#4
「妊娠はただ胎児が大きくなる期間ではなく、カップルが親になる意味をじっくりと考える時期」というのが医師の言い分だった。
晩御飯の準備を済ませた後の時間、休日なにもすることがなく無為に過ごしてしまいそうな朝食後。暇な時間ができれば、私とツキミは覆現で胎児の姿を見て、手に抱いてその重みを感じながら、我が子の成長を実感した。
ツキミが職場の飲み会に行ってしまった、ひとりの夜。覆現に映る我が子の寝顔を眺めながら自室の整理をしていると親から連絡が入った。
「ところで子どもはちゃんと育ってるの」
互いの近況を報告した後、母は単刀直入に尋ねた。
「うん。順調に育ってるよ。覆現で見えているだろ」
目前に浮かぶ覆現の我が子を抱きながら、電話越しで孫の成長を心配する母親に心配いらないと言う。
「でも平均より小さいんでしょ。あなたの時はすくすく育ったから心配で」
ツキミがいなくてよかった。覆現に映る母の態度を見れば他意なく言っているのは分かるけれど、自分が産んだ時よりも小さい、なんて悪口でしかない。
「あまり他人の子に小さいと言うな」
私と母の会話に父が割り込み、文句をつける。
覆現が再現する父の姿は、義胎妊娠の相談に訪れた時から相変わらずポマードで固めたオールバック。
医師というよりは、やり手の地上げ屋のような風貌のままだった。
「それに平均以下といっても標準偏差マイナス〇.九なんだろう。正常発育だ。知識もないのにむやみに心配させるようなことを言ってはいかん」
専門家という生き物は皆こうなのだろうか。素人の感情論を専門知識で粉々に論破する父の物言い。
「そんな言い方ないんじゃない。初孫なんだから」
父の上から目線の言い方に母が不満を言う。
「専門職としてたしなめただけだ。お前が心配せずとも、ミチルとツキミが十分気を配る。俺たちの仕事ではない」
父はそれを取り合わず、重ねて母を注意し、母が反発してまた言い返す。
息子のことも忘れて、夫婦喧嘩を始める両親の姿に相変わらずだと苦笑する。
「自分は気にしていないからさ。母さんもツキミの前では気を付けてくれよ。ばあちゃんから同じようなこと言われたらいやだろ――父さんがこんな時間に家にいるなんて珍しいね」
話題を変えたくて、父が午後六時というあまりにも早い時間に家に帰っていることを尋ねる。仕事人間の父が夜九時よりも早くに家に帰ってくるなんて珍しい。
「それがこの人体調不良で手術中に倒れたのよ」
何気ない疑問だったけれど、またしても母のスイッチを入れてしまったらしい。
「すべって尻もち付いただけだ。周りが騒ぐせいでいい恥だ」
父はなんでもない風に言い返すが、手術中に術者が倒れるなんて驚いて当然の話だ。
「で、来週詳しく調べてもらうことになったんだけれど、この人こんな感じでしょ。とりあえず今週は無理しないでくださいって五時になったらみんなが無理やりにでもこの人を病院から追い出してくれるのよ」
「おかげで暇すぎて本を開くぐらいしかやることがない」
「体の専門家なんだから自分の体をちゃんと心配してほしいのよ。ミチルからも言ってやってほしいわ」
私の言うことなにひとつ聞いてくれないんだから、とため息をつく母。
「はは」
私は母の愚痴に愛想笑いを返すほかなかった。
「ところでお前の論文はまだできないのか」
ふと思い出したように父が顔を上げ、尋ねる。
「もう書いてないさ」
父の鋭い眼差しから身を逸らしたい思いをこらえながら、努めて無簡素に答える。
「ちゃんとまともに稼ぐ仕事についたからね。地に足つけて」
覆現に半透明に映る父と母の姿の背後、部屋の片隅に段ボールでまとめられた学生時代の資料が鎮座している。
公務員になってからも捨てられずにいた夢の残り香を処分してしまおうと決意したその日にこんな風に尋ねられるなんて間が悪い。
「他の仕事を持ちながら市井の研究者をしているような人物はいくらでもいるだろう。発表の場だって、書きさえすれば」
なぜ、父がここまでこの話にこだわるか理解できなかった。
論文のことだって話したのは二年前の正月に少しだけ。
いつまでも任期付きのポストから抜け出せない私をツキミさんを早く安心させてやれとせっついていた父が今更なぜだろうか。
答えに窮していると、覆現が新しい着信があることを知らせた。クリニックからだ。
「ごめん。電話が来たから切るよ。また連絡するから」
きまり悪さを覚えながらも、通話相手を切り替える。
「住吉ミチルさまでお間違いないでしょうか」
かけてきたのは、クリニックだった。
「担当医の方からお伝えしたいことがあるので、なるべく早くクリニックを受診していただきたいのですが、ご都合はいかがでしょうか」
「ええ。ちょっと待ってください」
スケジュールアプリを開きながら、並々ならぬ物言いに私は不安を覚えた。
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