第2話 上洛

 庄八がオランダへ向け、船に乗ったのは文久二年のことである。兄と離れて暮らすこととなった千代は、勝の紹介で佐久間象山家へ訪れた。

 そこで出会ったのがこの大変困ったせがれ。名を佐久間恪二郎さくまかくじろう


「お千代!もう一度弾いてくれ」


「恪二郎さまは桜が一等お好きでございますね」


「違うのだ俺が好きなのは…」


 恪二郎が、好きなのはお前だよ、なんて言う間も無く千代は『さくらさくら』を奏はじめた。彼は歯噛みした。今日も言えなかった。千代のしっとりした白玉のような指が、弦の上を滑る度に堪らない心地になる。

 父の象山は、そんな恪二郎に女ばかりを追いかけるな時勢を追え、と、口酸っぱく言い聞かせた。彼は、勝海舟をはじめ、坂本龍馬や吉田松陰など後世で偉人と称される面々に影響を与えた人物である。広い見識、貪欲さと行動的精神を持ってして、自身を天才と謳う自信家でもあった。

 自分の落とした種は、自分と同じほどに才覚に恵まれていると信じきっている。

 しかしながら恪二郎は、期待を大きく裏切るような横暴っぷりで、素行が悪く、かと思えば女にだらしない。父から譲り受けたのはその傲慢な態度ばかりという、非常に困った男であった。

 千代は、恪二郎の性質たちに心底くたびれていた。常に千代を側に置く、稽古はしないし勉学も好まない。町で好きに喧嘩して、時に千代に琴をせがむ。そういう自堕落な生活をしていた。

 そんな折である。象山が幕命によって京に召されることとなった。元治元年、一橋慶喜の推挙によるものである。

 しかしながら、開国論者である象山の上洛は、薪を背負って火中に飛び込むようなものだと親類や門人が猛反対した。前年の文久三年に八・一八政変で京から長州が叩き出されたとはいえ、攘夷派による暗殺やテロが横行していたのだ。

 攘夷派ながら、象山に一目を置いていた長州の桂小五郎も、知人を通じて警戒を促したといわれている。それほど切迫した状況だった。

 例に漏れず千代も、象山の身を案じた。


「佐久間先生。お辞めになった方がよろしいわ」


「行くよ、私は」


 象山はさっぱりとした様子で応えた。上洛を決めている。


「危のうございます」


「死をもって、自説を生かす。それが維新の道なのだ」


「でしたら千代も、一緒に連れて行ってくださいまし」


 強く言った。めしいの女では連れては行けませぬか、と続ける。

 象山は困った。勝から預かった大事な娘を、攘夷蠢く洛陽へ気軽に連れて行くなどできない。しかし、千代も強情で、ギリギリととんでもない力で象山の手を握り締めている。この少女のどこにこんな力があるのか、と不思議でならない。


「手に入れようとすれば取り零す。それが維新の道であると」


「勝が言ったのか」


「左様でございます」

 

 目の前の千代を見詰め、息を吐き、天井を見上げた。象山は勝の言わんとすることが分かった気がした。


「千代の両の目を差し上げました。代わりに勝さんは条約の批准書を手に入れて、よい国にすると約束した。ひとつ手に入れれば、ひとつ手放さねばなりませぬ」


 強かな女だ、と思う。まるで少女のいう言葉ではない。


「死を以たず、自説を生かしてくださいまし。代わりに千代が、先生の死になりましょう」


 象山は折れた。可憐で純だと思っていた勝のいとが、こんなにも武士然としているなんぞ思ってもみなかった。恪二郎にせがまれ、琴をつま弾くだけの手弱女たおやめではなかったのだ。

 もしこの娘が男子であったなら、必ずや維新の先駆けとなったであろう。彼は歯痒く思った。





 未だ、桜が蕾である頃。象山は松代を発った。恪二郎をはじめとした門人ら十四名と千代を伴い、月のすえ、昼過ぎには京の六角通東洞院西入ルの旅籠はたご・越前屋に到着した。元治元年三月二十九日のことである。

 二条城から呼び出しがあったのは、京に着いて五日後であった。


「お千代はここに居なさい」


 流石に千代を連れては行けぬ、と象山は渋った。しかし千代は千代で、それでは京に来た意味がない、と言う。

 仕方がなしに、恪二郎を護衛に連れて行くから今日は一日暇いとまをやる、と言いくるめて外出した。事は言いようである。ちっとばかし単純な千代は、まんまと乗せられた。先生から休暇を頂いたわ!日頃のお供を労われているのだわ!などと思う。

 暇をもらった千代は、早速、越後屋の内儀の目を盗んで町へ出た。

 余談だが、今日内儀は象山から千代の世話を仰せつかっている。千代の外出、もとい脱走が知れるや否や越後屋は大騒ぎになった。

 




 正午、木屋町。千代は番傘を地面に滑らせ歩いていた。高瀬川を船が行き来し、船頭の声があちこちから聞こえる。

 千代は空を見上げた。きっと頭上では、透き通るような浅葱を桃色の花弁が覆っていることだろう。高瀬川沿いの桜並木が美しい、と恪二郎が言っていたことを思い出す。

 地面を這わせていた番傘が、くうを切った。気付かぬうちに、川縁を歩いていたらしい。


「もし。もし、お嬢さん。左手は川だ。危ないぜ」


 正面の、少し高いところから声がする。若い男の声だ。


「ご親切に、どうも」


 千代は川縁から離れようと一歩下がった。すると不運にも、足を滑らせて、身体がぐらりと傾く。


「言わんこっちゃあねえな!」


 彼は、千代の腕を掴んで引き寄せた。カラッと笑っている。日向のような匂いの男だった。

 この男、名を藤堂平助という。最近、洛陽を騒がせている京都守護職会津藩お預かりの新撰組、八番隊組長。当然、千代はそんなこと露ほども知らぬ。


「ごめんなさい」


 千代は頬を染めて縮こまった。この娘、兄と勝、恪二郎以外の男を知らないのだ。恥ずかしさと居た堪れなさに身を捩る。


「おい、そんなに動いちゃ…」


 番傘が地面に落ちる音がして、次いで、身体中に水が纏わりつく。音が遠い。川に落ちたのだと気付いた時には、もう、上半身が水から引き上げられていた。

 肌のあちこちに、何か小さな薄いものが張り付いている。桜の花弁だろう。藤堂は千代のその花弁だらけの風体に驚いて、唇だけで悪戯っぽく笑ったが、彼の腕は甲斐甲斐しく千代の身体を抱き起こした。


「悪いな、受け止めきれなくて」


 藤堂は左手を千代の腰に添え、右手で濡れた髪を撫で付けた。頬に指が当たる感触がする。その指も濡れていた。


「あなたも落ちたの」


「ああ、まあ」


 千代は男の肩を掴んだ。着物がぐっしょりと水を含んでいる。無遠慮にペタペタと彼の頬を触れば、次から次へと雫が滴り落ちた。

 藤堂がほんのりと頬を染めた。この男もまた、女を知らないのである。


「私のせいだわ」


「いや。そうでもない」


 眉を下げて困った風な千代に、藤堂は笑いかけた。


「最近暑くてなア、水を浴びたかったとこだ」


 まだ桜も咲きはじめた折である。暑いわけがなかった。しかし、この藤堂という男のサッパリとした明るい気遣いは、彼にこう言わせた。


「しかし、こんなにずぶ濡れじゃア仕事に戻れねえな。お嬢さんちは近いのか?」


「千代よ」


「お千代ちゃんち、行ってもいいかい?」


 千代はくすくす笑った。かわゆいことを言う殿方だわ、と思った。


「旅籠にお世話になってるの。近くよ」


 藤堂は少し残念そうな顔をしたが、転がる番傘を拾い上げると、千代の手を引いた。


「丁度いい、着替えを借りよう」


 旅籠まで送る気なのだろう。その仕草がひどく男前で、また千代を困らせた。





 越後屋では恪二郎が大騒ぎだった。外出中、内儀に頼んだはずの千代が行方を眩まし、大捜索が始まろうとしたところで、知らない男を連れ帰ったのだ。しかも全身ずぶ濡れときた。


「雨なんて降っていたかね」


 象山は愉快そうに笑っている。


「番傘を足の代わりにしちゃあ駄目ね、濡れてしまうもの」


 千代も笑った。彼女に随分心酔している恪二郎だけは、只事ではないと大慌てだ。


「お千代、すぐに着替えろ風邪をひいてしまう!」


「お気になさらないで、恪二郎さま」


 肩を揺さぶる恪二郎に、されるがままになっている。そんな千代に身体を寄せて、恪二郎を遮ったのは藤堂だった。


「手が冷てえから早く着替えな」


 藤堂は千代の手を包み込むと、そっとミセの間に連れて行く。ミセの間とは、旅籠屋の入り口の、街道に面した板の間で、内儀がおろおろと様子を伺っていた。


「お内儀、手伝ってやってくれ」


「ええ、ええ。勿論ですとも」


 千代の手は、藤堂から内儀へ渡される。内儀は甲斐甲斐しく千代の履き物を脱がせた。


「待って」


 千代は藤堂の着物の袖を引っ掴むと、きょろきょろと周りを見渡した。


「恪二郎さま。恪二郎はどちら」


「どうしたんだ」


 恪二郎はそそくさと千代に寄る。そうして、千代の手を自分の右肩へ触れさせた。お前の左隣にいる、と暗に伝えている。


「どうか着物を貸して差し上げて」


「この仁にか?」


「きっとびしょびしょなの」


 私を助けてくだすったのだもの。

 確かに藤堂は、千代に負けず劣らず、頭から爪先までグッショリと水を滴らせていた。

 恪二郎は、千代が言うならと藤堂を睨め付けつつも渋々着物を取り出した。


「勝手に帰っては駄目」


 お礼をしたいのです。と、千代は藤堂がいるであろう方向に爪先を向けた。


「ああ待ってる」


「絶対よ」


「絶対だ」


 そう言って藤堂は、も一度千代の手を握り込むとパッと離した。そうして千代が奥へ引っ込んだ隙に、急に元来た道を駆け出した。


「ア、おい着物は!」


 恪二郎は駆け出した藤堂に呼びかける。


「早く帰らねえと土方さんにドヤされる」


 奥の間で様子を見守っていた象山の眉がピクリと動いた。土方。いま、洛陽で最も耳にする名である。

 象山は草履を履き直すと、グッと地面を踏み締め、藤堂を正面から見詰めた。砂利が擦れる音がする。


「お千代を待たねえのか」


 藤堂は唇を片方だけ緩く持ち上げると、自身の腰に下げた刀をツウと指した。


「これ以上、関わらねえ方がお互いのためだぜ」


 いつ気付いたのか。藤堂は、千代の連れがあの開国派筆頭、佐久間象山であると察していた。


「何れ。出逢うべくして出会うだろう」


 象山は藤堂にその気がないと知るや否や、背を向け越後屋の奥に消える。残された恪二郎は、訳がわからぬ、と首を傾げた。この倅、父に似ず、素行どころか察しまで悪い。

 出逢うべくして出会う。恪二郎がこの言葉を噛み締めるのは、元治元年も晩夏に差し掛かろうとするいやに蒸し暑い日のことである。

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花と水 坂口いさ子 @risaisako

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