花と水
坂口いさ子
第1話 咸臨丸
此の世のなごり、夜もなごり、死にに行く身をたとふれば、あだしが原の道の霜、一足ずつに消えてゆく、夢の夢こそあはれなれ。
流るるは水、散るは桜、落ちるは月と
◯
万延元年 。雨と潮が礫のように降り注ぎ、ぐっしょりと濡れた着物が体力を奪ってゆく。睦月も半ば。冷たい風に吹き曝され、誰しもが疲労と酔いを訴えた。海も、空も、全てが墨で塗りたくられたように黒々と荒れ果てている。浦賀から出港してすぐの事であった。
この船「
身体が酷く冷たくて、胃の腑がぐらぐらと揺れているのに、脳はどこかキリリと覚醒していた。頰が熱くなるのを感じる。
「
勝は小さく呟いた。それは熱く、それでいて冷静な声色で、真摯な眼が揺らめいている。
船体が大きく揺れた。
枝の折れるような嫌な音がして、看板に飛沫が上がる。勝の側に控えていた少女が、転がる積荷に押し倒され、甲板に叩きつけられた。
「お
千代と呼ばれたその小さな身体は、まるで嵐に攫われるように黒い海へ投げ込まれる。
「麟太郎!」
勝は船から身を投げ出して腕を伸ばすが、大きな掌は少しの雨粒を掴んだだけであった。手に入れようとすれば取り零す。それが維新の道だと、彼は悟った。
◯
「
塩飽水軍とは、瀬戸内の名だたる水軍のひとつで、江戸幕府の御用船方も務めるほどであった。この度、咸臨丸に乗り組んだ水夫の七割が塩飽衆だったという。
庄八はこの時、江戸の海軍伝習所で伝習生たちの実習を手伝っていた。そうして、兄の代わりに船に乗ると聞かなかったのが、この妹の千代である。そこで、長崎の海軍伝習所で親交を重ねた勝に千代を託したのだった。
往路は三十八日間、四千六百二十九海里の航海であった。出港直後の大嵐で海に投げ出された千代は何とか助け出され、一命は取り留めたが、高熱が下がらず過酷な航海の末、めしいとなった。
帰国後、彼女の兄、庄八が駆けつけたのは言うまでもない。
「勝さん!こりゃどういうこった。俺アあんたに頼んだはずだ、妹を宜しく頼みますと!」
「庄八、すまねえ」
「すまねえ、では済まされんこともあるンですよ!」
庄八は激昂して勝に掴みかかった。無理もない。かわゆい妹の目が見えなくなっているのだ。
「兄者、よいのです」
両の目が閉じた彼女は、涼やかな声で言う。
「私が、兄者の代わりに勝さんの供をしたいと言うたのです」
「だが」
千代は、なおも声を荒げる庄八を宥めて、手探りで勝の側へ寄る。袖を掴み、見上げる格好をした。
「ね、麟太郎。私の両の目を差し上げますから、きっとよい国にしてくださいましね」
勝は苦い顔をした。そうして、目に滲んだ涙を落とさぬよう、千代の小さな肩に顔を埋めた。
「必ずと、約束しよう」
彼女の髪を柔く撫でた。
庄八は、ぽかんと惚けた顔でふたりを見た。えらく仲睦まじい様子である。怒りは萎み、唇がにんまり弧を描いている。このふたり、実は恋仲なのだな、と、勝手に解釈した。勘違いである。
◯
咸臨丸が帰国して二年後、文久二年の春。庄八にオランダ留学の話が舞い込んだ。
「行けない。俺には千代がいる」
しかし庄八は、どうしても是と言わぬ。彼は千代が気がかりだった。咸臨丸での渡米でめしいとなった彼女は、辿々しさが多少残るものの器用な手先が功を奏して生活に支障ない。更には、勝のすすめで琴を爪弾くようになり、その腕前と歌は見事なものであった。
勝が言うに、琵琶法師、ならぬ琴法師である。
とはいえ、心配なものは心配で、庄八は断固として幕府の召集に乗らなかった。
「しかし、断れるものでもないのでしょう」
千代は心配そうに、琴の弦を弄んだ。ピンと不安げな音が鳴る。
そんな兄妹を見かねた勝は、ある提案をした。
「佐久間先生とお順に頼めばいいさ」
それがこれである。勝が言う佐久間先生とは佐久間象山のことで、妻のお順は勝の妹だった。庄八がオランダへ行っている留守の間、千代を佐久間家に住まわせる。
この居候が千代の人生を切なく甘く狂わせることになるなんぞ、いま誰ひとり知る由もない。
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