第3話 心音フェチな彼女に囁かれてッッュクットゥッ、ッッュクットゥッする


 向かい合って座っていたが、その椅子を彼女は寄せてきて、俺の胸に聴診器を当てると、耳の部分を俺から返却させて装着する。


「では、目を瞑ってくださいね」

「え。別に開けたままでも呼吸に影響無いんじゃないかな」

「閉じた方が深く没頭できます。他の感覚を遮断するんです。そうだ。音も聞かない方がいいですね。これを。左耳に耳栓をしてください」

「そういう道具がホイホイ出てくるのか不思議だよ」

「この教室、演劇部の基礎トレのための部室ですから。小道具で色々な物が置いてあります。耳栓はきちんとアルコールティッシュで綺麗にしました」


 ひらひらとティッシュを掲げられれば、それを信じる他はない。

 俺は片側だけ聴覚を遮断した。右側に土岐野が椅子を移動させてくる。さらに俺たちは密着する結果となった。


「な、何の真似だ」

「耳栓をしているのだから、声が聞こえにくいと思いまして。右耳を失礼しますね」


 そう言うと、彼女は顔を俺の近くに寄せてきた。

 やばい、いい匂いがする。シャンプーだろうか香水だろうか。艶やかな唇も至近距離で視界に入る。俺は思わず呼吸を止めてしまった。


「ダメですよ透流那さん息をしないと死んでしまいますよ」

「うわっ!」


 耳元で囁かれ吐息が当たる。背筋の辺りに水滴が落ちたかのような刺激がやって来る。後味のようにぞわぞわとした感覚が走った。


「あ、耳が弱いんですね透流那さん。これは面白いことになりそうです。実は私も耳が弱いんですけれど、良いですよね、耳元で囁かれるのって! ゾクゾクしますよね」


 一体、何の告白をされているんだ。

 弱点を見つけられてしまい、俺は何故か集中的にその部分を攻められてしまった。


「はい、では、呼吸をしてみましょう。まずはー、吐くところからでーす」


 本当にわざとらしく耳元で囁かれて、もう俺は訳がわからなくなっていた。

 とりあえず指示に従って息を吐いてみた。空気が出てこなくなるまで腹を圧迫する。

 それから吸おうとするのだが、ふっと耳にこそばゆい感覚を受けて肩を跳ねさせた。

 土岐野は俺をたしなめるように呼気を耳元へぶつけてくる。


「ダメです。ダメですよ透流那さん。まだぜーんぶ、吐き出しきれていないでしょう? ふーって、もっと肺の底から空気を抜きましょう」

「えっ、も、もっと?」


 俺は吐く動作をやり直す。

 結構底まで吐ききったと思うのだが、ここからさらになのか?


「ふー、ふーです。ふしゅるーと言っても良いですね。はい」


 耳元で囁かれ続けると土岐野の存在がやけに近くに感じる。しかも、目も閉じているので、まるで彼女に全身を支配されているような気分になってきた。


 肺全体を圧縮するように息を吐いていく。吐いて、吐いて、吐ききる。右耳では土岐野が「ふー」とか「ふーふー」とか、そんな声で呼吸を管理していた。


 そして、これ以上本当に息をしないと死んでしまうという域までやってくると、そのタイミングを計っていたかのように土岐野は俺の肺に優しく手を当ててきた。


「はい頑張りました。ゆっくり息を吸っていきましょう。すー、すぅーって。気持ち良いでしょう? 肺を目一杯使って……。はい。吸い切ったら、一秒止めて。それからまた、すぅーって吐き出しますよ。ふー、ふぅー」


 指示通りにやっていると何だか頭の辺りがスッキリしてきたような気がしてきた。


「お、ふおおおおおおおおお。……良いっ。これは良い心音です。透流那さん、あなたの心音、とても、とてもグッときますね」


 土岐野の高揚したような囁きがまた耳の外側を撫でていく。若干、熱を持っていて気持ちがいい。


 そして、どうやら今の俺の心臓の音も心地よいリズムを刻んでいるのだろう。


 俺は何かを土岐野に与えられているという事実が嬉しくて、言われた通りの深呼吸を続ける。……いや、俺はこれを本当の意味での呼吸……「真呼吸」と名付けたい。学園一の美少女であり、心音フェチの土岐野巳玖を満足させるために身につけた、俺の新スキル。


 思えば俺はこれまで何事にも誇れるものがない人生だった。

 それが高校生の二年目になって、こんなに誰かを喜ばせる技術を見つけられるとは。

 人生の何かが変わるような気がしていた。


「うーん……でも、違いますね、これ。確かに良い音なのですが、これくらいの心音なら……」

「へ?」


 土岐野は乱暴に聴診器を投げ捨てて、椅子から立ち上がると俺の胸板に耳をくっつけてきた。いきなりの蛮行に俺は目を開いてしまっていた。


「あの時の『黄金の心音』はこんなものではなかったはずです。もっと、こう、音自体に厚みがあり、例えるならば弦楽器のオーケストラでした。主旋律と副旋律の混ざり合いが重厚な心音を作り出していました」


 俺の胸の中で彼女は必死に解説を続ける。こんなに接近されるのは反則だ。呼吸を続けるのもままならなくなってしまう。自然と「真呼吸」は乱れて、吐く息は僅か、吸う息も浅くなってしまう。


「心臓の音というのは一回で四音。本当はさらに細かい音が心臓の部位ごとに鳴るらしいのですが。心臓の部屋に血液を送る際に、房が開きます。その時のツッという……いや、ツッツュという一回の音。そして、房が閉じる時の同じ音。二回ですね? それから、血液を取り込む際に同じように心臓は動きます。ですので、『ドックン、ドックン』とか、『ドキ、ドキ』とかいう文化的オノマトペはまるっきりの偽物です。正しく表現をするのならば『ッッュクットゥッ、ッッュクットゥッ』が近いです。本当はもっと粒状の音が混じっていて、年齢によっては……ッルシュックッツカッツ、ッルシュッ……痛っ! 舌噛んだっ!」


 両の手を胸板に当てられて、耳を押し付けられながら講釈を聞いている。

 言っていることは二割も頭に入ってこなかった。

 ただ、胸が苦しくなって心音が乱れているのは感じる。こんな雑な音を聞かれたら愛想を尽かされてしまうだろうか。何となく嫌な気分になる。


 初めは早く解放されることだけを祈っていたが、今はすっかり土岐野と一緒に居たいと思ってしまっていた。楽しい。顔には決して出さないけれど、言葉にもしないけれど、高校に入ってここまで誰かと会話をしたのが初めてだったのだ。


 だから、絶対に失望されたくなかった。


「ん?」

 心拍数の上がったであろう俺の心音を、土岐野は恐らく耳にした。

 それに対して彼女はどんな反応をするだろう……。恐る恐る視線をやると、ふと目が合ってしまった。


「ひっ」


 俺は自然と小さな悲鳴を上げてしまっていた。

 密着したままで土岐野は目をキラキラと輝かせて、頬を紅潮させていたのである。まるで獲物を見つけた肉食獣だ。涎を垂らしていそうでもある。


「おっと……だらしない顔を見せてしまいましたね。失礼いたしました。しかし、この事実が判明したからには、私はもうあなたの胸元を離れませんよ」

「な、何かあったの?」

「深呼吸ではなかったんですよ透流那さん。音が綺麗に重なるのは、余韻があるからです。つまり、強く、早く、興奮したあなたの心音! それこそが『黄金の心音』への近道だったんです」


 俺の真呼吸への開眼は何だったんだ。


「恐らく電車の中でも同じだったのでしょう。私という美少女に近づかれて、ドキドキ、いえ、ッッュクットゥッ、ッッュクットゥッとしてしまったんですよね透流那さん。それならば、あとは再現するだけです。さあ、もっとドキドキしてください! いえ! ッッュクットゥッ、ッッュクットゥッして!」


 自分でももちろん美少女の自覚がある土岐野は指でぴとぴとと俺の鎖骨の辺りを触ってきた。


 もちろんドキドキ……ッッュクット……何だ? まあ、いいや。ドキドキはしていた。異性にここまで接近されたのなんて初めてなのだ。意識をすればするほど心拍数は上がる。しかし、頭が思ったより小さいな、女子はみんなこうなのかな、とか。うなじにほくろがあるなとか、編み込んだ髪の毛が一切乱れてないのはすごいなとか、観察しているだけで心音は加速していく。


 けれども、何に対しても慣れはあるのだ。


 徐々に心音が落ち着くのを感じ取ったのだろう。土岐野は苛立ったように俺の近くから離れて、指をこちらの鼻の辺りに突きつけた。


「何故に萎む! どうして萎える! ……いえ、分かりました。これも『黄金の心音』のため。男性が著しく呼吸を乱す行為を行います」

「え? それって」

「私だって恥じらいはあります。ですが、それ以上に、その、あの時の音が忘れられないのです! はしたなければ笑ってください」


 そんな衝撃的な告白はすなわち……俺の心音が増大する何かを実行するという宣言である。

 不安と期待が混じり、何が始まるのかと思っていると、俺はいきなり土岐野の膝の上で寝かされていた。胸元にはしっかりと聴診器が当てられている。


「これは……?」

「ドキドキするシチュエーションでしょう? 膝枕……どうです? えっと、もしかして、あんまりッッュクットゥッ、ッッュクットゥッしませんか?」

「えっと」


 俺は仰向けにされていて、視線がしっかりと土岐野と合っていた。このアングルはまずい。彼女の胸がブラウスの隙間から見えている。


「あ、少し早くなってきましたね。この調子です。どんどん上げていきましょう」


 確かにこれは心が穏やかではいられない状況だ。後頭部には柔らかな彼女の太ももの感触。さらに視界の片隅には刺繍で縁取られた真っ白な下着が見えている。女子は上と下の下着を揃えていると聞いた記憶がある。どこで刻んだ記憶かは定かではないけれど。


 そうなれば、きっと下に履いているのもあれと同じ色と柄の……。


 真呼吸はどこへやらだ。俺の鼓動はますます暴れ出した。


「恥ずかしい思いをしている甲斐がありましたね。実に良い心音です。耳が幸せです。耳が……」


 そう言って言葉を途切れさせた土岐野は、最早、恥ずかしさから赤面しているのか、快楽から興奮しているのか見分けがつかなくなっていた。目もとろんとしている。その姿を目の当たりにしてさらに俺の体を激流のように血液が巡る。

 が、それも長くは続かなかった。


「心音がクールダウンしてきましたね。賢者になるの早すぎませんか透流那さん。そうなると、さ、さらに恥ずかしいことを? え、ええー……」


 土岐野は次に何をしてくれるのだろうか。

 期待してしまっているけしからん俺がいる。

 これがどんどんエスカレートしていったら、一体どうなってしまうのだろう。どこまで土岐野は自分の恥ずかしさのラインを越えるのだろうか。もしかしたら、さらなる脱衣なんてことも……。


 俺が良からぬ妄想をしたのと同時に、部屋に電子音のチャイムが鳴り響いた。


「おおっと、最終下校時刻ですか。それでは場所を変えて……と言いたいところなのですが、残念です。これからちょっとした野暮用がありまして」


 土岐野は名残惜しそうに述べて帰り支度を始めるのだった。


「戸締りは守衛さんがしてくれるんですよ。さ、出ましょ透流那さん」

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