第98話 マリッジブルーというものね

【10年前】


 振り返ってみると、俺の人生は我慢の連続だった。

 物心付いた時、俺は父親からこう言われた。


「お前に母親なんかいない」


 ロクに働きもせず、家で酒を飲んでゴロゴロするばかりの父親。

 俺は幼いながらも、必死に物乞いをして。時には犯罪に手を染めて。

 自分だけではなく、父親の食い扶持を手にするのに必死で。

 それが常識だと思って、苦しい日々をただ受け入れる事しか出来ずにいたんだ。


「……わぁ」


 そんな俺が、夢を見たのはいつの事だったか。

 薄暗い路地裏で、ゴミ箱から残飯を漁っていた日の事。

 俺は偶然にも、通りを歩く貴族の父娘を目にした。


「なんて、綺麗なんだろう」


 その人が誰か、なんて今じゃ分からないし……顔だって覚えていない。

 それでも、俺はその父娘を目にした時――世界がひっくり返ったような衝撃を受けた。

 自分とは異なる世界に生きる美しい人達。

 決して手の届かない彼らの生活に憧れ、少しでもいいから近づきたいと願った。


【現在 オズリンド邸 バルコニー】


 夜空にあまねく星々。

 無限にも思わる星々の中で、目立つ輝きを放つものは少ない。

 一等星のすぐそばで、ひっそりと輝く六等星。

 俺のような凡人の人生はまさしく、そんなイメージなのだろう。


「…………」


「夜風に当たり過ぎると風を引くわよ?」


「!」


 振り返ると、そこにはネグリジェ姿のアリシアが立っていた。

 彼女はどこか呆れたような顔をしながら、ツカツカと俺の隣へと並んでくる。


「何か考え事? 難しい顔をしていたけど」


「……昔の事を、思い出していたんだ」


「昔の事?」


「ああ。アリシアと出会う前の」


「そう……」


 わずかな沈黙が流れる。

 アリシアは俺に気を遣っているのか、無表情で星空を見上げていた。


「今でも、時々思うんだ。俺みたいな奴が……幸せになってもいいのかなって」


「いいに決まっているじゃない。どうしてダメだと思うの?」


「……俺は汚れた人間だから」


 俺はアリシアを愛しているし、アリシアも俺の事を愛してくれている。

 でも、俺はアリシアと釣り合わない人間なんだ。

 最初の頃は身分こそが最大の壁だと思っていたけど……アリシアの騎士となり、そして今は金騎士となって。

 貴族という立場を得ても、俺の胸のモヤモヤが晴れる事はなかった。


「なぁに、それ? 男のくせにマリッジブルーなわけ?」


「……そうかも」


「くだらないわね。その胸のバッジが泣いているわよ」


 アリシアの視線は、俺の胸に付けられた金バッジへと向けられる。

 これは今日、ナザリウス様より叙勲式で頂いたモノ。

 ただの平民だった俺が、貴族へと上り詰めた証である。


「本当は俺、このバッジを付ける資格も……アリシアの傍にいる資格も無いようなクズなんだ。だから、本当に結婚してもいいのかなって」


 ガキの頃から盗みや暴行を働いてばかり。

 そして何より、俺の体にはあのクソ野郎の血が流れている。

 そんな俺が……清くて美しいアリシアを穢すような真似をしてもいいのか。

 引き返すなら今しかない、と。

 今日の叙勲式を終えてから、考えるようになってしまったのだ。


「……グレイ、ハッキリ言うわよ」


「はい」


 情けないと罵られるか、男らしくないと貶されるのか。

 何を言われても、受け止める覚悟は出来ていた……が。


「貴方が自分に自信を持てない気持ちは分かる。結婚が迫って、二の足を踏みそうになる心情も分からなくないわ。でもね……」


「……」


「100発以上も中出ししている女に向かって言うセリフじゃないわよ、それ」


「た、たしかに!」


「資格がどうとか言っていたけど、そんなのは外野が騒ぐ事よ。大切なのはワタクシと貴方の気持ちでしょう?」


 アリシアはそう言いながら、俺の両頬をむにぃーっと左右に引っ張る。


「ワタクシはグレイが好き。貴方は?」


「……俺も、アリシアが好きだ」


「そう、大切なのはこれだけ。資格なんて必要ないの」


 俺の頬から手を離し、アリシアは俺に抱き着いてくる。

 俺もそんな彼女の背中に手を回して、優しく抱きしめる。


「弱気になってゴメンな」


「ううん、いいの。グレイがワタクシに弱みを見せてくれると……嬉しいから」


 アリシアを抱きしめていると、気持ちが落ち着く。

 温かな体温。甘い香り。柔らかな感触。

 そして何よりも、心の奥にへばりついた遠い日の悪しき記憶が……剥がれ落ちて消えていく感覚がする。

 彼女と一緒にいると、死にたくなるような嫌な思い出も癒やされていく。

 今が本当に幸せだから。辛い記憶を精算する事が出来るんだと思う。


「グレイ、これだけは言わせて」


「うん」


「ワタクシは貴方の過去を知らないわ。でもね、ワタクシが好きになったのは……今のグレイよ。過去なんて、どうだっていいの」


「アリシア……」


「仮に、貴方がどれだけの罪を背負っていたとしても。ワタクシはその罪ごと、全てをひっくるめて――貴方を一生愛し続けるから」


「ありがとう」


「んっ……」


 口付けを交わす。

 これでもう、俺の心の迷いは晴れた。

 俺は俺の意思でアリシアを愛し、愛される道を選んだんだ。

 誰にも文句は言わせない。たとえそれが、罪の意識に苛まれる俺自身であろうとも。


「さぁ、元気が出たなら部屋に戻りましょ。結婚式の段取りとか、まだ終わっていないんだから!」


 アリシアに手を引かれ、俺は屋敷の中に戻る。

 恐らく今後、俺が一人で寂しく星空を見上げる日はやってこない。

 これからはずっと、アリシアと一緒だ。

 もう何も、恐れる必要などないのだから。



【数日後】



 金騎士の叙勲式を終えて、結婚式前のマリッジブルーも乗り越えて。

 俺とアリシアは、結婚式の準備でてんやわんやの日々を過ごしていた。


「うーん。どうしようかしら? グレイはどちらがいいと思う?」


「俺はこっちかなぁ」


「まぁ♡ ワタクシもそっちがいいと思っていたのよ♡ やっぱりワタクシとグレイは一心同体ね♡」


 式の進行や、装飾物について決める為に教会へ出向いたり……


「披露宴での料理なのですが、私から一品……追加させて頂きたい品がございます」


「あら、何かしら?」


「アリシア様が私をスカウトされた社交場にて、お気に召して頂いたあの料理を」


「ああ、それはいいですね! 是非ともお願いします!」


 披露宴で出す料理を決めたり。


「グレイ様、アリシア! 私は愛人代表でスピーチしたいです!!」


「スズハ、せめて友人代表って事にしておいてくれないか?」


「はぇ? 愛人じゃダメなんですか?」


「ワタクシは構わないけど、フランチェスカやイブが暴れても困るし。とりあえずは友人代表って事にしておいて」


「はーい! あ、それと披露宴ではスズハのふぁいやーマジックショーを見せますから!」


 参列者からの出し物を確認したりしていた。

 

【オズリンド邸 グレイとアリシアの部屋】


「ふぅー……結婚式って、意外と大変なのね」


「ご苦労さま」


 度重なる打ち合わせを終えて、くたびれた様子のアリシア。

 俺はそんな彼女の疲れを労るように、肩を揉んであげる事にした。


「あんっ♡ そこぉ……」


「すごく凝ってるね。やっぱり、急いで準備を進めすぎたかな」


「そうじゃないわ。ワタクシの肩が凝るのは、単純に胸が大きいからよ」


「……なるほど」


 確かに、それはその通りだ。

 夜の営みの時、揉んだだけでその重厚感にビックリするくらいだからな。

 毎日、常にそれをぶら下げているなんて……大変そうだ。


「くすっ。昔はこんな大きいモノ要らないと思っていたけど……今じゃ必需品ね。グレイは鼻の下を伸ばしてくれるし、肩が凝ればマッサージもしてくれるんだもの」


「……ノーコメントで」


「これで挟まれるのが特に大好きだものね。それにちゅっちゅと吸い付くのも……」


「アリシア」


「赤ちゃんが産まれたら大変だわ。グレイと赤ちゃんでおっぱいの取り合いが始まっちゃう」


「アリシアー!」


「いやぁーんっ!! 痛くされるのも気持ちいいのぉっ♡」


 俺が肩のツボを強く押して、アリシアを悶えさせる。

 せっかくだから、このまま背中のツボも刺激してやるとしよう。


「えいっ。ぐりぐりぐり」


「あはははははっ! くすぐったいわ!! グレイ、やめて!! ギブアップ!! ワタクシが悪かったからぁっ!」


「……全く、しょうがないな」


「はふぅ……気持ち良いんだけど、おかしくなりそうだったわ」


 俺が手の力を緩めると、アリシアは涙目で息を整える。

 それを見てもっと虐めたいという嗜虐心が出てくるが、グッと堪える事にした。

 最近のアリシアは俺とのプレイに幅を持たせようと目論んでいるようなので、下手に刺激するとSMに目覚める可能性があるのだ。


「今夜は……拘束からのくすぐりとか、ムチとか試してみようかしら」


 うん。どうやらもう手遅れのようだ。


「ムチはダメ。式の日程が近いんだから、跡が残ったらどうするんだ?」


「それもそうね。折角のウェディングドレスが台無しになっちゃう」


 結婚式まで残り3日。

 下手な事はしてはいけないと、最近のプレイはちょいとぬるめ。

 アリシアが欲求不満になる気持ちは分かるが、もう少しの辛抱だ。


「……グレイ」


「うん?」


「ワタクシ、世界で一番綺麗なお嫁さんになってみせるわ」


「アリシアは簡単になれるだろうけど、俺は世界一カッコイイお婿さんになれるかな?」


「なれるわよ。だって、今でも世界一カッコイイんだから」


「それを言うならアリシアだって世界一綺麗だよ」


「スズハよりも?」


「スズハよりも」


「……即答なのね」


「ああ、前ならともかく。今はもう迷う理由がないからね」


 アリシアは本当に美しくなった。

 ただでさえ世界一位レベル(スズハが同位)だったのに、俺と婚約した事がキッカケなのか……それとも連日の営みによる効果なのか。

 彼女はもはや、スズハすらも置き去りにするレベルに美しさを増している。


「一番はアリシアだよ。誰がなんと言おうとも、俺の中では揺らがない」


 俺がそう断言すると、アリシアは驚いて目を丸くしていた。

 やがて、俺の言葉をじっくりと咀嚼し終えたのか……目がとろーんとしてきて。


「……しゅきぃ♡」


「俺も大好きだよ」


「んー! ちゅー! ちゅーしゅるぅ! グレイとちゅーしたい! ちゅっちゅしたい! やぁー! ちゅーするのぉ!!」


 久しぶりの甘えん坊ちゅっちゅモードに突入。

 俺は苦笑しながらも、アリシアを抱きかかえ……彼女の要望に応える。


「ああ、いくらでもしてあげるよ」


「わーい! グレイだいしゅき♡」


 世界一綺麗な恋人は、世界一可愛い恋人でもある。

 そして、こんなにも素晴らしい恋人と結婚出来る俺は……きっと。


「ちゅー♡」


 世界一幸せな男なのだろうと思う。




【グレイとアリシアの結婚式まで残り2話】

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