第32話 壊れるほどに抱きしめてあげる
【温泉街 ユフィーン】
「ふぅ、ようやく到着ね」
「ええ、流石にかなり時間が掛かりました」
オズリンド邸のある王都リユニオールから、馬車で揺られ続けて数時間。
俺とアリシア様は南の土地……温泉で有名なユフィーンの街へやってきていた。
「しかし、俺とアリシア様の二人きりで温泉旅行だなんて……ディラン様がよく許可を出してくださいましたね」
「そこはほら、ワタクシの交渉術が光ったのよ。グレイの努力や、新しい使用人達を採用する準備期間が必要だって事をアピールしたりして」
そういえば、マインさんへふざけた事を抜かした連中を解雇したんだったか。
たしかに、今の屋敷は人手不足だから……アリシア様がいない方が色々とやりやすい部分はあるだろうな。
「後は……ほら、この温泉宿のチケット。コレをくれたのはファラなんだけど」
「ファラ様が?」
「この前の『魔法』のお礼にってね。それをお父様に伝えたら、アストワールの令嬢と親交を深めた事を褒めてくださったのよ」
ああ、なるほど。社交界出禁を受けているアリシア様が、有力な貴族であるアストワール家と関わりを持った事は凄まじい快挙だ。
無闇に反対して、この厚意を無駄にするべきではないという判断をしたのだろう。
「しかしそれでしたら、ファラ様もいらっしゃれば良かったのに」
「あ?」
「そ、その……! こういう旅行って、大勢いる方が楽しいですし!」
今、一瞬だけアリシア様の顔に牙と角が生えて鬼のようになっていた気がする。
マズイ。この旅行中、もしもアリシア様を本気で怒らせたりしたら……その時点で必然的に二人の空気は最悪になってしまう。
しかも、そんな状態で帰りの場所では密室状態で数時間。
それだけは絶対に回避したい!
「……へぇ? グレイはワタクシと二人きりより、大勢の方がいいんですのね?」
「だから、そういうわけじゃなくて」
「つーん、だ」
両腕を胸の前で組み、プイッとそっぽを向くアリシア様。
その際、右手の人差し指が忙しなくトントンと動いているところ見るに……今のアリシア様はかなり不機嫌なご様子だ。
「アリシア様」
「な、何よ? 謝っても、そう簡単には許さないわよ」
「……俺は金騎士の称号を得て、貴族になって。最後は貴方を俺のモノにします」
「お、おれ……きゅんっ」
近くの建物の壁が背になるような形で、俺はアリシア様を追い込んでいく。
そうして彼女がペタと壁に背を付けた瞬間、彼女の顔の横にドンッと右手を突き出して逃げられないようにした。
「それまで俺は貴方に手を出さない事を誓いました。でも、こんな二人きりの旅行なんてしてしまったら……俺は、貴方を襲ってしまうかもしれない」
「しょ、しょれは……しょれで、け、けっこー……こかとりす、というか……」
茹でダコのように真っ赤な顔で、もにょもにょと呟くアリシア様。
俺はそんな彼女の額に、自分の額を重ね合わせた。
「あひぃっ!?」
「あまり、俺を困らせないでください」
「……うんっ♡」
まつげとまつげが触れ合う程の距離。
すっかりとろーんと蕩けきった顔で、アリシア様がこくこくと頷く。
「じゃあ、行きましょうか。温泉、楽しみですね」
「あっ……!」
俺が壁から離れると、アリシア様は俺の手をきゅっと握ってくる。
「手を握るくらいなら……ダメ?」
うるうるうる。
潤んだ瞳の上目遣い。どこかで見覚えのあるこのコンボ……反則的だ。
「はい。俺もアリシア様と手を繋ぎたかったので」
「えへへぇっ……♡」
さっきまでの鬼の如き怒りはどこへやら。
今のアリシア様は甘えん坊しゅきしゅきモードになっている。
しかし、ここで扱い方を間違えるとちゅっちゅモードに切り替わる可能性があるので……まだまだ油断は禁物だ。
「結構、人が多いのでぶつからないようにお気をつけください」
「じゃあ、グレイにくっつく!」
全ての指を絡み合わせるように手を繋ぎつつ、アリシア様は俺の腕に抱き着いてきた。
ふにゅんっと、俺の腕はアリシア様の深い谷間の間に沈んでいくのみ……
「おお、神よ……」
頼む、持ってくれよ俺の理性。
俺は全身を巡る血液が下に集まらないように、思いっきり歯を食いしばり……どうにかこうにか、温泉宿までの道のりを進むのだった。
【温泉旅館 ルテ・ホブラ】
「うわっ……すっげぇ」
ファラ様から頂いたというチケットに記載されていた温泉旅館。
そこに到着してすぐに、俺は感嘆の声を漏らしてしまった。
「これって、アレですよね。東洋の島国の……たしか【和】とかいうテイスト!」
レンガや石造りではなく、木材で作られた建物。
昔、本で読んだ事がある……これがジャパンの文化なのか!
「ようこそ、おいでくださいました。アリシア様とグレイ様でございますね」
「ワーオ! ジャパニーズ女将!!」
入り口に入るなり、和装をした女将が正座の状態で俺達を出迎えてくれる。
これぞまさしく、ジャパンの誇る癒しの文化!
「トテモスバラシイデース! アリシアサマモソウオモイマスカー?」
「……その妙なテンションはやめて。うるさくて耳が痛いし、グレイはいつもの方が格好良くて素敵だもの」
「あ、はい。すみません」
俺とした事が嬉しさのあまり、ちょっと悪ノリが過ぎたようだ。
いかんいかん。反省しなくては。
「でも、貴方が浮かれる気持ちも分かるわ。流石のワタクシでも、こんなにも立派な和の雰囲気を感じたのは初めてよ」
「光栄でございます。当店は従業員から、建物素材に至るまで……全てジャパンのモノとなっておりまして」
「どうりで……! やっぱり温泉といえば、ジャパンなんですか?」
「はい。温泉はジャパンで生まれました。リユニオールの発明ではございません。しばし遅れを取りましたが、今や巻き返しの時かと」
「そ、そうなんですか」
正直、女将さんが何を言いたいのかよく分からないけど。
こんなに希少な温泉宿に泊まれるなんて、ファラ様に感謝しないとな。
「ではご案内致します。ささっ、どうぞこちらへ」
こうして俺とアリシア様は女将の案内で宿の中へと足を踏み入れる。
なんでも、和の建物の中では靴を脱ぐ必要があるらしく……俺達はまず、室内履きのスリッパへと履き替える事となった。
【温泉宿 アリシアとグレイの部屋】
「うぉっ!? なんだコレ!?」
女将に連れられて、俺達が宿泊する部屋に入った瞬間。
俺は今日何度目か分からない驚きの声を上げる。
「木じゃない……よな? なんだか、独特の匂いがするけど」
「おほほほ、それは畳でございます」
「タタミ、ねぇ。グレイの言うように独特の香りだけど、嫌な感じはしないし……不思議と落ち着くわ」
リラックス作用のある素材でも使われているのかもしれない。
俺とアリシア様がしげしげと畳を観察している間、女将は愛想よく微笑み続けていた。
「お食事は後ほどお持ち致します。それと、溫泉への入浴はいつでも構いませんので……その際はそちらの浴衣へのお着替えをどうぞ」
「浴衣? ああ、これか」
部屋の隅にトレイの上に置かれている服がある。
アレに着替えればいいらしい。
「それでは失礼致します。ごゆっくりとお寛ぎを」
スーッ……ピシャッ。
【襖】を閉めて、部屋から去っていく女将。
これで室内には俺とアリシア様が二人きりに……ん?
「二人きり!? ええええ!? 一緒の部屋で寝るんですか!?」
「そうだけど、それが何?」
当たり前でしょ、と言わんばかりのアリシア様。
とても容認出来かねる事態ではあるが……落ち着け俺。
ここで無理に否定してアリシア様の機嫌を損ねるわけにはいかない。
「ま、まぁ……広い部屋ですからね。ベッドが2つあれば……」
「ベッドなんかないでしょ? 和の部屋は布団を床に敷いて寝るのよ」
「……そういえば、そうでしたね。ですが、大丈夫ですよ」
俺達が今いる部屋と、その横に襖を挟んでもう一つ部屋がある。
恐らくそこが寝室で、布団が二組敷かれているのだろう。
ならば片方をこっち側の部屋に運び、俺がそれで寝るだけの……
「ここの布団を……あれ?」
襖を開けて見ると、俺の予想通りそこは寝室。
何故か怪しいピンク色の証明で照らされ、少しいかがわしい雰囲気を放ってはいるものの……ちゃんと布団は敷かれていた。
「……まぁ、気が利くのね」
「なんてこったい」
ただし一組だけ。
なお、ちゃんと枕は2つ置かれている模様。
「どうじでだよぉぉぉぉっ!」
「騒々しいわね。こうなった以上は仕方ないでしょ?」
「うっ、ぐっ……!」
「それに、今回の旅行にゲベゲベは連れてきていないのよ? ワタクシ、あの子を抱きしめていないと眠れないというのに……」
「え? じゃあどうするつもりで……?」
「いるでしょう? ゲベゲベよりもワタクシのだぁいすきな……あ・な・た・が♪」
「ほ、ほぁ?」
「グレイ……今夜はたっくさん、むぎゅーってしてあげるわね♡」
「(ゲベゲベ……タスケテ……)」
一泊二日の温泉旅行はまだまだ始まったばかりだというのに、こんなにも危険なハプニングが続出。
果たして俺は、理性を崩壊させる事なく……この旅行を乗り切れるのだろうか?
【一方その頃 オズリンド邸 アリシアの自室】
「……」
主が不在となっているふかふかのベッドの上。
今はただ一匹、その豪華なベッドを堪能しているぬいぐるみ――ゲベゲベ。
彼は今夜、数年ぶりに……アリシアに締め上げられない夜を明かそうとしている。
「……」
ぬいぐるみに感情などあるはずもない。
しかし、その無機質な瞳は……なぜだろうか。
いつも騒々しい主と、その想い人の不在を悲しんでいるように見えた。
「(グレイ……がんばれ)」
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