解かれたゴルディアスの結び目

増田朋美

解かれたゴルディアスの結び目

雨の日であった。なんだか知らないけれど梅雨明け宣言したばかりなのに、雨が降っている。全くおかしな天気だぜという言葉がアチラコチラで聞こえる。もしかしたら、梅雨明けしたのが間違っていたのではないか、と疑ってしまうくらいであった。

そんな中、今日は今月末に参議院選挙が行われるということで、

「ご町内の皆様、どうかこの丸野康隆にあたたかき一票を!」

なんて張り上げた声を立てながら、選挙カーが、富士市内中を走っていた。

まあきっと、誰が当選しても世の中は変わることはないと諦めていた杉本文は、今日も何もすることがなくて、自宅内でぼんやりと過ごしていた。どうせ家族は、仕事に出てしまっているし、来客があっても、でなくてもいいと言われているので、自宅内にいるのは辛いことでもあった。今であれば、父や母がいてくれるが、将来働かないでどうするの?とか、親戚の人たちが得意そうに言う。最近は、人に会うのも、そういうことを言われるから嫌になってきている。やれそうな仕事もないし、やれることと言ったら、家の掃除をするか、料理をすることしかなかった。

そんな彼女を、家族はもう家の中に居られたら、困ってしまうとでも思ったのだろうか。彼女の両親のはからいで、彼女は製鉄所という建物に、送られることになった。どこへ行っても、もうどうせ自分の居場所なんかどこも無いだろうなと思っていた彼女は、その命令を渋々受け入れた。

一方、製鉄所を管理しているジョチさんや、杉ちゃん、水穂さんなどには、杉本文という女性は、非常に扱いにくい女性であった。まず第一に、彼女は統合失調症とされている病名も手伝ってか、何かをしようとする気力も無いようだし、何をさせてもどうせ私なんかできないと言って、投げやりである。それならご飯の支度を手伝わせても、やる気はろくに無い。掃除をさせても隅のほうがホコリだらけで、掃除にならない。誰かが話しかけても、わからないという言葉しか返ってこない。それに、強力な人間不信で、人のアドバイスも聞かなかった。などなどエピソードをあげたらきりがなく、杉ちゃんたちは、彼女のことを、誰が解こうとしても解けなかった、という伝説になぞらえて、ゴルディアスの結び目と同じだと表現していた。

そんなある日のこと。文が何もやる気がなく、いつもどおりに製鉄所の縁側にぼんやり座っていたときのこと。

「こんにちは。」

と、インターフォンのない玄関先から男性の声がした。

「はいはい、お待ちしてました。」

杉ちゃんと水穂さんが彼を迎える。入ってきたのは、年齢もさほど年ではないのであるが、なんだか背広姿がとてもキチンと決まっている、男性であった。

「いやあ、お久しぶりだ。いよいよ立候補するんだな。すごいなあ、ぜひ、頑張ってくれ。」

杉ちゃんに言われてその男性は、

「ありがとうございます。まだまだ未熟ですが、立候補することにしました。本当に何の役にも立たないかもしれないですが、頑張って、議員として、やりたいと思います。」

と、にこやかに頭を下げたのであった。彼は、その様に言うということは、間違いなく今回の選挙に立候補した人物であることに間違いなかった。

「僕も応援しています。しかし、よく来てくださいましたね。わざわざ幌延町からこんなところまで。こちらまで、演説に来ることもあるんですか?」

水穂さんがそう言うと、

「ええ、今日は、静岡駅の近くで演説させていただきました。」

と、その男性は言った。

「そうですか。それでは、岩橋さんも、ただのカリブー牧場経営者だけではありせんね。もうりっぱな、政治家になってしまったんですね。立候補のきっかけは何だったんですか?」

水穂さんがまた聞いた。

「ええ。カリブーだけではなくほかの動物たちも飼育して、もっと、人間と動物が共存できるような法律を作れたらいいのになと思ったんです。同じ考えを持っている人が他にも何人かいましたので、それなら、立候補しようって感じになりましてね。動物たちは、単に、人に飼われているだけではありません。人間を癒やしてくれる大事な存在です。だから、そのことを皆さんに訴えていこうと思ったんです。」

その男性、つまり岩橋一馬さんは、にこやかに笑った。

「そうなんだねえ。はあ、岩橋さんが政治家になっちゃうのかあ。ほんと、すごいなあ。きっとお前さんが議員になったら、動物たちも喜ぶと思うよ。」

杉ちゃんがカラカラと笑った。

「はあ、議員に立候補かあ。」

どうせ、議員に立候補する人なんて、文には遠い遠い人物みたいに見えるけど、なんだかこの人物は、もっと身近にいるように見える。

「ええ、もっと、日本人が動物たちに優しくなれるようになれば、もっと日本も穏やかな国家になると思うんです。先進国で、捨て犬が多いのは、日本だけですよ。それではいけないじゃないですか。それが少しでも減ればいいなとか、思うでしょ。今日本に足りていないのは、小さなものを大事にするという気持ちですよ。例えば、日本はずば抜けて自殺が多いですが、それも動物たちを大事にすることがきっかけで、少し減るのではないかと思っています。」

「岩橋さん、全く政治家になってしまいましたね。前は、自分たちで動物を飼ってただけだったのに、いつの間にか子供さんや他の人向けに活動を始めて、挙句の果てには、国家的な任務に着きたいなんて。なんか、人間は前向きになると、猛スピードで変わると言うけど、それも、日本が近代国家になるために変わっていったのと、似たような所があります。」

水穂さんが、にこやかに笑った。

「まあいいじゃないの。これからも、動物たちを大事にするために、そうやって活動していくんだから。僕らは、心から応援するから、いつでもなにかあったら相談に来てね。これは、ジョチさんの伝言。」

「ありがとうございます。」

岩橋さんは照れ笑いしている。それをみた、文はなんだか岩橋さんが、よくいるおえらいさんという感じではなく、身近にいる普通の人みたいだなと思った。そういうところから、立候補してくれれば、なんだか一票を入れてもいいなと思う気がした。

「あ、もう帰らなくちゃ。このあと、夜の演説会があるんです。明日は、本屋でサイン会もあるし。短時間しか入れませんでしたが、顔を見ることができて嬉しかったですよ。じゃあ、僕帰りますね。ありがとうございました。」

腕時計を見ながら、岩橋さんは言った。

「そうか。ジョチさんが、もうちょっとしたら帰ってくると思うけど、演説会があるんだね。それは大変だ。頑張ってちょうだいね。」

岩橋さんは、玄関先に向かってあるき始めた。

「ありがとうございました。」

水穂さんが、岩橋さんを見送った。岩橋さんは、軽く頭を下げて、段差のない土間へ行き、靴を履いて、製鉄所を出ていった。文は、それを眺めながら、岩橋さんか、と口の中でつぶやく。すぐにスマートフォンを出して、選挙立候補、岩橋と検索してみると、しっかりホームページが出てきた。それによると、岩橋さんは、最近できたばかりの新しい党から、立候補していることがわかった。確かに今夜、富士市内のホテルで演説会を行うようである。そして、たしかに明日、富士市内にある本屋で、サイン会を行うようであった。なんだか彼の著書も読んでみたいと思って、電子書籍を探してみると、たしかにあった。それは、岩橋さんが、カリブー牧場で飼育しているカリブーや、トカラヤギなどの動物たちとの日々を綴ったエッセイであったが、これを読んでしまうと、なんだか動物を飼いたくなってしまうような気もしてしまうような内容であった。文は、紙の本を読んでみたくなり、明日本屋へ行ってみることにした。

翌日も雨であったけれど、本屋でサイン会は行われた。文はまず、本屋さんで、岩橋さんの本を買った。店員が、一時からサイン会をやると言うので、一時まで店の中で待たせてもらって、一時になるとすぐにサイン会の会場になるカフェスペースに行った。スペースには、すでに何人かの女性が待っていた。一時になって、サイン会が開始されると、自分の番が来るまで文は待ちきれないほど、ウキウキというか、ドキドキしてしまった。

「お名前をどうぞ。」

と、いきなり名前を言われて、文は、自分の番が来たことを知った。目の前に、岩橋さんがサインペンを持って待っていた。

「お名前はなんですか?」

もう一度言われて、文は、ちょっとドキドキしながら、

「はい!杉本文です。あやへと書いてくれますか?」

と、急いでそう言ってしまった。岩橋さんは丁寧に本の背表紙にサインをし、杉本文さんへと書いてくれた。

「ありがとうございます!岩橋さん、これからも頑張ってください。」

なんだか舞い上がってしまうような感じだった。

「あれ?あなた、こないだ製鉄所でお会いしましたよね?」

岩橋さんに言われて、文は、びっくりする。

「あのときはなにか、つらそうな顔をしていらっしゃったけど、なにか問題があったのでしょうか?もし、解決に導くものがあったんだったら、それを駆使して、解決へ持っていけるといいですね。」

と、岩橋さんに言われて、

「ありがとうございます!」

文は、なんだか天にのぼる気持ちで、嬉しそうに言った。

「いえいえ、そのためにも今できることを頑張ってやってください。」

そう言われて文は、自分にできることを頑張ろうと思った。

「一体どうして、あんなによく働いてくれるんだろうね。カレーは作る、水穂さんの世話もする、掃除もチリ一つ落ちていない。」

杉ちゃんが、そうつぶやくほど、文はよく働いた。杉ちゃんにカレーの作り方を教えてもらい、毎日カレーを作って、水穂さんに食べさせて、そうかと思えば製鉄所の床を水ぶき雑巾で丁寧に拭く。

「文さん、あんまり無理しなくてもいいんですよ。こんな暑いときに、ただでさえ、普通の人でも大変なのに、あなたのような人が、あまりにも働きすぎると、後で困ってしまいますから。」

と、ジョチさんが、注意をしても、文は、

「大丈夫です。無理なんかしてません。私は、働くのが好きだから。」

の言葉で返してしまうのであった。

「そうかも知れませんが、よく働くのは、良いことばかりではありませんよ。それはちゃんとわかってくださいますね?」

ジョチさんは念を押すが、

「大丈夫です!もともと働いていないから、精神がおかしくなったわけですから、それが得られれば私は、よく働きます。」

と、彼は言った。

「いえ、医学的に精神がおかしくなったのと、働けないのとは無関係です。働いていようが、いまいが、精神がおかしくなるときはおかしくなります。」

ジョチさんは、心配してそう言うが、

「大丈夫です!」

と、彼女は一生懸命床を水ぶきしていた。

「おーい!お鍋かけっぱなし!」

杉ちゃんに言われて、文はすぐに台所に駆けつけて、すぐに味噌汁の火を消した。そして味噌汁を盛り付けて、ご飯のお皿と一緒にお盆に乗せ、さあ水穂さんに食べさせなくちゃと、お盆を持って台所を出る。

ところが、水拭きした廊下が、まだ濡れていて、スリッパを履いていた文は、ステンと転んでしまった。文が持っていた味噌汁は、中庭に転がっていってしまった。

「あれまあ、派手にやったねえ。まあ、味噌汁は余っているから大丈夫だ。すぐに入れ直せばいいさ。」

と、杉ちゃんが言って、すぐに味噌汁の鍋の方へ直行する。

「おーい文さん、味噌汁入れ直すから、茶碗を持ってきてくれ。」

と、杉ちゃんは言うが、文は涙をこぼしてなきだしてしまった。

「どうしたんだよ。」

と、杉ちゃんが言うと、文は涙が止まらない。なんだか、今まで溜め込んできたストレスが、全部爆発してしまったような感じだ。精神疾患のある人と限定してしまうのもなんだか語弊があるが、日頃から疲れているのを自覚しない人が多い。それで何かのきっかけで爆発してしまうのである。

「私、私、私、、、!」

そう言って、自分の右手を爪で引っ掻こうとする。

「馬鹿な真似はよせ!やめろってば!」

足の悪い杉ちゃんもそうやって声をかけるしかできないので、文を止めることはできなかった。文の腕には、何回も爪で引っ掻いたのだろう。傷跡がたくさんあった。

「文さん!」

そうやって、文の手を掴んでくれたのは、病身であるはずの水穂さんだった。

「辞めてください。」

そういう水穂さんは、怒っているとかそういう表情は少しもなかった。それより、悲しんでいるという感じの顔だった。こういうことが起きた場合、大概の人は怒ったり、馬鹿にしたりすることが多いが、水穂さんは、そういうことはしなかった。

「なんでです?私は、仕事を失敗したバツで、こういうことをしているんですよ。私は、働いていないから、もっと普通の人よりバツが無いと行きていけないんです。それをしているだけなのに、なんでいけないというのですか?」

文は、声にならないというか、子供みたいな口調で言った。

「いけないとか、そういう問題じゃないけどさ。でも腕中傷だらけにしてしまうと言うのは、ちょっと、格好悪いと言うか、気持ち悪いでしょうが?」

杉ちゃんがそう言うと、文は、こういうのである。

「そうかも知れないけど、私は働いてない。人に迷惑かけるしか、できることも無いんです。だから、死んだほうが、死んだほうがいいんです。そうしなきゃだめだって、そうしなきゃ、社会に奉仕できないって。死ぬことが社会への奉仕だって、皆言ってます。」

文の話には、現在も過去も未来もない。ただ、苦しくて、それを取り除いてほしいという気持ちが強すぎるために分けのわからないことをいう。これだけなのだ。でも、大体の人はそこをちゃんと理解していないので、言葉だけの意味を取ってしまうから、この病気の人は、話が通じないとか、わけのわからない妄想を口走るとか、そういう事になってしまう。

「そうですね。確かに苦しいですよね。錯乱したときの対処なんて、どこのサイトを見ても、書いてはいませんもの。そうですね。痛み止めで解決できるわけでも無いから、本当に苦しいと思いますよ。」

水穂さんがそっと文の手を握った。このときもわざとらしく言ってはいけない。わざとらしく同情してしまうと、かえって患者はバカにされたような気持ちになり、孤独感が強くなる。本当なら、抱きしめて、絶対的な味方だと表現するのが一番いいのだ。それはやっぱり、血の繋がった人でなければできないことなのかもしれないが、障害のある人達が、一番求めていることかもしれなかった。

「確かに、働いていない人は、お苦しいでしょうね。僕も、人に迷惑をかけるしかできませんから、少しは分かるつもりですよ。だからこそ、自傷行為は辞めてほしいんですよ。いろんな人から、迷惑だとか、必要ないとか言われてしまうと思うから、なかなか他人の意見を聞くことができなくなっているというのも、わかりますよ。だけど、自分で自分の体を傷つけるほど、可哀想なことはありますか。そんなことを繰り返していたら、自分が可哀想だと思いませんか。」

やめろと説得する場合、闇雲に辞めてということは、間違ったやり方だった。それよりも、自分が誰かに必要とされていると感じさせる方へ持っていかないと辞めることはできない。

「ホントだホントだ。泣いていたら、岩橋さんも悲しむだろうな。お前さんが一票入れてくれるのを岩橋さんは、楽しみに待っていることだろう。あだけど、それを今、失ってしまうのは、岩橋さんはがっかりするだろうな。」

杉ちゃんができる限り日常語に近い口調で言った。このときも、できるだけ特別な感じは与えない。日常的に、ちょっと大変なことが起きているくらいに構えて置くことが大事だ。

「じゃあ私が、一票を入れれば、岩橋さんは大丈夫なんですか?」

「ああもちろん!」

文がそうきくと、杉ちゃんはわかりやすい言葉で言った。理論的に説明してもだめだ。答えになる言葉は、できるだけ単語で伝えるほうがいい。これも、説得の一つの技法だが、それとわからないように伝えるには、技術が必要だった。こういうとき、杉ちゃんとか水穂さんのような人は、よりリアリティを持って説得ができるのであった。そこはやっぱり経験がものを言うのだろう。精神障害者が家族を敵に回してしまうことが多いのは、家族がこういう技術を持っていないからかもしれない。

「まあいいじゃないかよ。それじゃあ、早く、水穂さんにご飯を食べさせてやってくれよ。」

結局は、根本的な解決をさせることは他人にも自分にもできないのだ。できないことは、できないまま、もうそれとともに生きていこうという気持ちになることしか、人間はできない。そして、次になにかできるか考えることだ。そうでなければ、歴史は繰り返すという表現は生まれない。

「わかりました。」

文は、水穂さんの手を話し、再度台所に向かった。その時も、杉ちゃんたちは黙って見送った。このときに本当は疲れたとか口にしたくなるかもしれないが、それは絶対にやってはいけないことである。してしまうと障害のある人は、たいへん傷ついてしまい、それまでの努力が水の泡になる。「これで、ゴルディアスの結び目もちょっと解けたかな?」

と、杉ちゃんが水穂さんに聞いた。

「そうですね。ただ、人間だから、きっかけが無いと解けませんよね。」

水穂さんは、杉ちゃんの話をそう受け取った。

仕方ない事かもしれないが、きっかけが来るまで待っていなければならないことも、必ずあるのだ。それを待っている時間が長いのか、短いのかは人によりけりだが、その間というのは、相手が劣っているように自分は見えてしまうらしい。それはなぜだろう?いくら自問自答してもそうなる。そして、相手もそう思われていることを感じ取り、自分は価値がないと嘆くのである。

「まあ、解けるのを待つのも希望かな。イスカンダルみたいなすごいやつは、そうは出てこないよ。」

杉ちゃんは、苦笑いしていった。



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