第14夜 水族の卵を買う

 人魚の卵を買った。

 見るからに怪しい露天商から買ったので、本物かどうかはわからない。大きさは、鶏卵より大きく、けれど手のひらにおさまる程度。こんな小さな卵から人魚が孵るのかと訝しげに問うた私に、成長する前は人魚だって小さいのさ、と、露天商は笑った。それに納得してこの卵を買ったのだから、自分もどうかしていると思う。

 露天商がつけてくれた枝折しおりを読むと、こう書かれている。


 一、水ニ浸シ、良ク月光ニ当テル事。

 一、孵化シテ後ハ、牛乳ト砂糖ヲ与エル事。

 一、猫ニハクレグレモ注意スル事。

 一、大切ニ、最後マデ面倒ヲ見ル事。


 人魚の食べ物はどうやら牛乳と砂糖であるらしい。あるいは、単に、代用食のようなものなのかもしれない。水族館だって、海草や藻の代用として、キャベツなどを熱帯の魚に与えていると聞いた覚えがある。正直、どこの家庭にもあるだろうそんな平凡な食事で人魚が育つのだろうかと疑念は残るが、食費がかさむことはないだろうと、とりあえず自分を納得させた。

 とりあえずは、風呂桶に水を満たしてみる。水道水ではなんだか孵らないような気がしたので、とりあえずは買い置きのミネラルウォーターを注いで、そこに卵を浸した。

 卵と水とが入った風呂桶を南向きの窓辺へと持って行き、カーテンを全開にする。月光が、部屋中を満たし、風呂桶と、その中に置かれた卵とを照らし出した。

 露天商から渡された枝折りの通りであれば、こうしておけば、自然と孵化して人魚が生まれるらしい。きっと露天商にからかわれたに違いないという疑念もぬぐえないが、気長に待ってみることにした。

 猫にはくれぐれも注意、と書いてあったのを思いだし、念のために戸締まりを確認して、ベッド代わりにしている居間のソファの上で、しばし物思いにふけった。

 あの卵は何の変哲もなさそうな卵だった。もしかしたら、どこにでもいる鳥類の卵を、売りつけられたのかもしれない。けれど、もし本当にあの卵から人魚が孵るとしたらどうだろう。どんな人魚が生まれてくるのだろう。せっかくだから、自分の理想の通りがいい。透き徹るような銀の髪と、宝石よりもなお美しく透明な青い瞳はどうだろうか。きっと美しい声をしているだろう。その声で、きっと歌ってくれるだろう。他でもない自分のためだけに、その声で――

 そこまで考えて、苦笑した。どんな人魚が孵るかわかっていないし、そもそも卵が本物かどうかもわかっていないのに。まるで未だ出会えていない恋人に恋い焦がれているような……

 明日の朝、卵はどうなっているだろう。私は、穏やかな期待の中で眠りに落ちた。


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