第13夜 何もいない水槽
その水槽には何もいなかった。
魚や甲殻類はおろか、岩や水草の姿さえ、そこにはない。ただ、静かにたゆたう水だけが満たされている。その水を、淡く青い光を放つライトが照らしていた。青く染まった水槽。
その水槽は、部屋の一部として設置されていた。壁紙も、床に敷かれたカーペットも、天井に設置された蛍光灯の光さえも青い部屋。病的なまでに青色で埋め尽くされた部屋の中、その小さな水槽は、ほとんど目立たぬ存在だった。
けれど。
時々、その水槽が、ほんの一時、必要になる。
原始、水の中で生命は生まれたと言われている。そうしていつしか、陸に這い上がるモノ、水の中にとどまるモノ、陸から水へと還るモノ、陸の先にある空へとはばたいてくモノへと分かれていったのだ。
だから、自分は、時々、かえりたくなる。
原始の、海。自分が、元々存在した場所へ。
けれどそこへかえることは叶わないから、せめてと考え出したのが、原始の海ならぬ幻視の海――この、水槽だ。
この部屋に帰ってきて、背負っていた荷物の全てをベッドの上に放り出して、その水槽を、ただただ、
かえりたい。――自分が言う。
かえりたい。――けれどそれはこの部屋ではない。
この部屋ではないのだ。かえりたいのは、この小さな水槽の中にある小さな海。いっそのこと、魚のように鱗を生やし、手と足をひれに変えて、首にえらを開き、この世の全てを捨て去って、この小さな海の中にかえることができたなら!
けれど所詮は幻視。自分が創り出した幻。だから、少しでも、幻が自分に伸ばしてくれたその手を振り払うだけで、幻想はこんなにも簡単に消え去ってしまう。けれど私はその幻想を楽しんでいるから、間違ってもそんなことを考えてはならないのだと自分に言い聞かせ続けている。
かえりたい。かえりたい。かえりたい。
自分が、繰り返す。
かえりたい。かえりたい。かえりたい。
自分が、うわごとのように呟く。
このまま、今の自分が持っている全てを投げ出して捨て去って、一番安らげる場所にかえろう、と自分が言う。
けれどそれをするわけにはいかないのだ。
それを捨てれば、この幻視の海さえも捨て去ることになるのだと自分が反論する。
誘うのも自分。それを拒むのも自分。そうしてその自分たちを見ているのも、また自分で。
それを捨て去るのはいとも簡単なはずなのに。
幻の中、小さな水槽の中で泳ぐ自分は、とても幸せそうに微笑んでいた。
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