第10夜 温水の窓際

 とろとろと、今にも眠りに落ちていきそうな意識の中で、私はぼんやりと窓際に座っている。

 いつもの場所だ。いつも私がここにいるものだから、仲間内でも「あそこはあいつの場所だから」とこの場所をいつも空けておいてくれるようになった。だから、私はいつも悠々とこの場所に陣取っていられる。

 日当たりのいい窓際。壁一面がほぼ硝子張りで、まるで水族館の大水槽のようになっている窓際。窓の外を通り過ぎていくのは魚ではなく通行人たちで、彼らは私に目もくれず、それぞれの目的地に向かって足早に通り過ぎていく。

 みんな勤勉だなあ、と輪郭を失いつつある意識の中で考える。みんなきっと、通勤や通学の途中に違いない。けれどそれを眺める私はというと、どこかで働く気も何かを学ぶ気もまるでないときている。半分は眠って半分は起きているような曖昧な状態の中で、自分の考えたいことを考え続けているだけだ。

 ぬるい。ぬるくなる。ぬるくなっていく。

 ゆるゆると揺れ動く、水面のように。

 そういう意味で、日当たりのいい窓際は温水プールに似ている。あるいは、ぬるい水で満たされた浴槽。またあるいは、昼過ぎの少しだけ温まった海。

 プール、浴槽、海。いずれも水に満たされている。

 ぬるくなった水に満たされている。

 沸騰からは遠く、それでいて結氷からも遠い水。

 意識も、きっと同じだろう。

 覚醒と睡眠。鮮明と曖昧。定形と不定形。輪郭を有するものと輪郭を失ったもの。どちらからも限りなく離れた位置に存在しながら、その二つの中間に確かに存在する、けれど見定めようとすればぼんやりとして捕捉できないどこか。

 自分の意識があるのは、きっとそこなのだ。

 はっきりと位置を定められないのに確実に存在する意識。ゆらゆらと揺れ動く、それはまるで南洋の浅瀬の海をたゆたう一枚の木の葉のような。

 だから定まらない。はっきりとしない。それがある座標そのものが、ゆらゆらと定まらないからだ。蠕動する、というほど細かくはない、けれど移動するというほど確かな方向性を持たない。ただ、ゆらゆらと、どっちつかずのままに、本人の意志すら関係のないところで何かに揺り動かされている。

 ゆらゆらと、ゆらゆらと。

 だから、自分の意識は、どこにあるとも定まらないまま。目の焦点さえ定まらない。だから、この窓硝子の外側にある世界をずっとぼんやり眺めている。

 外の、足早に急ぐ人々を、ぼんやりと、馬鹿にするでも尊敬するでもなく見ている。考えることはあっても、すぐに忘れてしまうくらいのぼやけて滲んだ意識。

 夢と現実。窓硝子のこちら側とあちら側、意識と無意識。

 対極にあるものさえ混ざり合って曖昧になれる。

 それはきっと、ぬるくなった水のような。


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