第8夜 食べられる水槽

 ある夏の、暑い日のことだった。

 家には私の他に誰もいなかった。私はただ、冷たい食べ物がないかとふらふらと幽鬼のように家の中を彷徨い、その結果として台所へ向かっていた。冷たい食べ物が、冷たくて甘いものなら申し分ない、と思いながら。

 浮遊霊のようにおぼつかない足取りで台所へと入ると、テーブルの上には、奇妙なものが置いてあった。

 それは、小さな水槽だった。

 形は、なんと言えばいいのか、恐らく一番近いのは金魚鉢だった。けれど、中に入っているのは、水ではないようだった。水に近い性質を持っていながらも水とは決定的に異なる何か。

 私は、その水槽の中にあるものに指を伸ばし、触れた。ふにゅり、とやわらかくも確かな手応えがあった。けれどそれは、決して水ではありえない感触だった。

 これは、なんだろう。

 「それ」の中には赤い魚がいて、緑色が鮮やかな水草も、焦げ茶色の岩もあって、水槽の底には砂利だって敷かれている。なのに、それらを包み込んでいるのは、確実に水ではなくて、それでいて確かな質量と手応えを持つ何かだった。

 これは、なんだろう、と再び考える。

 透明な、色を持たない何か。ふにゅりという手応えの何か。けれどそれだけでは特定のしようがない。

 その小さな水槽、あるいは金魚鉢を持ち上げてみると、ふるり、と水面が震えた。少なくとも、水の、あの波打つような震え方ではなかった。私は、小さな水槽を、再びテーブルの上へと戻す。

 そして、そこでやっと気がついた。水槽の傍に置かれていたスプーンと、「召し上がれ」という言葉の書かれた、小さなメモ用紙に。

 そこで、ああ、そうなのかと合点がいった。

 私は、よく冷えたスプーンを手にとって、その水槽の中へと差し入れた。ふにゅり、としたゼリーをスプーンが切り取って、私はそれをすくい上げて口に入れた。ほんのりと、さわやかなレモンの酸味が口に広がった。

 次に、赤い魚を一匹丸ごと、周囲の透明なゼリーごとすくいあげてみる。目線の高さまで持ち上げて眺めると、その魚は随分と精巧に作られていた。それを眺めたあと、ぱくり、と一口で食べてしまう。イチゴの甘酸っぱい味が、口いっぱいに広がっていく。

 それから、水草。今度はメロン味。茶色い岩はキャラメルの味。底に敷かれた砂利は、砂利を模したチョコレートだった。

 ひとかけらも残さず完食して、感心する。

 水槽は、見るものであり、観賞の対象であるという固定概念がどこかにあった。だから、この水槽は、新しい発見であり体験だった。

 誰が作ったのかはわからないがなかなかに楽しい水槽だった、と考えながら、午後は昼寝をした。

 案の定、魚になって、ゼリーの海を自由に泳ぎ回る夢を見た。 



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