第7夜 逃げ水

 いつだって、「それ」を追いかけている。

 夏が来るたびに、現れる幻影。夏が訪れるたびに、決まって姿を見せるそれに手を伸ばしては、決して手が届かないというその事実を歯がゆく思っていた。

 追いかければ追いかけるほどに遠ざかる。

 追いかけても追いかけても、届くことはない。

 指の先にあるように思えてしまうのに、けれど指の先にかすることさえない。

 ほんの少し、そう、あと、ほんの少し。

 もうちょっとだけ指を、この手を、この腕を伸ばせば届きそうなのに、けれど決して届くことのない幻の水面。ありもしない幻影、存在しえない夢幻。

 それでも、その「水」は、いつだって自分の手の届かない位置に、確かに存在しているように思えた。

 もう少し、走るのが速ければ。

 もう少し、慎重に近づいていれば。

 そう考えては悔しがる自分をあざ笑うように、その「水」はいつだって自分の届かない位置に在った。いや、在るように、見えた。

 もちろん、自分だって、わかっている。

 所詮あれは幻にすぎない。決して手を触れることのできないただの幻であり錯覚なのだ。科学的、という叙情に欠けた言葉で説明されてしまうただの事象にすぎない。

 この手から逃れていくのが当然であることも、決してこの手が届かない場所にだけ存在するその理由もわかってはいる。

 わかっては、いる。

 けれど「あつさ」にやられた脳髄にそんな理論は通用しない。そんなことは、些末な問題に過ぎないのだ。

 幻に過ぎないと分かっていても、なおそれを追い求め続けてしまうほどに、自分の頭は熱という暴力に侵食されていたのだから。

 暑い夏。熱いアスファルトの路面。その二つの、相乗する「あつさ」に侵食され、完全におかしくなってしまった自分のこの脳髄は、冷たくて即物的なものを求めるあまりに、その結果、ありもしない幻像を創り出して――……。

 温められた空気がどうだとか、水蒸気がどういう作用を起こしているとか、そんな細かい理屈など今はどうでもいい。

 あるのは、欲求。

 自分の、この、欲求。

 冷たくて、即物的で、この乾いた喉を潤し、焼けるように痛む身体をひんやりと包んでくれるであろうあの「水」を、苛烈なほど情熱的に求める自分のこの欲求だけだった。

 自分は、今日も、手を伸ばす。

 自分は、今日も、手を伸ばし続ける。

 燃えるように暑く、透き通る炎天下。

 燃えるように熱く、黒々と伸びる路面の上。

 ありもしない幻想に、自分は今日も、手を伸ばし続ける。


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