第3夜 紅い水滴

 ぽたり、と真白の布地に、一滴の紅がしたたり落ちた。

 じわじわと布を染めながら広がっていくその色を、まるで、花が咲くようだと思った。梅の花のように小さくも鮮やかな花が、ほろほろとこぼれるようだと。

 そういえば、梅の花開く様を、こぼれる、と表現するのだったかと思い出しながら、私はその布地に視線を落とした。降り積もったばかりの雪のようにけがれのない白の布地。それを縫って、服を作ろうとしていた。縫い合わせているうちに、自分の指を針で傷つけてしまったのだ。

 私は、私の置かれた状況を、輪郭のない意識の中で確認する。

「奥方様?」

 声に、振り返る。私の世話をしてくれている側女の声だ。振り向いた私を怪訝そうに見ていた側女は、私の手元を見て目を丸くした。

「まあ」

 そう言って、側女はすぐに「お待ちくださいまし。すぐに薬箱を持って参りましょう」と、鮮やかに踵を返して私の目の前から去って行く。慌ただしい足音と、さらさらという衣擦れの音だけが残された。

 側女を待つ間、私は裁縫道具を片付ける。糸を針から外し、針も糸も、どちらも裁縫箱に仕舞った。

 この布地はきっともう使えない、と思うのに、どうしても自分の手からその布地を手放せなかった。


 血は、こぼれる。

 梅も、こぼれる。


 ぽたり、未だ止まらない紅の滴が、指先からまたこぼれる。私の指から、布地へとこぼれていく鮮烈な紅の色。まるで、この布地に、私が花を咲かせているようだった。雪のように白い布地に、いくつもの紅梅が咲くような。冬の厳しい寒さの中に、わずかばかり、春のぬくもりを見つけたような心地になる。

「奥方様」

 側女が戻ってきた。彼女はてきぱきと手際よく私の指を清め、薬を塗り、細く清潔な布を指に巻いていく。私は、何も言わずにその側女の動きを眺めていた。

 そうして、私の手当を終えた側女は、私の手からあの布地を取って、片付けようとしたので、私は言う。

「このままにしておくわ」

「良いのでございますか」

「ええ、このままでいいの」

 怪訝そうにしている側女を下がらせて、私はひとり、もう一度、その布地を指先で撫でた。

 いくつもの小さな紅が白の布地にこぼれて、まるで雪中梅。一足早く、春が訪れたような心地。

 私からこぼれたのは、微笑み。

 未だ寒さに満たされたこの部屋に、一輪の花が咲くような、微笑みだった。


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