第2夜 水中を行く
列車が走っている。今時、どんなに古い路線でも見かけないような、古めかしい、旧式の列車。ごとん、ごととん、と規則正しく、鈍い音をたてて列車は海中を走る。眠気を誘うような穏やかな調子で、車輪は回り、それと同じ調子で列車は前へと進んでいく。
自分はそんな列車に乗っている。たった一枚の窓硝子を隔てた向こうは海の中。色とりどりの魚たちや、桃色に輝く珊瑚が見える美しい景色。けれど茫漠と広がるその景色には果てがない。どこまで行ってもエメラルドグリーンの色ばかりが広がる水の中を、列車はゆっくりと走っている。
自分のほか、同じ車両には人がいない。他の車両には誰かいるかと思って少しだけ歩き回ったりもしてみたけれど、誰一人乗ってはいなかった。途中下車したのか、そもそも自分以外に乗り込む者がいなかったのか。わかっているのは、今、自分は気楽な一人旅をしているのだということだけだ。
あまりに静かで、自分の呼吸の音が普段よりも大きな音に聞こえる。列車が生み出す振動と、ごとん、ごとん、と車輪の回る音がやけに身体に響いた。その音は、身体の中のどこかにある空洞と共鳴しているような気がした。それを聞き続けていると、しまいには、自分の体の中から、ごとん、ごとん、という音がしているかのような錯覚に陥る。
――そういえば、自分は、どこからこの列車に乗ったのか。
駅のホームから乗り込んだのは記憶にある。けれど、その駅のホームが、どこにあったのか、具体的なことが思い出せない。砂浜か、岸壁の上か、それとも……。はっきりと思い出せるのは、駅のホームから乗り込んだということだけだ。
ごとん、ごととん。ごとん、ごととん。
列車は、進んでいく。
見えない線路の上を、ゆっくりと。
こつん、と窓硝子に何かが軽くぶつかる音がした。音のした方を見ると、手のひらに載りそうな程小さく、そして鮮やかな色彩が泳ぎ去る。どうやら、小さな魚が窓硝子にぶつかったらしい。そうだ。水中列車ではこういうことが起こる。地上の列車の窓硝子に、鳥や虫がぶつかるのと同じように、水中の列車では、魚が窓硝子にぶつかるのだろう。
窓の外を見る。
レモンイエローの小魚の群れがよぎっていく。エメラルドグリーンの水との対比が鮮やかだ。イソギンチャクから、橙色の魚のひれが見え隠れしている。円卓のように大きく、平板な珊瑚。その陰から、小さな半透明の甲殻類が顔をのぞかせる。繁った海草の林から、軟体動物がそろりと顔を出す。ふと、水底に落ちる巨大な陰。それは遙か上を泳ぐ鮫の巨体が落とした影。真っ白なその腹は、飛行機雲のように、この目に軌跡を残していく眩しさを持っている。
目を、閉じる。列車の生み出すリズムに、身を任せる。
ごとん、ごととん。
ただ一人を乗せた列車は、ゆっくりと、水中を行く。
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