霧と桜のアステリスク

 日はすっかりと暮れ、霧の都の中は立ち並ぶ街灯の灯りで照らし出されている。


「おいおい、こんな遠目じゃなくてもっと前に観に行こうぜ」

「……いや、ここで良い」


 女王の暮らす宮殿の正面に造られた、石畳の広場。

 中央に設置された噴水の水は、今は止められているようだ。

 宮殿を背にするようにして設置された簡易舞台には赤い布が被せられており、その上に細かい意匠の刺繍が施された垂れ幕が掛かっている。

 ヴィルとリノの二人は、その大きな広場……そこから少し離れた、石塀の上に腰掛けていた。


「ほらあの辺りの観客席だって、まだ空いてるみたいじゃねぇか」

「僕は謹慎中の身なんだ。そんなに行きたいなら、一人で行ってくれ」

「んだよ、ケチ」


 不服げなリノに対しそう言い、ヴィルは深緑色のフードを目深に被り直した。

 徐々に観客は集まりつつあるようで、賑わう声も大きくなってくる。

 相変わらず霧は立ち込めていたが、不思議なことに、二人のいる塀の上からでも広場内を端から端まで見渡すことが出来た。


 会場内を警護している警備兵の中には、ヴィルの見知った顔もあった。

 ……一年前は自分もあの場所に居たのだったか、などと思いながら彼は舞台の後方を見た。


「そういえば、稽古以外の演舞を正面から見るのは初めてだ」

「あー、ヴィルは基本的に裏方控えだったもんな」


 リノはどこで入手してきたのか、小袋に入ったナッツを口の中に放り込みながら退屈そうに応えた。


「要る?」

「いや、遠慮する」

「そか」


 勧められたナッツを断るヴィルと、あっさり引き下がるリノ。

 二人はそれ以降は特に言葉を交わすこともなく、開演の時を待つ。


 ……やがて、不意に響いてきた笛と鈴の音。

 人々の騒めきは、まるで波が引くようにして消えてゆく。

 そして舞台袖から、その人は姿を現した。


 寸分の崩れもなく結われた髪に、目尻に引かれた鮮やかな紅。

 きらきらと光を反射して輝く華奢な金の髪飾りが、その漆黒の髪によく映えている。


 白に赤と金、花の薄赤に、若葉の緑。

 さまざまな布や糸で織り成された衣装を纏った挿頭草かざしぐさ一京いっけいが、ゆっくりと舞台の中心へと歩いてゆく。


 手には鈴のついた錫杖。

 組紐の飾りが桜の形にあしらわれており、持ち主が歩みを進める度に、どこか現実味のないしゃらしゃらという音と共に揺れていた。


 一京のその視線は、観客でも、この霧の都でもないどこか遠くに向けられているような……そんな、浮世離れした印象を与える。

 彼は客席に向けて錫杖を両手で水平に構えると、膝をついて深々と頭を下げ、静止した。

 数秒の間があり……その中で人々は、まるで時が止まったかのような感覚を覚える。


 やがて……静寂を打ち破る太鼓の音が、一つ。

 顔を上げて立ち上がった一京は、錫杖のその先で身体の前に円を描くように大きく振るい……最後に高々と頭上に掲げると、一際大きく鈴を鳴らした。

 それが合図となり、舞台から溢れ出すようにして、音色の奔流が広場を飲み込む。

 霧の都の人間には縁の薄い、桜の帝都で生まれた楽器の音色。

 そして人ならざる者の如く、ふわりと衣を揺らして軽やかに壇上を舞う一京の姿。

 確かにこの瞬間、会場の中は霧と桜のどちらでもなく……その二つの世界が混じり合う、別の空間へと転じていた。


 リノは、ちらりと隣を見る。

 深く被ったフードの隙間から見えたヴィルの横顔は……まるで恋を知ったばかりの少年のようであった。

 ブルーグレーの瞳に、暖かい色の光が差し込み、それがまるで星の輝きにも見えた。


「おいヴィル。一般市民のありがたーい事を教えてやろう」


 リノは舞台の上に視線を戻して、口を開く。


「オレらはさ、法にさえ触れなければ、何を思っても罪にはならねぇんだよ」


 その時、宮殿の裏から二つ、大きな花火が打ち上がる。

 淡青と淡赤……霧と桜の色をした大きな光の花が、夜空に咲いた。

 ヴィルは、一京が「観客に楽しんでもらえるように」と演舞会の度にサプライズを画策していたのを思い出す。

 きっと、今の花火もそのうちの一つなのだろう。

 少し遅れて届いた花火の音と人々の歓声を聞いて、脳裏に一京の嬉しそうな笑顔が浮かんだ。


 ……ヴィルは、心を伝った言葉をぽろりとこぼす。


「あんなに遠い人なのに……僕は今もまだ、彼のことが好きなんだ。」


 その声はリノにも届いていたが……今ばかりは、彼は茶化すことも囃し立てることもしない。

 ただ黙って、残り数分間の異世界での時間を楽しむ事にする。

 隣に居るのが可愛い女の子ならば完璧だったが……不器用な友人でも悪くはないなと、そんな事を考えながら。


 霧と桜のアステリスク。

 どんな苦難があろうとも、いずれ二つの世界が打ち解け合い、共に前を向ける日が来る事を……三人は、確かに信じていた。

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