カップ一杯分の気持ち

 ヴィルは、湯が沸き、しゅんしゅんと音を立てるケトルを火から濡らした布巾の上に下ろした。

 続いて食器棚の中から木製のマグカップを取り出す。


「……これで良いのだろうか」


 確か、桜の帝都では茶などの飲み物は『湯飲み』なる、取手の無い茶器で飲むと聞いた覚えがあった。

 しかし、今ヴィルが暮らすこの家にそんなものがあるはずもなく……多少の場違い感は致し方ないのだろう、と彼は考える。


 適量も分からないので、一先ずマグカップの半分ほどまでお湯を入れることにした。

 そして、先ほど購入したばかりの小瓶のコルクを捻る。

 指が入るほどの隙間はないので、悩んだ挙句……料理に使う鉄串の先を中に入れ、花を一つ引っ掛けてそっと取り出した。

 そのまま、鉄串ごとマグカップの中に浸けて花を湯の中に落とす。


 ヴィルはマグカップを手に取ると、食卓の椅子を引いて座った。

 そして、じっと水面を見つめる。

 薄く自分の顔が映る湯の中で、ゆっくりと固まっていた蕾が解れ始めていた。


 何となく懐かしいような、それでいて嗅いだ事のないような……華やかな香りが鼻腔に届いた。

 淡赤色の花は、花弁をひらひらとさせながら湯の中を踊る。


 ……どうしても思い出すのは、かつて騎士であったヴィルの護衛対象、挿頭草一京の事だ。

 ヴィルがこの村で暮らす事になったきっかけは、その一京に降り掛かった殺害未遂事件である。

 当時護衛として側についていながら、隣国の要人を命の危機に晒したとして、ヴィルはその償いに都を追われることとなった。

 故に彼は、都から遠く離れたこの地で生きる事こそが贖罪になると考えていた。


 きっと都を訪れたとしても……一市民として大人しくしている限り、ヴィルが他者から糾弾されることはないだろう。

 だが本当にそれで良いのだろうか、とヴィル自身の声が後ろ髪を引く。

 自分が極刑とならずに、安穏と生活できているのは女王陛下の好意によるものである。

 それを分かっていながら、どの面を下げて都に足を運べると言うのだろう。


 一京の様子は、気まぐれに届く友人からの便りのお陰で、ある程度は知る事が出来た。

彼は霧の都では貴重な、桜の人間の髪を扱える理容師。

 異性関係や私生活のだらしなさに関しては類を見ないような男だが……良く食事や酒の席を共にしたため、一京も心を開いていた相手だ。

 その便りの文面によると、一京はヴィルが都を去ってから暫くは酷く落ち込んでいたようだが……新たにやってきた桜の帝都の人物と生活を共にし始めてからは、明るさを取り戻し始めたという。

 霧の都に身寄りもなく、自分を家族同然に思っていたであろう一京を一人残してしまう事に強く心を痛めていたヴィルは、その内容を読んで安堵したものだった。

 同胞と時間を共にするというのは、とても心安らぐ事であり……きっとそれは、自分が埋めてやれなかった部分でもあった筈だ、と。


 そういった経緯もあり、ヴィルには都を訪れる理由自体がないのだ。

 自分は謹慎中の身でありながら、こうして人々に受け入れて貰え……一京も新たな日常を歩みつつある。

 あの『大事件』の当事者にしては、出来すぎた顛末だ。


 それでも、理由がなくとも……その姿を一目見たいと思ってしまうのは、自分の弱さ故なのだろうか。

 ヴィルはそう考えて、ため息を一つこぼす。


 手の中で少し冷めてしまったマグカップ。

 勿体無いと思い、口元に運んで傾ける。


「……塩辛いな」


 少しだけ、涙の味に似ている。

 彼はぼんやりと、そんな事を考えていた。

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