メリー・ゴー・ランドリー

大枝 岳志

メリー・ゴー・ランドリー

 背の高い雲が夕暮前の街を覆うと、青年の住む一角は足が早い急激な雨に打たれ始める。洗濯物を干しっぱなしで出掛けていた青年は自宅へ帰りベランダへ出ると、びしょ濡れになった洗濯物を前に苛立ちを爆発させ、隣室との間を仕切る板を怒りに任せ蹴り上げた。

 この所、青年には何ひとつとして良いことが起こらなかった。

 同棲していた彼女は二週間前に突然出て行ってしまい、その後連絡も取れなくなった。契約社員として勤める出版社の仕事では、一ヶ月後に迫る契約更新はしないと釘を刺されてしまっていた。

 彼女が出て行ったのも、契約が更新されないのも、全ては青年の自堕落な生活ぶりが原因となっていた。

 二度寝をして会社を遅刻するのは当たり前。ひどければ「頭が痛いんです……」と弱々しい声色を作りながら昼過ぎに出勤し、「やはり頭が……」などと言って定時前の夕刻に帰る日さえあった。その帰り道には青年の日課である飲酒の誘惑に負け、まだ陽の高い時間に赤暖簾を潜り、深夜まで浴びるように飲むと青年を案ずる彼女が待つアパートへ帰り、赤ら顔になって酒臭い息を吐きながら、自身が経験した「幼少期に父に殴られた」という逸話を繰り返し繰り返し何度も女に話して聞かせ、最後には決まって

「だから、おまえだけは俺に優しくしろよ」

 などと言い、女が身体を捩らせるのを力任せに押さえつけ、熱り立った逸物を女の尻に当て擦り、無理にでも行為に及ぶと射精した後は腹の上に放った精液は勿論のこと、栓の緩い蛇口の如く垂れ出る残り汁さえ拭かず、仰向けになってたちまち鼾を掻き始めるのであった。

 一週間のうち月曜日から金曜日までまともにフルタイムで仕事をする日は一日、せいぜい二日で稼ぎも余りない癖に、精力だけは人一倍のものを持っていた。


 そんなものだから女が出て行った後、青年は女の衣類はあらかた捨てたものの、染みの着いた下着だけはさも大事そうに手元に残していたのであった。

 その下着を顔に被ってみたり、鏡の前で履いてみたり、または欲に従い嗅いでみたりしている内に、青年は女との思い出の遺留品としての下着としてではなく、生活の一部として下着を認知し始めたのであった。

 その為に今ではすっかり自身の所有物となった下着を洗濯し干していたのだが、急な雨に打たれ昆布のように草臥れてしまった下着を、青年は自身の運のなさに項垂れた肩で取り込むのであった。


 青年は自宅から歩いて三分ほどにある小さなコインランドリーへ行くと、濡れてしまった他の衣類と共に乾燥機能の付いた洗濯機へまとめてぶち込んだ。ぐるぐる回り始めた洗濯物を眺めながら「このまま餅にならないかな」と思い始め、しばらくの間は回転する洗濯槽の中を丸椅子に腰掛け、近頃出っ張り始めた腹と交互に眺めていたのであった。

 いくら眺めてみてもぐるぐる回る洗濯物が餅になるはずがないことに気が付くと、青年は床に三本目の煙草を落として足で踏み付け、酒を求めて街へと繰り出した。

 安さが売りの大衆居酒屋のカウンター席で呑んでいると、隣で呑んでいた薄い頭をした五十半ばほどの男が声を掛けて来た。小汚いカーキ色のTシャツからは生乾きと汗の混じった匂いがぷんと漂い、口を開けば黒ずんだ欠けた前歯が数本見えていた。元トラックドライバーで今は道路作業員をしているという男は、唐突に過去の自慢話をし始める。


「俺ぁ元々ホストやってたんだよ。二十歳の頃はとにかく景気が良くてよ、六本木のクラブでねぇちゃん並べて万札配ったりしてたんだぜ? あんたの歳ぐらいの頃なんか、車は四台持ってたよ」

「へぇ、すごい」


 青年はそう生返事をする。その夜はちっとも楽しい気分にならなかった。青年には六本木で呑んだ思い出もなければ、人様に金を配るなどという発想は例え億万長者になったとしても持ち合わせてなどいなかったからだ。前歯の欠けた見るからに金なしの薄頭が臭い息を吐きながら「五回も結婚した」だの、「新婚旅行は決まってパラオ」だっただの、ドバイの企業に投資しただの、青年の生活には一生縁も無さそうな話ばかりが続々と飛び出して来るので、いよいよ頭に血が昇り始める。

 焼酎のロックグラスを叩きつけるようにしてテーブルに置くと、青年は目を据わらせ、苛立った声を放つ。


「てめぇ、さっきから一体何が言いてぇんだ。ええ? ドバイだのパラオだのマラリアだの訳分かんねぇ外国の話ばっかりしやがって。そんなに外国が良いならこんな所で安酒呑んでねぇで、さっさと日本を出て行けばいいじゃねぇか!」


 この青年の言葉に、上機嫌だった歯欠け親父も黙ってはいなかった


「なんだと! おまえなぁ、年下は目上の人間様の話はありがたいと思って聞くもんだろうが! どうせろくな経験もしてない癖によ!」

「なんだてめぇ。やんのか? おい、残りの歯もボロボロにしてやるからオモテ出ろ。立てよ」


 青年は待ってましたと言わんばかりの笑みを浮かべ、指の骨を鳴らしながら嬉々として立ち上がった。一方的に人をぶん殴る瞬間の、拳が頬に直撃する感触を思い浮かべると自然と胸が躍った。青年にとって暴力はスポーツと同義で、唯一スポーツと異なるのはルールが存在するか否か、という一点のみなのだ。青年が本気だとわかると、歯欠け親父はニタニタと汚らしい下卑た笑みを浮かべ、呪文のように手刀を切った。青年をあだ名などで呼び、すぐに宥めようと必死である。


「ほんちゃん、ジョークジョーク! 座って、ごめんね! 呑み直そう! ね!」

「てめぇ一人で呑んでろ、馬鹿野郎」


 青年はそう言って歯欠け親父の薄頭を引っ叩くと店を出た。とんだ絡まれ方をしてしまったし、どうせなら思い切り顔面をぶっ飛ばしてスッキリしたかった。青年の癇癖は収まらず、他に誰か殴れる奴はいないかとコンビニで買った高度数の缶チューハイを片手に街をうろついたものの、誰もが青年の異様な目つきを察すると、彼を避けて通り過ぎてしまうのであった。

 むしゃくしゃした気分のまま歩いていると、コインランドリーに洗濯物を入れっぱなしにしていたことに気が付き、仕方なしに足を運ぶ。暗い住宅街にぽつんと光るランドリーが目に入ると、先客がいることに目を睨ませる。先客は何やら辺りをキョロキョロと警戒しており、その人物をよく見ると先ほどの安居酒屋で出会った歯欠け親父だと気が付く。歯欠け親父は青年の使っていた洗濯槽の中から一枚の下着を取り出すと、辺りを再びキョロキョロと警戒し始めた。

 それを見た青年は死角から忍び寄ると、力任せにランドリーの扉を開いた。パン、という音が深夜の住宅街に豪快に響き渡る。


「てめぇ! 俺の下着に何してやがる!」

「誤解誤解! 違うんです!」

「何が違うだこの野郎。なら、これはどうなんだよ?」


 青年は脅しに使えるだろうと企んで物陰から撮影していた動画を見せつけると、歯欠け親父は突然土下座し始めた。


「許して下さい! 警察だけは勘弁して下さい!」

「嫌だね。こっちゃ証拠もあるんだ」

「先日、つい先日、刑務所から出て来たばっかりなんです! お願いします!」


 この話に、青年は腹を抱えて膝から崩れ落ちた。歯欠け親父は居酒屋で、


「まぁ、先月までは仕事を早期リタイアしてハノイで悠々自適に暮らしていたんだけど、やはり日本が恋しくなってなぁ。日本を離れてみると分かるが、納豆と味噌汁ってのはな、舌の文化遺産だぞ」


 など、実に偉そうに吹いていたのであった。それが嘘だと分かると、青年は愉快でたまらない気分になり、込み上げる笑いの為に何度か咳き込んだ。


「てめぇ、南国じゃなくて監獄にいたのかよ!」

「はっ、はい……」


 青年は警察を呼ばない代わりに、この歯欠け親父を利用することにした。聞けば刑務所を出て早々に、フィリピン人の嫁を持ったのだと言う。そのことに、同棲相手に逃げられたばかりの青年の怒りは再び積み上げられて行った。


「いくらフィリピン人の嫁でもよ、旦那が他人のパンツ盗んでたなんて知れたら、どうなるか分かってるよな?」

「ですからその、この私、本田様に誠心誠意尽くさせて頂きます……お願いです!」

「よーし。その言葉、間に受けてやろうじゃねぇか。俺に尽くすんだな?」

「はぁっ! ……くぅっ……ありがとうございます!」


 ここから、青年の自暴自棄は加速するのであった。

 歯欠け親父には嫁に自分を「年下の上司」だと説明させ、酒と食事を摂る為、歯欠け親父とフィリピン人妻が暮らす二間のアパートに毎晩のように入り浸った。

 無論、慰謝料としてそれなりの額を請求し、歯欠け親父に同僚や親族から金を掻き集めさせた。

 それでも青年の要求は止まらず、フィリピン人の嫁に歯欠け親父の前でなりふり構わず手を出す始末で、何ら抵抗も出来ず嫁に手を出される歯欠け親父には二間のアパートで嫁の喘ぐ声を聞きながら、それを耳から消し去る為に一人虚しく手酌をする日々が訪れたのであった。マグマのように湧き続ける精を放ち、事を終えた青年が寝室から出て来ると、忌々しげな顔を歯欠け親父に向けながら、髪や食いカスが絡まった畳にベッと唾を吐き捨てる。


「最近締まりが悪ぃぞ。教育しとけよ」


 すぐに土下座の姿勢を取った歯欠け親父はもう勘弁してくれ、と言わんばかりに蚊も同情するような情けない声を出した。


「本田さん……もう、もういいじゃないですか……私は、そんなひどい事をしたんですか?」


 歯欠け親父が胡座を掻いた親指をつねりながらそう言うと、青年はアルミ灰皿を手に取り、そいつで頭を一発小突いた。灰としけもくがバラバラと顔や畳に散らかるが、歯欠け親父は微動だにしない。青年はその襟首を掴み、顔を近付けて声を荒げた。


「ったりめぇだ馬鹿野郎! また番号で呼ばれる生活に戻りてぇなら今すぐ戻してやるぞ!」

「そっ、それなら……本田さんのやってることはどうなんです?」

「てめぇがそれでお願いしますって言ったんじゃねぇか! あ?」

「こんな、耐えられないですよ……もう……私は、妻に全てを打ち明けて服役します! もう、耐えられません!」


 青年は舌打ちを漏らし、寝室のベッドの上で横たわるフィリピン人の嫁に向かって「旦那がパンツ盗んだんだとよ!」と吐き捨てるように言った。暗がりの奥から「ナンテ言ッタ? ワカラナイ」と聞こえると、青年はテーブルの上にあったビールの空缶を嫁に投げつけ、「日本語分かれよ馬鹿野郎!」と怒鳴りつける。

 歯欠け親父は舎房へ戻る覚悟の必死さを年老いた眼に込め、青年を見上げる。


「どうか、もう許してもらえませんか……お願いします!」


 青年はロハで解消出来る性の捌け口を失くすのが名残惜しかったが、更なる金銭の要求をすることで相手に一先ずの安堵と猶予を与えることにした。一旦の心の余裕を与え、頃合いを見て再び毟り取ってやれば良いと考えたのだ。


「じゃあ週末までに三十万、用意しろ。それで勘弁してやる」

「……ありがとうございます! ありがとうございます!」

「土曜に取りに来るから、それまではここへ来ないでいてやるよ。用意出来てなかったらとっとと警察に突き出すからな」

「はっ、はい! 必ず、必ず! ご用意させて頂きます!」


 青年は歯欠け親父の薄頭を思い切り引っ叩くと、肩をいからせながらアパートを出た。

 それからすぐに歯欠け親父はフィリピン人の嫁を説得し、荷物をまとめ、他人の土足に塗れ朽ち果てた愛の巣を数日後の昼間のうちに飛び出した。

 そうとは知らない青年はその日も電話口で散々厭味を言われながらも仕事をサボり、生乾きになっていた洗濯物をコインランドリーの洗濯機へ突っ込むと、昼から呑みへ出歩いていた。

 同棲相手を失い、仕事も失い掛け、将来の見通しは何も立ってはいなかったが、歯欠け親父から毟り取った幾らかの金で今後しばらくは凌そうであった。これから受け取る三十万もあるし、残りの金でいつまで自堕落でいられるか計算しながら河岸を変える為、フラフラと駅前の通りを歩く。酩酊の所為で頭の中での暗算が出来なくなり、計算をしようとズボンのポケットからスマートフォンを取り出そうと道の真ん中で立ち止まる。

 ちょうどその頃、歯欠け親父は青年から逃れられる心ゆるびの為に饒舌になりながら二間分の荷物を積んだトラックを運転していた。


「メアリー、あの男は本当にろくでなしだったけど、これでもう大丈夫だ! これからはハッピーハッピー!」

「ハッピー? 本当ニ?」

「毎日ハッピーだ! メリーゴーランドみたいにハッピーな毎日がやってくるぞぅ!」

「メリーゴーランド! 本当ニ? ナラ、ハッピーイッパイネ!」

「メアリー、マハルキタ! マハルキタ!」

「アー、私モー! マハルキタダヨー」


 青年はズボンのポケットからスマートフォンを取り出そうとして、ポケットに突っ込んだ指先に違和感を覚え、それを摘み上げる。

 摘んだものを顔の前で広げると、視界には雨の降らない鮮やかな青空の下に紫色が華やいだ。


「パンティじゃん」


 洗濯するはずだった一枚を、持って来てしまっていた。それが何故だか無性におかしくて、路上に立ったまま笑い声を上げ始める。自分の生き方も、何の生産性もない日常すらも可笑しくなり始め、笑いが止まらなくなる。なんで俺は、平日の青空の下でパンティを広げているんだろう。そう思いながら笑っていると、丸めた背中に強い衝撃を感じ、突然視界が吹き飛んだ。

 歯欠け親父は急ブレーキを踏んだが、日本語が不自由な嫁を相手に饒舌になっていた為に、気付くのが遅れてしまった。


「嘘だろ……やっちまった……」


 ハンドルを握ったまま放心状態になった歯欠け親父が無意識に呟くと、溜息をついたフィリピン人の嫁は呆れ顔でひらひらと手を振りながらトラックを降り、そのまま駅の方へと歩き出して行った。それから、生涯に渡り歯欠け親父の元へ戻ることはなかった。

 歯欠け親父はトラックを降り、撥ね飛ばされた男に近寄ると、ぴくりとも身体を動かす様子がないことが解り、歯欠け親父の心には墨が染み込むが如く黒い後悔の念が生じ始める。

 動く様子もなく横たわる男の手に握られた紫色の一枚に気が付くと、「あ」という声だけが漏れ、やがて辺りに人集りが出来始めた。

 良く晴れた夏空の下で、アスファルトに咲いた鮮やかな紫色が赤黒く染まり出した頃、誰に見られることなく愉しげに回っていた洗濯槽がブザーを鳴らしてピタリと止まった。

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メリー・ゴー・ランドリー 大枝 岳志 @ooedatakeshi

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