7 苺をさがしに

7 苺をさがしに


 黒猫スプーンは難しい顔で、蜜蜂が花から花へ飛びまわるのを眺めている。時々ふうむと唸る。ポサポサの尻尾をパタンパタンと左右に動かす。それからまた、フウウッムとうなる。

「どうしたもんかなあ」

 スプーンはつぶやいた。

 ルルカがユキの家に来てもう五日になる。ふたりは毎日、せっせと苺探しに出かけている。まだ苺は見つかっていない。

 スプーンもようやく走れるようになった。少しずつ遠くへ出かけ、苺をさがせるようになってきた。あちこちに散らばっている友達にも頼んで、苺をさがして貰っている最中だ。苺は必ず見つかる。スプーンの勘はそう言っていた。スプーンが今考えているのは、苺とは別のことだ。

「スプーン、具合はどうだ?」

 花のあいだから、ぬっと出て声をかけた奴がいる。友達のバズーだ。

「やあ、バズー。頼むから、スプーンって呼ぶなよ」

「だって、お前の名前はスプーンじゃないか」

 ニヤニヤしてバズーが言った。

「その名前は俺は嫌いだ。もっと強そうな、俺にぴったりの名前がある」

「何て名前だ?」

「まだ決まってない。今考えているところだ」

「じゃ、それまではスプーンだな」

「ちぇっ」と舌打ちしたスプーンは、真面目な顔になって聞いた。

「今日もみんな出てくれてるのか?」

「うん、だいたいね」

 スプーンと並んで木陰に寝転んだバズーが答えた。

「松蔵、きらら、オレンジ、タペット、ティアラ、狂四郎かな」

「そうか、すまないな。難しいこと頼んじゃって」

「いいさ。お互いさまだ」

「俺も明日からは、本格的にさがすよ」

「無理するなよ。骨まで届く怪我だったんだろう。死にかけたんだろう?」

 バズーが心配そうに聞いた。

「ああ、でも大丈夫だ。ルルカの月の水のおかげだ。だから俺も、ちゃんと礼をしなくちゃ」

「ふふ、お前らしいや」

 ここも暑いな。辛そうに立ち上がると、バズーはのそりと帰って行った。

 スプーンはバズーの姿が見えなくなると、またふうむと唸り目を細めて空中を睨んでいたが、むくりと起き上ると、よしそうしようと低いが断固とした調子で言った。


 ユキとルルカのはしゃぐ声が、キッチンから聞こえてくる。

 スプーンはダイニングの椅子の上に丸まって、ふたりの声を聞いている。

「なんだか、姉妹みたいだな」

 スプーンはくすぐったい気分になっている。なんだか心がふわりと浮きたつ心持ちだ。

「さあ、朝ごはんにしましょ。スプーン、あなたもオムレツ食べなさい」

 ユキが皿をテーブルのすぐ横に置いた。オムレツのいい匂いがただよってくる。

 スプーンはするっと椅子を下り、オムレツの皿の前に座った。朝ごはんを食べながらふたりが話すのを、スプーンは注意深く聞き耳立てた。

「今日もふたり、別々にさがしましょうよ。その方が範囲を広げてさがせるから、見つかる可能性もたかくなるわ」

「ええ。私もその方が良いと思う」

 と答えたルルカだったが、声に元気がない。

 スプーンは敏感にそのことを感じ取った。

「ユキ、苺見つかると思う?」

 ルルカがかすれた声で聞いた。

 スプーンは急に部屋の中が暗くなり、すうっと冷たい風が吹いたように思えた。

 恐ろしく静かな沈黙が流れた。ルルカが口を開いた。

「とっても怖い夢を見たの。……ミケロが、私が戻るともうミケロが凍ってて……」

「大丈夫。必ず苺は見つかるわ。ううん、必ず見つけて見せるから」

 ルルカの言葉をさえぎって、ユキが叫んだ。

 ユキがルルカをぎゅっと抱きしめた。まるで妹を抱きしめるみたいに。傷ついた妹の心を、自分の心に掬いとるように。

 ルルカは頑張って、元気な風によそおっていたんだな。さっきキッチンではしゃいでいたルルカの声をスプーンは思い出していた。

 それでも気丈に、ルルカはひとりで苺をさがしに出た。一緒に行こうとユキは言ったが、ルルカは首を横に振って拒んだ。

 ひとりでとぼとぼと歩いていくルルカの背中を、ユキは痛ましそうにいつまでも見つめていた。ルルカの姿が見えなくなると、ユキは手のひらでほほの涙をぬぐった。鼻をすすると、ユキは握りこぶしを固くむすび大股で歩いていった。

 そんなユキを見送ると、スプーンはトコトコと、ルルカが歩み去った方角へ走って行った。

 スプーンは黙ってルルカと並んで歩いている。

 夏の終わりの焼けつく陽射しが、容赦なく降り注ぐ。

 ルルカの心は、揺らいでいた。

 青い水の星にきてから、もう十日が過ぎた。

 夢の中で見た、ミケロの顔が浮かんでくる。

 眠っているのに、あんなに淋しい顔をするなんて。

 私が苺を見つけなきゃ、本当にミケロはあの淋しい顔のまま……。

「それは、駄目!」

 苛立った声だった。悔しい思いだけが重くのしかかる。

「ルルカ」スプーンが呼びかけた。

「うるさいっ!」

 反射的に叫んで、ルルカは走り出した。

 私は、ミケロを助けられない。何のためにここへ来たんだろう。

 なぜマルウバは、苺のことを話したんだろう。

 私に出来もしないことを、なぜ話したのだろう。

 体も頭も心も重い。熱い。真っ赤に溶けて、どろどろになっていく。

「ルルカ!」

 前にまわりこんだスプーンが怒鳴った。

 ルルカの心がびりりと震えた。

「しっかりしろ、ルルカ!」

 スプーンの目が、ギラギラと光っている。

「ルルカはそんなに、誰も信じられないのか! ユキがそんなに頼りにならないか?」

 ルルカは、スプーンがなにを言っているのか分からなかった。

「たしかに、ルルカがここへ来た時はひとりだった。だけど、今は違うだろう?」

 スプーンの声が優しくなった。

「苦しくて、辛くて、かなしくて、淋しいのは、ルルカだけじゃない。ルルカには、父さんも母さんもいるんだろ?」

 ルルカはかすかにうなずいた。

「ユキは、ひとりぽっちだ」

「……えっ?……」声にならない驚き。

「ユキは一年前、父さんと母さんをなくした。……事故だった。突然ひとりになったんだ。ルルカが来るまで、誰にも会いたがらなかったし、あんまり外へ出ることもなかった。そんなユキが、今一生懸命苺をさがしまわってる」

 スプーンは空を睨んだ。涙よ乾け。

「ユキはもう誰も失いたくないんだ。誰にも、悲しい思い辛い思いをさせたくないんだと思う」

 スプーンは、こほんと咳払いして、ルルカに微笑んだ。

「ごめんね」

 熱く赤くたぎっていた心が、すーっと鎮まるのをルルカは感じた。

「スプーンって、大人みたい」

「ふんっ。俺を誰だと思っているんだ? 俺は生まれた時からひとりだぞ。生まれながらの野良猫だからな。苦労の仕方が違うのさ。どうだ、参ったか」

 スプーンは、自慢のポサポサ尻尾をピンと立てて見せた。

「憎たらしい野良猫ね。ほんとに生意気なんだから」

 ルルカはやっと少しだけ笑えた。

「さあ、そう言うことで、もうひと踏ん張り頑張ろうぜ」

「うん、ありがとう、スプーン」

 ルルカとスプーンは、顔を見合わせてクスリと笑った。

 また涙がこぼれそう。

「ルルカ、ルルカ!」

 遠くから呼ぶ声が聞こえてくる。

 あれはユキの声だわ。ルルカは辺りを見回した。

「ユキだ!」

 スプーンが首を伸ばして匂いを嗅いだ。

「こっちだ、ついて来な」

 言うと、スプーンは右手の畑の中へ飛び込んでいった。

 ルルカもすぐに後を追う。

「ルルカ」

「ユキ、ここよ。今行くから!」

 スプーンとルルカは、葉っぱが縮みだしたトマト畑をぬけ、茄子の畑をぬけ、走って走って、ユキを呼びながら走った。

きゅうり畑を出ると、なにも植えていないがらんとした畑に出て、その向こうはサトウキビ畑だった。

「ユキはサトウキビの向こうだ。ここで待とう」

 スプーンが言った。

「ユキ!」ルルカはもう一度叫んだ。

「ルルカ。いちご、有ったよ」

 すぐ近くでユキの返事が聞こえた。

 そして、苺を高々と掲げたユキの姿が、サトウキビ畑から現れた。

 汗びっしょりになって、鉢植えの苺を持ったユキを見たとたん、ルルカは目の前が霞んで見えなくなった。

 涙が流れるままに、ルルカはユキの方へ駆けていった。

「ありがとう……」

 ルルカは無性にうれしかった。

 自分の心の苦しみや悲しみをこらえて、ルルカの為に一生懸命苺をさがしてくれたユキ。

 これでミケロが助かると言う安心が、ルルカの心をたかぶらせた。

 ユキがルルカをしっかりと抱きとめる。

 ルルカは泣いた。

 大声で泣いた。

 流れる涙にいろんな思いが湧きあがる。

 不安や悲しみや、ミケロを失う恐怖と絶望。

 黒猫スプーンとの出会い。

 ユキとの出会い。ユキの孤独と悲しみ。耐える心。

 それがひとつになって、喜びに変わっていく。

 苺の鉢をまんなかにして、ユキとルルカはお互いを見た。

 おなじ微笑み、おなじ心。涙のあとでくしゃくしゃになったおなじ顔。

「あぶない!」スプーンが叫んだ。

 はっと、顔をあげたユキとルルカのあいだを、灰色の大きな塊が唸りを残して飛びすぎていった。

 ユキとルルカの手にあった苺の鉢がもぎ取られていく。

「ああっ!」

 スプーンを襲った犬が、苺の鉢に足をかけ冷たい目でルルカを見ている。

「子供のくせに、あの時はよくも俺を脅かしてくれたな。これがそのお返しだ」

 灰色の犬は、黄色い牙をみせて笑うと、これみよがしに苺の鉢を太い前脚で踏みにじった。

 ユキもルルカもスプーンも、なすすべもなく犬を見ていた。

 夢の中のように、体に力が入らず、あまりのことに動くことも出来なかった。

 犬はもう一度ざらざらの嘲った笑いを残すと、サトウキビ畑へ消えて行った。

 ルルカは這うように、泥にまみれた苺の鉢へ駆け寄った。

「いちご、いちご……」

 最後の、ひどいと言うひとことは、喉の奥からせりあがってくる嗚咽でかき消された。

 苺は鉢からこぼれ、ふた粒の半分赤くなった実は、かろうじてねじれた茎とつながっている。

 ルルカは苺の株をそうぅっともちあげ、鉢の中へ戻した。

 くたん、と苺の株がしなだれる。弱々しい、今にも消えてしまいそうな命。

 ……みず……つきのみず……。 かすかなささやき。

「水? つきのみず」

 その声は、心の中と、そしてルルカのそばからも聞こえてきた。

「水だ、俺の傷を治してくれた、月の水だ!」とスプーン。

「そうよ、月の水よ、ルルカ」ユキが耳元で優しくささやく。

「そうだ、月の水を……」

 やっと我に返ったルルカは、ポーチをさぐり銀砂河の水が入った小瓶を取り出した。

 震える手でふたをあけ、萎びてしまった苺の上に持っていった。

「そっと、そっとよ。大丈夫」

ユキがルルカの震える手に、自分の手を重ねる。

ふたりの重なった手が、震えながら小瓶をかたむけていく。

ぽとん。ひと雫の水が、苺の上に落ちかかる。

苺に触れたと思うと、一滴の水はパアッとひろがり金色の光に変わった。それから細かな細かな何百もの光の粒子になった。

しばらくきらきらと明滅した光の粒子は、きゅっと伸びあがり、苺に沿って上から下へ螺旋の光の細い流れになって滑り落ちていった。

 最後の光のひとかけらが、すっと苺の根元へ消えていくのを、ルルカとユキとスプーンは、息をつめて見守った。

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