セキュリティブランケット

 私が女の父から連絡を受けたのは、社員食堂で昼食を食べ終えた時だった。


 女の父は普段から寡黙な人であったから、電話口の声の大きさを聞いただけで、何か恐ろしい事が起きたのだとわかった。


「今、病院にいるんだ。すぐにこちらに来られないか?」


 私は残した仕事を上司に伝え、早退した。


 病室の前で、女の母が俯き涙を拭いていた。


「何が、あったのですか」


 女の母が顔を上げて私を見ると、「ごめんなさい。本当にいつもいつも迷惑をかけてしまって」

 

 そう言って、更に涙を浮かべた。


「お義母さん、泣かないでください。何も、迷惑などと思っていません。それよりも、あいつの状態はどうなのです」


 私は泣き続ける女の母の横を抜けて、病室に入った。


 女の父が私に気づいて、振り返り椅子から立ち上がる。


「仕事中に、すまなかったな」


「いえ。それよりも状態は、どうなのです?」


「今は安定しているようだ。医師からの説明を受けたが……。猛くん、考えていたのだが、やはり私は、娘の面倒は家で見ようと思う」


 女の父はそう言って再度椅子に腰掛けた。


 私はベッドに近づいて、女の顔を見た。


 いつもより青白い肌が、薬によるものなのか失血によるものなのか分からなかった。


「原因は、俺にあるのかもしれません。アパートでは一緒に居ますけど、職場でのシフトはほとんど合わないので、一人にすることも多かったんです」


「いや、君に問題はないさ。娘は、中学の頃から自傷するようになってね。大人になってからは落ち着いていたのだがね」


「それなら、やはり、俺との生活が良くないのでは」


「……誰と一緒に居た所で、この衝動は抑えられないのかもしれないな」


 女の父はそう言うと、しばらくは黙ったままで娘の顔を見ていた。


「猛くん、君には感謝しているよ。娘が君の話をする時、目が輝いて見えるんだ。暗かった娘が、ひと時でも明るさを取り戻していた」


 女は一週間の入院をすることになった。


 女の目が覚めたら連絡をくれることになり、私は一度アパートへ帰った。


 女の父から受け取った用紙に、入院時に必要な物が記載されており、それを頼りに荷造りをした。


 枕や好きな物(本とかぬいぐるみとか)それらを持って行ってもいいらしい。


 セキュリティブランケット。


 女から教えてもらった言葉だった。


 スヌーピーに出てくるライナスというキャラクターが描かれた食器。


 ライナスは毛布を片時も離さずに、指をしゃぶっている。


 それは、精神状態を安定させるためだと言う。


 思い返してみれば、私も子供の頃にウルトラマンのぬいぐるみを持ち歩いていた。


 女がいつも大事にしていた物を考えてみると、ベッド脇に置かれたデスクライトが思いついた。


 病室に持って行くにはさすがにまずいか。私は思ったが、しかし、それで女が安心できるならと、いつも使用している枕と一緒に車に積み込んだ。


 スマートフォンが鳴り、出ると、女の父からだった。


「目が覚めたよ。状態を本人に説明して、病院にいることもわかってる。今は妻が見ているよ。私は主治医と話をするので一度離れるが、すぐに戻るから」


「わかりました。それでは、俺も向かいますね」


 病院に着くと、私は荷物の入ったバッグを両手に二つ抱えて病室に向かった。


 部屋番号を順に通り過ぎながら、広く、慣れない廊下を歩く。


 入院病棟の患者達は、色々な年齢の人達がいる。


 すれ違う、または共有スペースにいる患者達は、何か病気を患っているのだろうが、ほとんどそうは見えない人も多くいた。


 入院病棟は、病態のそれぞれで区分けがされているのだろうか。ならば、この病棟は精神的な病を患った人達だけなのだろうか。


 私は拙い知識を頼りに推理してみるが、その答えが自身から出てくることなどあるわけもなく、ただ、私は不安に昂った頭の中を冷静に保ちたかったのかもしれない。


 初老の女性患者と目が合うと、会釈をしてきたので、同じように会釈をして返した。


 女の病室に着いて、扉をスライドして開ける。


 一人部屋に白い明かりが点き、女の母の背が見えた。


 二人の笑い声がわずかに聞こえ、私はそれだけで安堵し胸を撫でおろした。


 女の母が椅子から振り向く。


「来た来た」


 そう言って立ち上がると、女の母は荷物置きから自分のバッグを手に取った。


 女はリクライニングをあげたベッドの上から、窓の外を見ていた。


 私の方を向いてはくれないのか。思いながら、床頭台の上に荷物を置いた。


「体調は、大丈夫?」


 私は言い、さっきまで女の母が座っていた丸椅子に腰掛けた。


 女は窓に顔を向けながら、一度だけ頷いた。


「外に何かあるの?」


 私はベッド越しに窓の外を見る。


 傾いてきた陽の光が、わずかに赤くなってきていた。


「ごめんね」


 女は言って、私の言葉を待っているようだった。


「何か、嫌な事があったの?」


 私が言うと、女は、やっとこちらを向いた。


 目の下に隈が出来ている。

 

 瑞々しかった首すじや頬は艶を失っていた。


 痛々しい。私の頭に浮かんだ言葉はそれだけだった。


「ううん。……心がね」


「こころ?」


「うん。頭の中じゃなくて、心の中がね、もやもやするの」


「そう、なんだ」


「あなたのせいじゃないよ。これはね、私のせいなの。全部、悪いのは私なの」


「助けになれることがあるなら、何でも言ってほしかったよ」


 女は優しい笑顔を浮かべ、「ありがとう」と言った。


「もっと、一緒に居られる時間を作ろう。そうすれば、お互いに助け合えるから」


「そうだね……」


 私は立ち上がり、荷物の中からデスクライトを出す。


「これ、持ってきた。あと、枕も」


 女はそれを見て私の手から受け取ると、笠の部分に貼られたキャラクターのシールを撫でながら見つめた。


「必要なかったかな。……ライト、あるし」


 ベッドの頭上の壁に、アームの付いたライトがある。


「ううん。ありがとう。これ、本当に嬉しい」


 女は言ってから微笑み、細くなった目の端から、一粒の涙が流れた。


 病室の扉が開いて、振り返ると、女性の看護師が入ってくる。


「夕食をお持ちしました。食べられますか?」


 女は看護師に頷いて、食事の乗ったお盆は私が受け取った。


「後で回収に来ますから、テーブルの上に置いておいてくださいね」


 看護師は言うと、隣の部屋に行った。


「結構美味そうじゃん、これ」


 私は言い、サイドテーブルの上にお盆を置く。


 女は覗き込むようにそれを見てから、私の顔を見た。


「食べていいよ」


「食べないなら、このまま残さないと。記録するでしょ、きっと」


 私は言い、カップヨーグルトの蓋を開ける。


 スプーンを取り、掬って、女を見た。


「食べさせてあげるよ。今日だけ特別に」


 女は私の目をじっと見て、小さく口を開けた。


 こくっ、と喉を鳴らし飲み込む。

 

「美味い?」


 私が聞くと、女は小さく頷いた。


 私はそれから、ゆっくりと時間をかけて食事介助をした。


 女はずっとデスクライトを膝の上で抱え、その笠を時々撫でた。


 私達二人には、常に付きまとう何らかの不安がある。


 過去を語らない女がどんな不安を抱いているのか、それは私には分からない。


 私は、女がこれからも過去を語らない事を祈っている。


 もしいつか、女の過去を聞いてしまったら、私はそのショックから二度と立ち直れない気がするからだ。

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