会社
私と目が合うと、女は少しだけ笑みを浮かべた後で、すぐに視線を外した。
女は定食の続きを口に運びながら、同僚の女性社員たちと話をしている。
会社でその姿を見ると、心配性な私は昼食を摂っているにもかかわらず、何度も目を向けてしまう。社員食堂の広さを考えたら、よほど個人を意識しなければ目が合う事などあり得ない。だが、目が合うと言う事は、女の方にしても私の姿を見たら気になるのかもしれない。
出勤日が被る日はほとんどないのだけれど。それも日勤で。
昨日の夜、軽い言い合いから喧嘩のようになってしまった。珍しいことではないが、お互いが謝る段階になるには、もう少しの時間が必要だった。
女が無理をして同僚と昼食を食べている姿を見ると、痛々しい気持ちになる。
「……でな、そこで俺は言ってやったわけよ、って、お前、聞いてんのかよ」
同期の川田の、妻の愚痴は物語調になっていていつも長い。
「ごめん、聞いてなかった。最初から話してくれ」
私が言うと、川田は面倒そうな顔をした後で、「もういいよ」とため息をついた。
「で、お前、結婚しないの?」
川田は言いながら、私の視線を追って、女の方を見る。
「わかんね。した方が良いんだろうけど、それがあの子の負担になったら嫌で」
私は正直に話した。川田は、「ふーん」と興味なさげに言って、豆腐を頬張った。
女の結婚に対する意見は、聞いたことが無かった。歳がくればそのうち、と、周囲で結婚の話が出るたびに、避けてきたから。でも、同棲をしている状況であるのに、あえて結婚という手続きを踏む必要性がどの程度あるのか、私にはあまり理解出来ていない。面倒事が増えるだけのような気がしてならないのだ。
お盆に乗った定食の全てを食べ終えて、まだ食べている川田をよそに、私は返却口にお盆ごと返した。
会社の裏口から外に出て、電子タバコを吸う。
わずかな煙が宙に伸びていく。
「あの、一本、もらえませんか」
後ろから声をかけられる。
「ああ、イルマでよければ」
私は言って、声の主の方に振り返る。
そこには女が立っていた。
ふふっと笑みを浮かべ、私の隣にあるベンチに腰掛けた。
「いらないんですか?」
私はわざと言って、深く吸って煙を吐く。
「私、タバコ吸いませんから」
「へえ。では、どうしてここへ?」
私は言って、女の横顔を見る。
制服の襟を片手でいじりながら、女は住宅街のどこかをじっと見ている。
「……今日、夜、何の映画を観ようと思って、意見を聞きに来ました」
「今日も、観るんですか」
私は言って、煙を吐く。
「だめですか?」
「良いですけどね。俺のおすすめが、あなたに合うかは分かりませんから」
「きっと合いますよ」
「そうですかね。昨日は、それで喧嘩になったじゃありませんか」
「たまたまですよ。今日は大丈夫です」
女が私の方を見て、目が合う。
「……そうですね」
「それじゃあ、私、そろそろ行きますね」
女は言うと、立ち上がって会社の中に戻って行った。
私は扉が閉まるまで彼女の背を見つめ、まだ結婚はしないで良いと、改めて思った。それは決してネガティブな感情ではなく、まだ今の二人のままで居たいと思ったからだ。
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