ピクニック
夜勤明けの瞼を擦りながら、私はアパートの扉を開けた。トーストの匂いが部屋の中から玄関まで漂っていた。匂いに反応した私の腹が鳴る。
「お疲れさまあ!」廊下に顔を出した女が言い、すぐにキッチンの方へ消える。
「パン、焼いてるの?」
私は言いながらリュックをダイニングテーブルの椅子に置く。
「サンドイッチ作ってるの。ねえ、疲れてるかもだけど、ピクニック行かない?」
女は私の顔を見て、目を輝かせている。整った小さな顔から少し視線を下げると、長い首すじの後で真新しいエプロンが目に入った。
「買ったの?」
「え?ああ、エプロン。――おかしいかな?」
俯き加減にエプロンに目を落としながら、女は恥ずかしそうに言った。
「おかしくはないけど、それ、子供用じゃないの?」
白にピンクの花柄のエプロン。丈が太ももの中間までしか届いていない。
「可愛かったから」
ジーンズが長い脚を強調している。そんな事より、今、ピクニックとか言ってなかったか?私は少し苛ついて、上着を脱いで浴室に向かう。
「ねえ、ピクニック……」
私は返事をせずに、服を脱ぎ、シャワーを浴びる。
勝手だ。本当に。自分の事しか考えていない。私は思い、汗と一緒にこの苛つきまでもが流れてくれないかと願った。眼の奥が痛い。頭痛がしてきた。
私は深いため息をついて、髪を洗いながら喉の奥にこみあげてくる感情をやり過ごす。どれだけ我慢していると思っているんだ。常日頃、どれだけ、気を遣っていると思っているんだ。これまでに何度、お前の我儘に付き合ってやったと思ってるんだ。
私は自分の頬を両手で叩く。いらない考えを全て、このシャワーで流さなければ。
女は私の事を想って、疲れた私がリラックスして休めるだろうと思って、ピクニックを提案してきているんだ。自分が楽しみたいからじゃない。
二人で楽しみたいから。
浴室の扉を開けると、目の前に女が正座していた。私はバスタオルを手に身体を拭く。女は黙ったまま、少し頭を下げている。
「ピクニック……行きたくない?」
私は下着を着ながら、女の頭頂部と肩を見る。やっぱり、少し震えている。
「行きたいに決まってるでしょ」
私が言うと、女は顔を上げて微笑んだ。立ち上がって、急ぐようにキッチンの方へ行った。Tシャツを着て、ズボンに足を通し、髪を乾かす。
どたどたと、子供の走るような音が背後に聞こえたあと、背中に衝撃が来た。その後で、女が私の頬にキスをした。
「準備、出来たよ」
「髪、乾くまで待ってて」
私が言うと女はドライヤーを奪って、私の髪をぐしゃぐしゃに撫でまわしながら温風を当てた。手持ち無沙汰になった私は、歯ブラシを手に歯磨きを始める。
ドライヤーが離れると、櫛を手にした女が、私の髪を梳かす。
「おっけ」女が言う。
鏡に映った私の髪は、毛先が外向きに跳ねていた。片手で出来るだけ整える。コップに水を入れて口をゆすぐ。苛つきはなかった。
鏡に映った女が笑顔だったから。
私は思う。この女は私の全てだ。手放した瞬間、私はきっと後悔する。一瞬の気の迷いで感情を爆発させたら、女は正面からきちんと話をしてくれるだろうか。心を閉ざしてしまわないだろうか。私にだけは、変わらずにいてくれるだろうか。その保証はどこにもない。女はたくさんの闇を抱えている。綺麗な外見とは裏腹に。すらりと伸びる綺麗な手も、艶のある髪も、全ては女のこれまでの努力の賜物だと、私は知っている。この女を一人にしたら、良くない事が起きる。私が離れてしまったら。
これはいい訳なのかもしれない。私は女が好きで、女も私を好いてくれている。
一緒に居る理由なんて、ただそれだけで良いじゃないか。
「早く行こうよ!」
女の声に振り向くと、子供用のエプロンを外した女が、バスケットを手に立っていた。ショッピングモールのくじで当てた、ピクニックマットとバスケットのセット。女はただ、それを使いたいだけなのかもしれない。
一瞬よぎった考えをすぐに払拭する。
私はダイニングの椅子に置いたリュックから、ショルダーバッグだけを手にして、女の後に続いて部屋から出た。
振り返り扉を閉める時、トーストの匂いを思い出した。
鍵を閉め、女の背に目を向ける。
午前のからりとした陽の光が、女のたおやかな後ろ姿を照らしている。
私は一歩踏み出して、女の後ろ姿が離れないように、急いで階段を降りた。
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