リップ
私がトイレから出ると、ちょうど同じタイミングで、女が玄関の戸を閉めた。
「おかえり」
私は言うが、女は靴を脱ぐと廊下にバッグを叩きつけた。バッグの中から、ぱきっと音がして、女の動きが一瞬だけ止まる。
顔を上げた女と目が合うが、すぐに逸らされて、女は私の前を、何も言わずに歩いて通過し、ダイニングの方へ行ってしまった。
廊下にしゃがんで、バッグの中を、ちらっと覗き見る。
赤いリップの、黒のキャップが割れていた。
このリップは、女が気に入っている色だ。
バッグの中からリップと、破片を取り出す。ダイニングに居ない女の姿を、足音を立てないように数歩たして、リビングに確認する。カウチソファに身を預けて、雑な体勢でテレビを観ている。
私は、ダイニングテーブルにバッグを置いてから、その隣に、割れたキャップの破片を置いた。
廊下の物置の、用具箱から接着剤を出して、ダイニングに戻る。足音を、自分の存在と同じくらいに、できるだけ消す。
ゆっくりと椅子を引いて座る。
割れた破片の断面を、プラモデルを造るように位置を確認しながらつけていく。
小さな破片が無くて良かった。
背後から、テレビの音が聞こえている。
女が、コートを脱いでソファに掛ける音がした。立ち上がる音を背後に聞きながら、最後の破片を組み立てる。最近の接着剤はすごい。すぐについて、すぐに固まる。
女が、リビングから出て、後ろまで歩いてくるのが分かった。通り過ぎてキッチンに行くのかと思ったら、足音がしなくなった。それからふわっと風に乗って、女の匂いがした。すぐ後ろにいるのが分かる。
破片を固定していた手が、ずれそうになる。
視界に女の両手が入ってくる。椅子の背もたれを挟んで、抱きしめるようにしてくるのを、だまって受け入れる。
女の匂いが濃くなって、何となく安らかな気持ちになった。左肩に、女の額が乗っている。
「ごめんね」
女が言ってから、私の前で組まれていた腕が解かれ、女の匂いが遠ざかっていく。
女が廊下に出て、寝室の方へ歩いていくのが分かった。
これから、泣くのかもしれない。
女のスマートフォンが、リビングで鳴っている。
その後で、LINEの通知音がいくつか鳴った。
私は、電話の着信もLINEの通知も、今だけは消してやりたいと思った。
残酷でありながら、否応なく参加させられる社会生活。女は苦しみながら、それに適応しようと頑張っているが、なかなか上手くいかない。
私は、どんなに嫌な目に遭っても、逃げない女を尊敬している。
我儘で美しく愛らしい。しかし、過敏で繊細で、たぶん診断名のつかない精神的な病気もある。
人一倍、周囲に気を遣い、極度に優しい女を、私は尊敬しているのだ。
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