小旅行
「一応、ノートパソコンは持って行った方が良いよね?」
私は分かりきった事を女に質問した。
私が一人で泊りがけの旅行に行く事を、女は不思議に思うのだ。
「二人で行った方が楽しいのに」
女は言いながら、私の着替えをキャリーバッグに詰めていく。一泊二日の小旅行だから、でも、私には少し女から離れる時間が必要だった。一人になって、考えたい事もあったから。
女は明日は朝から仕事だから、私がいない夜を一日過ごすだけだ。それに、旅の途中で連絡も入れるし、それほど寂しい思いはしないはずだ。
車で三時間ほどの温泉宿に、予約を入れてある。子供の家出みたいに、ただ一人の夜を、久しぶりに過ごしたいだけだ。
二人でいることに飽きたとか、疲れたとか、そういった感情はなかったが、私はどこかで新鮮さを求めていたのだと思う。
女も私も、同じような毎日の中に、少しずつでも違いが出てくるのは仕方のないことだが、逆を言えば、それが僅かな刺激となって、新しい毎日を過ごせていた。
新鮮さと言えば、それはマンネリ化した日常に飽きたと捉われてしまうが、私にとっての新鮮さとは、好奇心の充足に他ならなかった。
女は、好奇心の強い方ではない。だから、絵画とか歴史のある寺社仏閣などを観ても、それほど感銘を受けないそうだ。その事について、リアリスト寄りの思考を持っているからだと、女は話した。
私の事をロマンチストだと、女は常々言った。それは小馬鹿にしている言い方ではなくて、どこか羨ましさを滲ませて言うのだ。私は、男女では脳の処理過程に違いがあるからだと、その眼差しを遮るように言った。何にでも興味を持てるのを、不思議に、羨ましく思うと言うのだ。
男はいつまでも幼いから。と、私が付け加えて言ったら、女はむすっとした顔つきになって、口を閉ざした。
「それじゃあ、行ってくるよ」
私がキャリーバッグを手に、振り返りながら言うと、女はテレビに目をやったまま、「行ってらっしゃい」と言った。
一時間ほど車で走ってから、道の駅に停まる。駐車場でスマートフォンを開くが、女からの連絡はない。一人でいるというのに、自分の頭の中を支配しているのは常に女だと言う事に気が付いた。
私はなるべく一人の状態を楽しめるように、女の事を考えないように努める。
外は快晴で、あまりにも青い空が何故か迫ってくるような感覚に見舞われた。爽やかさの押し付けを、半ば振り払うようにして、車のエンジンをふかせた。
旅館に着いて、チェックインのためにロビーの受付に向かう。旅館の屋号の入った法被を着た初老の男性が、笑顔で迎えてくれる。
屋号には旅館と名がうってあるが、旅館は、どちらかと言えば綺麗なホテルのような佇まいであって、ただ、日本家屋風の装飾が施されている。
明るい廊下の奥から、着物を着た女将と、若い仲居さんが二人で歩いてくる。
淑やかに、二人がお辞儀をしてから、私の側に近づいてきた若い仲居さんが、私のキャリーバッグに手を掛けたので、私はそれを制止した。
「自分で運びますから」
仲居さんがキャリーバッグに手を掛けた瞬間、自宅にいる女の姿を思い出したのだ。納得のいかない表情で、荷物を詰めてくれている。
うなずいた仲居さんの後ろに付いて、部屋に案内される。
部屋は畳が敷かれた和室で、丁寧に模様のくり抜かれた背もたれのある座椅子が、低いテーブルの両脇にあった。テーブルの中央に茶菓子や湯呑などの入った木造りの箱が置かれ、視線を上げて正面をみやると、狭い縁側の先の一面がガラス窓になっていて、両側に聳える山々の中央に、温泉街の街並みが見えた。
「すごい景色ですね」
私が言うと、後ろから衣擦れの音がした。
「この部屋は、街並みが良く見えますよ。提灯に火の灯る夜になれば、それはもう幻想的で、昼間よりも絶景です」
振り返ると、若い仲居さんが微笑んで立っていた。私は目を合わせるのを躊躇って、すぐに視線を外した。
「それでは、何かありましたらロビーに連絡をください。それと、お夕飯は十八時半にお持ちいたしますので、ごゆっくりお待ちになってください」
仲居さんはそう言ってからお辞儀をすると、部屋から出て行った。
冷蔵庫から缶ビールを取って、縁側に向かう。
たぶん、蔓性の植物で造られた椅子に腰掛け、缶ビールの蓋を開ける。
昼の三時では、仲居さんの言う絶景は見られそうにないが、街並みを眺めながら、一口飲んだビールを小さなテーブルに置いて、タバコに火を点けると、どこか自分が特別な贅沢をしている気分になった。
この旅館を選んだ理由は、この景色を観るためではなかった。この景色は、目的の副産物だ。私は、この旅館の風呂の評判が良いのが気になって、予約したのだった。
缶ビールを飲み干してから、二本目のタバコを吸い終わると、私は部屋の棚に用意された、浴衣とタオルを手にして風呂に向かった。
平日であり、シーズンでもないからか、旅館は空いていた。風呂の脱衣室には、ロッカーがいくつか並んであって、私は衣類を脱いでから、一番端のロッカーにそれを入れた。
頼りない大きさのタオルを片手に、浴室に入ると、若い父親と子供が二人で身体を洗っている。右側に目を向けると、湯気の上がった大風呂があって、その奥に露天風呂に続くガラス戸が見えた。
私は親子から離れた位置で座り、身体を洗った。ここの風呂は露天風呂が有名らしい。
親子が大風呂を通り過ぎて、露天風呂の方へ歩いて行った。貸し切りの状態なら、大風呂で一度暖まってから露天風呂へ行くのも良いかもしれない。と私は思い、その考えのまま大風呂に足を入れた。
湯温は熱かった。身体が冷えていたのもあるが、これでは五分も入っていられないなと思いながら、身を屈めた。
浴室内は、流れる湯の音と、外から親子の声がわずかに聞こえてくるくらいで、目を閉じると身体の芯から、深い、ため息に似た息が漏れた。知らぬうちに疲れが溜まっていたのかもしれない。ふいに、あくびが出た。露天風呂の方は濁り湯だったはず。旅館のホームページを確認した時、白濁の湯が肌を滑らかにすると書いてあった。効能など、色々と書いてありすぎてよく覚えていないが、飲めるとも書かれていた。それならたぶん、昔から湯治に来る人も多かったのだろうと、博識ぶって女に話した事を思い出した。
例えば、今、女が一緒に来ていたら、風呂から出て一緒にビールを飲むだろう。夕食の来る時間まで、なんて事のない、どうでもいい話をしながら、パソコンを開くかもしれない。それで、女は、ご飯が来るまで少し外を歩かない?などと言ってくるかもしれない。
一人で部屋に戻ってから、私は何をするのだろう。まず、ビールは飲むだろう。コーラでもいいけれど、やっぱり軽くビールを飲んでしまいそうな気がする。普段、全く酒は飲まないのに、昼から酒を飲むのは、旅先での特権だから。きっと、女もそうする。
露天風呂から親子が出てくる。入れ違いで、私は大風呂から立ち上がって露天風呂に向かった。ガラス戸を引いて外に出ると、冷たい風が一瞬で身を包んだ。ぶるっと震えが来るのを、露天風呂の岩肌に手を置いて、飛び込むように濁り湯に浸かった。硫黄の匂いがして、久しぶりに温泉を感じながら、冷めた身を暖めた。
私は湯に浸かりながら、若い仲居さんを思い出した。
そして、その後に女の事を想った。
ああ。一人じゃなくて、二人で来ればよかった。
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