緑茶
暗い寝室のベッドの上で、女は泣いていた。
ほとんど声を漏らさずに、その姿はただ無意識に流れてきてしまう涙を拭っているだけの様だった。
時々、こうした姿を見る。
私は隣に座るが、声はかけない。服も着ずに、下着姿の、肌けた肩に手をやって、ゆっくりと女の身体を横たえる。掛け布団をかけてやって、枕に顔をうずめる女を隣で見ながら、背中を撫でてやる。
たぶん、一人で家にいる時にも、こうして泣いている時があるのだろう。
女は過去をほとんど語らない。周囲に心を閉ざしたのはいつ頃なのだろう。私は考えながら、暗闇の天井をみて、時々、ぐすっと鼻を鳴らす女の、額に貼り付いた髪を撫でる。
無言で胸を叩いてくる。それはとても弱弱しいから、痛くはないが、女の悲痛が込められているのを感じずにはいられない。
何を思い出し女に涙が溢れるのか、私にはわからないが、今のこの時は、隣に居てやるべきという事だけは分かるのだ。
何かに苦しみ、嗚咽を漏らしながら、たまに胸を叩く。
それで少しでも楽になるなら、いくらでも叩いていい。
きっと、私には想像もつかないような辛いことが、過去にあったのだろう。いつだって、わずかに震えているのも、そのせいなのかもしれない。
美しい外見とは真逆の精神状態だから、悲愴感がさらに誇張されて見える。
これまで、この女と関わった男は、きっと困惑したに違いない。受け入れる努力をした男もいたはずだ。しかし結局、これ以上の進展を望めない関係を絶ったのだ。
この女に、自分の未来を搾取されるのを拒んだのだ。
それはたぶん、ほとんど正解なのかもしれない。この精神状態に付き合っていくのは、生半可な覚悟ではもたない。
自分もおかしくなり始める頃になって、初めて気が付くのかもしれないし、この姿を見て、最初から引いた男もいただろう。
暗闇の中でも、泣き顔を見られたくないのか、女はずっと枕に顔をうずめている。
嗚咽が落ち着いてきた頃になって、ようやく枕の上で顔を横に向けた。
「何か飲む?」
私は、暗闇の中で、湿った肌を感じながら言う。
「お茶でいい。あったかいやつ」
ベッドから立ち上がろうとすると、手首が引かれた。
「なに?」
「自分のも淹れなさいよね」
うん。と、私が言うと、手首から女の手が離れる。
台所で湯を沸かす。40秒で沸いた湯を、マグカップに注いで、緑茶のパックを垂らす。透明な湯が、緑色のもやもやに染まっていくのを、じっと見つめる。
あっ。と口から漏れる。
女は、緑茶に限って、薄いのが好みだった。慌ててパックを引き上げて、自分の湯に入れた。
女のマグカップに濃い緑茶。
私のマグカップに薄い緑茶。
二つのマグカップを手に、寝室へ戻る。
女は、壁を背にしてベッドの上に座っていた。暗闇の中で、少し俯いているのが分かった。
「はい」私は言いながら、薄い緑茶のマグカップを手渡す。
女が息を吹きかけてから、マグカップの縁に唇を付ける。すすっと、少し音を鳴らせて飲んだ。
「これ、あなたのコップじゃない」
「ごめん、でも、薄い方が好きでしょ」
「うん」
女は言って、緑茶を飲む。
女の枕元には、デスクライトがある。暗い中でスマホをいじったり、漫画や小説を読むと目が悪くなるからと、置いたものだ。
女が子供の頃から使っている、年季の入ったデスクライト。
傘の部分に、サンリオとか、ディズニーのキャラクターのシールが貼ってある。
緑茶を飲み終わる頃、カーテンを通して月明かりが部屋を照らしたので、デスクライトの輪郭がくっきりと見えた。
肩を突かれる。
私は、マグカップを受け取って立ち上がる。
「ありがとね」
背中に女の声を聞く。
布団にもぐる音がして、私は寝室を後にした。
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