まきびし
「マキビシって何だっけ?」
車の助手席でスマホに目を落とす女が猫を見たいと言うので、ペットショップに向かっていた。
何かの動画を観ながら聞いてくるが、音だけではよくわからない。
「マキビシってのは、忍者が敵の追跡を撒くための道具だよ。ほら、地面に投げる、とげとげのやつ」
「ふうん」
言ったきり、何も言わなくなる所をみると、多分、知らなかったのだろう。聞いておいて答えれば、こうして知らない事には無関心を装う。
それは、女の自尊心が高すぎるためだが、女は雑学については詳しくないから、今までも、会話の中で同じような反応を何度も観てきた。
これまでの人生で何に一番の興味を示したかを話せば、「特にないかな」と言う。
その割には細かいことを気にするし、家事のあれこれや、映画の俳優の話をする時には、自分の主張を譲らない。それでも言い返せば、顔を赤くして涙ぐむくらいに熱を上げて話すから、涙ぐむ前にはこちらが折れるようにしている。
いま、マキビシの事についての情報を追加して言えば、女の機嫌を損ねるのは分かる。複雑なようで単純。それがこの女の良いところだ。
「コーヒー飲みたい。入って」
女が、先の方に見えるスターバックスの看板を指さして言う。
「この時間じゃ、ドライブスルーは混んでるよ」
「並べばいいでしょ。コンビニなんて嫌」
夕食を食べに行くときは、並ぶくらいなら別の店が良いと言うくせに、キャラメルなんちゃらが飲みたい欲求は、並ぶ時間に勝るらしい。
あれは、コーヒーと言えるのか?
膝上に置いたマフラーを両手で解いて、首に巻いている。極度の寒がりには、車内の暖房でさえ勝てない。寝室の暖房が30℃に設定されているのを見た時には、さすがに病気を疑った。「筋肉が無いからだよ」と助言したら、泣いてキレ散らかしたので、これも一つの病気なのかもな。と思った。
案の定、ドライブスルーには車の列が出来ていて、並ぶことになった。15分は並んで、キャラメルなんちゃらを一つ買った。
「美味い?」
「うん。でも最近、味が落ちたの。どこもそう」
本当かよ。とは、口には出さない。甘いだけの、シロップみたいなコーヒーの味が落ちた所で分かるわけがないと、私は勝手な言い分を頭の中でごちて、ストローから唇が離れるのをみる。
「そういえば、ストローって無くなったんじゃなかった?」
「プラスチックのはね。そんな事も知らないの?」
「知らないよ。買わないから」
「環境問題が深刻なんだよ」
始まった。環境だの政治だの、お決まりのパターンだ。これは、長くなる。でも、テレビが点いてない無いだけましかもしれない
「俺も、あとで買ってみよ」
「うん。抹茶が良いよ。好きでしょ」
環境の話は続けさせない。抹茶を受け入れよう。コーヒーの方が飲みたいけれど、抹茶を受け入れておけば、女の機嫌を損ねることは無い。
「うん。抹茶好きだよ」
「美味しいもんね」
女は微笑んで、道路の先を見る。
ペットショップの看板が見えてくる。
駐車場に車を停めて、店の入り口の前まで歩くと、ワゴンの中に色々な小物が安売りしていた。
玩具の札に、猫マキビシという字を見つけた。
女が隣で一歩踏み込んで、自動扉が開いた。
2022年2月22日の午後の事。
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