LIFE
土釜炭
女の寝顔
ある女の寝顔を見た。
カーテンの隙間から差し込む、陽のひとすじが頬に乗って、薄い桃色の唇までが光を反射させる。横を向いて寝ていたからか、少し赤みの残る耳介の外側が、寝返りのあとでこちらを向いた。艶のある髪と、うなじから伸びる首すじが、見慣れているはずなのに、やけに色っぽくみえた。
「ベッドから出る時は気をつけて」と、以前からうるさく言う女は、過敏な神経の持ち主だから、たとえシーツの寄れが無くても、寝床が冷たければ不機嫌になった。面倒臭さを覚えながらも、それに順応していく自分は、よっぽど優しいか、鈍感のどちらかだ。
二人して休日に、昼まで寝ているのは、珍しいことではなかった。前の日には遅くまで話をしたり、映画を観たりするから、どうしても朝方まで熱くなってしまう。
女は特に自分の価値観を押し付けてくる人だから、わざとそれに反すると、とめどなく話を続けるのだ。その時の姿が堪らなく良くて、時折、子供のように身体を弾ませたり、手や顔の表情を動かして強く訴える様は、常に嬉々としている。
居酒屋で初めて同じ姿を見た時、それは、周りにほとんど心を閉ざしている女が、長い時間をかけて、やっと私に開いてくれた隙だった。女の、その瞬間に手を伸ばせた自分の優秀さを、褒めずにはいられなかった。
苦労して得た美しい女に、私は時間も金も身も、全てを捧げた。それが自分にとっての正解だったかは分からないが、女を射止める術としては確実に機能していた。
我儘で美しく愛らしい。男を破滅させる典型的な女が隣にいれば、喰い殺されてもまた良し、という気持ちにもなるものだ。
昼に近くなった時間に朝食を作ろうと、台所に立つ。寝室で寝ている女を起こさないように、気を遣いながら、卵を割ったり、ベーコンを焼いたりする。
テレビは点けないし、タブレットで動画も観ない。
皿に盛りつけて、換気扇のスイッチを切る頃になると、女は目を擦りながら起きてくる。
「味噌汁はいらないよ」と、作ってもいないが言ってきて、椅子に腰掛ける。
テーブルにマヨネーズと醤油、塩を置く。
女は二つの目玉焼きを、味を変えながら食べるのが好きで、付け合わせのベーコンは絶対に塩だと決めている。慣れればなんてことは無い。
対面に座って食べ始める。女が箸を置いて、席から立ち上がる。不手際があったらしい。
無言で台所に歩いて行った女は、フォークとナイフを手に帰ってくる。フォークとナイフで育った日本人など、そうは居ない。しかし、この女は、そのごく少数の一人で、箸を使うのはストレスだという。
今の時代、欧米人でさえ箸を使うのに。と、頭の中で愚痴りながら、わざと箸だけをテーブルに準備した自分の意地悪さにあきれる。
ふふっと笑いがあって、顔を上げると、女と目が合う。「これみて」と目玉焼きの白身をフォークとナイフにぶら下げる。黄身の部分だけがくり抜くように食べられていた。
「食べ物で遊ばないで」私は母親のような事を言ったあとで、白身で黄身を拭って食べる。女は笑顔で、そのまま白身をベーコンと食べた。
一緒に食器を洗いながら、テレビに目を向けた女が、政治について御託を並べ始めたので、私は女の手から皿を受け取った。
女はテレビに目をやったまま歩いて、居間に正座になる。もはや皿の事など、一切、気にする様子もない。その後ろ姿を見て、政治の事など気にする暇があるなら、投票くらい行けばいいのに、と思うのだった。
美しい女の寝顔を見た。
昼下がりの午後、薄い唇の端にわずかに残る黄身の跡を、私は指で拭った。
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