橘優佳の後悔

「さっきのすみれの反応……もし、気を悪くさせてしまったのなら本当にごめんなさい」


 しおらしい表情を浮かべながらそう言った優佳さん。しかし、その表情の中には、罪悪感だけではなく微かな喜びの色が滲んでおり、湊月は不思議に思いながら言葉を返した。


「全然です。俺の方こそ、すみれさんの機嫌を損ねるような事してすみません」

「いえ……ていうか、驚きました。私が話しかけた時はもちろん、担任の方がいらっしゃった時も全くの無反応だったのに」

「そうなんですか?……やっぱり、俺が首を突っ込まない方が良かったんじゃ……」

「違うんです!そういう事じゃ無くって……その……現状に似つかわしくない事は分かっているのですが、すみれから反応があったの嬉しくって」


 頬を綻ばせながら、とても優しい──子を想う母の表情を浮かべた優佳さん。しかし、その柔らかな視線は、どこか遠い所を眺めていた。


「私は……母親失格なんです」


 ぽつりと、そう呟いた彼女。


「そんな事は……」

「ごめんなさい。今日会ったばかりの小野寺君にこんな事言ってしまって。ただ、すみれとコミュニケーションが取れたの本当に久しぶりで……あはは、年甲斐もなく舞い上がっちゃってるのかしら……」


 遠い目をどこかに向けていた優佳さんは、スッと我に返ったかのように湊月の方へと向き直し、寂寥感を帯びた笑みを浮かべて言った。


「もうずっとすみれと話せないまま、後悔だけが残るのかなって思っていたから。他の人からしたらコミュニケーションと呼べるモノじゃ無いのかもしれないけれど、私は今日何年か振りにすみれと話せた気分なんです」

「…………」


 きっと、優佳さんは本当に喜んでいるのだろう。ただドアに物を投げられたというだけなのに、これが建前でも、湊月を気遣った発言でもなく、本心からそう思っているのが痛い程伝わってくる。何故それが分かるのか。それは……


──優佳さんの今の表情、あの時の未羽みうとそっくりだ。


 蘇る幼少期の記憶。まだみうを妹と認められなかった頃の自分。


 父親が自殺した事で、湊月も自ら命を絶ってしまうのではないかと、幼いながらに心配して泣きながら抱き着いてきた未羽の表情。その震えた小さな肩を抱擁した時、涙でぐちゃぐちゃになりながら見せたあの柔和な笑顔。計らずとも、二人の面影が重なってしまう。


「……分かります、その気持ち」


 意識的なのか、それとも無意識なのか湊月自身でさえ分からないが、考えるよりも先に口から出たその言葉。


「……え?」

「あ、いや……その、橘さんのそれとは少し違うのかもしれないですが。でも、後悔を残したくないっていうのは、凄く……凄く分かります」


 湊月の発言に一瞬の戸惑いを見せた優佳さん。しかし、視線の先にいる今日初めて話した高校生の顔が、あまりにも年齢不相応に憂いを帯びていた為、疑問の声は喉元に引っかかって落ちていく。


 その代わり、いつもなら他人にはもちろん、親しい友人にも話せないような事を、気付いたらロクに知りもしない男子高校生につらつらと話し始めていた。


「私、実は離婚しているんです。丁度、すみれが中学校を卒業する辺りで」

「……はい」

「その理由が、元夫の激しいモラハラとDVでした。それを受けていたのが私だけだったら良かったのですが、すみれも日常的にハラスメントを受けていたんです」


 湊月からしたら、突然始まる他人の身の上話。それも、かなり重い内容の。だが、それに対して微塵も嫌な顔を見せてはいない。むしろ、とても真剣に聞き入っていた。優しさとか気遣いではなく、心の底からの感興かんきょうで。


「元夫とは、十八の時に結婚して二十ですみれを授かりました。私自身、実家と学校が嫌いで、高校も中退しているんです。その時に元夫と出会ったのですが、足りない者同士で惹かれ合ったんでしょう。結婚に至るまで、そう時間はかかりませんでしたから」


 重苦しい話題に、黙りながらも相槌を打っている湊月。その姿を見て、時々安堵したように小さな深呼吸をする優佳さん。


「お医者さんから妊娠の話を聞いた時、すみれが生まれたら誰よりも愛情を注いで、世界で一番幸せな子にしようとそう決意しました。夫も、そう考えてくれるだろうと、私は信じていたんです」


 微々たるものだが、それでも尚明白に、ここで優佳さんの顔色に怒りの感情が滲んだのが分かる。


「ですが、実際は全く違いました。妊娠が分かってから徐々に飲み歩くようになり、お金を貰いたい時だけ家に帰って来ては良い旦那のフリをして、すぐにまた家を空けるというのを繰り返すようになり、母親としての覚悟が足りなかった私は……いえ、一人ぼっちになるのが怖かった私は、その度に彼にお金を渡してしまいました」

「……その時はもう、Re:crownの経営を?」

「いえ。あのお店は、五年程前にオープンしたお店です。元々実家がケーキ屋で昔からお菓子作りは好きだったので、親の紹介で素晴らしい師匠の元にパティシエ見習いとして働かせて頂いていました」

「親御さんとは仲が良かったんですね」

「すみれの妊娠を機に、しっかりと謝って関係を戻したんです。報告を言った際、両親どちらも『無事で良かった。おめでとう』って大号泣しちゃって。その時、私は本当に愛されていたんだなって気付いたんです。気付くの遅いんですけどね」


 そう言って、苦笑気味に笑った優佳さん。そして、一呼吸置いた後、先程よりも色濃く怒りの感情をあらわにして、話のその続きを始めた。


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ちょこっとシリアス展開入ります。

段々お気付きになる方もいるのではないでしょうか??

ラブコメの裏に隠れた、このお話のもう1つの大きな題目を。

是非、主人公やその周りが織り成す、不完全な者同士の重厚なヒューマンドラマをお楽しみください。

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