感涙



(第六十六柱、精神デカラビア、か。なるほどいい趣味をしておる)


 そこにはどこか甘ったるいような燻したような独特の芳香が満ちていた。

 渾神カイムと共に蝋燭の頼りない灯りしかない暗路を進むこと幾分。

 ややひらけた、円柱状にかたどられた、天井の高い部屋に辿り着いたアスタは、不愉快そうに口を曲げた。


「うわぁ……これ、まじ? ちょっとドン引きとかいうレベル超えるんですけど。デカラビアの奴、一線超えてない?」


 壁一面に置いてある、黒く錆びた牢。

 その牢獄の内側には、若い女性が何人も捉えられていた。

 

「あぁ、あぁ、あぁ、あぁ、あぁ」


 焦点のあっていない瞳で虚空を見つめながら、声にならないような呻きを漏らすばかり。

 女性のほとんどは服とは呼べない布切れを一枚羽織っているか、あるいは全裸の状態で弛緩した様子で壁に寄りかかっている。


「酷いな。こいつら、生きてると言えるのか?」


「これはさすがに……前からデカラビアのことは嫌いだったけど、これはもう嫌いとかそういう話じゃない。神の矜持の問題」


「ほお、お主にも神の矜持とかいう概念があったのじゃな」


「ちょっとアスタちゃん!? もしかしてうちのことただのバカだと思ってない!?」


「思ってる」


「真顔!」


 デカラビアの地下迷宮を彷徨う中で見つけた、この凄惨な有様を見て、カイムが憤慨するのを見て、アスタは少しだけ不思議に感じた。


(あの女神の下につく神々の中にも、こいつのような神が混ざっているのか。なるほどな。七十二柱の神は全員敵だと思っていたが、案外違うのかもしれんな)


 奴隷か、あるいはそれ以下の仕打ちを受けているとしか思えない人間の女性たちの姿を見て憤るカイムは、小走りで牢の方へ近づいていくと鉄格子を力づくで壊そうと試みる。


「もう安心だよ! このスーパー尊い美少女女神様が、今助けてあげるからね!」


 柵に力を込めるカイムを見ても、囚われた女性たちは特に反応を示さず、極端に瞬きの数の少ない瞳を前に向けるだけ。

 だがそれでもカイムの熱量に変化はなく、ミシミシ、どんどん加える力を増していた。


(助ける、か。どうみてもこの人間どもはすでに壊れてきっている。まともな精神状態じゃないじゃろう。その柵を壊したところで、何かが変わるとは思えん。それにそもそも、どちらかといえば、私たちも囚われの身。この地下から抜け出す術は持っていない)


 それでも、なお、全身全霊で人間を救おうとする渾神カイム。

 そのあまりに必死で真剣な様子は、アスタにとっても惹かれる光に思えた。


「ほら! アスタちゃんも手伝ってよ! アスタちゃんも神になりたいなら、いいことしなきゃダメだよ!」


「ふんっ、失礼な。もうすでに私は神じゃ。それにいいことをすれば神になれるわけもなかろうに」


 汗を流しながら呼ぶカイムに、アスタは苦笑しながらも近づいていく。

 アスタ個人としては人間に特別な愛着はない。

 どちらかといえば、等しく始まりの女神ルーシーの信徒である人間には失望に似た感情を抱いている。

 それでも迷わず人間を助けようとするカイムの姿には、正しい神のありざまが映し出されている気がしなくもなかった。


(仕方ない、どうせ他にやることもない。手を貸してやるか)


 アスタは無気力というよりは、魂が抜けたような状態の若い女達を一瞥して、カイムと同じように鉄格子に手をかける。

 見た目通りのなんの変哲もない柵だ。

 時間をかければ壊すことは可能に思えた。


「……ん?」


 –––ポコ、ポコ。

 だがその時、何か異質な気配を感じて、アスタの動きが止まる。

 服の中を小さな虫が這いつくばったような、不快な感覚。

 鋭敏な直感は、すぐにその違和感の源を見つけ出す。


「ちょっとアスタちゃん? サボってない?」


「おい、はなんだ?」


「え?」


 最初は、水溜まりのように見えた。

 ポコッ、ポコッ、と時折泡立つ、黒い水溜まり。

 しかし、その鉄格子の向こう側で沸き立つ液体は、やがて音もなく動き出す。


「は? う、動いた?」


「しかもこの気配は……魔物か?」


 魔の気配。

 神々にとって、魔は毒。

 不倶戴天の天敵であって、唯一の弱点。

 その気配が、この場にあることは本来ありえないことだった。


「どゆこと? だってここ、デカラビアの支配下なんじゃないの? あいつも一応神でしょ? そこになんで魔物が?」


「私以上に腐ってる神が、いるということじゃろ」


 魔の気配を漂わす黒い液体は、ぬるぬると蠢くと、心神喪失状態の女の一人にまとわりつく。


「うごぉあぷ」


 そして、そのまま何の抵抗も示さない女の鼻の中から体内に潜り込んで消えた。


「嘘。入ってった。やば。キモ」


「おい、気をつけろ、カイム。おそらく、来るぞ」


「は?」


 これまで焦点を海月のように漂わせるだけだった女の瞳が、ゆっくりと漆黒に染まる。

 アスタの本能が、警報を鳴らしていた。

 目の前にいる名もなき女が、慈悲を恵むべき対象から、対処すべき問題へと変貌を遂げたということを。

 

「agogogogoagogoagogo」


 道理のわからない呻き声を上げながら、魔の気配を纏った人間の女が立ち上がる。

 ミイラのように枯れ細い腕を柵に伸ばし、ビキビキと不快な音を立てながら曲げていく。


「ちょ、ちょっと待って、この人、怪我をしながら……!?」


「なるほどな。そういう習性の魔物か」


 鉄格子を曲げた際に、骨が折れたのか右手から骨の破片が突き出て、真っ赤な血がドロドロと流れ落ちる。

 ただそれを一切気にすることなく、黒い目の女は隙間の空いた牢から身をよじりながら外に出す。


「え、え、え、出てきたんだけど! どうすればいいのこれ!?」


「どうするもこうするもない。コレはもう人ではない。一思いにしてやるのが、救いじゃろう」


「それ、殺すって、こと?」


「見ればわかる。おそらく、寄生型の魔物じゃ。宿主を無傷のまま救う術はない」


「本当に手段はないの?」


「……お主の気が進まんのなら、下がっておれ。私がやる」


「え、でも、そんなつらい役目をアスタちゃんに押し付けられないよ!」


「抜かせ。私は腐神。元々この世界の記憶に残っていない神じゃ。人間の一人や二人間引いたところで、何も気負わんわ」


 折れた腕をだらりと垂らしながら、黒い目の女は獣のような前傾姿勢をとる。

 もはや敵意は明らか。

 アスタは戦闘態勢を取ると、毅然とカイムの前に立つ。


「agogogogogoaaaaa」


 口から赤い泡を飛ばしながら、次の瞬間黒い目の女が飛びかかってくる。

 人の形をしているだけの別のナニカでしかない。

 明らかに本来の運動能力より高く、やはり互いに無傷とやり過ごすことは難しそうだった。


(恨むなよ、人間)


 アスタはなるべく痛みを与えないようにと、一撃で決めるべく集中する。

 だがその瞬間、アスタの前に立ち視線を遮る者がいた。


「––––だめ! うちがやる! うちだって神だもん! 神として責任を果たす!」


 宙を舞う、きらりときらりと光を反射する水滴。

 第六十一柱、渾身カイム。

 彼女は目元に涙を浮かべながら、正気を失った黒い目の女の喉元に手を伸ばす。


「ぐずっ、ごめんね、本当に、ごめん。目の前にいたのに、救ってあげられなくて、ごめん」


「aoga?」


 ゴキュ、という乾いた音と共に、黒い目の女の動きが止まる。

 よく見れば、まだ十代かと思えるような幼い相貌。

 握りしめていた拳は、ゆっくりとほどかれ、重力に逆らうことなく垂れ下がる。


「……たわけが。泣くくらいなら、私に任せればいいものを」


「……な、泣いてないもん」


 瞳の黒い部分が、静かに引いていく。

 喉元を鷲掴みにしていた手を離し、カイムは慎重にもう瞬きをしなくなった人間の少女を横にさせる。


「項垂れるな。顔を上げろ。お主は、神なんじゃろ」


「……わかってるし」


 鼻を啜るカイムの背中に声をかけながら、アスタは再び思考を戻す。

 魔物が、神々の領域に侵入している。

 というよりは、遥か前から、すでに侵入していたと考える方が自然。


(あの女が知らないはずはない。少し、戻ってくるのが遅すぎたか?)

 

 アスタは内心で小さく舌打ちをすると、これから先の計画に僅かに変更を加える必要があるかもしれないと焦りを感じた。


「a」


 –––コポ。

 数秒の間、思考の海に沈んでいたアスタの意識が、そこで急浮上する。

 それは、覚えのある不快な気配。

 気づけばもう、涙に鼻を啜る音がしなくなっている。


「……おい、お主、まさか」


 再び戻る、魔の気配。

 ものを言わぬ屍となった少女の前で、立ち尽くすカイム。

 アスタは今度は、大きく舌打ちをする。



「agogogogo」



 ぎこちない動きで振り返るカイムの瞳は、漆黒に染まっている。

 魔は、神にとっては毒。

 その黒い瞳からは、毒々しい血の涙が流れていた。


 




 


 

 

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