堕ちた剣聖、腐神に拾われる

谷川人鳥

堕剣

腐れ縁



 失望はなく、執念だけがあった。

 冷たく硬質な床に這いつくばり、自らを傲慢な態度で見下ろす金髪の麗しき美女に対して、執念の炎燃え盛る瞳を向けるのは一人の男。


「貴方はもう、この世界には必要ないのよ、剣聖ネビ」


 足下に転がる男に、嘲笑うような表情で声をかけるのは、“始まりの女神”ルーシーと呼ばれる者。

 世界を管理する七十二柱の神の内の、“第一柱”であり、森羅万象全ての頂点に立つ存在。

 魔に脅かされる世界の守り手であり、全人類の希望の象徴であるルーシーは、酷く顔を歪めて、神の後ろ盾を奪われた無力な人の男――ネビを不意に強く蹴り飛ばす。


「……っ!」


 “剣聖”ネビ・セルベロス。

 神々にその才覚と大器を認められた、加護持ちギフテッドであり、その中でも特別に神の尖兵を名乗ることを許された“神下六剣”の一人。

 人類最強の男とも呼ばれ、世界でその名を知らぬ者はいないとまでされた、不世出の剣士。

 数千を優に超える数え切れぬ魔物ダークを屠り、七十二柱の内、六十一の神々の試練を制し、人類最多の加護を授かった選ばれし者。

 まさに英雄と呼称されるに相応しい唯一の男が、今は始まりの女神の下で乱れた息を必死で整えていた。


「ねぇ、今どんな気分? 所詮貴方は、私たちが授けた加護がなければ、なにもできない羽虫と同じなのよ」


 腰にまで届く長髪と同じ色の瞳を輝かせて、始まりの女神は嗜虐的に口元を歪める。

 眩い閃光。

 気づけば女神の右手には、染み一つない純白の両刃の剣が収まっていて、神々しくも暴力的な煌めきが覗いていた。


「剣のない貴方に、価値はないの」


 空いた左手でネビを掴むと、その華奢な外見には不釣り合いな膂力で持ち上げ、ミシミシと首筋に力を込める。


「……どうしてだ。どうして、人を裏切った?」


「裏切った? おかしなことを言うわね……裏切ったのは貴方の方でしょ、“堕ちた剣聖”ネビ・セルベロス。うふふ。少なくとも、私の世界では、貴方が裏切ったことになる」


 女神は笑う。

 絶世の美貌を醜く歪ませて、これまで誰よりも多くの犠牲を払い、世界を救い続けてきた男を、彼女の前から、この世界から取り除く。


「さようなら、ネビ・セルベロス。安心して堕ちなさい。貴方の名は、世界最悪の裏切り者として、ちゃんと永遠に記憶されるわ」


 迸る閃光。

 刻まれる剣閃。

 そして世界は、剣聖を失った。









 その凍える砂地に、日の光が差し込むことはない。

 ひらひら、と絶え間なく降り注ぐ粉雪。

 風はなく、穏やかな波が、音もなく寄せては返しを繰り返す。

 生者の気配はなく、透き通った水面の底にも、魚影や海棲生物の姿はない。

 そんな通称、“欄外の彼岸ロストビーチ”と呼ばれる、世界地図の外側に位置する極寒の海辺を少女が、一人歩いていた。


「いやぁ、今日もいい天気じゃのぉ」


 雪白の景観に相応しい、艶やかな銀髪を揺らし、少女は可憐でいてどこか静謐さを感じさせる容姿とは裏腹に嗄れた声を漏らす。

 首元から足首あたりまで伸びる黒のロングコートを羽織り、襟元に顔の半分を埋めて、足跡ひとつない雪面に小さな靴跡を残していく。

 見慣れた光景。

 いつも通りの日常。

 ここは彼女のお気に入りの散歩コース。

 望まぬ平穏の中で、唯一心の奥に燻る執念を忘れられる束の間の休息だった。


(ん? なんじゃあれは?)


 だがその時、ふと見慣れぬ景色が銀色の瞳の中に飛び込み、彼女は足をとめる。

 ざざり、ざざり、と細かな雪を乗せて浜辺に泡を乗せる波打ち際に、何か黒くて大きなものが落ちていた。

 ここは、世界に忘れられ、興味を持たれない、モノクロの果て。

 何も変わることのないはずの欄外に、今、鮮やかな色が一色加えられていた。


(血、か)


 鮮烈な赤色。

 それはこの白と黒の世界ではあまりに目立つ、毒々しいとまでいえる真っ赤な染みが黒くて大きな物体を中心に滲んでいた。

 

(ここまでの出血量。まず、死んどるじゃろうな。だが、珍しい。なぜここにこれほど新鮮な死体が?)


 欄外の彼岸ロストビーチに隣接する海域には特殊な潮の流れがあり、他の海域からの水がほとんど流れ込んでこないようになっている。

 ゆえにここは完結した潮流下にあり、他の地域からの漂流物が流れ着くことは滅多にない。

 それにも関わらず、どこからか流れ着いたらしい死骸。

 加えて、死後からまだそれほど時間が経っていないように思える。

 不思議を超えて、不可解な事象だった。


「……ング…ろ…」


 するとその時、今にも波音にかき消されそうなほど小さな声が聞こえてくる。

 明らかに目の前に転がる身元不明の骸の方から、音が発せられていた。


「…べリン……せ…ろ……」


 ありえない、まず彼女はそう思った。

 声がする。

 つまりはその黒い物体は、ある程度の知性を持った生物だということだ。

 知性を持った生物は、その代償に脆弱な肉体を持ち、この寒気と大量出血に耐えられるとは思えない。

 

(……こいつに、賭けてみるか?)


 長い、長い、時間をこの彼岸で彼女は過ごした。

 そこに流れ着いた、知性を持ち、強靭な生命力を持つ、今にも死に絶えそうなイキモノ。

 少女は銀色の瞳を妖しく細め、口角を上げる。

 


「これも何かの縁じゃ。お主に一つ、加護をやろう」

 



 










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